厚い本を胸に押しつけて、絆創膏をつけた指先を見る。ただのかすり傷で済むと思っていたそれは、意外にも深い傷だったようで、ふとした瞬間に痛くなる。
 異界駅で負った傷は、住む世界にも帰ってもなくならない。身体は繋がっているから。スマホリングやスマホの充電量と同じ。
 日の光がよく入る長机に重たい本を数冊置いて、椅子を引いて浅く座る。
 適当に、ページを捲っていく。写真や絵が沢山使われ、噂に似た真実か、真実に見せかけた嘘か、分からないものがまとめられていた。
 どれも、そんなことがあるんだと思う程度だった。幽霊も怪奇現象も、未確認生物も。
 ――異界駅。
 指で文字を追う。ネットで見つけた情報と同じ。不思議に溢れたあの場所では起きそうな現象ばかり。
 この世に存在しない何か、は【怪物】のことだろうか。書き込みが途絶え、以降、消息が耐えた人がいる、ともある。
 喰われた成り代わりではない。突然死とも違う。
 消息。二文字を指先で行き来させながら、消息を経つ現象を、嘘か本当か考える。
 また、私が知らないだけだとしたら。けれど電波は繋がらず、ネットも使えないのに。繋がる場所がどこかにあるのだろうか。また静かに、憶測が膨れ上がりそうになる。
 ゆっくり息を吐こうとして、突如、ページに影が落ちた。視界の端で、本が転げ落ちていく。
「ごめん、落としちゃって」
 心臓が大きく鳴る。
 いつの間にか重怠くなった頭を上げると、そこに、『王子』と呼ばれる先輩の顔があった。厚い本を持つ、男の子の大きな手。涼し気な顔に、申し訳なさそうな色が浮かんでいる。
 数秒、声が出てくるまでの間、私たちは見つめ合った。
「あ、鶴の恩返しの子」
 そんな呼び方で覚えていたのかという落胆よりも、覚えていてくれた嬉しさが、悔しいけれど勝った。
「御園七瀬です」
「御園さん」
「七瀬でいいです」
 先輩なので、と浅い一呼吸を置いて付け足す。先輩は特に気にした様子もなく、呟くような声で私の名前を繰り返す。鶴の恩返しの子、ではなく、私の名前を。丁寧に、覚えるように。
 私も覚えるために、まだ見ていなかった、ネームプレートを見上げる。
「二年の深水宗太」
 知ってる。ネクタイの色と、情報通のゆらのおかげで。けれど、本当のことは言わなかった。
「改めて、よろしく」
「よろしくお願いします」
 素早く立ち上がって、差し出された手を柔く掴む。先輩は、躊躇いなく力を込めた。
 ぎゅっと、痛くはない、けれどちゃんと関係を築こうとしていることが伝わってくる強さで。
 思いがけず、胸が高鳴る。驚いて、嬉しくて。
 前触れなく離れていった手に、懐かしさを覚えた。咄嗟に目を瞑り、先輩の顔を窺うと、視線の先に集めた本があった。
「オカルトの勉強? それとも、何か探し物?」
 落とした本を、重ねた本達の上に置いて、静かな目で見つめている。
「考え事の答えを探すための参考、になるかと思いまして」
「手伝うよ」
 予想もしていなかった台詞に、何かを言おうと唇が小さく開くだけで声が出てこない。
「考え事を悩みに変えないように、ね」
 先輩は集めた本を四冊取って、私の隣に座った。先輩が作っていた影が消えて、数秒のことだったはずなのに、少し眩しくて思わず瞬く。
 薄く閉じた目を先輩に向けると、先輩の目とぶつかった。
「考え事は聞いても、大丈夫? あの場所の方が話しやすい?」
「……」
 辺りを見渡せば、図書室にいる他の生徒たちも、それぞれ小さな声で話していた。私は首を横に振って、息を吸った。
「あくまで過程の話ですが。……もし、幽霊に会ったら、先輩はどうしますか?」
 先輩は表情を変えずに、窓の方に視線を移して、眩しそうに目を細める。
 本当は、答えはほとんど決まっているようなものだった。けれど、選ぶことを躊躇っていた。
「俺は」
 思うより早く、先輩は声を落として言った。先輩の横顔が振り向く。――その瞳に、優しさと悲しさ、切なさが滲んだ寂しさが、コンタクトのように張りついているように見えた。
「話を聞きたい」
「……」
「もちろん、話したくないことも、話せないこともあると思う。でも話を聞いて、考えたい。どうすれば成仏できるのかなって。成仏することが全てじゃないんだろうけど。でも、その人を知る誰かはきっと、次の幸せを願ってると思うから」
 先輩の少し掠れた低い声が鼓膜を揺らして、胸に沈みながら熱を持って広がっていくのが分かった。その熱と先輩のひどく優しい眼差しが、また懐かしさを思い起こさせて、喉に何かが張り付いたように、息が苦しくなる。
「あっ、ごめん。どうしたいかじゃなくて、どうするか、だったね」
 言葉を返せない私に、先輩は勘違いをして苦笑いをする。分かりやすく悩まし気な顔を見せる先輩の表情に、ほっと胸が緩んで、息が楽に出来た。
「ありがとうございます。先輩がくれた答えのおかげで、どうするかより、どうしたいかが大事だと知ることが出来ました」
 先輩の目を見つめて言うと、先輩は心から安心したような、柔らかな笑みを浮かべた。
 ありきたりで、よくある単純な答え。浅瀬だと知らずにもがいていた私を助けてくれた先輩の頬を、温かくて優しい光がそっと撫でていた。