「あげようねぇ」
 待ち合わせの駅から一人で階段を降りきって、普段より霞んだ視界の中を歩いていると、突然、声が聞こえた。
 きゅっと目を細めれば、何故か視界が晴れて、背中が曲がった老婆が立っているのが見えた。
「こんなとこで一人なんて、可哀想だねぇ。寂しいねぇ」
「大丈夫です。寂しくはありません」
 念のために首元にチョーカーがないことを確認して、正気に戻ったおじいさんに出会ってから分かった、真っ暗な穴の中のような空洞の目を見る。老婆は、ずっと胸に抱えていた両手を、こちらに差し出した。
「あなたを、どんなものからも守ってくれるものだよぉ」
 ゆったりとした口調で言って、異界駅には不釣り合いな程に透明な空気を放つお守りを見せてくれた。思わず踏み出しかけた足を理性で引き留めて、首のチョーカーを二回擦る。
 素早く両手で耳を塞いだ、その瞬きの間に、荒々しく破壊するような音が鼓膜を震わせた。
 正直なところ、何度聞いても慣れない銃の音と火薬の香りが、擦り切れることなく濃いまま肌に触れる。それでも視線の先に、意識を強く引き寄せられていた。
「合図ばっちり?」
 視線を動かさず、「はい」と頷く。澪は相変わらず、どこからともなく現れて私の隣に立った。どこが変化し、撃ったのか分からない。ただ確かに衝撃に襲われたらしいおばあさんは、困惑を隠せない顔をしながら、けれど大事そうにお守りを抱いている。
「おばあさん」
 深く息を吐くような時間を掛けて、おばあさんは顔を上げる。その目に灯る光に、とりあえずは安堵した。
「貴方は、もう既に亡くなっています」
 おばあさんの薄い唇が僅かに開いて、その奥で息を呑んだのが分かった。
「……そうね」
 短い沈黙の後に、おばあさんは囁いて、優しく目を細めた。目の端の皺がより深く刻まれて、多分、元々の愛想の良い顔つきになる。
「私は、もう死んでいるわね」
 そして、すぐに優しい眼差しの目が見開いて、曲がってる背を曲げて深々と頭を下げる。
「ごめんなさい。貴方を傷つけてしまうところだったわ」
「大丈夫ですよ。そのためのあたしなので。おばあさんは、誰も傷つけませんよ。これから先も」
 嫌いだと言っていた二刀流。二つの銃を持った手を隠さないで、澪は告げる。
 場違いな明るい声に、おばあさんはまたゆっくりと頭を上げる。本来なら恐怖に震えたり、【怪物】にとって忌々しいはずの銃に目を留めたおばあさんは、ふわりと微笑んだ。
「そう。それは安心ね」
 おばあさんに駅の階段を上らせることは申し訳なくて、また駅の駐車場のベンチに案内した。
 少し大変そうにベンチに座ったおばあさんに、リュックから取り出した緑茶を手渡す。
「ありがとう」
 よくあるメーカーの小さなペットボトルを脇に置いて、おばあさんは一度も離さないお守りをまた、両手で包んで胸に抱える。詳しい説明が無くとも、それが何かは分かった。
「心残りは、そのお守りですか?」
 深い心残りがある人が異界駅に流れ着く。
 澪とは、【怪物】か迷い込んだ人かの合図を決めただけ。マスターさんにも、確かめてはない。だからこれは、何の根拠もない私個人の推測。
「えぇ」
 遠慮もなく投げた問いに、おばあさんは不快な表情も見せないで、はっきりした声で答えた。
「大切なものなの」
「よく、伝わってきますよ」
 私が答えるより早く、澪が言った。おばあさんにつられたような温かな声で。おばあさんは口元に笑みを浮かべた。嬉しそうな笑みには、どこか寂し気で悲しい色が交ざっていた。
「心残りで、後悔ね。孫に、渡せなかったの。生まれたときから身体が弱くて、病院で過ごす時間の方が長くて。毎年渡していたんだけど、病院に向かう途中で――死んでしまったのね」
「……」
