六限目の移動教室から戻る途中、渡り廊下を歩きながら、窓の外を眺めていた。青い空に、健やかな白い雲が浮かんでいる。ふと足を止めて、教科書を片腕に抱えてスマホを向ける。
みたらし団子みたいな形の雲。本物だったら、澪が喜びそう。
窓越しに撮ったそれは少しくすんで見えて、窓の鍵に手を伸ばして、あ、と気付いた。
思わず走り出しそうになる足を、理性が引き留めて、それでも小走りする速度で踏み出した。
外に出てから走ったせいで僅かに切れた息が、中庭に着いた瞬間、気にならなくなった。
「先輩」
自然と呼びかけていた。少し驚きながら、先輩に近づく。先輩は振り返らなかった。
「天気がいいから、花も喜んでるみたい」
柔らかな声音が雨粒のように落ちる。いつか見たときと同じ。透明感のある涼やかな表情で、先輩の背よりも高い場所にある花を見つめる横顔はひどく綺麗で。視線を辿って、香りが深くなる。
「綺麗な花ですね。それに、落ち着く香りで」
「うん。いつまでも、眺めていたいなって思うよ」
頷いて、そっと目を瞑る。優しく流れる風が頬や耳を撫でて、花の香りがより身体に沁みる。
閉じた世界の中で、花を見つめる先輩の姿を表す言葉を探す。見つからなくて、写真に切り取っても、花の香りも先輩の声も、光のぬくもりも、残せないことがもったいないと思った。
先輩のそばにいて、浮かび上がる懐かしさが残らないのは、救いなのかは分からない。
静かに焼きつけた瞼をゆっくり持ち上げる。先輩へ視線を移して、言葉を失った。
「やっほー。綺麗なお花だねぇ」
「……」
思わず辺りを見渡してしまう。足音もなく突然現れた澪が、「どしたの?」砕けた口調で疑問を投げる。すぐには答えられず、身体ごと一周して、先輩を探した。
「おっ、おおーい? 七瀬?」
突如、目の前で手を振られて、夢から覚めたような心地になる。――まるで異界駅から帰ったときのような。
「どしたの? 何か探しもの?」
「……いえ」
軽く、反対の手で人差し指を掴んで握りる。見間違い。聞き間違い。当てはまらない言葉を捨てていって、幻覚ではないと思った。それから、いついなくなったのだろうと思った。
「澪は、どうしてここに?」
「そっりゃー、もちろん。七瀬が見えたからだよ。帰りのHRもサボってきた」
「……忘れてました。HRのこと」
教科書をずっと持っていたのに。慌てて校内に戻ろうとした私の腕を掴んで、ヒッヒッヒ、と澪は小者の悪役みたいな小さな笑い声を上げた。
「だいじょーぶ。真面目な優等生なら」
意味を図りかねた。それが顔に出ていたのか、澪が私の腕から離した手で、ちょいちょいと手招く。躊躇ないがらも近づくと、澪が手で口元を塞いで、耳のそばで言った。
「普段、居眠りも私語もなく真面目に授業を受けて、成績も良くて。整容点検以外も校則の許容範囲を守って。ケンカしない真面目な優等生なら、たまにやるのはだいじょーぶだよ」
迷って、答えられない。澪はそっと身体を離して、私を見上げてニヤリと笑った。
「澪のこと、やっぱり『騎士様』とは呼べそうにありません」
「うわ、その呼び名知ってたんだ。恥ずかしー」
肩を竦めて、寒さに耐えるように両手で自らの肩を擦る。薄いメイクの優等生の姿は、学校で見ると思いの外似合っていて、悪知恵を働かせた結果だとは誰も思わないだろうと思った。
「狡賢いんですね」
「おー、ド直球だね。言葉を選びなさーい。あたしは狡賢いんじゃなくて、賢いの」
「はぁ」
「その返事、信じてないね! いい? あたしの優等生っぷりで、いざという時に助けてあげるから」
「いざという時、ですか。大丈夫です。私も先生たちの信頼は得ています」
事実を言う。澪は目を丸くして、ふ、とまた鼻で笑った。誇らし気に胸を張って組んだ肘で、私を優しく突く。面白くて仕方ないというような笑みで浮かべて。
「いいねいいねぇ。七瀬の、特に自信見せないで謙遜しないところ、好きだよ」
いいねと好き。誉め言葉のはずなのに、嬉しくない。何か期待した目でニヤニヤする澪を少しの間見つめてから、私は身体を動かした。一瞬体勢を崩しながらも、歩き出した私の隣にすぐに追いついた。
「好きです。澪の、本当は優等生じゃないところ」
澪を見ないで、ただ前を向いたまま告げる。視界の端で、澪がピタリと動きを止めたかと思うと、思いきり私の背中を叩いた。思わず痛がる声が漏れて、澪を見る。
「ふっ、そーなんだ」
頬を緩ませてひどく嬉しそうな澪の横顔には、初めて異界駅で出会った時、銃口に息を吹きかけた時のような幼さとやんちゃさがあった。
そっとスマホをポケットから抜き取って、まだ気付かない澪を写真に収める。
残らなくても。今は、撮っておきたいと思った。
