陽介の死は、海藤を亡くした時とはまた違う喪失感だった。
両親を既に失い正子が側にいない俺にとって、弟は最後の肉親だった。俺を無心に慕ってくれて心配してくれる、かけがえのない家族を失ってしまった。
陽介の葬儀は俺が行ったはずだが、何も覚えていない。呆然としていて、自分がどんな顔をしていたのか、参列客と何を話したのかさえわからなかった。
ようやく意識が戻ったのは、葬儀が終わって夜に自宅のアパートに戻って来てからだった。
紫色の袋をテーブルに置いた時、俺はようやく現在の自分を取り戻した。
小さな袋に収められた陽介の遺骨。それを目の前にして、俺は気づく。
……俺は一人だ。もう誰もいないのだと思った。
一晩眠らずに泣いた。朝が来るのが、他人事のようだった。
翌朝、重い体をひきずって出勤した。ただの惰性の動きで、何の感情もそこにはなかった。
「氷牙、いい。無理するな」
「しばらく休め」
同僚たちは俺を心配して口々に言った。俺は何も答えることができず、ふらふらと執務室に入った。
室内には既にみことさんが出勤していて、パソコンを前に検察事務官の席に座っていた。
俺はめまいを感じて、扉を背にその場に座りこんだ。立ち上がる気力もなくて、しばらくそのまま動かなかった。
パチパチとみことさんがタイプを打っている。今日もきっちりとスーツを着込んで髪をまとめ、指の先まで凛とした緊張を身にまとっている。
彼女も弟を亡くしたばかりなのに、いつの間にかしゃんと立ち直っている。どうしてなのだろうと、俺はぼんやりと思う。
どれくらい呆けていたのかわからない。
「席に座らないのですか?」
ふいにみことさんが言った。
「座らないなら出て行ってください。そこに座るのは検事だけです」
全くその通りだと、俺はぎこちない笑いさえ浮かべそうだった。
「……でも」
みことさんは立ち上がって俺の机の前に立つ。そこには既に山のように書類が積み重なっていた。
「ここにある仕事を引き受けた検事はあなたしかいないでしょう。あなたはこれを放りだすつもりですか?」
俺は無言でみことさんを見上げる。
そういえばみことさんは弟を失っても休むことなく、毎日仕事をしていたと気づく。
「この書類の中のすべての被害者が、一日も早く裁判が始まるのを待っています。あなたが起訴しなければこの内のどの被疑者も、法の前で裁かれることがないんです」
みことさんは強く俺を睨みつける。
「あなたが止めなければ、正義の刃はまた人を殺すかもしれないんですよ」
俺の前に歩いて来て、彼女は俺を見下ろした。
「腑抜けてる時間があると思ってるんですか?」
「……俺は!」
せりあがってくる悲しみに、俺は声を上げていた。
「最後の肉親をなくしたかもしれないんですよ。一人なんだ!」
「一人じゃありません」
ぐいとみことさんは俺の胸倉を掴んだ。
「検事のあなたは決して一人じゃありません。私も同僚も警察も、みんなあなたを支えます」
「みんないなくなる。母さんも愛理も陽介も。親しい人間を亡くすのなんてもうたくさんだ!」
「それでも戦うのが私たちじゃないんですか!」
みことさんの瞳は泣いているようで、でもそれ以上の力があった。
「最後の一人になっても犯人を見つけ出して、裁きにかけるのが私たちの仕事です。その覚悟がないなら権力の刃を捨てなさい!」
雷が落ちたような衝撃が走った。
俺はのろのろと自分の手を上げる。
――氷牙。自分に任された権力の重みがわかってるか?
いつか海藤が言っていた。
――俺たちは刃を持ってるんだぞ。人の命さえ奪える。怖いと思わないか?
睨むようにして俺を見た海藤の目が、今のみことさんの目と重なって見えた。
――正義であり続ける覚悟がないなら、お前には任せられない。
俺たちは法に反した者を処罰する力を託されている。人を傷つけることさえ認められる。ただ一つの理由、正義であるがために。
「……捨てるわけにはいきません」
俺は壁に手をつきながら立ち上がる。
「まだ守るべき命が一つ、あるんです。俺は刃を握り続けます」
みことさんは俺を見上げて眼鏡の奥の目を細めた。
ついと腕時計を見下ろして、彼女は告げる。
「三時間二十分後に正義の刃対策本部の会議があります。それまでに下で仮眠して、朝食を取って、顔を洗って出直してきてください」
検察事務官の席に戻って元通りに座りながら、みことさんは言った。
「その時にまたそんな顔を見せたら、今度こそ叩きだしますからね」
俺は苦笑しながら、うなずいた。
通称「正義の刃」対策本部の会議は二十人ほどの警察官と刑事部の検事が来ていた。
知らない若い警官もいるが、ほとんどがベテランのやり手刑事だ。警察の方も本腰を入れてきたなという印象だ。
年齢からいけば俺は中堅に分類されるが、公判を担当する検事など捜査のプロである彼らから見ればほとんど素人で、本来俺に発言権はないといっていい。
「悪かったな、氷牙」
けれど対策本部部長は、会議の前に俺に声をかけてきてくれた。
「俺たちの不始末で、お前の家族の事件が長らく放置されてきた。このたび、事件に正式に加えて再捜査することになった」
「不始末だなんて。陽介は俺の身内ですから」
「俺たちの身内でもある」
部長は難しい顔をして言う。
「いい奴だった。あいつがただの恨みだけで海藤を刺したとは思えない。唆して殺した奴を俺たちは許さない」
時間になって、会議が始まった。
今までの捜査で集められた資料などを見ながら、事件の内容を詳細に検討する。
俺も陽介の遺品から取り戻した海藤のデータを焼いたディスクを、部長に渡しておいた。
「刃の被害者は今のところ「人を殺した者」だとされていますが、声明等は出ておらず、その犯行目的はわかっていません」
中堅どころの警官がプレゼンターとなって、スクリーンを前に説明する。
「怨恨にしては対象者に共通点がなさすぎます。あるとしたら社会に対する憎悪、不満ゆえのテロ。愉快犯、精神異常者もありえます」
「何らかの信念があるとしたら、それは何だ?」
質問に、別の警官が答える。
「教会殺人事件の被疑者が犯人であるとすれば、信仰という可能性が考えられます」
「カルト集団か?」
「現実に、教会殺人事件は信者たちによる集団殺人事件でした。信仰は人を殺す危険を持っています」
「一般論で進めるには材料が少ないな」
白髪のベテラン刑事がため息をつく。
「陽介を庇うつもりじゃないが、どうにもあいつが首謀者だとは思えない。共犯者がいるはずだ」
「……あのう」
ふいに気の弱そうな声が割って入る。
振り向くと、隅の席にまだ着任して間もないくらいの若い警官がいた。
「い、いや裏はまだ取れていないのですが」
「発言してみなさい」
「は、はい」
茶髪の若い警官は、立ち上がって話し始める。
「刃の共通点は人を殺した者が被害者だということですけど、法で裁かれた者は誰も狙われたことがないんですよね」
「そうなってるな」
「刃はなぜそう法にこだわるんでしょう。法を崇拝しているような印象さえ受けます」
「陽介の事件はどう整理する?」
「それについては、陽介先輩の事件を担当している彼からお願いします」
隣に座っていた、まだ二十代の若手刑事が立ち上がる。
「陽介先輩なんですが、遺書が見つかりました」
「え?」
思わず声を上げた俺だけでなく、皆にざわめきが走る。
「刃は、陽介先輩が死んで法では裁かれなくなる前にと、実行に及んだのでは」
「刃がなぜそこまでのことを知っている?」
「言いにくいのですが、そのう……」
言葉を詰まらせた若手警官の代わりに、岩のように動かなかった老年の警官が答える。
「刃は警察や検察機関内部に通じていると」
「一つ別の視点をご紹介します」
眼鏡をかけたインテリ風の中堅警官が立ち上がる。
「正義の刃事件は、広く情報収集ができるだけの資金源がないと不可欠です。裁判は公開されていますが、情報が多岐にわたるからです。一方で労力のわりにマスコミには露出の少ない事件ばかりで、利益はほとんどないのです」
それは俺も感じていた。何らかのメッセージを打ち出すのであれば、もっとセンセーショナルな事件を対象にした方が都合がいいはずなのに、刃はそれをしていない。
何の目的で刃は人を殺しているんだろう。このようなことをして、刃に何の得がある?
