「それで、諦めちゃったわけだ」
「諦めたんじゃないよ、私には合わなかったの」
「ふーん」
秋の爽やかな風が吹く月曜日の午後、大学構内にあるカフェで友人の三輪つばきと昨日の「リュウ」とのデートのことを話していた。彼女とは高校時代からの付き合いで、大学でも一緒にいることが多い。同じ文学部で彼女は心理学専攻、私は社会学専攻だ。肩のところで揺れる外ハネの髪型がよく似合う、頼りがいのあるお姉さん的存在。優柔不断でなんでもくよくよと悩みがちな私とは正反対の性格だった。
「カナは彼氏が欲しいんだよね?」
「うん」
つばきは私のことを「カナ」と呼ぶ。奏だから「カナ」。つばきの影響なのか、他の友達からもそう呼ばれることが多い。
「それでマッチングアプリなんか使い出したのね」
「ダメかな」
「いや、ダメってことはないよ。最近はアプリだって出会い探しには主流になってきるしね。あたしの周りの友達もたくさん使ってるよ」
「やっぱり!?」
「周りの友達」というワードにピンと反応してしまう私。彼女の言う「友達」とは大学の友達に違いない。
「どうしたの急に」
「だって昨日の男がさ、『京大生なのにマッチングアプリを使うなんておかしい』って言ってたからさぁ……」
正しくは「だって、京大生でしょ。男なら大学にもいるだろうし。それに、こういうの興味ないと思ってた」だったのだが、この辺はもう脳内で悪い方向へと勝手に変換されてしまっている。
「へえ、ド偏見野郎じゃん」
「そうなの! 偏見なの。そういう偏った考え方の人とは仲良くなれないと思って」
もう一度大きくため息をつく。
京大に入ってから、いろんな意味で色眼鏡で見られたり今回のように偏見で自分という人間を判断されたりすることが増えた。相手からすればポジティブな考えのもとそう判断しているのだろうが、四角い枠の中に閉じ込められる側からすればいい迷惑だ。
「まあそうだろうね。あたしでもそんなこと言われたらやだもん」
「だよね。つばきはいいなあ。神谷くん、同じ大学だからこんな悩みないよね」
「まあねえ。実際楽だよ。変に気を遣うこともないし、育ってきた環境も似てるし話が合うっていうか」
つばきは所属している国際交流サークルにて、薬学部の男の子——神谷真斗と出会い交際をしている。私も一度だけ会ったことがある。見た目はチャラそうだが、話をしているとやっぱり頭の回転が速いんだなと思わせられることが多い。つばき曰く、そのギャップが良いそうだ。分かる気はする。
「カナも手っ取り早く大学内で探しちゃいなよ」
「全然手っ取り早くないよ。四回生にもなって大学内で相手を見つけるのは至難の技なんだよ」
「んー、言われてみれば確かにそうかも」
つばきは肯きながらコーヒーを飲んだ。入学したての頃ならまだしも、もうすぐ卒業する身である私が今更新しい交友関係を築くのは至難の技だ。サークルや部活に入ることもできないし、卒業に必要な単位はほとんど取り終わっているため、授業中に隣の席の人と運命の恋に落ちることもない(これはそもそも期待すらしていない)。
「社会人になってからに賭けるしかないのかなぁ」
「社会人ね……」
つばきはそこで、なぜか少しだけ目を伏せた。あれ、どうしたんだろう? 普段なら「社会人になってからだと余計に出会いなんて少なくなるよ!」と吠えるところなんだけれど。
あ、そうか。社会人になったらつばきは神谷くんと離れ離れになるんだっけ。
「やっぱり寂しい?」
「え?」
「ほら、神谷くんって東京でしょ。つばきは東京戻らないんだっけ?」
「え、うん。今のところは関西に残るつもり」
私もつばきも元々東京出身で大学に入ってから京都にやってきた。就職となれば東京に戻っても良さそうなものだが、つばきは関西本社の会社に就職する予定だから、異動がない限りは関西勤務とのこと。
「そっか〜。それじゃあ遠距離になっちゃうんだね。大丈夫?」
「はは、大丈夫大丈夫。あいつには浮気する甲斐性なんてないし」
