もしも誰かが、再生回数が少ない曲で、なおかつ好みに合う曲を探すのならば結構な手間がかかるだろう。しかし由衣は手当たり次第どんなジャンルの曲でも、どんなにうるさいだけの曲でも、最初に見つけた曲を選ぶだけだ。簡単な作業だった。

 今回は日本人が作った曲を再生することに決めた。さっそく再生ボタンを押すと、軽快なサックスと、甘くハスキーな声の女性が歌うジャズが流れ出した。
 パソコンに耳が釘づけになる。思わずモニターに顔を近づけた。二度まばたきして、どうやら自分はこの曲が好きらしいと由衣は気づいた。こんな気持ちは生まれて初めてだった。勝手に体が動き出しそうになる。急いで音量を上げて全身に音を浴びた。皮膚からも髪からも音が体の中に染みわたっていく気がする。

 二分二十秒で曲は終わった。二回、三回と再生を繰り返し、モニターを見つめて耳をそばだてて聞く。パソコンの前から立ち上がる気にもなれない。十二回、十三回と再生しても、ちっとも飽きない。
 由衣は着替えも食事もせず、部屋が真っ暗になったことにも気づかず、同じ曲を何度も何度も再生し続けた。



「お母さんは?」

 珍しく姉の声を聞き、由衣はびっくりして顔をあげた。学校から帰ってきたばかりらしい。くたびれたセーラー服姿で卒業証書が入った黒い筒を持ち、由衣の部屋の入り口に立っていた。
 そうか、姉は今年で中学校を卒業したのか。由衣は初めてそのことに気づいた。

「ママはキヨコおばさんの家に行ってるけど……」

「そう」

 短く返事して部屋を出ていく姉は、なんだかいつもと様子が違った。興味がわいて由衣はついていってみた。姉は物置の掃除機と布団乾燥機の間で寝起きしている。ほんの少ししかない身の回りの品は、学校の体操着を入れるための紺色のバッグ一つにまとめてあった。姉の持ち物のほとんどが父親の土産だということに由衣も薄々は気づいていた。

 姉はバッグを抱えて玄関に向う。

「どこに行くの?」

 由衣は生まれて初めて、自分から姉に話しかけた。振り返った姉は、優しくほほえんでいた。姉の笑顔を見たのも生まれて初めてだということに、由衣は気づいた。なぜだか姉はいつもより大きく見えた。

「どこか、お母さんのいないところ。由衣も早く逃げ出せるといいね」

 姉が出て行ってドアが閉まっても、由衣はその場を離れられなかった。逃げ出す? いったい何から? 答えは見いだせなかったが、由衣は真っ黒で冷たい何かに包まれて飲み込まれそうになっているような恐怖を感じ、腕をぎゅっと胸に抱いた。
 その後、姉の姿を見ることは一度もない。



 めずらしく全工員そろっての朝礼が行われた。
 口々に皆が不安を話し合っている。全体朝礼が行われる時に良いニュースがもたらされることはない。早期退職のお願いや、節電対策でクーラー設定温度が高くなるお知らせなど、顰め面したような渋い表情で伝えられる事柄ばかりだった。由衣はどうせ自分には関係ない、とそっぽを向いた。

 現場主任が大きな咳払いをして静寂を要求する。普段は姿を見ることもない工場長が大声で話しだした。

「昨日、我が社が製造した部品を使用しているモーターが発火する事故が起こった。出火場所は我が社が製造しているN‐815型付近だ。詳しい調査はこれからなので、まだ原因は特定できていない。二度とこう言った事故が起きないよう、一人一人が気を引き締めるように! 以上」

 ざわめきが緊張を孕む。同僚たちが話し合う声がひときわ大きくなった。どうしよう、誰だろうと口々に囁きあっている。由衣にとっては、どうでもいいことだ。発火でも爆発でもしたらいい。なんなら地球を吹き飛ばせばいい。
 由衣は一人、あらぬかたを眺めたまま、あくびを噛み殺していた。



 姉が家出してから、母親はより一層、由衣にべったりとくっつくようになった。寝るのも一緒、お風呂も一緒、食事は由衣が食べ残したり口からこぼしたものを拾って食べるだけ。トイレの中まで一緒に入ってきた母に「出て行って!」と叫ぶと母は急に表情を変え目を吊り上げた。

「ママがこんなにしてやってるのにアンタはちっとも感謝しない! ママの気持ちなんてわかってない! こんなにしてやってるのに! 誰のおかげで大きくなったと思ってるの! アンタはいつも大きな顔して!」