ただの愉快犯なのか。損得勘定もできない、精神異常者なのか。
「ここで、教会殺人事件の件に戻りますけど」
向聖は、一連の刃の事件の中で唯一確定している容疑者だ。だから彼についてはかなり詳しく調べられているようだった。
「霧島向聖の身の回りに不自然な金の動きがあるようです」
「どういうことだ?」
「五年前に、霧島向聖は会社を立ち上げました。独自ブランドのビールの製造と販売を行う、設立当時は資本金100万円にも満たない小さな株式会社です。それが五年の内に名の知れた優良企業にまでなりました」
インテリ風の警官は淡々と続ける。
「ところが社長の霧島向聖はほとんど経営には参加していないようなのです。株式保有率も5%以下で主導も取れない。もっぱら、外部の株主が会社経営の舵をとっていて、資本もノウハウも提供している様子です」
「その辺りのどこが不自然な金の動きなんだ?」
「これを見てください。霧島向聖の確定申告です」
スクリーンに映し出された税金の確定申告の年ごとの比較表を見て、俺は眉を寄せた。
「五年前から、毎年会社からの給与が記載されていますよね。初年度は500万円程度でした。ですが年々増えて、今年度は5億にまで達しています。これは会社の剰余金の半分以上です」
若手警官は眼鏡の奥の目を光らせる。
「株式は僅かしか持たず、経営者ですらない者に、なぜそんな高額の給与を与えているんでしょうか?」
確かに妙なことだと、俺も口元を押さえた。
「しかも会社を立ち上げた時期が五年前。ちょうど氷牙さんの事件を除き、刃が容疑者と見られる事件の開始時期と重なります」
不自然な金の動きと刃の事件には何らかの関係があるのだろうか。もしかして、刃は俺も気に入っているあの酒場のビールを収入源としているのだろうか。
「……氷牙さん」
しばらく考え込んでいた俺に、プレゼンターの警官が声をかけてきた。
「氷牙さんは何か思うところはありますか?」
いつの間にか場の視線が俺に集中していた。
「ここ数件の事件は氷牙さんの身の回りで起きています。俺たちも捜査で散々調べた以上、氷牙さんが犯人だとは考えていません。でもこの件について氷牙さんは重要人物なんです」
俺もそう考えていた。なぜ俺の身の回りで事件が頻発しているのかと。
少し黙って、俺は考えを口にする。
「陽介は刺される前に気になることを話していました。「あんなものがなければ自分は海藤を殺すこともなかった」と」
「あんなもの?」
「刃のことを知っているようで、刃のことを「魔物」と呼んでいました」
自分で口にして、俺ははっとする。
――魔物、というのはどうでしょうか。
シルクハットの旅行者、テラさんもそんなことを言っていなかったか。
「これは、あくまで仮説なんですが」
俺は前を見据えて告げる。
「「正義の刃」とは、人ではなく「物」なのではないでしょうか。人を容易に殺せてしまう、特殊で危険な凶器」
まだ一度も俺たちの目に触れたことがない、未知なる物。
「おそらく、犯人は一人ではないのです。それを持った、複数の者による一連の事件が正義の刃と呼ばれているのではないでしょうか」
そしてその刃の正体を明かさなければ、きっと止まらないのだ。
俺は前を見据えて、その姿に目をこらした。
俺は上司と同僚の協力を得て、正義の刃事件に専念できるように他の仕事を減らしてもらうことになった。
二日後に留置場へ向聖の接見に行ったら、先客がいた。面会室から出てきたのは聖也君だった。
「大丈夫?」
思わずそう声をかけたほどに、しばらく会わない内に、彼はずいぶん憔悴しているように見えた。
顔色は青く、細い体がますます痩せたようだ。儚くなってしまいそうな、危うい雰囲気だった。
「いえ、貴正さんの身の上に起こったことを思えば……。本当に、どれほど悲しまれたことかと思います」
陽介のことを心配してくれたのだとわかって、俺は目を伏せる。
「俺は何とか。仲間がいるからな。それより君はちゃんと食べてるかい?」
ベンチに導くと、聖也君は少しよろめきながらも座る。
「僕は……何もできなくて」
意気消沈したように、聖也君は俯く。
「悲しい事件が繰り返されているのに、その連鎖を断ち切れないでいます。向聖さんにも、何と言って励ませばいいのかわからなくて」
「何か差し入れたかい?」
「聖書を持って行ったくらいです」
「ああ、なら十分だ」
俺は聖也君の頭をぽんと叩いて言う。
「向聖は昔から、聖書さえあれば満足な奴だから」
会社を立ち上げたというが、向聖は根っからの聖職者だった。俗世のことなどほとんど興味がなかった。
覚えている。正子にも、彼は優しく接してくれた。
――正子ちゃんも読んでごらん。子ども用だから読みやすいよ。
――おい、布教するな。うちは仏教徒なんだ。
休日に教会の庭へ遊びに行くと、向聖はよく正子に聖書を勧めたものだ。
――仕方ないだろう? 神の教えを説くのが私の仕事なんだから。
――じゃあ良心で控えてくれ。
――正子ちゃんは興味があるみたいなのに。まあ、友人の頼みなら仕方ないね。
もっとも向聖は俺が少し文句を言うとすぐに肩を竦めて笑う、憎めない奴だった。
――君の教える人の法は難しすぎるよ。それを噛み砕いて教えたのが聖書なだけだ。そう嫌わないでくれ。
晴れた空の元での昼下がり、正子と聖也君が遊び回っているのを二人で見守りながら笑っていた、あの他愛ないひとときはもう戻って来ないのだろうか。
心に訪れた悲しみの波に、俺は奥歯を噛んで耐えた。
今は過去の時間の中で止まっていることはできないと、俺は首を横に振る。
「聖也君。君のところに滞在しているテラさんにまた話を聞けないだろうか」
「それなのですが」
彼は困ったように口の端を下げる。
「テラさんはこの間の実況見分の日から、姿が見えないのです。毎日滞在費がポストに入っていますから、まだ近くにはいらっしゃるはずなのですが」
「そうか」
予想はしていたが、彼女はやはり警察を避けている。これ以上俺たちに関わる気はないらしい。
「彼女は何か話していなかっただろうか。よければ教えてくれ」
俺の質問に、聖也君は口ごもる。
「貴正さんの捜査の助けになるような話はないかと」
「どんなことでもいいんだ」
「大したことでは」
聖也君は困り顔で、ぽつりと言う。
「彼女はその、少し変わった方でして」
「そう見えたな」
「滞在のお世話になっているからと、毎晩お話を聞かせてくださったのです。時代も国もばらばらなのですが、物語を一つずつ」
「どんな話なんだ?」
「魔物が登場する話です」
俺は思わず眉を寄せて聞き返した。
「魔物?」
「ある時、その時代の外から入り込んでしまった魔物が騒動を起こすんです。そのせいで時の中に瘤が出来て、時が止まってしまう」
「それで?」
俺の問いかけに、聖也君は少し考えて答える。
「そこの国に住んでいる人が魔物を消して終わります。「すべてハッピーエンドです」と笑って」
俺はテラさんの、底の見えない闇のような目を思い出す。
「「時そのものが消えてしまうので、誰も悲しむ人はいませんよ」と」
それは何かのたとえ話か作り話だとわかっていても、一瞬俺は背中が冷たくなる気がした。
「もし彼女を見かけたら俺に連絡してくれ」
そう言って聖也君と別れた。
面会室に入ると、向聖は椅子にかけて聖書を読んでいた。
年齢の感じられない横顔は、俺のずっと知っている向聖そのままだった。何日も外部から隔絶されていても、毎日のように取り調べを受けていても、彼にとっては日常と何も変わりがないようだった。
俺が向かい側の椅子に座ると、向聖は聖書を閉じてテーブルの上に置く。
「こんにちは。今日は何が聞きたい?」
「お前の会社について」
「それは警察にも話したけど、いいのかい?」
係官も監視している小さな白い部屋で、向聖と俺は向かい合う。
「私の会社とは言っているが、名義を貸しているだけなんだ。経営内容もおよそ把握してない」
「そうだろうな」
向聖は会社を立てた後もほとんど教会関係の仕事をしていた。聖職者が商売などと教会の組織から非難されたために、神父職は聖也君に譲っただけだ。
「それならなぜ、お前の給与に剰余金の大半が入ってるんだ?」
「給与の形をとった寄付なんだ。大株主の方が教会の信者らしくてね」
彼は俺を見やって淡々と告げる。
「実際は聖也君に対する寄付だ。彼が未成年で養父の私が財産を管理している関係上、私が自分の財産として申告しているがね」
「何のためにそんな大金を聖也君に?」
「さあ。聖也君は特にその金に手をつけず、ずっと預金し続けているようだよ」
「大株主とは誰だ?」
「それも知らない。私は株主総会にも取締役会にも出たことがないからね」
俺は相手が向聖でなければ、全くのでたらめをしゃべっていると思って相手にしなかっただろう。
「向聖。お前は嘘をついていないかもしれない。だが黙っていることがないか?」
向聖の目を見返しながら、俺は問う。
「お前は自分以外の者の罪まで背負うつもりか?」
向聖の瞳は全く揺らがない。磨き上げられた宝石のような、清廉な光の目だ。
「誰かを庇っているだろう」
そしてそれは、と向聖の瞳の奥まで覗くようにしてみつめる。
「……たぶん、聖也君にかかわる」
俺のあいまいな言葉に、向聖は何のためらいもなく返した。
「そんなことを訊いてどうする」
向聖は聖書を朗読する時のように静かに言う。
「それについては答えは決まっている。「彼は潔白だよ。」」
彼は聖也君を叱らない。聖也君のすることを、すべて無条件で受け入れた。
「彼は私の信仰だから」
向聖にとって、聖也君は「正」で「聖」なのだ。彼らの信仰で神が人々に与えるように、向聖は聖也君に何の見返りも求めず愛を注いだ。
彼は聖也君がどんな罪を犯したとしても微笑んで許すだろう。そして庇う。向聖は、法よりも信仰を取る。
「それに君の家族の事件当時、聖也君は正子ちゃんと同じ八歳だ。そんな子どもが痕跡も残さずに次々と殺人ができるのか?」
犯人が物であるということは俺の憶測に留まっている。だから向聖の質問に対する答えを、まだ俺は持っていない。
結局接見はそのまま進展せず、向聖は聖書を大切そうに抱えて去って行った。
向聖の初公判は三日後に迫っていた。
「忙しい時期ですのに、申し訳ない」
「いえ、ずっと働きづめでしたから、一日くらいゆっくりなさってください」
みことさんが明日一日休みを取りたいというので、俺は気安く応じた。
彼女だって弟を失って辛かったはずなのに、一日も休まずに検察事務官の仕事をしていてくれたのだ。気弱になった俺を時に叱責しながら、一緒にがんばってきてくれた。
いつも俺が仕事を終えるまで付き合ってくれるみことさんがいないのは少し寂しかったが、俺はみことさんが先に帰った後も仕事をしていった。
俺は寒さに肩をすぼめながら街を歩く。そういえばクリスマスは向聖の初公判の翌日だと思いながら。