「毎年、喜んでくれたのよ。一年間生きられたって、笑顔を見せてくれて。おばあちゃんがくれるお守りのおかげで頑張れるってねぇ」
 おばあさんの手が、ぎゅっと、より一層強くお守りを包む。見えない何かに、どこかにいるのかもしれない神様に、祈りを捧げるように。
「あの子が持つ本来の強さで、あの子は生きている。それは、分かっているわ。だけどね、このお守りがあの子の力になってくれているなら、渡したいの」
 最後のお守りなら、もっとあの子に力を与えてくれる気がして。そう続けて、笑った。無理に作ったようにも、情けなくてごめんなさいというようにも、どちらにも見えた。
 澪の視線が、一瞬窺うように肌に触れる。目を向けると、澪は誠実な目つきでおばあさんを見ていた。私は、だから何か出来ないかを考えた。
「おばあさんを、直接お孫さんと会わせることは出来ません」
 おばあさんが柔らかな目を伏せたのを見て、胸が詰まった。本当は、おばあさんに伝えなくてもいいのかもしれない。
「ですが、何かして欲しいことがあるなら、私は、――私達は力になれます」
 視界の端で、澪の銃口が僅かに揺れた。おばあさんの目が躊躇うように私を見る。
「お孫さんに届けてほしいなら、届けます。おばあさんが会えないお孫さんに私達が会うのが嫌なら、郵送にはなりますが、届けます」
 最後まで、後悔を残してほしくない。だから、出来ないことと出来ることを伝えて、選んでもらう。納得のいく答えを、終わりを、決めて欲しい。それが身勝手な考えだと知っている。
「最後のお守りを、どうしたいですか?」
 おじいさんには、選択の提案さえ出来なかった。それは確かな後悔で。だからこそ目の前のおばあさんには、今出来ることをしたい。
 おばあさんは私を見つめて、温かそうな両手に目を落とした。じっと穴が開いてしまうくらい、瞬きもしないで、心残りと後悔に向き合っていた。
「……お願い」
 やがて、声がした。私達を見上げるおばあさんの瞳に、零れない涙の膜が張っていた。
「あの子に、届けてちょうだい」
 すぐに言葉が返せなかった。目と鼻の奥が痛んで、危うく声が震えてしまいそうで。そんな心の動揺を見透かしたように、おばあさんは続ける。
「きっと、貴方たちが直接届けたら、貴方たちに迷惑を掛けてしまうから。家族も、余計に驚かせてしまうだろうから。だから、郵送でお願い出来るかしら」
 夫が少し頑固な人だから。嬉しそうに笑うおばあさんの瞳は、温かくて慰めてくれているみたいで。どちらが救おうとしているのか、まるで分からなくなる。
 おばあさんの両手が伸びてくる。私はおばあさんの前に跪いて、丁寧に両手を差し出した。
「ありがとう。これを貴方に預けるわ」
 最後まで大切そうに丁寧に、お守りを私の両手に乗せて、お孫さんの名前と住所を囁く。初めて聞いた、珍しい苗字だった。不思議とお守りから、おばあさんの体温を感じながら思った。
「必ず、届けます」
 異界駅の物を、私達の住む世界に持って帰れるのか分からない。それでも、おじいさんが想いを綴った手紙は持って行けた。
 根拠もない確信を持って、約束を告げて微笑む。もう、苦しまないでほしいから。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
 心から安堵したような声で言って、穏やかな笑みが広がった。瞼の端にまた皺が寄って深くなり、我慢ならなかった雫が流れ落ちて線を作る。
「本当に、ありがとうございます」
 深々と頭を下げるおばあさんの、今は何も持っていない両手の指先から、微かな光のような煙が立ち上り、あっという間に身体を包んでいく。
 最後に一瞬、眩い光を放って、そしておばあさんは消えていった。線香の甘い香りだけを残して。