 突然の剣幕に由衣は震え上がった。聞かされているのは、母親がいつも姉を叩いていた時のセリフだ。
 初めてそれを真正面から聞いた。姉と同じように叩かれるのではないかと怯え、腕で顔をかばおうとしたが、母親は由衣の両腕をがっちり握って離さない。体がすくみ息ができない。
 由衣が真っ青になってぶるぶる震えだしたのを見て、母は表情を和らげると、由衣を抱きしめた。

「由衣ちゃん、ママは由衣ちゃんを愛してるのよ。愛してるから、こういうふうにするのよ。ちゃんとママの言うことを聞くのよ」

 由衣は震えが止まらぬまま何度もうなずく。いつの間にか便器の前で失禁していたことにも、由衣は気づかなかった。



 帰宅してパソコンを起ち上げる。いそいそと動画投稿サイトにアクセスして昨日のジャズを再生する。やはり今日も胸がはずんだ。誰が作った曲だろう、歌手の名前は何ていうんだろう?
 知りたくなった。けれど、投稿者のイニシャル以外の情報は画面のどこにも記載されていなかった。由衣はそうすれば謎が知れると思っているかのように、ひたすら再生ボタンをクリックして再生回数を上げ続けた。288回、289回、まだまだ、ちっともこの曲に飽きる兆しは見えなかった。
 再生回数302回目を再生し終わったところで手が止まる。
 『再生回数301回以上』。そう表示されていた。なぜか302という数字になっていない。もう一度、再生してみる。やはり表示は『再生回数301回以上』となって、それ以上数字があがらない。どうしたんだろう、壊れたんだろうか、バグだろうか?
 ためしにあちらこちらと画面上のポインターを動かしていると、『再生回数301回以上』と言う文字にリンクがあるのに気づいた。クリックすると『再生回数が増えない理由』と言う題名のページに飛ぶ。そこにはこんなことが書いてあった。

『動画の再生が不正なものでないことが確認されるまで再生回数は表示されず、不正が発覚した場合は投稿された動画を削除します』

 ぞっとした。自分の再生は、果たして正当な再生だったのだろうか? もしかしたら自分が連続再生したために不正とみなされただろうか? そのせいでこの曲の関係者に迷惑がかかったとしたら、私はどうしたらいいんだろう。
 マウスから手が離れた。画面から目が離せない。由衣はもう、再生ボタンを押すことができなかった。



「今日はお祝いだから、由衣ちゃんの大好きなステーキよ」

 先に玄関に上がった母親は満面の笑みで振り返る。由衣が曖昧な微笑を頬に張り付かせて靴を脱ごうとすると、母親はさっと由衣の足元にしゃがみこむ。由衣の足から靴をぬきとり、きちんと並べる。
 由衣の手から卒業証書を取り上げ下駄箱の上に置く。由衣はあまり牛肉が好きではない。
 母親は立ち上がると由衣の先導をして洗面所に向かう。由衣のために蛇口をひねり、由衣のために石鹸を泡立て、由衣の手をキレイに洗う。由衣は大学に行きたくなんかない。
 由衣の部屋に一緒に入り、着替えるべき服を整える。きちんとアイロンのきいたシャツ、膝丈のプリーツスカート。由衣は高校のジャージが一番好きだ。
 母親が台所に行ってしまうと、由衣はベッドに倒れ込んだ。最近はなぜかずっと、寝ても寝ても疲れが取れず、体が重いままだった。

「由衣ちゃん。ママ、スーパーに行ってくるわね。由衣ちゃんの好きな粒マスタードを買い忘れちゃったの」

 ノックもなしに部屋に入ってきて、由衣の顔を覗き込みながら母親が言う。由衣は粒マスタードなんか好きじゃない。母親は由衣が疲れていることになんか気づかない。

 母親が出かけてしまった家は広々として嘘みたいに静かだった。ベッドから身を起こすと、不思議と体が軽かった。由衣は学校のジャージに着替え、着ていた制服をベッドの下に放り込んだ。机の引き出しを開け、奥の方にしまいっぱなしにしていた、父親からもらったお年玉の束を、ポチ袋ごとポケットに押し込んで玄関に向かう。
 靴を履き振り返ると、幼い由衣と目があった。廊下に立って玄関に立つ自分を見つめている。あの日、姉を見送った時と同じ目で幼い由衣が由衣を見ていた。ただ黒いだけで、何も映さない瞳で。
 ドアを開けて外に出た。街は暗く、行くあてはどこにもなかった。由衣はもう、どこへでも行けるのだった。



