休憩後の見回りは、その日によって違っていて、今夜の見回りには、澪は私を連れて行った。マスターさんと二人きりにすることが、嫌だったと素直に話してくれた。
「マスター。小言言ったり、いやなことわざわざ言ったり。案外、ドSなんだよね」
「でも、とても優しい人です。私達のことだけではなくて、遺された方のことも心配して」
澪の言う、いやなことが何かは分からないけれど、小言は私達を心配してのことだと思う。
「心配、心配。うーん、心配、ねぇ」
不満そうに繰り返す澪が、警戒を解いていないのは何となく、分かった。だから私は月を見上げて、スマホを向ける。相変わらず、不思議な色の光を放っている。
「あの」
唐突に、思い浮かんだ。「んー?」と返ってくる声に戻した目が澪の横顔を見る。
「マスターさんの前でも優等生を演じれば、少しは信じてもらえるんじゃないですか?」
歩みが、止まる。澪の横顔が、作ったような笑みに似た、不味いと言えない人の顔になった。
「あー、うーん」
掠れた息を吐いて、言い淀んでいた。
「マスター、わね。ここに迷い込んだときに助けてもらってるし、どうしようもない姿を見せてるから。もう、無理だね」
手遅れ、とおちゃらけて両手を上げる。何度見ても、その両手が銃を持つとは思えなくて、それなのに守ってもらっているという固い自覚はあった。
私を守る澪が、マスターさんに助けられた姿を想像しようとしたところで、小さな影が視界に飛び込んできた。思わず駆け寄ろうとした私の手を、澪が引っ張って止める。
「大丈夫ですか?」
思考や引き留められた身体よりも先に、声が出ていた。小さな影が、ゆっくり顔を上げる。
「おねえちゃんたちは、だいじょうぶ?」
小学生二年生くらいの男の子が問いを投げ返してくる。
思わず目を見開く。困惑した。ランドセルやその言葉よりも、目に映るものに。
――真っ暗な穴のような空洞の目ではない。首にチョーカーもなく、全身に纏わりつく違和感もない。およそ【怪物】と呼べるものは揃っていない。
それなのに、男の子からは生きている人特有の、生気のようなものを感じない。
「だいじょーぶ。君は?」
澪の声が聞こえて、息を止めていたことに気付く。男の子は平気そうに元気に笑った。
「うん。だいじょうぶ」
「いつから、ここにいたか分かるかな?」
「うーんと、ね。ごめんなさい。分かんないです」
礼儀正しく、澪に応える。澪の声は僅かに強張っていて、けれど私に比べれば余裕があった。男の子を怖がらせないためか、銃もスカートのウエスト部分に隠していた。
「お名前は?」
澪が聞いた。澪は、見極めるつもりなのだろうか。死者か、同じ生きている者か。
「つきのきあゆむです」
あ、と息が洩れた。男の子の目が私に向いて、澪に戻って行き来する。澪の、ごくりと唾を飲み込む音がはっきりと耳に届いた。それが何だか現実味を帯びていて、やっと声が出た。
「漢字は、月の月に野原の野、大木の木。歩く夢で歩夢。合って、いますか?」
僅かに声は上擦って震えて。隠せない期待があった。
おばあさんのように両手を合わせて握り締める。男の子の目が、――不思議そうに瞬いた。
「うん。そうだよ。おばあちゃんに教わったの」
どこか悲しい色が交じった嬉しそうな笑顔を見せた後で、「どうして知ってるの?」と首を傾げた。警戒心とか誰かを疑うとか、そんなものを遠くに置いてきた、ただ純粋で透明な瞳に、何故かチクリと胸が痛んだ。
息を吐いて、男の子の目線に合わせてしゃがむ。
「歩夢くんのおばあちゃんに聞きました」
「おばあ、ちゃんに? おばあちゃんに、会ったの?」
首の動きで答える。途端、信じられないように見開いた目をきつく閉じて、けれど目の端から溢れ出た涙が頬に落ちる。小さな両手で顔を覆って、押し殺すような湿った声が後を追う。
「おばあちゃんは、おこって、なかった?」
「怒るって、どうして?」
澪がおばあさんに似た優しい声を響かせると、男の子は余計に耐えられないみたいにその場に座り込んだ。冷たいアスファルトが、半ズボンからはみ出た膝に容赦なく触れる。
「僕の、僕がよわかったから」
不安定に揺れて、震えている。声もその身体も。小さな身体が余計に小さく見える。