時刻は十二時を回ろうとしていた。
自宅のアパートで遅い夕食を取って風呂に入り、俺は床につこうとしていた。
インターホンが鳴って、俺はこんな時間に誰だろうと戸口へ向かう。
「はい」
だいぶ建てつけの悪い玄関の扉を開いた瞬間だった。
ふわっと俺に柔らかいものが巻き付く感触があった。
「……み、みことさん?」
腕を回して、みことさんが俺を抱きしめていた。俺は何が起こったのかわからず、その場で立ち竦む。
俺はしばらく言葉を忘れていた。みことさんも何も言わなかった。
「あの、中に入りませんか」
ようやく俺が言葉を取り戻した時、同時に思い出したことがある。
「ちゃんと話しましょう。俺はあなたに伝えたいことがあるんです」
殺人事件でうやむやになっていたが、俺はみことさんと一度話さなければいけないと思っていたのだ。
「みことさんにとって一番大事なのは息子さんだとわかってます。でも、俺はあなたが」
ふいにみことさんが体を離して俺を見上げた。
「駄目ですよ、それを言っちゃ」
涼やかで綺麗な目は、闇の中で少し濡れているような気がした。
「あなたは私の一番にはなれません。私だって、あなたが一番大事なのは娘さんだとわかってます」
笑って、みことさんは俺の前に立つ。
「今度こそ、これですべて忘れましょう。あなたは検事、私はその担当事務官」
言葉に迷った俺に、みことさんはそっと告げた。
「おやすみなさい。貴正さん」
それは俺が今まで聞いた中で、一番優しい声だった。
翌日、俺は裁判所から地検に帰る途中で少し時間があったので、みことさんの家に立ち寄った。
一晩考えて、俺は自分の気持ちを整理した。
本人が忘れようと言っているのだから、今更俺が掘り返してはいけないのだとわかっている。弟の死で落ち込んでいる彼女に、そういう話をすべき時ではないということも。
それでもちゃんと言わなければいけないと思った。俺と付き合ってほしい……よければ結婚してほしいと。
妻を忘れたわけじゃない。正子のことが今でも心の大半を占めている。仕事でも頼りない検事かもしれない。けれど、彼女が好きであることは間違いないと気づいた。
みことさんは不在だった。俺は少し考えて、近所にある海藤の家に足を向ける。
「あ、検事のおじさん。こんにちは」
ちょうど遊びに行くところだったのだろうか。みことさんの息子の純君が家から飛び出て来た。
母親に似て怜悧な顔立ちをしている純君は、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。お母さんはいる?」
「お母さんは今日手術だよ」
「え?」
病気という話など聞いていなかったと、俺は眉を寄せる。
「夜には帰ってくるんだって。ええっと……八代岬、産婦人科病院?」
俺はその名前に聞き覚えがあったので、さっと顔色を変えた。
「おじさん?」
踵を返して走りだす。頭にのしかかる、嫌な予感につぶされそうになりながら。
純君の言った病院は、仕事で担当したことがある都内の病院だ。
……堕胎専門の産婦人科だ。
タクシーをつかまえて、職場とは反対の方向に向かう。途中から渋滞に巻き込まれたので、俺はタクシーを下りて急いだ。
小雨の降る昼下がりだった。ささやかな雨なのに、冬の空気と合わさると凍るような冷たさだった。
そういえば昨日も小雨が降っていた。この冷たさの中をみことさんは俺の家まで来たのかと思うと、俺はまぎれもない後悔を感じる。
病院まであとは直進だと思って角を曲がったところで、俺は足を止めた。
「え……」
道路にはテープが張られて封鎖されていた。見張りの警官が立っている前に、野次馬が人波を作っている。
「何があったんですか?」
近くの人をつかまえて尋ねると、主婦らしい壮年の女性は答えた。
「大量殺人事件らしいんだよ。でも犯人とか凶器が全然わからなくてね。これも正義の刃事件じゃないかって警官が話してるのを聞いたよ」
「大量……殺人?」
「うん」
女性は病院を見上げて何気なく言う。
「入院中の患者さんやお医者さんに看護師さん、ええと十三人だったかな……全員殺されたそうだよ」
彼女の言葉を、俺は聞き入れることを拒絶した。
「あ、氷牙さん」
無言でテープの前まで来ると、馴染みの警官が俺をみつける。
「もう連絡がいきましたか。現場を見ます?」
俺は頷いて病院内に入る。
俺の頭の中はみことさんのことでいっぱいだった。人の命はどれも尊いはずなのに、今の俺は被害者の中にみことさんが入っていないことだけを願っていた。
彼女が入院したのはこの病院でないとか、もう退院したとか、偶然外出していたとか。そういう可能性などいくらでもあると心で言い聞かせていた。
病院内は血の匂いで満ちていた。消毒液の匂いすらかき消す、濃厚な大量の鉄の匂いだ。
あちこちに青いシートがかぶせられている死体がまだ残っている。警官たちは写真を撮ったり指紋を取ったりしていた。
俺は入院中の患者の個室が三つ並んでいる場所まで来ると、その名前のプレートを確認する。
一つ目、二つ目を通り過ぎて、三つ目。
「海藤みこと」のプレートを見てもまだ俺はみことさんの無事を信じていた。
病室の中のベッドには青いシートが被せられていた。俺は爆発しそうな動悸を感じながらベッドに歩み寄って、シートの顔の部分をめくる。
みことさんは眠っているようにしか見えなかった。静かな表情で目を閉じているだけだった。
「まだ麻酔が効いていて眠っていたところを刺されたようです」
シートをさらにめくってその胸に刺殺の跡をみつけても、なお俺は彼女が生きていると思った。
「氷牙さん! 死体に触らないでください!」
「……死体?」
触れかけた俺を制した警官に、俺は声を荒げる。
「昨日まで一緒に……仕事をしてたのに?」
俺は手を震わせながら握りしめる。
「こんな、馬鹿な、ことが」
――子どもじゃないんですからやめなさい。私たちは泣いたって何も解決しないんですよ。
まだ検事になりたての頃に仕事でとんでもない失敗をして、俺は隠れて泣いた。その時に、みことさんが俺をみつけてくれた。
ぽんと俺の頭を叩いてくれた、あの優しい手が記憶に蘇る。
――今度は大丈夫。あなたが失敗しないように私が見ていてあげます。
もう泣かなくていいんですよと言った声を、昨日のように覚えている。
「氷牙、被害者の遺品だ。汚すなよ」
壮年の刑事が俺に手袋を渡して、ついで日記帳らしき本を差し出す。
俺は手袋をはめて、慎重にページを開く。丁寧で綺麗な字は、確かにみことさんの字だった。
前日、つまり昨日の日付で最後の日記が記されていた。
『明日、手術を受ける。私は子どもを一人殺すことになる』
みことさんの文には緊張感が漂っていた。
『とても怖い。私は彼と子どもを育てることはできないから決めたが、本当にこれでよかったのか。何度考えても答えは出ない』
昨日の夜、俺に会いに来た後に書いたのだろうか。
『命の代償は、何で払えばいいのだろう。生き物にとって唯一のそれを奪うためには、やはりたった一つの命でしか償えないのではないだろうか』
震える筆跡で、みことさんは記す。
『みっともない。殺人事件も仕事で数多く扱ったのに、私は自分が人を殺す側になって、悲しいよりひたすら怖いのだ』
俺は文章を一字も見逃さないように、目をこらして読む。
みことさんは決意のように次の文を記す。
『何としても刃を止めなければいけない。でもおそらく人を殺す私には、もうその資格がない』
最後は、俺へのメッセージだった。
『貴正さん。被害者と、社会と、そして犯人を救ってください』
俺は目を固く閉じて唇を噛む。
みことさんに子どもを殺させたのは俺だ。俺のせいなんだと、瞼の裏がたまらなく熱くなる。
すぐにでも溢れてしまいそうな涙を、俺は目を閉じたままこらえる。
――腑抜けてる時間があると思ってるんですか。
俺の中を、みことさんの言葉が通っていく。
――最後の一人になっても犯人を見つけ出して、裁きにかけるのが私たちの仕事です。
俺は検事であり続けると決めたのだ。救える命がある間は、決して権力の刃を手放さないとみことさんに約束した。
「現場に外部の者が入り込まないよう、痕跡等が消えないようにしてください」
目を開いて、俺は警官たちに告げる。
「事件の前後に病院内に入った者に注意してください。婦人科なら出入りはそれほど多くないはずです。受付記録にも残っているでしょう」
絶対に犯人を逃さない。誰を失っても、最後の一人になっても、俺は犯人を探して裁きにかける。
俺は静かに礼をして、みことさんの病室から出ていった。
翌日、俺は警察署の刃対策本部部長に呼ばれていった。
担当の警官たちは横で写真をテーブルいっぱいに広げて話している。
「すごい美人だな。女優みたいだ」
「誰だよ、刃がカルト教団の信者だなんて言ったの」
「足細いなぁ」
およそ捜査らしくない話をしているのを聞いて、警部から叱責の声が飛ぶ。
「おい、お前ら。そいつと決まったわけじゃないだろうが。しっかり調べろ」
「は、はい!」
そそくさと作業に戻る彼らを、俺は不思議に思いながら見送った。
「氷牙、お前に確認してもらいたいものがあるんだ」
部長が俺に示したのは、一つのビデオテープだった。
「産婦人科事件で事件の前後に出入りした人間が監視カメラに映っていた。人数が少ないから、俺たちの方で一人一人調べているが」
産婦人科だからか、出入りしているのは全員女性だった。
「ここだ」
ビデオを早送りして、部長は一つの時点で止めた。
「見ての通り遠目だが、お前、彼女に覚えはないか?」
白黒画像の中、玄関から入ってくる一人の少女がいた。
年齢はおそらく十代後半ほどで、きれいな長い髪を肩に流していた。シンプルなコートを羽織った上にマフラーを巻いている。格好としては地味だが、そのスタイルはモデルのように完璧に整えられていた。
「……え?」
一瞬映った見覚えのある顔立ちに、俺は思わずボタンを止める。
もう一度ビデオを巻き戻して同じ時点を繰り返す。
サングラスをかけてはいるが、迫力のある華やかな美貌の少女だった
……その顔立ちが、俺の記憶に残る正子と重なった。
信じられない思いで何度もビデオを再生していた俺に、部長がICレコーダーを示す。
「それから、匿名でこんな記録が送られてきた」
部長は再生スイッチを押す。
『そうね。あなたの母親は私が殺したようなものかもね』
そこから山根の興奮した声が流れてきた。
『でも本当に殺したかったのはあなたよ。貴正はあなたが一番大事だって、何度も言って。あなたなんか、あなたなんか……!』
愛理は我を失ったように声を荒げる。
何かを振り回す気配がしたが、やがて録音が途切れた。
「これは時刻から見て、山根の死亡する直前に録られたと見られてる。相手の声は聞こえないが」
俺は山根の言葉を繰り返し頭の中で再生して、呟く。
「あなたの母親、貴正はあなたが一番大事?」