スマホを覗き込んだ澪の声が聞こえてくるまで、私は撮ったばかりの写真を眺めていた。
みたらし団子みたいな形の雲。本物だったら、澪が喜びそう。
窓越しに撮ったそれは少しくすんで見えて、窓の鍵に手を伸ばして、あ、と気付いた。
思わず走り出しそうになる足を、理性が引き留めて、それでも小走りする速度で踏み出した。
外に出てから走ったせいで僅かに切れた息が、中庭に着いた瞬間、気にならなくなった。
「先輩」
自然と呼びかけていた。少し驚きながら、先輩に近づく。先輩は振り返らなかった。
「天気がいいから、花も喜んでるみたい」
柔らかな声音が雨粒のように落ちる。いつか見たときと同じ。透明感のある涼やかな表情で、先輩の背よりも高い場所にある花を見つめる横顔はひどく綺麗で。視線を辿って、香りが深くなる。
「綺麗な花ですね。それに、落ち着く香りで」
「うん。いつまでも、眺めていたいなって思うよ」
頷いて、そっと目を瞑る。優しく流れる風が頬や耳を撫でて、花の香りがより身体に沁みる。
閉じた世界の中で、花を見つめる先輩の姿を表す言葉を探す。見つからなくて、写真に切り取っても、花の香りも先輩の声も、光のぬくもりも、残せないことがもったいないと思った。
先輩のそばにいて、浮かび上がる懐かしさが残らないのは、救いなのかは分からない。
静かに焼きつけた瞼をゆっくり持ち上げる。先輩へ視線を移して、言葉を失った。
「やっほー。綺麗なお花だねぇ」
「……」
思わず辺りを見渡してしまう。足音もなく突然現れた澪が、「どしたの?」砕けた口調で疑問を投げる。すぐには答えられず、身体ごと一周して、先輩を探した。
「おっ、おおーい? 七瀬?」
突如、目の前で手を振られて、夢から覚めたような心地になる。――まるで異界駅から帰ったときのような。
「どしたの? 何か探しもの?」
「……いえ」
軽く、反対の手で人差し指を掴んで握りる。見間違い。聞き間違い。当てはまらない言葉を捨てていって、幻覚ではないと思った。それから、いついなくなったのだろうと思った。
「澪は、どうしてここに?」
「そっりゃー、もちろん。七瀬が見えたからだよ。帰りのHRもサボってきた」
「……忘れてました。HRのこと」
教科書をずっと持っていたのに。慌てて校内に戻ろうとした私の腕を掴んで、ヒッヒッヒ、と澪は小者の悪役みたいな小さな笑い声を上げた。
「だいじょーぶ。真面目な優等生なら」
意味を図りかねた。それが顔に出ていたのか、澪が私の腕から離した手で、ちょいちょいと手招く。躊躇ないがらも近づくと、澪が手で口元を塞いで、耳のそばで言った。
「普段、居眠りも私語もなく真面目に授業を受けて、成績も良くて。整容点検以外も校則の許容範囲を守って。ケンカしない真面目な優等生なら、たまにやるのはだいじょーぶだよ」
迷って、答えられない。澪はそっと身体を離して、私を見上げてニヤリと笑った。
「澪のこと、やっぱり『騎士様』とは呼べそうにありません」
「うわ、その呼び名知ってたんだ。恥ずかしー」
肩を竦めて、寒さに耐えるように両手で自らの肩を擦る。薄いメイクの優等生の姿は、学校で見ると思いの外似合っていて、悪知恵を働かせた結果だとは誰も思わないだろうと思った。
「狡賢いんですね」
「おー、ド直球だね。言葉を選びなさーい。あたしは狡賢いんじゃなくて、賢いの」
「はぁ」
「その返事、信じてないね! いい? あたしの優等生っぷりで、いざという時に助けてあげるから」
「いざという時、ですか。大丈夫です。私も先生たちの信頼は得ています」
事実を言う。澪は目を丸くして、ふ、とまた鼻で笑った。誇らし気に胸を張って組んだ肘で、私を優しく突く。面白くて仕方ないというような笑みで浮かべて。
「いいねいいねぇ。七瀬の、特に自信見せないで謙遜しないところ、好きだよ」
いいねと好き。誉め言葉のはずなのに、嬉しくない。何か期待した目でニヤニヤする澪を少しの間見つめてから、私は身体を動かした。一瞬体勢を崩しながらも、歩き出した私の隣にすぐに追いついた。
「好きです。澪の、本当は優等生じゃないところ」
澪を見ないで、ただ前を向いたまま告げる。視界の端で、澪がピタリと動きを止めたかと思うと、思いきり私の背中を叩いた。思わず痛がる声が漏れて、澪を見る。
「ふっ、そーなんだ」
頬を緩ませてひどく嬉しそうな澪の横顔には、初めて異界駅で出会った時、銃口に息を吹きかけた時のような幼さとやんちゃさがあった。
そっとスマホをポケットから抜き取って、まだ気付かない澪を写真に収める。
残らなくても。今は、撮っておきたいと思った。
スマホを覗き込んだ澪の声が聞こえてくるまで、私は撮ったばかりの写真を眺めていた。