「おばあちゃん、お守り買って。それで。……びょういんに来る途中で、でんしゃの、なかで……」
途切れた言葉の先は、容易に想像がついた。おばあさんも病院に向かう途中だと言っていた。
「……あやまりたい」
息をすることも苦しそうに肩を上下させながら、呟いた。あまりにも小さくて、けれどはっきり意思を持つ声が、両手の指の隙間から漏れた。
「おばあちゃんに、あやまりたい。おかあさんにも、おとうさんにも。おじいちゃんにも」
胸が詰まった。あまりにも途方もない、深くて重い悲しみに覆われた自責に囚われていた。
「強い子にうまれてこなくて、ごめんなさいって。もっと、もっと一緒にいられなくて、ごめんなさいって」
どうしたら、救えるのだろう。おばあさんは、心から、想っていた。けれど、男の子が自分のせいだと思う気持ちもよく分かる。
私は、立ち尽くして動けずにいた。いつもみたいに、痛いくらい手首を強く握り締めて。
――また、私はこのままで。私のせいで、終わらせてしまうのだろうか。
「君のせいじゃない」
遠くに聞こえていた男の子の静かな泣き声が、ふっと戻ってくる。
簡単な、けれどそれだけでは救えない言葉がもう一度響いた。次の瞬間には、身体が動いていた。
強く、強く男の子を抱きしめる。背中に手を伸ばして、両手で握り締めて捕まえる。
「歩夢くんのせいじゃない」
今度は私を引き留めないで、澪は三回目、名前を呼んで否定した。震えて湿った声で。
「絶対に違います」
歩夢くんが首を振る。窮屈そうに、動かしづらい頭を動かして。私は、手に力を込めた。
「だって。おばあさん、歩夢くんのことを想ってました。歩夢くん自身の強さで、歩夢くんが生きていても、それでも力になってくれるなら、お守りを渡したいって。だから」
噛み締めるような呻き声が、熱のない息が、耳の縁に触れる。
本来、私は歩夢くんに伝えられるような人間じゃない。そんな立派な人間ではない。
「歩夢くんのことを、本当に大切に想う人が、歩夢くんのせいにするとは思えません」
視界が、ぼやける。視界の端が、不思議な月光を帯びて、揺れる。
歩夢くんに伝える全てが、自分に返って来る。もう一人の私は目を閉じて、首を振る。
私の中の私は、まだ蹲って動けずにいる。本当は、私も、変われずにいる。
「歩夢くんは、おばあさんがそんな人だと思いますか?」
問いを投げて、伝えられる言葉を失った。歩夢くんは未だに、ただ静かに泣き続けている。
見つからない。言葉が出てこない。歩夢くんを助けたいのに――
「みんな、分かってるよ」
澪が言った。声の表面に、助けたいと、浮かんでいた。
「歩夢くんが一生懸命生きたこと、みんな分かってるよ。苦しくても、頑張って生きてくれたこと、感謝してるんだよ」
余裕が崩れた声。澪も悲しんでいるのだと、振り向かなくても分かる。
「歩夢くんが今も悲しんでいることの方が、みんな、悲しむんだよ。歩夢くんの幸せを、一番に願ってるんだから」
浅く震える息を吐く音がして、「あたし達が出会った、歩夢くんのおばあちゃんは、そういう人だった」と明るく笑うように繋げる。
「だから、次に生まれてくるとき、元気に生まれてくればいい」
ひどく優しく温かい澪の声を受け取った途端、ぐっと深く息を吸い込んで、歩夢くんは泣き叫んだ。長い間抑え込んできたみたいに、慣れないような咳を吐きながら、大きな声を上げて、泣いた。
ごめんなさい、とはもう言わなかった。
きっと同じ年の子より細く、全てに押し潰されてしまいそうな背中を、優しく優しく撫でる。
どのくらいの時間が経ったのだろう。しばらくして、泣き方が小さくなったところで、私は歩夢くんからそっと身体を離した。
「歩夢くん」
呼びかければ、大きくて丸い、真っ赤になった目で私を見上げる。
「両手を、出してもらえますか?」
「うん?」
素直に、両手を揃えて出してくれる。リュックから取り出したのそれを、両手に乗せる。
「どうぞ。おばあさんからです。歩夢くんに届けてほしいって」
おばあさんとの約束は、少し破ってしまう。直接、届けてしまった。けれど、今を逃したら、約束自体を守れない。
「最後のお守りです」
「……」
月の光に反射する、涙の線がついた頬が震えて、けれど嬉しそうに緩んだ。
「ありがとう」