 ロッカールームは朝の喧騒にまみれている。由衣は服の裾を握りしめてぱくぱくと口を何度か開け閉めしてから、裏返った声で一人の同僚の背中に話しかけた。

「あの、昨日の発火事故のこと、何かわかったんでしょうか。何か知りませんか?」

 ぴたりとざわめきが止まる。部屋中の視線が由衣に突き刺さる。話しかけられた、噂話の女王と呼ばれる同僚も由衣を凝視した。由衣は首をすくめ俯く。
 自分はまたおかしなことを言ってしまったらしい。せっかく一人の空間を手に入れたというのに、ベビーちゃんと呼ばれた日々に戻るのだ。好きではない服、分からないことだらけの身づくろい、自由にトイレにも行けない、あの日々に。
 だが、笑いが起こることはなかった。噂話の女王は表情を緩め、上司から聞き込んだらしい情報を教えてくれた。

「うちのせいじゃなかったらしいよ。発火場所はうちの部品近くだったけど、原因は配線の問題だったってさ。よかったよね、安心だね」

 笑顔で語りかけられ由衣は少しのけぞった。同僚たちの興味はすでに他にうつり、おしゃべりが再開されていた。由衣は作業場に入っていく女たちの姿を見送りつつ、何か熱いものが喉の奥からせり上がってくるのを感じていた。



 ベルトコンベアで流れてくる機械の、決まったところに決まったネジを決まった回数だけ回して取り付ける。一本一本、ネジを見つめて、一回一回、数えながら回す。集中しているはずなのに、次第に頭はネジと違う方向へ向かって行く。無我の境地と似ているが違う。頭はクリアだ。由衣はネジを見つめ、決まった回数をきっちりと数えることが出来ている。

 手作業は確実に進んでいる。その上に幻のように姉の姿が思い出された。
 玄関に立った姉が微笑み、由衣を見つめている。いや、見つめているのは姉ではなく制服を脱ぎ捨てた由衣だっただろうか。幸せそうに微笑んでいたのは、誰だっただろう。
 どちらともわからないその人は、右手を高く掲げ、はるか頭上を指す。そこには何かよく知ったものがあるのに未だ遠すぎて見ることができない。
 ドアが開く。眩しい光がさして、すべてが真っ白になった。

 ふと、ネジを締めていた手が止まる。何か違和感をおぼえた。作業台から部品を持ち上げ、近くで見つめる。締め終わったネジの頭が四分の一ほど欠けていた。由衣は手元にある停止ボタンを押してベルトコンベアを止めた。少し離れた場所で作業をしていた配給係が振り返る。由衣が事務室を指すと、男性社員は事務室に向かって駆けて行った。

「何かありましたか?」

 すぐに現場主任がやってきて皆に声をかけた。

「停止ボタンを押したのは誰ですか?」

 由衣はおずおずと手を上げる。

「近藤さん、どうしました?」

 聞かれて、なんと説明していいかわからず、由衣は部品を主任の方に突き出し、ネジを指差した。

「ああ、不備品ですね。分かりました。あずかります」

 主任は由衣の手から部品を受け取り、事務所に戻っていった。由衣はほうっと息をつく。その時になって初めて気づいた。皆の視線が由衣に集まっている。恥ずかしく、真っ赤になって顔を伏せた。ベルトコンベアが運転を再開し、工員はそれぞれの仕事に戻った。

 終業後のロッカールームでも、由衣は皆に見られているような気がして身を縮めていた。小さく小さくなって消えてしまいたかった。どうしてあの時、報告するため停止ボタンを押してしまったんだろう。欠けたネジなんか見ないフリをしていたらこんな気分を味わわずに住んだのに。
 ロッカーの扉の陰に隠れるようにしてコッソリと着替えていた由衣の背中に、バンという音と、倒れそうなほどの衝撃が走った。ロッカーに頭をぶつけそうになり、びっくりして振り向くと、噂話の女王が満面に笑みを浮かべて立っていた。

「あんた、今日お手柄だったね。えらいえらい」

 そう言うと女王はもう一度、バンと由衣の背中を叩いて出口に向かう。由衣はぽかんと口を開けて彼女の後ろ姿を見ていたが、ドアを開けて出ていこうとしているところへ、大きな声で呼びかけた。

「あの!」

 同僚が振り返って由衣を見る。急に辺りがしんと静まった。ロッカールーム中の視線を浴びているのを感じて由衣は真っ赤になった。うつむきそうになるのを、手をぎゅっと握りしめてこらえ、叫んだ。

「あの! ありがとうございます! あたし、明日もがんばります!」

 噂話の女王はにっこり笑うと、手を振って出て行った。ロッカールームにざわめきが戻る。由衣はしばらく真っ赤な顔のまま動けずにうつむいていた。
 手はブルブルと震えていたが、口元が自然と笑みを作るのを止められなかった。