笑いながらそう言う彼女の表情に、やっぱり少しだけ翳りが見える。面と向かって言葉にはしないけれど、やはり寂しいのだろう。そりゃそうだ。恋人と離れ離れになるのは悲しい。私は、高校時代に付き合っていた彼のことを思い出した。東京の大学に進学した彼。久しぶりに帰省した日、彼は私の知らない女の子と手を繋いで歩いていた。決定的な瞬間を見てしまった私は、絶望に打ちひしがれながら実家の自分の部屋に引きこもり一日中泣いた。泣き腫らしたあと、彼にお別れの電話をしたのだ。離れてからまだ一年も経っていないのに。高校を卒業する時には「絶対に奏だけを好きでいる」なんてクサい台詞で私を励ましてくれたくせに。不覚にもその言葉を信じ、大学に入ってから男性からの誘いを一切断り続けた私の純粋な気持ちを返して欲しい。
と、遠距離恋愛で散々辛酸を舐めた私は、これから遠距離恋愛を始めようとしているつばきに深く同情してしまった。
「それよりさ、カナは横浜だよね……?」
「うん」
「あたし的にはそっちの方が寂しいかも」
「つばき……」
私は来年から横浜に本社を構える不動産会社に就職することが決まっている。つばきとは大学を卒業すれば今みたいに会えなくなる。そのことを思うと私も鼻の奥がツンとした。
「YouTubeはもういいの?」
不意打ちだった。彼女は飲みかけのコーヒーを尻目に私の反応をしっかりと窺っている。今日の本題はこれだと言わんばかりの慎重な問いかけだった。
カフェでお茶をしている他の学生たちの話し声や、厨房でカチャカチャと食器を洗う音が急に聞こえなくなる。けれど遠くで鳴いている鳥の声はしんみりと耳に響いた。
「……YouTubeはもうやめたから」
「そっか」
それきり、彼女も私も口を開かなくなった。
YouTubeというワードはパンドラの箱そのものだ。わざわざ彼女が箱の蓋を開けようとしたことが、私にはちょっとだけ不可解に思えた。
「ふふふ、んふふふふ」
「……恭太、ツッコミ待ちなのかい?」
「ホホホホ」
先週、学の紹介により江坂真奈と出会ってからちょうど一週間、よく晴れた金曜日の午後に僕は大学内の「ラウンジ」で学と落ち合っていた。「ラウンジ」にはテーブルと椅子が雑多に並べられており、誰もが自由に利用することができる。
今日、学をラウンジに呼び出したのは外でもない。江坂真奈とのデートの様子を報告するためだ。ちなみに、彼から相手を紹介された時にはいつも報告会をするようにしている。せめてもの礼儀というやつだ。
一回目のデートで撃沈していた今までの僕にとって、この「報告会」は憂鬱なものだった。せっかく学が作戦を立ててくれたのに……という申し訳なさが三割、今度こそはと息巻いて戦場へ出たのに傷だらけで何も得ることなく戻ってきたことへの後悔が七割、というのがいつものパターン。
しかし今日に限ってはまったく違う心持ちだった。
なんてったって、先週のデートが上手くいったのだ。僕の希望的観測によれば、彼女は僕のことを決して「気持ち悪い」とは思ってない……と思う。それだけでもかなりの前進だが、今回は「また今度ご飯にでも」という誘いに彼女が乗ってくれたという功績がある。
しかも、別れ際には彼女と連絡先を交換するところまで漕ぎ着けたのだ! 圧倒的成長。紹介した学だってまさかここまでトントン拍子に事が上手くいくとは思っていなかっただろう。
「それで、どんなデートだったんだい」
「聞きたい?」
「……聞きたい、と言って欲しいんだろう」
「待ってました!」
僕は江坂真奈とのデートについて、学に洗いざらい報告した。話しながら、頬がにやけるのが分かり、その度に目の前で話を聞く学がしかめっ面をした。彼は今の僕のことを気持ち悪いと思っているのかもしれないが、そんなことさえまったく気にならなかった。ただ一人、江坂真奈が僕のことを気持ち悪いと思っていないという事実だけで、空を飛べる心地がする。僕は生まれ変わったんだ。これまでの非モテ陰キャ京大生じゃないぞ! 高校時代、憧れていた賢くてモテモテの京大生になれる日も遠くない。
「賢くてモテモテの京大生、はまだ遠いと思うけれどね」
「あれ、聞こえててん?」
「心の声が漏れてるんだよ」
いけない、いけない。
ひどい妄想を学に聞かれるのはまだしも、周りの人たちにまで聞かれたらもうお婿にいけない。あれ、よく見ればさっきまで隣の席に座っていたグループが遠くの席に移動しているような。
「とにかく、君が彼女と初デートで上手くいったということはよく分かったよ。まあ君にしてはかなり頑張った方じゃないか。えらいえらい」
「それほどでもぉ」