不思議と大人びた雰囲気のある、安らかな笑顔だった。
思ったとき、歩夢くんの身体が、まるで蛍が集まるように小さな光達に包まれた。
「ありがとう。おねえちゃんたち」
お守りを胸に抱えて、穏やかな声音で告げる。すぐに歩夢くんを包んだ光が強くなり、歩夢くんのからりと晴れた目から一滴の涙が、零れた。
思わず「待って」と呟いた声は、瞬きの間に消えた歩夢くんがいた場所に吸い込まれて、届かなかった。
いつもより薄い線香の甘い香りが漂う空気を、漏れた息が揺らす。胸が締め付けられるように痛くて、呼吸が浅くなっていた。頽れかけた身体を、澪の両手が支えてくれた。
「……歩夢くんは、既に亡くなっていたんですね」
「うん」
歩夢くんは、言った。もっと、もっと一緒にいられなくて、ごめんなさい。と。
そして、澪も言った。一生懸命生きたと。次に生まれてくるとき。と。
「澪は、いつから気付いていたんですか?」
「いつからここにいるのか、分からないって言った時には。少なくとも生者は、いつ迷い込んだのかとかは分かるから」
「そう、なんですね」
「たまにだから、言ってなかったけど。居るんだって。異界駅にいるのに、【怪物】になってない。いや、【怪物】の力がない死者っていうのが」
これもマスターに聞いたことだけど。続けた声はさっぱりとしていて、けれどそれはわざとそうしているようにも思えた。
だから私も、澪に感謝を伝えて、澪が掴んた手を離した。平気な顔は繕えなくて、それでも澪は少しだけ安堵を浮かべて、来た道に足を踏み出した。休もう、と言った。
――「残した方も、苦しむんだね」
変わらずさっぱりとした声で囁くように零した言葉に、私は父親のことを考えた。
私を置いていった父親は、苦しんでいるのだろうか。
暗くて重い淀んだ空気に飲み込まれかけて、息を深く吐き出して、澪の横顔を見る。視線に気付いたように、チラッと私を見て、「照れるなぁ」と下手に笑うだけで、澪はまた口を閉じた。
一瞬見えた澪の瞳が、いつもの澪からは想像が出来ない程に弱々しく見えて。何か言おうとした唇を噛んで、変わった夜空に目を向ける。
深い紅と濃い紫を混ぜ合わせて光る月は、相変わらず心地良さそうに寝転がっていた。
「マスター。小言言ったり、いやなことわざわざ言ったり。案外、ドSなんだよね」
「でも、とても優しい人です。私達のことだけではなくて、遺された方のことも心配して」
澪の言う、いやなことが何かは分からないけれど、小言は私達を心配してのことだと思う。
「心配、心配。うーん、心配、ねぇ」
不満そうに繰り返す澪が、警戒を解いていないのは何となく、分かった。だから私は月を見上げて、スマホを向ける。相変わらず、不思議な色の光を放っている。
「あの」
唐突に、思い浮かんだ。「んー?」と返ってくる声に戻した目が澪の横顔を見る。
「マスターさんの前でも優等生を演じれば、少しは信じてもらえるんじゃないですか?」
歩みが、止まる。澪の横顔が、作ったような笑みに似た、不味いと言えない人の顔になった。
「あー、うーん」
掠れた息を吐いて、言い淀んでいた。
「マスター、わね。ここに迷い込んだときに助けてもらってるし、どうしようもない姿を見せてるから。もう、無理だね」
手遅れ、とおちゃらけて両手を上げる。何度見ても、その両手が銃を持つとは思えなくて、それなのに守ってもらっているという固い自覚はあった。
私を守る澪が、マスターさんに助けられた姿を想像しようとしたところで、小さな影が視界に飛び込んできた。思わず駆け寄ろうとした私の手を、澪が引っ張って止める。
「大丈夫ですか?」
思考や引き留められた身体よりも先に、声が出ていた。小さな影が、ゆっくり顔を上げる。
「おねえちゃんたちは、だいじょうぶ?」
小学生二年生くらいの男の子が問いを投げ返してくる。
思わず目を見開く。困惑した。ランドセルやその言葉よりも、目に映るものに。
――真っ暗な穴のような空洞の目ではない。首にチョーカーもなく、全身に纏わりつく違和感もない。およそ【怪物】と呼べるものは揃っていない。
それなのに、男の子からは生きている人特有の、生気のようなものを感じない。
「だいじょーぶ。君は?」
澪の声が聞こえて、息を止めていたことに気付く。男の子は平気そうに元気に笑った。