それは、と俺は呆然としながらたった一人を想う。
俺は懐から正子の写真を取り出してみつめる。
八歳の正子は、今日も元気いっぱいに笑っていた。
正子と思われる少女の映像を見て一番に抱いた感情は、やはり嬉しさだった。
思いだすのは十八年前のことだった。俺はまだ二十歳の、法学部の大学生だった。
当時付き合っていた優子との間に子どもが出来たと知って、俺は優子との結婚を決めた。
実を言えばその頃まで、俺と優子の付き合いはそんなに真剣なものじゃなかった。俺は優子のことを好きではあったが将来のことを真面目に話したこともなく、大学を卒業したら別れるかもしれないとも思っていた。
けれど責任を取るつもりで結婚をして、半年が過ぎて正子は生まれた。
……その時、今の俺もまた生まれたのだ。
小さな温もりを持った赤ん坊の正子を抱いた時、俺の中で何かが変わった気がした。
家族も妻ももちろん大切だったが、正子に抱いた鮮烈な感情とは違う。
心の底から愛おしいと思ったのは初めてだった。
彼女に誇れる父親になると決意した。必死で勉強して試験に合格して、検事になった。たぶん正子がいなければ検事の道を志すこともなかった。
正子がいなくなって、俺の人生を照らしてくれていた光がついえたように思えた。その光がもう一度蘇るというのだから、嬉しくないはずがない。
だがここに来て、警察の捜査線上に犯人として正子の名が浮かび上がった。
身柄を拘束されている向聖より、行方不明の正子の方が数々の殺人事件の引き金をひける。そして十年前の家族以外の痕跡がない妻と母の殺人事件でも、正子なら犯行を行うことができるのだ。
俺は信じられなかった。正子以外の犯人を求めた。
マスコミでは産婦人科での大量殺人事件が大きく取り上げられていた。新たに警察が正義の刃事件に加えた俺の家族の事件も再び報道されて、その中には正子の犯行を疑うものもあった。
「貴正、待ってくれ」
向聖の初公判は明日に迫っていた。彼は相変わらず落ち着いていたが、面会に行ったら珍しく自ら俺を引きとめた。
「聖也君に手紙を届けてくれないか。大丈夫、警察のチェックは通ってる」
振り向くと、警官も頷いた。俺は向聖から白い封筒を受け取る。
「私のことは心配要らない、無理に公判に来なくていいから、ゆっくり体を休めるようにと伝えてくれ」
「どうかしたのか?」
「昨日、聖也君が倒れたそうなんだ」
俺は知らなかったので、思わず眉をひそめる。
「彼は傷つきやすい、繊細な心の持ち主なんだよ。私のことも、続く殺人事件にもひどく心を痛めてる。頼んだよ」
その晩、俺は聖也君の教会を訪ねた。
聖堂の横に立つ質素な一軒家が聖也君の家だ。以前は向聖も住んでいたが、神父職を聖也君に譲ってからは聖也君が一人で住んでいる。
少し吹雪いていた。俺は聖也君の家の玄関の前に立って、何気なく庭を見やる。
「聖也君!」
雪にまみれながら、聖也君が庭にいた。コートも着ずに薄いスータン姿のまま、途方に暮れたように立ちつくしている。
「何をしてるんだ。君、倒れたばかりだろう」
慌てて駆け寄ると、聖也君は弱弱しく俺を見やる。
「誰か、来ていませんか。救いを求める人は……」
「こんな吹雪の夜に来る人はいないよ。さ、こっちへ」
俺は聖也君に自分のコートを着せかけて家までひっぱってくると、室内に入る。
「どちらまで行かれていたんですか。早くベッドに戻ってください」
中には白衣の青年がいて、雪に濡れた聖也君の姿を見て怒った声を出す。
「いつまでも子どもですね、あなたは」
その慣れた口調に、どうやら馴染みの看護師らしいと俺は思う。
「お客様ですか?」
「あ、はい。手紙を届けに」
「果物をお出ししましょう。今お茶も入れますからね」
俺を通してきびきびと台所に向かう看護師の青年を見送って、俺は部屋の中に目を戻す。
「すみません。こんな格好で」
「いや、ゆっくり休みなさい。向聖も心配していたよ」
ベッドの横には点滴の器具や薬などが並んでいた。テーブルの上には見舞い品らしき見事なユリが活けてある。聖也君の一番好きな花だ。
「この花は向聖から?」
「いえ、向聖さんの会社の株主の方です。僕は平気だと言ったのですが、看護師までよこしてくださって」
例の大株主の信者か。俺は言葉には出さずに思う。
まもなく看護師の青年が、やはり見舞い品と思われる剥いたラ・フランスと紅茶を持ってきた。
「こんばんは、シルバー」
看護師の彼が去っていくのと入れ違いに、子猫がするりと部屋に入ってくる。
耳が折れているのがかわいらしい、灰色のスコティッシュフォールドだ。彼女はぴょんとベッドに飛び乗ると、聖也君の膝の上に収まる。
「確かシルバーも信者の方がくださったんだったね」
「はい。向聖さんが別に暮らすことになって、僕が寂しくないようにと」
聖也君が子猫を抱き上げると、彼女はごろごろと鳴いて聖也君の頬に擦りよる。
聖也君は俺が渡した向聖の手紙を読んでいた。目を伏せて、何度も繰り返し文章を辿っているようだった。
「……聖也君。君に訊きたいことがある」
ストーブが空気を暖め始めた頃、俺は意を決して問いかけた。
「君の教会の信者に、正義の刃の関係者と思われる者はいないだろうか」
聖也君は目を上げて俺を見る。
「信者の方が殺人を犯したと仰るのですか」
「俺は、刃は何らかの信念を持っていると思うんだ」
そしてそれは人々の支持を得られるような、社会悪を倒すというような存在かと思っていた。つまり人気取りだ。
だが産婦人科殺人事件でそれは一線を越えた。堕胎を行った妊婦に対する社会の同情は強く、また病院内のすべての者を殺しつくすという徹底した手段には大多数が戦慄している。
この期に及んで刃を支持している者は、ほんの一部でしかない。
「君たちの信仰では、堕胎を禁じているね」
刃は宗教関係者ではないかという疑問も、当然以前からあった。
「殺人も禁じています」
聖也君は俺の言葉に、悲しそうに目を歪めた。
「神には慈悲があります。罪を許せます。たとえ咎人であっても、死をもって償わせるなどということはしません」
おそらくそうなのだろう。それに法だって聖書の規範を形にした部分が大きい。社会に真向から反抗する信念ではない。
「すまない……」
俺は視線を落として、彼らの信仰を貶めたことを謝る。
「俺は、別の犯人がいることを願ってしまってる。警察内部でも正子を疑う声が上がってることに、焦っていて」
「正子さんが?」
聖也君は驚いたように身を乗り出す。
「彼女の居場所がわかったのですか?」
「いや。ただ、テレビとかで見てないか? 報道機関に正子の存在を示唆する記録が寄せられたって。同日に警察にも届いたんだ」
俺が聞いた山根の死亡直前の記録は、警察と報道機関に同時に届いたらしい。
聖也君は青い目を見開いてシルバーをみつめる。初耳だったのだらしい。俗世に疎い彼はワイドショーなど見ていないのだ。
「一斉にマスコミの目が正子に向いた。向聖を疑う声が消えかけてるくらいだ。その記録を送ったのが誰かはわからないが……」
俯いて、聖也君は小声で問う。
「僕を疑う声も、消えかけているのですね?」
察しのいい彼は、俺が何を言おうとしたのか感じ取ったらしい。
「以前は報道関係の方がよく教会にいらっしゃいました。僕を刃の容疑者と疑って取材を求める方も。でもある時からそれがぴたりと止みました。僕も不思議に思っていたんです」
シルバーを撫でながら、聖也君は呟く。
「刃は向聖さんや僕を庇っているのではないかとお思いなのですね」
少しの間、沈黙があった。
俺ははっとする。聖也君の目に涙が溜まっていた。
「ご、ごめんよ」
涙が溢れる前に、聖也君の膝からシルバーが飛び降りる。
「聖也君?」
聖也君は吸い寄せられるようにして子猫を追う。迷わず部屋を飛び出していく彼を、俺も椅子から立ちあがって追った。
「ちょっと、どこ行かれるんですか!」
「すまない。すぐ連れ戻すから」
台所にいた看護師の青年に伝えて、俺は外に出た。
暗闇に沈んだ世界で、白い聖堂の裏口に寝間着が消えるのが見えた。俺はこちらの入り口は初めてだと思いながら裏口から聖堂の中に入る。
そこは四畳半程度の狭い懺悔室だった。おそらく裏口ごしに中にいる神父と話すのだろう。
冷え切った懺悔室の中で、聖也君が立ち竦んでいた。壁には脚立が立てかけてあって、その視線の先の天井から光が漏れている。
「天井裏があったのか?」
光がなければ何もないように見える構造だった。驚いた俺に、聖也君は振り向く。
「僕が様子を見てきます」
「いや、俺が行くよ。誰かいるみたいだ」
俺は聖也君を制して脚立に足をかけようとする。
「待ってください!」
聞いたこともない激しい声に、俺は思わず動きを止めた。
「僕からです。合図したら後から来てください」
有無を言わさず聖也君は先に脚立を上り始めた。
一番上まで辿りついて聖也君は辺りを見回してから、俺に声をかける。
「どうぞ」
脚立を上って屋根裏に入る。そこは懺悔室と同じくらいの、小さな部屋だった。
そこには聖也君以外にも人がいた。
「おや、見つかってしまいましたか」
毛布にくるまって、いつかの不思議な旅行者が寝そべっていた。彼女の傍らにはパーティ用品のような、とんがり帽子が置かれている。
「テラさん?」
彼女はおもちゃの猫じゃらしを持って、シルバーをちょいちょいとつついていた。けれど聖也君の姿をみとめると、彼女はその遊びをやめる。
「勝手に屋根裏をお借りしています。神父様」
起き上がって、テラさんは聖也君に会釈した。
古いランタンのような灯りを見やって、俺はその横に目を留める。
「今までここに誰かがいなかったかい?」
そこには飲みかけの紅茶のカップが二つ並べられていた。まだ湯気が上がっている。
「ええ。外よりこちらの方が暖かいと仰って、私をここに案内してくださったのです。しばらくお話をしていました」
「その人はどこに?」
俺が問いかけると、テラさんは奥の木戸を指さす。それは押して開くようになっていて、どうやら教会の屋根に出られるようになっているようだった。
「神父様に、彼女から伝言を預かっています」
テラさんは聖也君を見上げてゆっくりと告げた。
「「もうあなたを苦しめたくない。告白して、心を安らかにしてください」」
無言で立ち竦む聖也君に、テラさんは締めくくる。
「「あなたの友、正子より」」
「……正子?」
心臓を掴まれたような思いがして、俺は震える。
俺は木戸を開け放って外を見た。雪が吹き付ける暗闇に飛び出そうとしたが、テラさんの声に制される。
「追えませんよ。とても身軽な方だったから」
「正子が今ここにいたんだろう!」
心に迫ってくる感情が大きすぎて、俺は声を荒げる。
「聖也君、なぜ隠してた? 正子はここにいたんだな? 君は……」
詰め寄る俺の前で、聖也君は沈黙していた。