あああ、気持ち悪いっ。側から見た今の僕はかなりの変人。いつもなら学の方が圧倒的に変人のはずなのに、立場が逆転してしまっている。
「で、今はどういう状況なのかい? 彼女と今後のデートの約束はできた?」
「それが、聞いて驚くが良い。今週の日曜日にまたデートをすることになったのさ!」
「おおお、恭太が輝いて見える……」
学が大袈裟に身体をのけぞらせる。かなりの茶番劇だが、脳内が舞い上がっている僕たちにとってはどうってことない。今や遠くからチラチラとこちらを見ている他の学生なんぞ、まったく気にならなかった。
「ちなみにデートはどこに行くんだい?」
「清水寺」
あまりにも王道すぎるその目的地に、学は目を丸くして驚いていた。僕だって初めての本格的なデートで清水寺に行くとは思っていなかった。でも彼女が行きたいというのだから仕方がない。こう見えて清水寺には詳しいし。
「そういえば恭太って、無意味なほど何回も清水寺に行ってなかったかい?」
「……無意味なほど、とは失礼な。いつデートをしてもいいように清水寺は調べ尽くしてある」
なんだかんだで王道デートコースについては100回ほど履修済み。まったく僕って人は。どこまで完璧なんだ。
「余裕かまして凡ミスしないようにくれぐれも気をつけたまえ」
「言われるまでもあらへんわ」
学はジト目で僕を見た。女の子とデートをする予定のある僕が突然優位に立ったような物言いをするもんだから仕方あるまい。もし逆の立場だったら悔し涙と共に一発地面に拳を叩きつけていたことだろう。その点、彼は僕よりも大人かもしれない。
ピコン、と僕のスマホが鳴った。LINEの通知音だ。確認するまでもなく誰からの連絡か見当がついたので自然と頬が緩む。ここ最近ずっと彼女との連絡が途切れていない。会話が終わりそうになると、すかさず別の話題を振るようにするという努力の賜物だ。
「江坂くんからか」
「せやろうね」
「見なくて良いのかい?」
「あんまりすぐに返信したら暇人だと思われるやろ」
「君ってそういうところ、やけに気にするよね」
「それもこれも、女の子の心を掴むためさ」
そう。僕はこれまでありとあらゆる作戦で女の子の気を引こうとしてきた。いわゆる駆け引きというやつだ。残念ながらことごとく失敗に終わっているが、やっていることは間違いないはず。押しまくっても引きまくってもダメ。押し引きの塩梅を見極めるのにはデータが必要だが、幸いにも「当たって砕けた」回数に関しては誰よりも多い自信がある。
「あ、もう4限目が始まる時間か。僕はそろそろ行くよ」
「あれ、今日授業なんて取ってた?」
「いや。『京都創造論』っていうぱんきょーの授業に出るんだ」
「もしかしてそれって」
「すべてデートのためさ」
「はあ」
一般教養、略して「ぱんきょー」の単位なんて一、二回生の間にすべて取り終えている。しかし、『京都創造論』という京都の土地に関する授業が今後のデートの役に立ちそうだからと出るようにしているのだ。ははは、我ながらなんて勉強熱心なんだ。
「君の不純な動機には呆れるけど、恋人をつくるという情熱だけは尊敬するよ」
「ありがとう、心の友よ」
4限の開始時間が間近になるにつれラウンジから学生たちがはけていく。僕も彼らと共に『京都創造論』の講義を受けるため、教室へと向かった。さて、今後のデートの作戦を立てることにしよう。
来るデート当日の日曜日。彼女と初めて会ってからちょうど一週間が経った。自分でもまさかこんなに早く次のデートに漕ぎ着けると思っていなかったので、夢の中にいる気分だ。
「天気最高」
一人暮らしの狭い部屋でカーテンを開けると、雲一つない青空が広がっている。どこからかほんのりと漂う金木犀の香りが、甘いデートを想像させて気分が高揚した。歯を磨いた後、鏡の前で寝癖のついた髪の毛をワックスで整える。ボサボサだった黒髪が徐々にまとまっていく。いつもの眼鏡を外して、勝負用のブランドものに付け替えた。知る人ぞ知るハイブランドの眼鏡は去年の誕生日に自分へのプレゼントとして購入したものだ。
僕はハイテンションのまま、今日の午後の天気でも確認しようとテレビをつける。
『……連日世間を騒がせております、YouTuber連続誘拐事件についてですが、昨夜四度目の犯行となる——』
「うわ、縁起わるっ」
