一度足を止めて、夜空にスマホを向ける。
「……映える?」
 深い紅と濃い紫を混ぜ合わせて光る月。
 欠けていて、けれどそれは確かに月の形をして、淀んだ夜空に横たわっている。
「……」
 風に揺れて擦れる草木の音。歪んでいるようにも届く、太鼓と鈴の音。
 その音はどこか不気味で、何だか悲しくて。けれどイヤホンで世界の音を閉ざすことも、少し怖い。
 ――「銃を持った人は、味方だよ」
 青年の声思い出して、口の中でなぞる。それは、不思議な味がした。何故か、分からないのに、それは火薬の香りがする。
「……味方」
 分からなかった。銃を持っている人が味方だと言ったことも、味方という言葉を選んだことも。味方がいるなら、それは反対側の人がいることになる。
 リュックから手探りでペットボトルを引っ張り出す。キャップを捻ると、ふわりと桃の香りがした。
 喉を潤して、お腹を軽く叩く。果実の味がする水だけでは足りないと、さっきから囁かれていた。コンビニで買った、抹茶ようかんもカヌレもミニクレープも、青年のお礼にした。
後悔はしてない。それでも、お腹は正直に空腹を訴えて、無視をするのは難しい。
「……」
 戻ってみようと思った。反対の道には、何かあるかもしれない。来た道に足を向けて、突然、強い光が目を焼いた。
 咄嗟に覆った手をそのまま、瞼を持ち上げると、何か閉まる音がした。指の隙間から、スーツ姿の男性が車から降りてくるのが見える。
 まだ若い、二十代半ばくらい。シンプルな柄のネクタイをきっちり締めた、誠実そうな人。新社会人といった雰囲気があった。
「あぁ、やっぱりいた」
「……」
 安堵したような表情で寄ってくる。誰かと間違えているのか、辺りを見渡す。
「駅前で迷ってる子がいるらしいって聞いて。来てみて正解だった」
 はっきりとした違和感が、確かに胸に触れた。
 私は、まだ誰も見ていない。思わず首を傾げてしまうと、男性が優しく笑った。
「駅周辺を見渡せるビルがあるんだ。たまに迷う人がいるから、そこの警備員さんがついでに見てくれてて」
 まるで私の頭を覗いたみたいに教えてくれるから、少し驚いた。それに、ビルがあったのか覚えがない。一応、周辺は一通り確認したつもりだった。
 男性は柔らかな笑みを落として、「もう大丈夫」と言った。ライトを切って停めていた車の助手席を紳士的に開ける。
「駅まで送ってくよ。次の電車まで時間ないから。あぁ、近くに電話が出来る場所もあるよ」
「公衆電話があるんですか?」
 無言で深く頷く男性。見落としてきたものが多かったのかもしれないと知る。
「じゃあ、行こうか」
 親切な男性は、小さく手招く。車まで一メートルもない。正直歩き続けて足は疲れていて、有難いと思った。けれど。
「一つ、聞いてもいいですか? おかしな質問だと思うかもしれませんが」
「いいよ。どうしたの?」
 私は一歩も動かず、ポケットの中のスマホを掴んだ。
「銃を持っていますか?」
 ゆっくりと言葉を飲み込んだらしい。男性は目を丸くした。困った顔をして首を捻り、害がないと証明するように両手を上げる。
「そんな危険なもの、持ってなんかないよ」
 不自然に一歩後退って男性から離れる。そのせいか、男性の唇から、え、と声が洩れる。
「すみません。お世話になるわけにはいきません」
 知らない人で、けれど不審な人ではない。そして、危ない銃を持っていない安全な人。
 それなのに。何故か私は、おかしな言葉をくれた青年を信じていた。
「自己責任なので、自分で何とかします」
 男性の目を見て、後ろ足でゆっくり歩く。不思議と、男性に背を向けたくなかった。夢から覚めてから、説明できない不思議なことが多い。
「子どもは甘えていいんだよ。ほら、行こう」
 困惑と優しさを顔の上で混ぜ合わせて、男性はその場で呼びかける。
「大丈夫です。何のお礼も出来ませんので」
「そんなのいらないよ。だから、ね?」
 私は、もう一度無言で首を振る。遠慮と言えば聞こえが良くなる。ただ、銃を持たない男性を頼らないことを選んだだけ。
 それでも、走り去ることは逃げるようで失礼な気がした。
「………………面倒だ」
 毒々とした呟き声に、耳を疑う。瞬間、ふいに踵で踏んだ何かにバランスを崩した。
 思わずしゃがみこんだ頭の上を、男性の腕から伸びた、巨大化した握り拳が通り過ぎる。振り返るよりも早く、背後から何かが激しく壊れる音がした。
「なんでそんな警戒するんだよ」
 見せつけるようにゆっくりと男性の腕が正常な長さに戻りながら、手も大きさを元に変わる。
 目を疑う光景とはこのことなんだ。冷静に思う頭の片隅とは反対に、心臓が激しく動く。
「なんかおかしなことしたか?」
 思考の間に一瞬で判断し、立ち上がる。しゃがんだままでは良くないと考えた。
「貴方は、何者ですか?」
「答えても、お前はすぐ忘れる。いや、無駄になる」
「……」
「どうせ喰われるんだからな」
 背筋が凍る。悪寒が全身に纏わりつく。何故か、言葉の意味が分かった。
 男性が面倒臭そうに片手で首を押さえ、その場でもう片方の腕を、ゲームの巨大な植物のように自在に伸ばし、握り拳を大きくする。一度でもぶつかったら、命はないとすぐに分かった。
「無駄に痛い思いをしたくなきゃ、逃げるなよ」
 答えない答えを、肯定と受け取ったのか、男性は腕を一度元の状態に戻す。
 逃げ道をと思い、もう一度しゃがんでも逃げきれないと気づく。そう思うと、足が地面から離れない。
 それでも、――動く。
 ポケットに突っ込んだ手を引きずり出し、男性めがけて投げる。男性が、咄嗟に目を瞑った。
「くそがっ」
 街灯のおかげで、スマホのライトは使わずに済んだ。けれど、消してはいなかった。
 車のライトが消えていた今、スマホの光は、一瞬なら武器になる。男性の目を奪った隙に、一メートルもない距離の車に隠れた。男性が見えなくなる弱点も勿論分かっていて。
 それでも、死ぬわけにはいかなかった。逃げなきゃいけなかった。
 生きるために。
 ――「じょーでき」
 耳元で、鼻歌を奏でるような声が聞こえたような気がした。
「誰だっ!」
 叫び声を掻き消すように、ドラマや映画でしか聞いたことがない銃声が、二発響いた。後を追って、花火のような匂い。――違う、お線香の甘い香り。
「もうだいじょーぶ」
 街灯の光を浴びた茶髪がふわりと揺れて、その人はこちらを向いた。
「あたしは、味方」
 ネイビーのジャケットとスカート。ストライプ柄の紺に似た青色のネクタイ。
 同じ制服を着た女の子は楽しそうに笑って、銃口に息を吹きかけた。灰色の煙がゆらゆらと漂っていた。