自らがまとう静寂に凍らされたように、聖也君は微動だにしなかった。
「神父様。私は席を外しています」
テラさんはとんがり帽子をひっくり返して、その中にティーカップを放り込む。どういうマジックなのか毛布まで突っ込んで仕舞った。
とんがり帽子をかぶって手にランタンをぶらさげながら、テラさんは脚立を下りていった。
光がなくなって、辺りは暗黒に包まれる。
押し殺したような声で、聖也君は呟いた。
「……わかりました。僕が知っていることをお話しします」
聖也君の輪郭だけがうっすらと見えていた。
闇の中で、聖也君は語り始める。
「始まりは、十年前のクリスマスの夜。聖堂にいた僕のところに、正子さんがやってきました」
「俺の妻と母が死んだ、事件の日の夜?」
「はい」
短く肯定が返ってくる。
「正子さんは顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、僕に言ったんです。「悪いことをしちゃった、どうしよう」と」
俺は泣き顔の正子を無意識に思い返していた。
「「おばあちゃんを殺しちゃった。おとうさんは絶対許してくれない。もうおうちに帰れない」と言って泣いていました」
小さな正子が、途方に暮れたように泣く様が目の前に浮かぶようだった。
「その後、すぐに警察が来ました。犯人と正子さんを探しに。僕はこの屋根裏部屋に正子さんを隠して、誰も来ていないと言いました。……貴正さんにも」
「なぜその時に正子を出してくれなかった?」
俺は責める口調になってしまう。
「警察に言うのが怖かったなら、俺にだけでも伝えてくれればよかったじゃないか」
「警察など怖くありません。僕も、正子さんも」
聖也君は迷わず答える。
「正子さんが怖がっていたのはただ一つだけ。あなただけです」
「俺?」
「貴正さんは、正子さんの「神」で、「法」なのです。正子さんにとって絶対で、もっとも恐ろしいもの、そして愛するもの」
暗闇の中で、聖也君がうつむく気配がした。
「正子さんは繰り返し、「おとうさんに嫌われたくない」と言いました。あなたにだけは罪を知られたくなくて、隠れ続けたのです」
彼は憂い声で続ける。
「僕は正子さんが自分で罪を告白できる時まで見守ろうと、彼女を匿いました。身の回りの世話をしたり、勉強を教えたり。向聖さんは気づいていたと思います。けど何も仰いませんでした」
聖也君の行うことはすべて受け入れる向聖のことだ。そうするに違いないと思った。
「五年が過ぎようとした頃、異変が起きました」
暗闇の中で勝手知ったるように聖也君は動いて、懐中電灯をみつけてくる。
聖也君がスイッチを入れると、光が現れた。
「正子さんは突然言ったのです。「私は悪くない」と」
その中に浮かび上がった聖也君の表情は、深い苦悩にかげっていた。
「これを。五年前まで正子さんが肌身離さず持っていたものです」
聖也君に渡されたそれは、短いメモ書きだった。
くしゃくしゃになっていて、所々滲んでいるから読みにくい。懐中電灯の力を借りて目を凝らしてから、俺ははっとする。
「これは……」
メモ書きの筆跡は、俺の妻の優子のものだった。
『しょうちゃん、エビフライ作ってあげられなくてごめんね』
確かクリスマスの夜は優子がエビフライを作る約束になっていた。正子はそれを心待ちにしていた。
だがその日、優子は自殺したのだ。約束は果たされることがなかった。
「正子さんが現場から持っていった唯一のもの。彼女のお母様の遺書です」
たった一文の遺書をにじませているのは、正子の涙だろうか。
「正子さんは何度もこれを握り締めて泣いていました。「おかあさんを守ってあげられなかった」と後悔して。そしてこれをみつめて考えていました。五年もの間ずっと」
「五年前に、何が起こったんだ?」
「彼女はこの遺書を僕に託しました」
聖也君は目を上げる。
「その代わりに、彼女は刃を手にしました」
「刃?」
「彼女のおばあさまを刺した凶器を、彼女は再び手に取ったのです」
彼は俺を正面からみつめながら噛みしめるように告げる。
「その刃で、彼女は次々と「人を殺した者」を殺していきました。正子さんはもう泣きませんでした。ただ、一人殺すたび、僕のところに来て懺悔をしていくのです」
聖也君は悲しそうに告げる。
「神の道を説いて彼女を救おうとしました。どんな罪深い存在でも許される日は来る、だから人の心を取り戻しなさいと説得して。けれど、彼女はもう……」
外の吹雪がまた強くなったようだった。人の手では止めることのできない激しさで家々に吹き付けてくる。
「その頃から彼女は外出することが多くなりました。名義を向聖さんのものとして会社を設立して資金を集めたのもその一貫です。しかしその利益の半分は僕に贈りました。「あなたのおかげで私は生きていられたから」と」
正子にとって聖也君は、最後のよりどころだったのだろう。自分を守り、側で支えてくれた友達だった。
俺は何も知らずに、正子が作った会社のビールを飲んでいた。その利益の一部が、刃の活動のために使われていたのに。
俺はごくりと息を呑んで、ずっと心に抱いていた疑問を吐きだす。
「正子は誰に殺人をやらされたんだ? 一体誰に刃を持たされた?」
「誰も。彼女はすべて自分の意思で殺人を行ったのです」
聖也君の言葉に、俺は首を横に振る。
「そんなはずはない。正子は八歳の子どもだぞ」
「なぜ罪を犯したのかを彼女は話しませんでした。でも確かに自分がやったと言っていました」
「嘘だ。誰かいるはずだ、誰か……」
俺は混乱で言葉が出なくなる。
どうして正子が祖母を殺すのだ。祖母は正子を唯一の孫としてかわいがっていたし、あの子も懐いていたのに。
しばらく沈黙が流れた。やがて聖也君は口を開く。
「告白します」
目を伏せて、聖也君は懺悔するように告げる。
「僕は正子さんを……いや、しょうちゃんを愛しています」
苦悩を浮かべて彼は告げる。
「向聖さんより、救うべき人々より、神より。最初の殺人事件の夜、泣きながら聖堂の入り口に立っていた彼女を見た瞬間に、もう僕は彼女しか見えなくなっていました。涙に濡れたしょうちゃんは魔物のように美しかったのです」
聖也君は唇を噛む。
「僕が彼女を救わなければいけないと思いました。僕だけは味方であろうと。けれど僕が彼女を隠したせいで、彼女の救いの道まで闇に沈んでしまった」
両手を体の横で握りしめて、聖也君は声も上げずに泣いた。
「神の言葉では彼女を救えませんでした。それを語っているのは、彼女を愛しているだけの僕、人間でしかなかった……!」
ぽろぽろと涙を零して、聖也君は俺を見上げる。
「お願いします、貴正さん。しょうちゃんを止めてください」
溢れる涙を拭いもせずに、聖也君はただ人を想う綺麗な瞳で真っ直ぐに俺をみつめる。
「人の法で彼女を救ってあげてください……!」
お願いします、と聖也君は繰り返した。
聖也君の足元で、彼を慰めるように子猫が小さく鳴いた。
向聖の初公判の日がやって来た。
早朝、俺は最後の向聖の接見に向かった。手に、聖也君からの手紙を携えて。
「そうか。聖也君は告白したんだな」
手紙に目を通してすぐに、向聖は呟いた。
向聖はやはり聖也君を庇っていた。聖也君が犯人を隠した罪に問われることがないように。
「俺は信じられない。正子が人を殺したなんて」
光の入らない狭い一室で、俺と向聖は向き合う。
「誰かにやらされたに違いないんだ」
「なぜそう言いきれる?」
「だって、当たり前だろう? 八歳の子どもが一突きに大人を殺せるか?」
人を刺すには力が要る。それも正確に心臓を狙って一撃で殺すことなど、プロでもなければできるものじゃない。
「それにどうして正子が祖母を殺すんだ。理由がない」
接見といいながらまるで相談に乗ってもらっているようだと思いながら、俺は止められなかった。
向聖は表情を変えずに言った。
「「なぜ」かはわからないが、「どうやって」の部分なら答えられる」
「何?」
「君は現実主義者だし宗教家でもないから、信じられないかもしれないが」
どうするとその瞳が問いかける。浮世離れした落ち着きをもって、向聖は言ってくる。
「教えてくれ。刃とは何だ?」
俺はその目を見返して訊ねた。
「刃とは人ではない。「物」だ」
向聖は一拍黙って、口を開く。
「四つの特性を持っている。一つ目、使用する瞬間に時が止まる」
「時だと?」
にわかには信じられない非現実的な話に、俺は怪訝そうな声を出す。
「誰も刺したところを見ていないのはそういう理由だ」
向聖は淡々と続けた。
「二つ目、誰でも一突きで心臓を止められる」
「向聖、お前が俺をからかってるとは思いたくないが……」
「三つ目、人を殺した者しか刺せない」
困惑する俺から目を逸らさずに、向聖は告げた。
「そして最後の一つ。殺したいものができた瞬間に現れる」
彼の声には切羽詰まった色が見えて、俺はつと言葉を収める。
「信じられないだろうな。私もそうだった。だが現実に、そんな悪魔のような道具はあるんだよ」
俺は目を見開く。
「……そう、ここにね」
テーブルの下から、向聖はそれを取り出して突き付けた。
「動くな、貴正」
喉元にひやりとした金属の感触があった。
「な!」
監視をしていた係官が慌てた様子で駆け寄ろうとする。
「君も動かないでくれ」
向聖は素早く動いて俺の首に後ろから腕をまきつけると、喉元に刃の切っ先を当てて係官を制する。
「神父が刃なんか振り回していいのか?」
「ごあいにくと、私は既に神父ではないんだ」
不思議と恐ろしくはなかった。俺は静かに彼と言葉を交わす。
「神より愛する子をみつけたのでね。何もかもが美しい聖也君。誰より神父にふさわしい彼に信仰を教えることができたのだから、私は神に対する役目を果たした」
「お前がこんなことをしているとわかったら、聖也君は泣くぞ」
「だろうな。だが彼は私を許してくれるよ」
向聖は俺を拘束しながら壁際まで後ずさる。
「君は私に死刑を求刑しないのだね」
係官に聞こえないような小声で、向聖は告げる。
「私は正子ちゃんに賛同していたから、今まで刃について黙秘していたのに。確かに、命の代償は命でしか払えない……そう思う」
唐突に、俺は向聖が何をしようとしているのか気づく。
「まさか」
「でも私の聖なる存在が彼女の罪を明らかにすることを望むなら、私はそれに従おう」
声を低めて、向聖は告げる。
「……貴正。刃を取れ。君が、終わらせるんだ」
どんっと俺は強く突き飛ばされる。
「やめろ!」
振り向いて俺は向聖に手を伸ばす。その先で、向聖が刃の切っ先を自分の胸に向けるのが奇妙にゆっくりと見える。
「さよなら。君のことも、私はけっこう好きだったよ」
穏やかな微笑を浮かべて、向聖は刃で自らの胸を刺した。
俺は休日に仕事をしようとしても、全然進まないのが常だった。
「おとうさん。今お仕事してる?」
「いや、いいよ。入っておいで」