誘拐、などという物騒なワードが耳に入ってきて思わず電源を切った。この素晴らしい一日の始まりに憂鬱なニュースなど聞きたくないっ。
「行ってきまーす!」
一人暮らしなので誰も「いってらっしゃい」なんて言ってくれないのだが、この時ばかりは近所の猫が「みゃあ」と鳴いて僕を清々しく見送ってくれているような気がした。
愛車の自転車に乗り、いつものように京阪出町柳駅まで一漕ぎした。出町柳駅は大阪と京都をつなぐ京阪電車の終着点。駅を出るとすぐに目の前にいっぱいに広がる鴨川が、開けた視界の中で晴れた空によく映える。京大の最寄駅でもあるこの駅は、観光客も多く、駅周辺は世界遺産として有名な下鴨神社に行く人や、叡山電鉄というワンマン電車に乗り換えて貴船神社に行く人など、連日賑わいを見せている。
彼女とは祇園四条駅で待ち合わせしていた。清水寺に直行するなら市バスに乗り「清水道」で降りるのが近いのだが、せっかくのデートということで少し回り道していくことになった。
京都の街は碁盤の目のように道が区切られているので、道が分かりやすく散歩をするにはちょうど良い。女の子と二人で歩くのにも最適な街なのだ。(と勝手に思っている)
兎にも角にも、爆上がりしたテンションのまま祇園四条駅にたどり着いた。
「江坂さん」
「あ、安藤くん」
江坂さんは祇園四条駅にある某コーヒーチェーン店の前に佇んでいた。チェックのスカートに真っ白のカーディガンを羽織った彼女はさながら天使そのものだ。ちゃんと僕とのデートを意識して服を選んでくれたことが分かり、それだけでもう有頂天になりそうだった。
「ほな行きますか」
「うん」
祇園四条駅にはいくつか出口があり、僕たちは南座の位置する四条通側から外へ出た。四条通を東に一直線に進むつもりだ。そこは言わずと知れた祇園の繁華街で、様々な土産物屋さんや食事処が立ち並んでいる。京都に初めて訪れた際にはこのザ・観光地な街並みに見惚れてしまったものだ。
「こういうの、久しぶりだな」
「こういうのって?」
「なんか、観光客みたいなコースを行くの」
「言われてみれば確かにそやな。僕も一回生ぶりかも」
なんて、彼女に合わせてちょっぴり嘘をついてみる。本当はいつ可愛い女の子とデートをしてもいいように、一人で何回も王道デートコースを練り歩いたものだ。一人が寂しくなってたまに学を連れて男二人で京都散策することもあるが、冴えない二人組で学生カップルたちに埋もれていると余計惨めな気持ちになった。
「ねえ、あれ美味しそうじゃない?」
駅を出て少し歩くと不意に彼女がある店を指差して言った。
「お、江坂さん見る目あるね」
「知ってるの?」
「自慢じゃないけどファンなんだ。『おはぎの丹波屋』さん」
「一回生ぶりの祇園なのに覚えてるんだ、すごいね」
「……あれ、確か小学校の修学旅行でも来たような」
僕のちっぽけな嘘に矛盾を感じたらしい彼女が鋭いツッコミを入れてきたが、まあ構うまい。
『おはぎの丹波屋』とは、関西で展開する和菓子屋さんだ。名前の通りおはぎが売りのお店だが、お団子や豆大福なんかもある。
「あれ食べようよ。みそ団子」
「ええよ」
どうやら彼女は先ほどから香ばしい匂いを漂わせる「みそ団子」に興味を持ったようだ。みそ団子は僕の丹波屋さんのイチオシでもあったので嬉しい。「みそ団子」はお餅に味噌だれを絡めたシンプルなお団子で、一本の串に二つお団子が刺さっている。
僕たちは一人一本ずつ「みそ団子」を購入し、食べながら四条通りを進んだ。大きくて柔らかい餅に甘辛い味噌だれがマッチしてとても美味しい。何度か食べたことがあるが、何度食べても飽きないこの味! しかも今日は隣で口元にたれをつける彼女と一緒とくれば、美味しさは数倍だった。
「あー美味しかった」
満足げに笑う彼女を見て僕は幸福感に満たされていた。序盤からこんなに順調でいいんだろうか。
「八坂神社の方からねねの道に入ろか」
「ふふ、詳しいんだね」
「ま、まあ伊達に三年半も京都暮らししてへんから」
「私も一緒なんだけど、道覚えるの苦手で」
てへへ、という声が聞こえてきそうな仕草で彼女は肩をすくめた。
「大丈夫。今日は僕が案内するし」
「よろしくお願いします」
おお、なんだこのむず痒いやりとりは。僕の人生で一度も味わったことのない甘い展開とやらか?
