今日の分の用意をして、電車に乗る。澪とは一緒に行くこともあれば、別々の日もある。別々の時は、私が後から行くときで、その場合はいつも降りる駅で待ち合わせていた。
 別々の今日も、それは予告なく、訪れてきた。
 ふっと瞼が重くなり、抗おうとする間にも異常に膨らんだ睡魔に、簡単に溺れてしまう。
「おとうさん」
 いつも見る、本当は見たくない夢。蓋を閉じて、奥の方に仕舞い込んだ、昔の記憶。
「おとうさん」
 普段は、あまり話さない幼い少女が父親を呼んでいた。背が高く、細身の背中に寄り掛かる。
「おとうさんのおしゃしん、だいすき」
 父親が両手で持つカメラの画面に、幼い少女は目を輝かせて、ひどく幸せそうに笑う。
 吐き出せない息が逆流して、胸の辺りで濁り、煙草の煙のように苦くなる。
 実際に吸ったことはない、ただ喫煙所から出てきた人についたそれが、何倍にも密度を増して肺にこびりつく。
 お腹を力づくで押して、強張る口を開く。瞬間、眩しい光が親子の姿を消して、昔の記憶を閉じ込めた。
「……」
 がたんごとん。固い振動に揺られながら、浅く乱れた息を出来るだけ深く吐いて、吸って、整える。
 気持ち悪い。目覚めはいつも最悪で、内臓に張り付く不快感をルイボスティーで洗い流す。リュックに水筒を戻したところで、足元に、自分のものではない白いスニーカーが見えた。
「大丈夫?」
 少し掠れた低い声に顔を上げる。心配していることがよく伝わってくる表情を見て、ようやく楽に呼吸ができた。私だけでは処理できなかった不快感も、ゼロに近い程減っていく。
「もう、大丈夫です」
 正直に答えると、安堵が微かに瞳に覗く。「よかった」と微笑んで、先輩は隣に座った。 
 先輩とは、異界駅で会ったことはまだない。
 学校以外ではこの場所だけ、この電車の中だけ。たまに会うことがあるくらいだった。
「ここで会うとき、顔色悪い、よね?」
 座っていても目線の高さが合わない先輩は、少し屈んで目を合わせてくれる。
 顔色、と思いながら前を見る。向かい側の窓が鏡になって、ぼやけた自分の姿があった。
「ここで眠ると、いつも夢を見るんです」
「わるい夢?」
 どう答えたらいいのか分からなくて、言葉を探す。けれど、本当は分かっていた。
「本当は、幸せな夢です」
 悪い夢ではない。分かっていて、分かっているのに、苦しくなる。気持ち悪くなる。映画の殺人鬼に追われる悪夢よりも、深い闇に飲み込まれるたように心細くて、痛くなる。
「幸せだから、辛いのかもね」
 思わず、先輩に顔を向けた。耳に触れた声が優しくて、懐かしくて。ふっと肩に圧し掛かった重みが少し軽くなった。それは気のせいではなくて、先輩がどかしてくれたんだと思った。
「ホッとしました。この症状の正体を、知って。今まで分からなかったので」
「よかった。君を少しでも助けることができて」
 ふわりと柔らかく笑う。透明な光を放っているようにも見えて、思わず目を擦る。先輩は首を傾げて、子犬みたいな純粋な目で見つめてくる。咄嗟に、リュックに手を突っ込んで探した。
 ますます不思議そうな顔をする先輩に、焦燥感のままに手探りで引っこ抜く。
「お礼です。答えをくれた、助けてくれたお礼」
 遠慮される前に、先輩の胸に押しつける。先輩の大きな手が掴んで、私は素早く手を引いた。
「あんぱん?」
「はい」
 ゆらに、好きかもと伝えて以来、コンビニやスーパーに行った時に、確かにあんぱんに手が伸びていることに気付いた。和のものを美味しそうに食べる影響か。それとも。
 そっと様子を窺うと、先輩の頬が緩んでいって、ただ純粋な笑顔が咲いた。
「結構、ううん。すっごく好き」
 宝石を散りばめたみたいに、温かな瞳をきらきら輝かせて。
「あんぱん! 和のものっていいよね」
 息を、止めていた。人懐っこい笑顔に、輝く瞳に、目も声も奪われたみたいに動かせない。
「この前くれた、抹茶ようかんもすっごくおいしかった! ミニクレープも皮にあずきが練り込んであって、あんこも入ってて。生クリームと合わさって、おいしかったなぁ」
 ゆったりとした口調のまま、早口みたいに言葉を重ねていく。咄嗟に、手で口を覆う。
「……ふ、ふふっ」
 抑えようとしたのに、吐息みたいな声になって漏れる。肩が震えるのを止めるのも、どうも難しい。すみません、と一言謝ろうとするけれど、小さな笑い声に変わってしまう。
「えっと、本当に、すっごくおいしかったんだよ?」
「ふふ、はい。それは、とても伝わってきました」
 笑ってはいけないと思うのに、止まらない。可愛いから、なんて理由ももちろん言えない。
 先輩は不思議そうに丸くした目を細めて、私を見つめる。雨粒みたいな小さな笑い声が、少しずつ止んでいく。その間を、先輩は何も言わずに待っていてくれた。
「おいしいもの、ありがとうございます」
「お礼なので、全然。美味しかったなら、良かったです。今度、私も食べてみます」
「うん、ぜひ。僕、和の甘いもの好きだけど、その分厳しいからね。僕が認めたんだから、本当においしいよ?」
「では、期待しています」
 今度は先輩が、ふふっ、と雨粒みたいな小さな笑い声を落とした。失礼な、可愛い、をまた思ってしまう。そこでふいに、本当にふいに、何気なく思った。
「和のもの、本当に好きなんですね。澪みたいです」
 何も考えずに言って、突然、先輩の顔の筋肉が強張ったのが分かった。何かを言おうとしたように口が僅かに開いて、ゆっくり閉じて言い淀み、浅く息を吐いた。
「……澪?」
 ポツリと呟いた声は、空っぽなようにも、雨空の下を歩くようにも、どちらにも聞こえた。 
 数秒前まで素直に見えていた感情が、容易く触れられる場所にはなかった。何か言わなければ、聞かなければと思うのに、言葉が出てこない。
 やがて先輩が目を落として呟くまで、ただ先輩を見つめることしか出来なかった。
「……うん、知ってるよ。澪は甘いものが好きで、特に和の甘いものには目がないんだ」
 先輩の横顔は穏やかで、嘘っぽくもない。それなのに、胸の奥に線香の甘い香りと共に引き起こされる痛みに似た何かが触れた。
 何か、を探す私の隣で、袋を開けてあんぱんに齧りついた先輩は、何事もなかったかのように「おいしい」と囁くような声でしみじみと言った。