正子が戸口で顔を覗かせると、俺はもう正子と話すことに頭が切り替わってしまったから。
俺が振り向くと、正子はてくてくと歩いて来ていつものように俺の膝の上に座った。
「難しい漢字だ。読めないや」
デスクトップのパソコン画面を見て、正子は首をひねる。俺はその柔らかい髪の上に手を置いて笑う。
「仕方ない。正子にはまだ難しい」
「おとうさんはいつも難しいもの読んでる」
「それが仕事だからね」
正子はまんまるな目で俺を見上げる。
「おとうさんは検事なんだって、おかあさんが言ってた。どんなお仕事してるの?」
「悪いことをした人を法の前に連れて行って、罪を決めてもらう仕事だよ」
「悪いことってどんなこと?」
「そうだな……」
俺は正子を抱き上げて立ち上がると、本棚から一冊の本を手に取って、居間に向かった。
また正子を膝に乗せてコタツに入ると、俺は本を開く。
「これは刑法。悪いことが何か書いてある」
ページをめくって、俺はじっと本をみつめる正子に話しかける。
「246条、詐欺罪。人をだましてはいけません」
「うん」
「235条、窃盗罪。人の物をとってはいけません」
「どろぼうは、悪いこと」
正子は少し考えて顔を上げる。
「聖也君の本にも書いてあった。「You shall not steal.」」
正子はバイリンガルの聖也君と遊ぶうちに、簡単な英語は読めて理解できるようになっていた。
「そうだな。聖書でも、悪いことなんだよ」
「他には、どんなことが悪いこと?」
せかす正子に、俺はページをめくって続ける。
「231条、侮辱罪。人の悪口を言ってはいけません。204条、傷害罪。人を傷つけてはいけません」
噛み砕いて説明しながら条文をさかのぼっていって、俺は一つの罪の前でページをめくる手を止める。
「そして199条、殺人罪。人を殺してはいけません」
「「You shall not murder.」」
「一つの罪としては一番悪いことかもしれないな」
正子はくるりと振り向く。
「人を殺すとどうなるの?」
「刑務所に入れられる。それか、もっと悪い場合だと……」
俺は声を低めて告げる。
「死刑。罰として、命を取られる」
正子ははっとして青ざめる。
「どうしよう、人を殺しちゃったら。私も死刑?」
「正子はそんなことしない」
俺は正子を抱き上げてこちらを向かせる。
「怖がらなくて大丈夫だ。死刑は本当に最後の方法。めったにない」
「そっか」
正子はほっとしたように表情を緩めて、ぺとりと俺にくっついた。
「おとうさんは、人を殺したことある?」
子どもゆえの刃のように鋭い言葉に、俺は一瞬喉を詰まらせる。
「死刑を求めたことか? まだ無いな」
小さな頭を撫でながら俺は言う。
「だけどその時が来たら、怖いだろうな。きっと迷うだろう」
「どうしてそんな怖いことするの?」
「誰かがやらないといけないことだからだ」
俺は目を伏せる。
「法を守る者がいなくなったら、みんな罪を犯すようになる。弱い人から順番に傷つけられて、殺されてしまう。それは止めなければ」
「弱い人を守るの?」
「そう。みんなが安心して暮らせる世界を作る。おとうさんたちはそのための、正義の刃だ」
しばらく正子は俺にくっついたまま黙っていた。
正子は明るい元気な子だったが、時々じっと何かを考え込んでいることがある。今もそうだった。
「……おとうさん。私も検事になる」
ふいに正子は言う。
「大変だぞ。いっぱい勉強しなきゃいけない。検事になってからも、寝る時間もないくらい忙しい」
少し茶化した俺に、正子はきっぱりと返す。
「いっぱい勉強する。がんばって、たくさん働く」
顔を上げて、正子は透明に輝く瞳を俺に向けた。
「それで正義の刃になって、弱い人を守るの」
俺はふっと笑って、正子の頭を撫でた。
「いい子だな、正子は」
台所から、優子が昼ごはんの時間だと知らせる声が聞こえた。
よく正子を膝に乗せて入っていたコタツの前で、俺は膝を立てて座りこんでいた。
正子たちと暮らしていた昔のアパートに来て、そろそろ五時間が過ぎる。
辺りは既に真っ暗だったが、目が慣れてきたので物の輪郭は捉えられる。
テーブルの上のデジタル時計はぴかりと光って、夜十一時を示した。その瞬間に、もう一つテーブルに置いたものも光を反射する。
そこに置かれたものは一本の刃。ただの包丁にしか見えない。
向聖の命を奪った刃は、一般家庭にある包丁と変わりのないものだった。平凡な刃渡りで、細工も何もない、特徴のない刃物のようなものだ。
しかしそれが三十数人にも及ぶ殺人を犯してきた凶器だというなら、犯人は必ずこれを取りに来るはずだ。
いつまでも待つ覚悟がある。十年近く犯人を追ってきた俺に、その待ち時間など大したものではない。
……来い、と俺は念じる。
今まで奪われてきた命にかけて、俺はお前を捕まえる。
鍵を外す音が玄関から聞こえた。
俺は息を呑む。この家の鍵を持っている者は、今や俺ともう一人しかいない。
滑るように気配が近づいてきて、居間の入り口で止まった。暗闇の中でスイッチを探り、電気をつける。
「久しぶり」
光の中に浮かび上がったのは、華やかな美貌の少女だった。長く艶やかな黒髪に、白い頬、作りもののように整った目鼻立ちをしていて、すらりとした長身に黒いコートを羽織っていた。
印象的なのは目だった。みつめた者を委縮させてしまうほどの強い光を持った瞳で、彼女は俺を見た。
「また会えて嬉しい。お父さん」
しかしどれだけ時を経ても俺が正子を見間違えるはずがなかった。彼女はまぎれもなく、俺のたった一人の娘だった。
「俺もだ。こんな形でなければもっとな」
ふっと正子は微笑んだ。
「この家を警察が囲んでいるね。盗聴器もしかけてあるかな」
世間話のように正子は言って、あっさりとコタツの向かい側に腰を下ろす。
「まあいいよ。刃を使えば時は止まる」
光を内蔵したような目を、正子は細める。
「どの道、生きられるのは一人だ。私か、お父さんか」
「俺はお前を刺さない」
「いずれ刺す。法の刃で」
迷わずその言葉を口にする。彼女の目に恐れは少しも見えなかった。
「構わない。私は法に反した。罪を問われるだけのことはしてきた」
正子はテーブルの中心に置かれた刃とデジタル時計を見やる。
「クリスマスまであと一時間だね。あれから十年か」
事件の日から、ちょうど十年になる。
時計と刃を間に、俺たちは向かい合った。
俺は正子をみつめながら、口を開く。
「正子。「人を殺した者」を次々に殺していったのはお前か?」
「そうだよ」
正子は目を逸らさずに頷く。
「山根を、陽介を、みことさんを殺したのも?」
「それも私」
「そして」
俺は床に手をついて言う。
「十年前にこの家で母さんを、お前のおばあちゃんを殺したのもお前なのか?」
正子は顎を引いた。
「私が殺した」
「なぜ!」
俺はギッと正子を睨む。
「母さんはお前をかわいがっていた。お前も母さんを慕っていたじゃないか」
「うん」
「だったらどうして」
正子は綺麗な黒の双眸で俺をみつめて言う。
「この家には魔物が住んでいたから」
正子は淡々と告げる。
「魔物が母を殺した。山根愛理の脅迫だけじゃない。母の自殺の原因の半分は、この家に住む魔物だった」
「魔物だと?」
「名前を氷牙麗子という。あなたの母で私の祖母だ」
困惑する俺に、正子は俺が考えもしなかったことを告げた。
「祖母は母をいじめていたんだよ。言葉の刃で、繰り返し母を貫いた」
「そんなこと……」
「あなたは嫁としてふさわしくない。なぜこんな下手な料理しかできない。あなたが来てから家が暗くなった」
「母さんはそんなことを言わない!」
「「出来た人だった。人格者だった」?」
正子は口の端を上げたが、少しも目が笑っていなかった。
「世間に、あなたに、私にとってはそうだったね。でも母にとっては違う。あの人はあなたを自分のものだと信じていた。子どもが出来ただけで家に上がり込んだ女を、心の底から疎んでいたよ」
「嘘を言うな。お前は母さんが嫌いだったのか?」
「信じないだろうね、お父さんは。十年前もそうだった」
正子は探るように俺の目を覗き込む。
「私は何度もあなたに言った。「おばあちゃんがおかあさんをいじめている」と。でもあなたは信じなかったね」
「それは……」
記憶に微かに引っ掛かりを感じて俺は言葉につまる。確かに、正子がそんなことを言っていたことがあった。
でも俺は笑って相手にしなかった。子どもの言葉遊びと甘く見ていたかもしれない。
「あなたが信じようと信じまいと、現実にいじめはあったんだ。けれど母は助けを求めることができなかった。出て行くこともできなかった。自分がいなくなったら娘の私にあの人の矛先が向くと思っていた」
静寂が満ちる。まるで世界には俺と正子二人だけしかいないかのように、正子の声以外何も聞こえない。
「やがて、魔物は母に死ぬようにと繰り返すようになった。孫の正子は私も大切だ、けれどあなたはこの家に要らないのだと」
俺はもう言葉を挟むことができない。次第に険しくなる正子の目から、目を逸らすことができない。
「そして十年前のクリスマス。私が家に帰ったら、母は自分で胸を刺して死んでいた」
息を呑んだ俺に、正子は思い出すように目を細める。
「母は弱くて、優しい人だった。大好きだった。誰にも刃を向けない、女神のような人だった」
正子にとって、彼女は信仰に近かったのかもしれなかった。
「私はそれからのことを考えていた。もう少ししたら祖母が帰ってくる。彼女は良き姑の顔をして母の死を悼む。そしてお父さんが帰ってきたら、悲しむかもしれないがいずれ忘れる。世間の人は、ありふれた自殺だと相手にもしないだろう」
正子は自分の手に目を落とした。
「祖母は人を殺したのに何の罰も与えられない。人にとって一番重いはずの命を奪ったのに、法に反していないだけで無罪だ」
正子の黒い瞳が、目の前の俺を飲みこむように動いた。
ぐっと手を握り締めて、正子は告げる。
「……赦すものか。誰も裁かないのなら、私が裁く。そう決めた」
俺は乾いた喉に息を通して、掠れた声を出した。
「殺すことはなかった」
「祖母より母を信じる人がどこにいた?」
正子は強く唇を噛む。
「夫のあなたさえ母より祖母を信じたに違いないのに?」
否定の言葉は出て来なかった。確かに、正子の言う通りだった。もし優子に相談されたとしても、俺は母を庇ったに違いなかった。
「あなたと私は共犯だよ、お父さん。私たちは家族を守るために、この家で一番弱い人を見殺しにしたんだ」
「もし……お前が言っていることが本当だとしても」
俺は正子に気圧されそうになりながら言う。
「お前は姿を現してすべて話すべきだった」
「五年前に覚悟を決めたんだ。私は誰に許されなくても構わない。法にも、神にも、あなたにさえ」
正子は一点の曇りもない澄んだ目で俺を見る。
「誰も命を奪われない、みんなが安心して暮らせる世界を作る。声なき弱者を、私は守ってみせる」
