今日は、見回りに連れて行かない気分だったらしい。それでも喫茶店を出る前、「あんまり七瀬をいじめないでね」マスターさんに投げるだけ投げて、衣替えで変えたばかりの夏服の半袖から伸びた肘で扉を閉めた。
 マスターさんは優しい笑顔のまま肩を竦め、私はまた、お皿洗いの手伝いを申し出た。
「志倉が心配?」
 見透かしたように問う。スプーン一杯分も迷わず、マスターさんの目を見て、深く頷く。マスターさんは手元に視線を戻して、悩むような仕草も見せないで言った。
「志倉は、君に信用されていいような人間じゃないよ。ただの危険人物。いい子の御園は、もっと用心した方がいい」
「――私は、澪やマスターさんが言うようないい子じゃありません」
 自然と口から吐いていた。澪を貶めるような言葉を否定したり、怒ったり、出来なかった。
「私がいい子じゃないから、だから。……お父さんは」
 勝手に吐いた言葉を誤魔化すことも取り消すことも出来ず、それどころか上塗りをした。それすらも、消せない。ただ噛み砕いてしまいたくて、下唇に強く噛みついた。
 マスターさんの手が蛇口を捻る。私が手に持つ、濡れた透明な食器をシンクに置いた。されるがままによく乾いた清潔なハンカチで手を拭われ、促されたカウンター席に腰をかける。
 珍しく、いつもは澪が座る席に、マスターさんが座った。
「少し、昔話をするよ」
 私の視線を、特に鬱陶しいと思うような様子もなく、マスターさんは話し始めた。
「大切な友達と一緒に、ある日、その人は異界駅に迷い込んだ。友達に巻き込まれる形で、その人は嫌々番人になった。本部で訓練を受けた結果、二人は相棒になったんだ」
 元々友達だったから、その方が色々と都合がよかったんだと思う。あくまで推測といった風に、マスターさんは口にする。一環として、僅かな波もない平坦で、淡々としていた声で。
「その人には理由はなかったけど、友達はどこか違う世界に行ってみたかったみたい。だから、友達は冒険者気分でやっていて。でもある時、二人の師匠で見張り役の人が教えてくれたんだよ。【怪物】の正体を」
「……」
「それで友達は、御園と志倉がやってることを始めた」
「……銃を使わない、成仏?」
 また、勝手に出ていた声に、マスターさんは頷いて応えてくれる。私の方を一切見ないで。
「何度も危ない目にあった。その人は、何度も止めた。でも、やめなかった。だから付き合い続けたよ」
 どうしてマスターさんが、隣に澪がいない私に話してくれるのか、分かったような気がする。
「学校生活の傍ら続けて、その間に二人の関係は変わった。お互いに友達以上に大切な存在になった。その人が告白して、友達がいいよって答えて、二人は付き合った」
 そこで初めて、マスターさんの声音が温かく、切なく揺れた。マスターさんの目はずっと、こことは違う場所を見つめている。
「二人分の【切符】が手に入るまで、四年掛かった。夏が始まる前の梅雨が明ける頃、二人は並行世界に行った。そこで、彼女は」
 マスターさんの目が、私を見る。生きた人の生気らしいものはある。ただ、ひどく乾いた目。
「――並行世界の自分に会った後、自殺した」
 意味を深く考えるよりも早く、息を呑んだ。大きく見開いた目に映るマスターさんが、嘘をついていないと、信じるよりも分かって、瞼が素早く瞬く。
 淡々と生きるだけみたいな目が、私の声を待っている気がした。スカートを握り締めて、震える唇をどうにか動かす。
「彼女は、どう、なったんですか?」
「住んでいた世界では、行方不明者になってる。生まれて存在してきた過去は残ってる」
 何を言っても、何故か傷つけてしまう気がした。けれどマスターさんは、何一つ見せなかった。隠しているわけでもなく、ロボットが事実を告げるだけのように淡々と言った。
「異界駅で死ぬと、住む世界に残った僕たちは、死ぬ。けど、並行世界で自殺した彼女がどこに行ったか、どこに消えたのか、七年経った今も分かってない」
「……」
 七年という具体的な時間に、現実から遠のくことが出来なくなった。
「それでも、君は本当に【切符】を手に入れたい?」
 空気みたいな声で、訴えるわけでもなく、ただ問いかけていた。
「志倉が何の目的で、君を誘ったのかも知らないのに。これからも、命を預けられる?」
 私は、咄嗟に口を開いて、けれど何も答えられなかった。僅かな隙間も閉じた私を見つめた後、マスターさんは席を立って、不思議と安心するカウンターの中に戻っていった。
 いつもは澪が深く背中を預ける椅子の背に、躊躇いながら左手を乗せる。狭い背の縁を、指先でゆっくりなぞって、考えた。
 澪は、口約束の契約を交わすのにあたって、条件を二つ付けた。
 名前を、敬意を振り払った呼び捨てで呼ぶこと。それは簡単にクリアして、今も続けている。
 ――『【切符】を手に入れたい理由は、お互い秘密にすること』
【切符】を手に入れたい理由と、マスターさんが言った、澪の目的は同じなのだろうか。力を持たない私を誘った理由は。
 考えても分からないこと。けれど、澪に踏み込んで問いかけることは、助手を辞めることになる気がした。
 ――「それでも、君は本当に【切符】を手に入れたい?」
 ――「残した方も、苦しむんだね」
 マスターさんの声が、離れない澪の声と重なって、空洞のような身体の中に反響していった。