とにかく妄想が止まらない僕はにやけ顔を悟られないように少し俯きながら歩いた。
「危ないよ」
下向き加減に歩いていたせいか前から来る人にぶつかりそうになり、とっさに彼女が僕の腕を掴んだ。
「……あ、ありがとう」
「ううん。ちゃんと前見て」
なんと。
僕の人生初の「女の子から腕を掴まれる」体験じゃないか。不意打ちすぎてその感触を噛み締める間もなかったのが少し悔しい。しかし、彼女の手の柔らかさがまだ余韻で残っている——。
「安藤くん、どうかした?」
「い、いや。なんでもない。それよりほら、八坂神社にもう着く」
「そうだね。神社の中から行くんだっけ?」
「ああ。途中でねねの道に出るからついてきて」
女の子は「俺についてこい」タイプの男が好きなことが多いと学が言っていた。ここは、彼女を上手くリードして「頼れる男」を演じなければ。
僕たちは祇園の店が立ち並ぶ四条通りの突き当たりで朱色の鳥居を構える八坂神社へと足を踏み入れた。爽やかな風の吹く十月、日曜日ということもあって神社もなかなかの混み具合だ。八坂神社の入り口では普段からからあげやはしまきを売る露店が鎮座している。「らっしゃい!」という威勢の良いお兄さんの声をBGMに、僕たちは神社の奥へと進んだ。
しばらく歩くと右手に横道が現れる。そこがねねの道へと続いているので、僕たちは横道へと足を踏み入れた。「ねねの道」はその名の通り、北政所ねねが十九年の余生を送った地として知られる高台寺の、すぐ西側の道のことだ。美しく整備された石畳と脇から姿を覗かせる紅葉の葉が京都の風情を際立たせている。
「久しぶりだな。ここ、何回歩いても素敵な道だよね」
「あ、分かる? 実は僕もねねの道が好きで。今日祇園で待ち合わせにしたのもここを通るためなんだ」
「そういうところ、いいなあ」
目を細めて僕の方を見つめた彼女の瞳に、僕は自分の心拍が速まるのが分かった。
今、彼女はなんて言った?
「そういうところ、いいなあ」って。
それって、僕のことをいいと言ってくれてるんだよな?
うひょー! そんなこと言われたのは初めてだ。自分の良いところなんて就活の時に散々聞かれたけど、いつも「何度勝負に負けてもめげない精神力」と答えてきた。なぜって、学が普段から「君はどれだけ女の子にこっぴどい振られ方をしても折れないね。まるで時計台の前のクスノキばりに野太い精神力だ」と言われていたから。ちなみに「時計台」というのは、京大構内の真ん中にどーんと構える時計付きの建物のこと。その時計台の前で大きなクスノキが僕たち学生を見守っている。
果たしてそれが褒め言葉なのかどうかはさておき、自分の良いところを他人に、それも女の子に褒めてもらうなんて僕の中では超一大ビックニュースだ。
「いろいろ考えてくれてありがとうね」
「ど、どういたしましてえぇぇ」
ああ、キモイ。
今の自分を客観的に見たらものすんごくキモチワルイ。
だけど、隣を歩く彼女はふふっと可憐に笑ってくれて、それがまた楽しそうで。
彼女の笑顔が見られれば、第三者に自分がどれだけ気持ち悪く映っていようがどうでもよかった。
「二年坂が見えてきたね」
「本当だ。ようやく清水って感じやね」
高台寺を通り過ぎ、清水寺へと続く二年坂が見えてきた。ここもまた石畳の情緒あふれる道が続く。レトロなお土産屋や雑貨屋も多い。途中、八坂の塔が顔を覗かせるこの道は京都でも有数の撮影スポットになっている。
すれ違う人はカップルと思われる男女が多かった。美しい着物を纏った女子グループたちが華やいでいる。僕は、彼らのように江坂さんと二人で遠慮のない距離感で歩く未来を妄想してみた。今は彼女との間にぎこちない距離感がある。ああ、早くこの三十センチの隙間を埋めたい……。