助けを求めることもできずに死んでいった優子のような存在を、二度と作ることがないようにと願ったのだろうか。
「あなたは法を守ればいい。聖也君は神の言葉で人々を救えばいい。私はそれで取りこぼされる命を守る」
正子の手がテーブルの上の刃に伸びる。
「……駄目だ、正子」
俺はその手を握って止める。
「お前はその刃を握ってはいけない。もう、殺すな」
ずっと掴みたかった正子の手を、俺は悲しい思いで握りしめる。
「刃は俺が自分の胸に突き付けたまま一生持ち続ける。簡単に人を殺せてしまえるような悪魔の道具は、この世に要らないんだ」
俺は正子をみつめて言う。
「だからお前は戻ってくるんだ。人の世界に。……戻って来てくれ」
十年前の事件の日、俺はこの家に三十分早く帰ってこれば正子に会うことができた。たった三十分だ。その時が帰って来たのなら、俺は何をしてでも正子を止めた。
「お前は誰も殺すべきじゃなかった。お前を止められなかった俺も同罪だ。一生かけて一緒に償う」
「あなたは私が間違っていたと言うの?」
「そうだ」
断定した俺に、正子の手がぴくりと動いた。
「人を殺した者だとしても、刃を向けてはいけない」
俺の言葉に、正子がつと息を呑む気配がした。
「母さんが優子を死に追いやったのだとしても、それは死という方法以外で償わせるべきだったんだ」
「……あなたは」
正子の目から光が消えうせる。
「母の命の重みをわかっていない」
「お前の祖母も同じ命の重みがあるんだ。奪ってはいけなかった」
「違う。あなたにとっては母より祖母の命の方が重いんだ」
失望のため息をついて、正子は目を伏せる。
「私はもういいんだ、お父さん」
次の瞬間、正子の目を暗黒が支配した。
俺の手を振り払って、正子は両手で刃を手に取る。
「……でもお母さんの命を否定するのは、許せない」
力いっぱい、正子は俺の胸に刃を突き刺した。
激痛と共に息ができなくなる。
「な……これは、「正義の刃」じゃない!」
刃を握り締めてうろたえた正子の手を、俺は両手で掴む。
「俺は、お前に教えてやらなきゃいけなかった……」
一撃で死にはしなかった。だがこの怪我では長くはもたないだろう。
「どんな大義があっても……人に刃を向けた瞬間……それはもう正義じゃなくなるんだ……」
俺の持っていた法の刃でさえ、人に向けたらもはや正義とはいえないのだ。
正子は俺に手を掴まれたまま震える。彼女は普通の刃で人を貫いたことはなかったのだ。
「わかるか? これが人を刺すってことだ……。瞬間的に心臓が止まるような都合のいいものじゃない……。痛みと苦しみの中で、死んでいく……」
人に刃を向けることがどういうことか、俺は正子に教える。正子にこれ以上誰かを殺させないために、止めるために。
血を吐きだして、俺は床に倒れる。
「正子」
俺は霞んでいく視界の中で、たった一人の娘を見上げる。
「おとうさんは、誰より、お前を愛している……よ」
目が見えなくなっていく。体から、血が溢れだしていく。
「嫌ぁ!」
正子が悲鳴のような声を上げた。
「おとうさん、おとうさんっ! 死んじゃだめ、嫌ぁ!」
俺の頬に正子の涙が落ちるのを感じた。
「どうして。私はただ、誰にも死んでほしくなかっただけなのに!」
正子は声を震わせた。
「おばあちゃんも、おかあさんも、おとうさんも、みんな幸せに生きられる世界にしたかっただけなのに!」
俺はもう正子の顔を見ることもできなかった。ただ手を伸ばした。
「……わかって、る」
お前は人一倍正義感が強くて、誰より優しい子だと知っている。
「お前は、いい子、だ……」
だから、もう苦しんでほしくない。幸せに生きてほしい。
俺の体はもう限界だった。
体が沈んでいくような気がする。正子の姿も声も、何もかもが消えていく。
ああ俺は死ぬのか。静かな心で思った時だった。
暗闇の中で何かが光った。奇妙に鮮明に、デジタル時計が見えた。
ちょうど零時ぴったりで、時計が止まった。同時に声が聞こえた。
「時間ですね」
いつかのシルクハットの旅行者の声だった。
「あなたが何者か、わかりましたか?」
旅行者が、誰かに話しかけている声だけが響いていた。
「そう。ならば、あなたが貫くものが何かもわかりましたね?」
満足そうに、旅行者が頷く気配がした。
「では、参りましょうか。あなたにとって最初で最後の時に」
眩しいばかりの光が辺りを包み込んだ。
よく晴れた真昼の空の下、俺はオープンカフェに来ていた。
「返事を聞かせてもらえますか?」
ランチの後、俺は同席している二人に恐る恐る問いかける。
俺の向かい側にはみことさんが座っている。涼しげな美人で、俺はこの人にみつめられると未だにどきどきする。
先日検察事務官から次席検事へと華麗に転身した彼女は、今後とも活躍が期待されるところだ。
みことさんはちらと横を見やった。
彼女の隣には彼女の前夫との息子である純君が足をぶらぶらさせながら座っている。純君は母親の視線の意味をすぐに察したようで、俺に向かって口を開いた。
「貴正おじさんは、お母さんをぶったりしない?」
みことさんの前夫は彼女に暴力を振るっていた。それは純君にとっても辛い記憶だ。
「絶対しない」
「お母さんをいじめない?」
「うん」
心配そうに問いかける純君に、俺は頷く。
「お母さんが誰かにいじめられてたら、庇ってくれる?」
八歳の純君は、その聡明な瞳で射抜くように俺をみつめる。
「僕、お母さんを一番大事にしてくれる人じゃなきゃ、認めないよ。本当は僕がお母さんを幸せにするんだって決めてたんだから」
俺はゆっくりと答えた。
「約束する。みことさんを一番大事にするよ」
純君はそれを聞いてにこっと笑った。
「じゃあ僕はいいよ。ね、お母さん」
振り向いた純君に、みことさんが微笑み返した。
「私は見ての通り若くもありませんし、純もお世話になりますが」
俺の心臓が高鳴る。
「それでよろしければ、プロポーズを受けさせてください」
俺は心の中で大きくガッツポーズをして、やったと叫んでいた。
午後に霧島教会に立ち寄ると、ちょうどミサが終わってパーティが開かれていた。
「やあ、貴正」
祭服をまとった神父がすぐさま俺をみつけて声をかけてくる。
「何かいいことでもあったかい?」
「よくわかったな」
「職業柄、人の心の機微を察することは得意でね」
「まあお前は神父以外の仕事はできないだろうがな」
「そうだね。これが私の天職だろう」
友人の向聖は朗らかに笑う。俺と同じでもう三十八だというのに、向聖は加齢の疲れが全く見えない。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは。聖也君」
少年神父がそっと歩み寄って来て挨拶してきた。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「うん。君も元気そうで何よりだ」
輝くようなブロンドを綺麗に結わえて、青い瞳はどこまでも澄み渡っている。この霧島教会の養親子の神父たちは、今日も静寂をまといながら光の中に存在していた。
時折挨拶にやってくる信者たちに答えながら、ふいに向聖は俺に言った。
「貴正、君には本当に感謝してるよ」
「なんだ、改まって」
「聖也君が虐待を受けていた時に、彼を保護して法的手段を取ってくれたおかげで、私と聖也君はここにいられるんだ」
向聖は目を伏せて告げる。
「君が間に入ってくれなかったら、私は聖也君の実父を許せなかった。報復を考えた」
「その緩衝材になるのが法だよ」
俺は軽く向聖の肩を叩く。
「そして俺たちの仕事だ。任せとけ」
友人の役に立つことができて、俺も嬉しかった。
「元々俺の事務所ではその手の分野が専門だからな」
「ある意味その関係で、みことさんと知り合えたようだしね」
みことさんの名前に、俺は柄でもなく赤面する。
「わかってるよ、貴正。何て言ってプロポーズしたんだい?」
「お、お前な。神父がそういうおじさんみたいなこと言うなよ」
「ふふ。私もそろそろいい年したおじさんだからね」
向聖が愉快そうに笑うと、聖也君もくすりと笑った。
「あ、シルバー」
聖也君はテーブルカバーを引っ張っている子猫を抱き上げて、めっと叱る。
「駄目だよ。もう、すぐ悪戯するんだから」
その拗ねたような顔には全然迫力がなくて、灰色の子猫は喉を鳴らして彼の頬に擦りよった。
「彼、教会の前に捨てられた子猫、全部拾っちゃうんじゃないかな」
「大丈夫。里親探しは私が責任もってするから」
向聖は微笑ましそうに聖也君を見やる。
「でもシルバーはうちで飼い続けようと思ってるよ。生きたものを愛するのもいいからね」
「生きた人間を愛するのも幸せだぞ。俺みたいにな」
俺が少しのろけると、向聖は穏やかに俺を見やる。
「君が幸せなのは、周りの人たちが少しずつ分けてくれた幸せのおかげだよ。だから彼女らを大事にしなければね」
「そうだな」
俺は頷き返す。俗世と離れたゆるやかな時が流れていく。
教会で休日を過ごすのもいいものだと思いながら、俺は向聖や聖也君と笑っていた。
日が落ちて夜が訪れようとしていた。俺は約束の時間に間に合うように、中心街の方に向かう。
球場の待ち合わせ場所に来たら、すぐにひときわ立派な体格を持つ男をみつけることができた。
「ねえ、おじさん。あれやってー」
「ああ」
百九十を超す長身の男が、袖を引いた純君を腕にぶら下げて回す。
みことさんの弟で、純君の叔父の海藤だ。
鋭い双眸は彼が警官であることを周囲に見せつけるようだが、純君を見る彼の目はとても穏やかだ。
「すごいすごい!」
きゃいきゃいとはしゃぐ純君に柔らかく笑う彼を見ていると、純君を彼以上にかわいがることのできる大人の男はいないだろうなと思う。
「あ」
純君が俺をみつけて顔を上げる。
「あのね、おじさん。貴正おじさんは僕のお父さんになるんだよ」
海藤は俺を気にいらなさそうに見やった。
「よう、海藤。遠慮なく義兄さんと呼んでくれ」
「一生呼ばん」
むっつりと顔を引き結んだ海藤に、後ろから飛びついて来た影があった。
「もーもちゃんっ! お待たせー」
茶髪の癖毛を揺らして、陽気な声を響かせる。
「その呼び方やめろ、陽介」
「えー、だって桃ちゃんの方がかわいいじゃん」
海藤の相棒で俺の弟の陽介だ。
「純君。ナイター楽しみだね。おじさん、何買ってあげようかなー」
「アイスがいい! アイス!」
気さくでいつもにこやかな陽介には、純君もよく懐いている。
「姉さんが弁当を作ってきてくれる。菓子ばかりじゃなくちゃんと食え、純」
「こらこら。お菓子くらいいいじゃない」
言葉を挟んだ海藤に、陽介は笑う。
「兄貴の顔を見るからに、おめでたい日だしね。やったね、兄貴」
「お前から祝いの言葉が出るとは思わなかったな」
海藤が意外そうに言う。
「ん、なんで?」
