「お嬢さん、線路は危ないよ」
 澪は、迷い込んだ人が線路を辿ることもあると言った。住む世界と異界駅を繋ぐ【定期券】でいつも降りる駅、つまり担当する駅の一番近くの線路を歩いていると、声がした。
「迷っているなら、案内をしてあげよう」
「……」
「それとも、ご両親を呼んだ方が良いかなぁ」
 しわがれ声を向くと、年老いたおじいさんがいた。おじいさんも、危ない線路の中にいる。
「大丈夫ですよ」
 答えながら、悟られないように全身を見る。右足の膝から下がないのに、杖がない。
 堂々として、この世界のことを詳しく知っているような口ぶり。関係者のチョーカーが首についていない。
 ――もう既に、亡くなっている人。
「おじいさんは、大丈夫ですか?」
 問いかける。おじいさんは不思議そうな顔をしてから、私の視線に気付いたのか、膝の断面を擦った。
「昔、ちとあってなぁ」
 おじいさんの言うことは、多分正しい。基本的に【怪物】は、生前の姿をしている。
 そう、マスターさんが教えてくれた。澪がいないところで。
「痛そうですね」
「お嬢さんはお優しい。さぞご両親に大切に育ててもらっているんじゃろう」
 喉の奥がひくつく。おじいさんは棒立ちのまま、首を傾げる。慌てず、深く息を吸った。
 念の時のために渡された銃も、ライターを制服のポケットに仕舞ったまま。
「私が、話を聞きます」
 引っかかっていた。どうして【怪物】が生きている人を喰らい、元の世界に戻ろうとしているのか。帰ろうと、しているのか。
「教えてくれませんか? 貴方がここに来てしまった理由を――貴方がやり残したことを」
 悪さをする前に払われた。銃で行う強引な成仏。
 ちゃんと死にきれなかった死者。
 上手く成仏が出来ないのは、きっとやり残したことがあるから。心残りがあるから。
 一歩、足を踏み出した。
「やり残したこと、かのう」
 おじいさんの片足が、動く。私は、だから動かなかった。
「なら、教えてやろう」
 瞬間、鋭い刃先が飛んできて、――見えない何かに弾かれた。
「あっぶなー!」
 後ろから腕を引かれ、澪の背が私を庇うように立ちはだかる。迷いなくおじいさんに向け、引き金に指をかけた――澪の腕を掴んで、銃口を逸らす。
「うわ、ちょ、何して」
 珍しく余裕が崩れた澪が私の肩を掴み、瞬時に低姿勢にする。次の瞬間、背後から爆発音がした。思わず閉じた目を開くと、澪の銃がおじいさんに向けられていた。
「駄目です。撃たないでください」
「ちょ、さっきからどうしたの?」
「それは――」
 澪が私を抱き寄せた。三度目の爆発音の後、澪の視線の先を辿ると、いつの間にかおじいさんの手にある杖の尖端がこちらに向いていた。
「杖を壊してください」
「それじゃ消えない」
「まだそれでいいんです」
「何考えてんの」
 呟きながら、澪は迷わず杖を撃つ。途端、おじいさんはよろめき、近づこうとした私の手を掴んで、澪は走り出した。
「待ってください、澪」
「七瀬の話を聞くのが先」
 溜息で染めて満たしたような言葉に、さすがに隠しておけないかと思った。
 澪は線路から離れた路地で足を止め、私を壁に押しつけて、私の顔の横に左手を置いた。
「で、何?」
「……」
 息を切らしている私と違って、澪は苦労なく自然な呼吸で言う。
 見つめ合ったまま、深呼吸をして、少しでも伝わるように息を整える。それから、浅い息を吸った。
「何か、出来ることは、ないかって、思ったんです」
「何で?」
「ちゃんと、死にきれなかった死者、って聞いて。まず、そう思ったんです」
 ひどく動揺して、それでも一番に考えていたのは、救いたいだった。
 澪は大きな目を瞬いて、私を捕らえた左手を離した。今度は本物の深い溜息を吐いて、前髪を搔いてくしゃくしゃにする。
「マスター、教えたんだ」
「線香の甘い香りがするって話したら、教えてくれました」
「……隠しておいて、なんて言ってないもんね」
 額に手を当てて、夜空を仰ぐ。不思議な光を放つ月は、静かな路地の間からは見えない。けれどその影は伸び、夜空に星はなく、灰色の雲に覆われたように淀んでいる。空気も同様で、一度飲み込まれてしまえば身動きが取れなくなりそうだった。
「喰われたら終わりなの。ちゃんと分かってる?」
 夜空から私に視線を落として、澪は聞いた。普段の笑みを消して、余裕そうな気配もない。真剣と呆れの間の表情を顔に張りつけている。
「はい」
「少しでも安全な方法で番人してほしいって、あたしに言ったのに?」
 遠回しの反対。少なくとも、賛成する言葉でも声音でもなかった。
 マスターさんの言うように、自由奔放で危ないことばかりする澪でも、賛成してくれるとは端から思っていなかった。
「銃で、【怪物】の動きを止めることは出来ますよね。変化する力を塞げれば、生きてる人と変わらず、話が出来るはずです」
「変化の力を使って変えた身体の一部を撃てば、確かに変化の力は塞げるし、多分失う。でも、それは喰らう方法を失うことと一緒。苦しめて、異界駅を彷徨わせるの? 銃で一発。それが一番苦しまない方法」
 澪の右手には、私よりも遥かに相棒の時間が長い銃がある。尤も、私は澪の相棒なのか分からない。契約を交わしたのは、あくまで番人の助手としてだから。
「最後くらい、救われたいです」
「救われたい?」
「死んでから、こんな場所で強引に終わらせられるのは、私は嫌です。無理やり消えるのではなく、ちゃんと心残りを晴らしたい」
「……」
 話さない銃が相棒で、澪は一人で耐えてきたのだろうかと思った。勝手に生まれる痛みを。
「自分が【怪物】になったとき、同じことを言えますか? 強引に成仏されても構わないと」
「……」
 澪の目が戸惑ったように瞬いて、長い睫毛が俯く。
「身勝手ですみません。でも、危ないときは澪が助けてくれると分かっていました」
 さっき、澪は私を背に庇った。必ず守ることが約束で、ただそれ以上に。
 何かが起きた時、澪は黙って見過ごすことはしないと思った。
 澪は一度左手を握り締めて、指先で銃を撫でた。
「…………あぁもう」
 呟くような声が落ちる。
 まだ迷いのあるような速度で顔を上げて、澪は上目遣いで私の顔を覗く。面白いことを知った子どもみたいな顔、異界駅では見慣れたマイペースな雰囲気に戻っていた。
「何その信用ー。いつの間に? あ、でも、最初からずれてたもんね。命危ないってのに、あたしのこと疑わないで、提案受け入れてくれてさぁ」
「……」
 どう答えれば良いのか分からない。澪は楽しんでいる表情をしているのに、どこか少し寂しそうに見えた。
「やっぱ、変わってる」
「そう、ですかね」
 学校と異界駅で服装も声色も性格も、色々変える澪の方が変わっていると思う。けれど澪はまた「変わってる」と明るい声で言う。
「ん、でも。分かった。とりま、やってみよ。出来る範囲でね」
「ありがとうございます」
 心から、告げる。澪は余裕たっぷり笑って、手を差し出した。迷わず手を取ると、澪は左右を確認してから、スキップのような足取りで路地を飛び出した。