「お邪魔しまー……あ、本当に引越しの最中だったんだ?」

 アパートの扉を開ける。業者ロゴ入りの段ボール箱が、すぐに琴那の目に入ったようだ。

「嘘言ってると思ったのかよ」
「うん、アタシを家に入れないために、理由作ったなって。ていうか早くない?」
「卒業式の後、その足で地元戻るから。荷物は前日のうちに送り届ける」

 大学卒業生の引っ越しは卒業式から4月1日までの間に集中する。3月上旬は、業者の繁忙期から少しずれるから、いくらか見積もりが安くなるのだ。それに何より、用もないのにいつまでも東京に、というより大学の近くに居座りたくなかった。

「匠って地元どこだっけ?」
「静岡の西。浜松の方」
「そっかー。じゃあ新幹線乗れば、東京まですぐだ!」
「もう滅多に戻ることはないと思うけどな」
「いーじゃん、来てよ。アタシに会いにさ」
「ねーから」

 俺は否定の言葉と一緒に、ハンガーとバスタオルを押しつけた。

「コートはこれに掛けとけ。それとシャワー浴びてこい」
「ん、ありがと」
「着替えはちゃんと買ってきよな?」
「うん。アタシは別に、アンタのブカブカのシャツでもいいんだけど? 昔みたいにさ!」
「お前……そういうの本当にやめろよ。女から男に対してでも、セクハラは成立するからな?」
「あっはっはっは!」
 
 何がそんなに面白いのか、琴那は馬鹿丸出しの大声で笑った。
 俺はまた、自分の両手がペンとメモを欲しているのに気がついた。藤原琴那によって揺さぶられた感情を、無意識のうちに保存しようとしている。
 もうやめろよな、俺も……。

 洗面所の扉が閉まり、少ししてシャワーの水音が聞こえ始めた。
 俺はリビングでじっと、聞き耳を立てている。もちろん性的な衝動のためではない。自衛のためだ。
 音を立てないように足元に気をつけながら、バスルームの前を通り隣の部屋へ移動する。1LDKの1の部分、俺がこの4年間、寝室兼作業部屋にしていた4畳半の和室。この部屋にあるものを琴那に見られるわけにはいかない。
 今更ながら、部屋に上げたことを後悔している。駄目だ。やっぱりアイツはヤバイ。気をつけてさえいればいい相手じゃない。あの女の魔性は、どれだけ拒否感を抱いていても、するっと心の隙間にハマり込んでしまう。今みたいに軽口を叩き合っていると、ふとしたきっかけでこの和室に案内してしまうかもしれない。そんな恐怖感が、一人になった途端に俺に襲いかかってきたのだ。

 音を立てないようにゆっくりと引き戸を開く。早くやってしまおう。
 俺は、壁に立てかけてある段ボールを取るとそれを組み立てた。そして壁にかけられたコルクボードを取り外しにかかる。
 
「こんなことなら、さっさと捨ててしまえばよかった」

 いつでもそれが出来たはずなのにしなかった。引越し業者からダンボールが届いても、和室の片付けだけは手を付けていなかった。
 もう俺には必要のないものなのに、いつまでも壁に飾り続けていた。とりあえず、この箱の中に隠しておく。明日の朝になったら今度こそ、ゴミ袋に詰め込んで捨ててしまおう。そう考えながらコルクボードから、ひとつひとつピンを引き抜いていった。

「見ーつけた」

 作業に没頭していると、天井の照明が遮られてコルクボードの上に影が落ちた。

「なっ!?」

 見上げると、琴那の顔がそこにあった。え? なんで? 頭が真っ白になる。
 まだブラウスを着ていた。雨の湿気と自分の体温でわずかに汗ばんでいるそれは、玄関でコートを脱いだときのままの姿だ。Tシャツに着替えるどころか、服を脱いですらいない。
 なのに、廊下の奥からは確かにシャワーの流れる音が聞こえる。やられた、ブラフだ……。

「まさか、最初からこのつもりだったのか?」
「まーねー」

 琴那はにっこりと歯を見せて笑った。
 3年前、俺がときめいていた笑顔が、文創のメンバーたちを繋いでいたその笑顔が、今の俺には邪悪な悪魔の微笑みにしか見えなかった。