「お前、昔から氷牙にべったりだっただろうが」
「まあね。そりゃ本心から言えば、兄貴を取ってく奴は一息にやっちゃいたいくらいだよ」
物騒なと俺と海藤が眉を寄せると、陽介は苦笑する。
「でもしょうがないさ。俺はお巡りさんのお世話にはなりたくないもん。完全犯罪ができるっていうなら話は別だけど、そんなものないでしょ」
ぷっと笑って、陽介は頭をかく。
陽介は振り返って建物の影に声を投げる。
「兄貴以外を追いかけるのも案外面白いしさ。おーい、愛ちゃん何してんの。早くおいでよ」
「誰が愛ちゃんよ!」
ぷりぷりと頭から湯気を出しながら、すごい勢いで女性が駆けてくる。
「あんたね、私がどれだけ気まずい思いしながら来てるか全然わかってないじゃないの」
「そろそろ時効なんじゃない? ね、兄貴。許してやってよ」
検事としてエリートコースを突進している山根は、以前俺のストーカーをしていたことがある。いろいろ、彼女は走りだすと止まらない。
「いいよ、もう。十年近く前の話だし」
俺があっさりと言うと、山根は目を逸らす。
「悪かったわよ。ストーカーされる側になると、何かと見えてくるものもあったわ」
「愛ちゃん。誰がストーカーだって?」
陽介がひょいと後ろから腕を巻き付けると、愛理は食ってかかる。
「あんたよ! 大体何、年下のしがない平警官が私に釣り合うと思ってるの?」
「いや、ストーカー同士気が合うかと思って」
にやにや笑う陽介は楽しそうだった。
ふと思い出して、俺は言ってみる。
「そうだ、陽介。最近母さんには会ったか?」
「ん? そっとしておいてるよ」
「もう七十だしな。俺が引き取った方がいいんじゃないかと思って」
「あ、それ駄目」
陽介は肩をすくめて言う。
「母さんは一生同居するつもりないってさ。やっと兄貴が結婚する気になってくれたのに、姑が家にいると何かと難しいからって」
「はぁ」
「みことさんのことも気に入ってるみたいだし、早く孫の顔を見せてほしいって言ってたよ」
「母さんらしいな」
みことさんと知り合って十年以上になるというのに、四十前まで結婚しなかった息子を、母はもどかしく思っていたに違いない。
「あ、もうすぐ開始時間だよ」
みことさんは先に球場の中に入っている。
あれこれと言い合いながら、俺たちは連れ立ってナイターに向かった。
わいわいと賑やかな休日の夜だった。
試合が終わって、夜十時を回る頃になっていた。純君ははしゃぎまわって疲れたのが、舟をこいでいた。
「じゃあ俺たちは純を連れて帰るから」
「おやすみなさい」
海藤は純君をおぶって、みことさんと一緒に帰って行った。
「俺は愛ちゃんを送ってくよ」
「じゃあね」
陽介は山根と一緒に反対方向に向かう。
一人になると少し寂しさが訪れたが、俺の足取りは軽かった。
この時間になっても町はイルミネーションで華やいでいる。行きかう人々も、まだまだ眠らない。
駅前通りを歩いていて、ふと俺は人波の中に目を留める。
「パパ、ママ。ごはんおいしかったねー」
「そうね。みっちゃん、お残ししなかったものね」
「また行こうな」
外食帰りだろうか。小学生くらいの女の子の手を取って、仲の好さそうな夫婦が歩いていた。
その母親の方に見覚えがあって、俺は目を細める。
「でも私、ママのエビフライが一番好きー」
「あらあら」
優子は俺が大学生の頃に付き合っていた。大学の卒業と同時に別れたから、もうずいぶん顔を見ていなかった。
「ママ、からあげも得意なのよ。今度まとめて作ってあげましょうね」
「やった! パパ、ママがからあげ作るって」
「よかったな」
彼女と結婚していたら、俺にも今頃あれくらいの年の子どもがいただろうか。そんなことをふと思う。
通り過ぎていく優しい微笑みを見やって、俺は口の中で呟く。
「……おめでとう」
俺は確かに君のことが好きだったけど、君が幸せでいてくれることの方が嬉しい。今は素直にそう思うことができた。
駅の前まで来たら、そこには小さな人だかりができていた。
「メリークリスマス」
その中心で、サンタクロースの服を着た高校生ほどの少女が、シルクハットを片手にお辞儀をする。
「ごきげんよう、みなさん。私はテラ。こちらは相棒のホーラです」
「こんばんは。これから手品をお見せするよ」
腹話術なのか、シルクハットから少年の声が飛び出す。
「でも、テラ。手品をするには、道具を持ってないように見えるけど」
「いえいえ。私は何でも持っていますよ」
サンタ服の少女は、シルクハットの中に手を突っ込む。
「まず、灯り」
サイズ的に収まらないと思われる大きさのカンテラが、シルクハットから出てくる。
「防寒具」
これまたビッグサイズの毛布が出て来て、観客からどよめきが起こる。
「トランクだって入ってます」
年季の入った赤茶色のトランクを取り出して、少女はそれを地面に置く。
「でもあんまり使いませんね。ホーラがいれば何でも入りますから」
心地よい笑い声が満ちて、その中で彼女は俺を見た。
「時に、そちらの方。少しお手伝いをして頂けますか?」
「俺?」
自分を指さすと、サンタ服の少女は頷く。
「クリスマスにふさわしい笑顔の方ですから」
俺は他人にまでわかってしまうほど緩んだ顔をしているのかと、苦笑する。
「結婚が決まってね」
「おめでとうございます」
前に進み出て彼女のところまで来ると、サンタ服の少女はシルクハットの中に手を入れる。
「これで私の手を刺してみてください」
彼女が取り出したのはナイフだった。
手品の一環だと、俺はそれを受け取る。
瞬間、俺は時間が止まったような錯覚を覚えた。
懐かしい学生の頃の優子の姿が見えた。俺と付き合っていた頃によく着ていた、青いワンピースを身に着けていた。
優子の前に同い年くらいの、彼女に少し似た華やかな美貌の少女が立つ。
はっと息を呑む。
少女が優子の腹に刃を突き刺したのだ。
けれど血は流れることがなく、優子も何も感じていないようだった。
少女に気づかなかったように、何事もなく優子は去っていく。それを見送って、少女は微笑んだ。
「正しいものを貫いた。私は、正義の刃」
少女の姿は霧のように消えうせて行く。満足げに空を仰ぎながら。
……見たこともないのに、その少女がひどく懐かしい。
そんな幻想が目の前を通り過ぎる。
現在の自分を取り戻してナイフを見下ろす。なぜかその手は少し震えていた。幸せな過去の夢を見た時のように、目が少し涙で滲んだ。
「どうぞ」
サンタ服の少女は手を差し出したまま立っている。
「……ごめん。俺には刺せない」
彼女の手品を台無しにしてしまうとわかっていながら、俺は小声で口にしていた。
「そうでしょうね。あなたはとても優しい方のようですから」
サンタ服の少女はナイフを持った俺の手を上から包み込む。
ぽんっと弾けるような音がして、次の瞬間俺の腕に抱えきれないほどの花束が現れていた。
観客から拍手が湧きあがる。サンタ服の少女は笑顔でお辞儀をする。
その中で、俺は理由もわからず涙を落としていた。
手品が終わった後、サンタ服の少女はシルクハットに観客からお金を入れてもらっていた。
それがほどほどに落ち着いて散っていく観客の中で、俺はそっと彼女に歩み寄る。
「おや、さっきのおじさん」
シルクハットから少年の声が出る。サンタ服の少女は俺に背を向けて座っているのに、よくわかったものだと驚いた。
「手品は楽しんでもらえたかい? テラはプロの手品師じゃないし、ちょっとした余興だけどね」
「ああ、面白かったよ。君も大活躍だったな、ホーラ」
シルクハットの名前を呼ぶと、少年の声は得意げに返した。
「まあね。僕がいないとテラは旅が出来ないからね」
「君らは旅行者?」
「うん。仲間を集める旅をしてるのさ。おじさんもたくさん見たろ?」
「手品道具かい?」
「本来の使い道はどれも物騒だから、手品道具として使ってる方がいいよね」
おしゃべりな少年の顔が見えるように、シルクハットからは次々と言葉が飛び出す。
「たとえばおじさんに渡したナイフ。ここだけの話、あれは人を殺した者を一突きで殺せてしまう、すごい道具なんだよ」
「そりゃ怖い」
俺はふと、サンタ服の少女を見やる。
彼女は手品に使って道に散っている、カラーテープや花を集め終わったところだった。
「テラさん、だっけ。さっきのナイフだけど」
「ああ、この「正義の刃」ですか?」
彼女はベルトに挟んだナイフを手に取って俺に見せる。
俺はその何の変哲もないナイフを見下ろして、迷いながら言う。
「よければ、その……譲ってくれないか」
なんだかとても大事なものだった気がするのだ。初めて見るはずのものなのに、ひどく懐かしい。
テラさんはゆっくりと首を横に振る。
「できません。この刃も、私の大切な旅の仲間ですから」
「そう、だよな」
俺が目を伏せると、シルクハットから少年の声が言う。
「いいじゃん。おじさんにはそっちの方が似合ってるよ」
俺は腕の中の色とりどりの花束をみつめて黙った。
テラさんはシルクハットの中に元通りに手品道具を仕舞っていく。カンテラも毛布もトランクも、そしてナイフさえ吸い込まれるように中に消えていく。
「そういえば、あなたは検事でしたね」
「いや? 俺は弁護士だが」
「あ、そうでした」
スーツの上の弁護士バッチを見せると、テラさんは間違えたとばかりに頬をかいた。
「今のこの国で正しいことって何でしょう?」
俺は肩をすくめて苦笑した。
「それが決まっていれば、法も神も必要ないさ」
それに、テラさんはにっこりと微笑む。
「ではそろそろ出発しましょうか」
シルクハットだけ持って歩き出そうとする彼女に、俺は声をかける。
「あ、この花束は」
「差し上げますよ。ご結婚祝いです」
彼女は涼やかな笑い声を立てた。
「ハッピークリスマス。あなたにとっても幸せな時が、いつまでも続きますよう」
そう言って俺の横を通り過ぎる。
「いい時間だったね。誰も死ななくてさ」
「私は少し残念です」
困ったような口調で、彼女はシルクハットに返す。
「あのおいしいビールが二度と飲めないのだと思うと」
「あはっ! テラは食べ物のことばっかり」
彼女は本当にシルクハットと話しているようだった。
「皆さん、用意はいいですね?」
「いつでもいいよー」
「では参りますよ。次の時へ」
俺は何気なく振り返った。
一瞬だけ、シルクハットを被って燕尾服を着た、長い銀髪の少女の後ろ姿が見えた。
「チェックアウト」
パチンと指が鳴る音と共に、銀髪の少女の姿が消えうせる。
俺は一度瞬きをする。
しんとした静寂の中に、何か大きな哀しみが降ってきた。
舞い落ちる雪の中で、俺は立ちすくむ。
旅人はもういない。あるのは俺の現実だけ。幸せで大切な時間の中で、どこかで手放した何かがあったような、かすかな後悔。
でも俺は俺の時を生きていかなければいけない。俺は人間だから。
俺は花束を抱きしめると、家に向かって歩き出した。