「うん。だいじょうぶ」
「いつから、ここにいたか分かるかな?」
「うーんと、ね。ごめんなさい。分かんないです」
礼儀正しく、澪に応える。澪の声は僅かに強張っていて、けれど私に比べれば余裕があった。男の子を怖がらせないためか、銃もスカートのウエスト部分に隠していた。
「お名前は?」
澪が聞いた。澪は、見極めるつもりなのだろうか。死者か、同じ生きている者か。
「つきのきあゆむです」
あ、と息が洩れた。男の子の目が私に向いて、澪に戻って行き来する。澪の、ごくりと唾を飲み込む音がはっきりと耳に届いた。それが何だか現実味を帯びていて、やっと声が出た。
「漢字は、月の月に野原の野、大木の木。歩く夢で歩夢。合って、いますか?」
僅かに声は上擦って震えて。隠せない期待があった。
おばあさんのように両手を合わせて握り締める。男の子の目が、――不思議そうに瞬いた。
「うん。そうだよ。おばあちゃんに教わったの」
どこか悲しい色が交じった嬉しそうな笑顔を見せた後で、「どうして知ってるの?」と首を傾げた。警戒心とか誰かを疑うとか、そんなものを遠くに置いてきた、ただ純粋で透明な瞳に、何故かチクリと胸が痛んだ。
息を吐いて、男の子の目線に合わせてしゃがむ。
「歩夢くんのおばあちゃんに聞きました」
「おばあ、ちゃんに? おばあちゃんに、会ったの?」
首の動きで答える。途端、信じられないように見開いた目をきつく閉じて、けれど目の端から溢れ出た涙が頬に落ちる。小さな両手で顔を覆って、押し殺すような湿った声が後を追う。
「おばあちゃんは、おこって、なかった?」
「怒るって、どうして?」
澪がおばあさんに似た優しい声を響かせると、男の子は余計に耐えられないみたいにその場に座り込んだ。冷たいアスファルトが、半ズボンからはみ出た膝に容赦なく触れる。
「僕の、僕がよわかったから」
不安定に揺れて、震えている。声もその身体も。小さな身体が余計に小さく見える。
「おばあちゃん、お守り買って。それで。……びょういんに来る途中で、でんしゃの、なかで……」
途切れた言葉の先は、容易に想像がついた。おばあさんも病院に向かう途中だと言っていた。
「……あやまりたい」
息をすることも苦しそうに肩を上下させながら、呟いた。あまりにも小さくて、けれどはっきり意思を持つ声が、両手の指の隙間から漏れた。
「おばあちゃんに、あやまりたい。おかあさんにも、おとうさんにも。おじいちゃんにも」
胸が詰まった。あまりにも途方もない、深くて重い悲しみに覆われた自責に囚われていた。
「強い子にうまれてこなくて、ごめんなさいって。もっと、もっと一緒にいられなくて、ごめんなさいって」
どうしたら、救えるのだろう。おばあさんは、心から、想っていた。けれど、男の子が自分のせいだと思う気持ちもよく分かる。
私は、立ち尽くして動けずにいた。いつもみたいに、痛いくらい手首を強く握り締めて。
――また、私はこのままで。私のせいで、終わらせてしまうのだろうか。
「君のせいじゃない」
遠くに聞こえていた男の子の静かな泣き声が、ふっと戻ってくる。
簡単な、けれどそれだけでは救えない言葉がもう一度響いた。次の瞬間には、身体が動いていた。
強く、強く男の子を抱きしめる。背中に手を伸ばして、両手で握り締めて捕まえる。
「歩夢くんのせいじゃない」
今度は私を引き留めないで、澪は三回目、名前を呼んで否定した。震えて湿った声で。
「絶対に違います」
歩夢くんが首を振る。窮屈そうに、動かしづらい頭を動かして。私は、手に力を込めた。
「だって。おばあさん、歩夢くんのことを想ってました。歩夢くん自身の強さで、歩夢くんが生きていても、それでも力になってくれるなら、お守りを渡したいって。だから」
噛み締めるような呻き声が、熱のない息が、耳の縁に触れる。
本来、私は歩夢くんに伝えられるような人間じゃない。そんな立派な人間ではない。
「歩夢くんのことを、本当に大切に想う人が、歩夢くんのせいにするとは思えません」
視界が、ぼやける。視界の端が、不思議な月光を帯びて、揺れる。
歩夢くんに伝える全てが、自分に返って来る。もう一人の私は目を閉じて、首を振る。
私の中の私は、まだ蹲って動けずにいる。本当は、私も、変われずにいる。
「歩夢くんは、おばあさんがそんな人だと思いますか?」
問いを投げて、伝えられる言葉を失った。歩夢くんは未だに、ただ静かに泣き続けている。
見つからない。言葉が出てこない。歩夢くんを助けたいのに――
「みんな、分かってるよ」
澪が言った。声の表面に、助けたいと、浮かんでいた。
「歩夢くんが一生懸命生きたこと、みんな分かってるよ。苦しくても、頑張って生きてくれたこと、感謝してるんだよ」
余裕が崩れた声。澪も悲しんでいるのだと、振り向かなくても分かる。
「歩夢くんが今も悲しんでいることの方が、みんな、悲しむんだよ。歩夢くんの幸せを、一番に願ってるんだから」
浅く震える息を吐く音がして、「あたし達が出会った、歩夢くんのおばあちゃんは、そういう人だった」と明るく笑うように繋げる。
「だから、次に生まれてくるとき、元気に生まれてくればいい」
ひどく優しく温かい澪の声を受け取った途端、ぐっと深く息を吸い込んで、歩夢くんは泣き叫んだ。長い間抑え込んできたみたいに、慣れないような咳を吐きながら、大きな声を上げて、泣いた。
ごめんなさい、とはもう言わなかった。
きっと同じ年の子より細く、全てに押し潰されてしまいそうな背中を、優しく優しく撫でる。
どのくらいの時間が経ったのだろう。しばらくして、泣き方が小さくなったところで、私は歩夢くんからそっと身体を離した。
「歩夢くん」
呼びかければ、大きくて丸い、真っ赤になった目で私を見上げる。
「両手を、出してもらえますか?」
「うん?」
素直に、両手を揃えて出してくれる。リュックから取り出したのそれを、両手に乗せる。
「どうぞ。おばあさんからです。歩夢くんに届けてほしいって」
おばあさんとの約束は、少し破ってしまう。直接、届けてしまった。けれど、今を逃したら、約束自体を守れない。
「最後のお守りです」
「……」
月の光に反射する、涙の線がついた頬が震えて、けれど嬉しそうに緩んだ。
「ありがとう」
不思議と大人びた雰囲気のある、安らかな笑顔だった。
思ったとき、歩夢くんの身体が、まるで蛍が集まるように小さな光達に包まれた。
「ありがとう。おねえちゃんたち」
お守りを胸に抱えて、穏やかな声音で告げる。すぐに歩夢くんを包んだ光が強くなり、歩夢くんのからりと晴れた目から一滴の涙が、零れた。
思わず「待って」と呟いた声は、瞬きの間に消えた歩夢くんがいた場所に吸い込まれて、届かなかった。
いつもより薄い線香の甘い香りが漂う空気を、漏れた息が揺らす。胸が締め付けられるように痛くて、呼吸が浅くなっていた。頽れかけた身体を、澪の両手が支えてくれた。
「……歩夢くんは、既に亡くなっていたんですね」
「うん」
歩夢くんは、言った。もっと、もっと一緒にいられなくて、ごめんなさい。と。
そして、澪も言った。一生懸命生きたと。次に生まれてくるとき。と。
「澪は、いつから気付いていたんですか?」
「いつからここにいるのか、分からないって言った時には。少なくとも生者は、いつ迷い込んだのかとかは分かるから」
「そう、なんですね」
「たまにだから、言ってなかったけど。居るんだって。異界駅にいるのに、【怪物】になってない。いや、【怪物】の力がない死者っていうのが」
これもマスターに聞いたことだけど。続けた声はさっぱりとしていて、けれどそれはわざとそうしているようにも思えた。
だから私も、澪に感謝を伝えて、澪が掴んた手を離した。平気な顔は繕えなくて、それでも澪は少しだけ安堵を浮かべて、来た道に足を踏み出した。休もう、と言った。
――「残した方も、苦しむんだね」
変わらずさっぱりとした声で囁くように零した言葉に、私は父親のことを考えた。
私を置いていった父親は、苦しんでいるのだろうか。
暗くて重い淀んだ空気に飲み込まれかけて、息を深く吐き出して、澪の横顔を見る。視線に気付いたように、チラッと私を見て、「照れるなぁ」と下手に笑うだけで、澪はまた口を閉じた。
一瞬見えた澪の瞳が、いつもの澪からは想像が出来ない程に弱々しく見えて。何か言おうとした唇を噛んで、変わった夜空に目を向ける。
深い紅と濃い紫を混ぜ合わせて光る月は、相変わらず心地良さそうに寝転がっていた。