「入りたい店があったら言ってな」
「うん、ありがとう」
それから僕たちは気になった雑貨屋に入ったり、八ツ橋味のシュークリームを頬張ったりしながら清水寺までたどり着いた。
朱色の仁王門をくぐり、拝観チケットを購入して境内に入る。日曜日ということもあって、境内は多くの人で賑わっていた。お線香の匂いを全身で嗅ぎながら、雄大な景色の広がる舞台へと進む。
「わあ、やっぱりいい眺め!」
「こうして見ると圧巻やな」
もうn回目になる清水の舞台も、女の子と来た今日は違った景色に見える。まだ完全に紅葉はしていないけれど、色づき始めた木々を眺めると、僕たちの恋も始まったばかりだと実感させられた。いや、彼女が僕をどう思っているかは分からないけれど。
「清水寺ってさ、人生に疲れたら来たくならへん?」
「ふふ、面白いこと言うんだね」
「そう? なんかこの景色の雄大さが」
「自分がちっぽけな存在だって思わせてくれるから?」
「おお、それ今言おうと思ってた」
「でしょう。安藤くんが考えそうだなーって」
なんと! 僕の思考をここまで理解してくれるなんて。まだ出会って二回目のデートなのに。彼女はどれだけ僕にぴったりな存在なんだ。
「不思議なんやけど、江坂さんと話とると自然体でおれるわ」
「それは嬉しい。私も安藤くんになら何でも話せちゃいそう」
ぬおおお、それはもう僕のことを好きだって言ってるのと同じではないのか!? いや、待て早まるな。ここで展開を急ぎすぎて振られる、なんて経験はもう懲り懲りだ。「急がば回れだよ、恭太くん」と目を光らせて諭してくる学の顔が浮かぶ。女の子とそういう関係になるのに焦りは禁物。女子の気持ちと男子の気持ちがヒートアップするスピードには時差があるのだ。有頂天になってはいけない。
とはいえ、彼女はかなり僕に気持ちが向いているのではないか? だって、ここまで楽しそうに僕と会話してくれた女の子は他にいないし、会話のキャッチボールも上手くいっている。
これは、今日中に勝負が決まるかもしれない——いや、決めにいっても良い気がする。
決して急いではいけないが、ここぞというタイミングでもたもたするのもご法度。「こんなにアピールしてるのになぜ来てくれないの」と思わせたらアウトだ。まったく、女心は複雑すぎる。
「そろそろ行こうか。お腹空いてへん?」
「うん。景色、堪能できたしね」
時間的にはまだ夕方なのだけれど、これからまた歩かないといけないので早めに清水から下ることにした。
それより、今日勝負に出ると決めた僕の心臓がはち切れそうで、動いてないと爆発してしまいそうだった。
帰りは清水坂を下り、清水道のバス停まで出た。長い坂を下り終えると彼女が伸びをし、「楽しかったー」と一言。つられて僕も楽しかった、と呟いた。君が隣にいるから、というクサいセリフはぎりぎり口にせずに呑み込んで。
「どうする、ご飯食べて帰る?」
「うん、そうしよ。この辺によく行くお店があるの」
出町柳駅周辺を生活区域にしている僕にとって、五条周辺はあまり馴染みがなかった。けれど、彼女の方は割と精通しているよ
うで、路地裏の小さな居酒屋に案内してくれた。お店を決めるのは男の役割だと思っていたが、女の子に決めてもらうのもナシじゃないな。好みの店かどうか気にする必要もないし。学、僕は今日一歩新たな真理にたどり着いたぞ!
江坂さんは五条通の方に向かって小さな路地を進んだ。こんなところにお店なんてあるんだろうかとちょっと疑いながらついていくと、果たして目的の店が現れた。思ったよりもこじんまりとしているが、「知る人ぞ知る隠れ家」感があって好感が持てた。店の前で懐かしい香りがするなと思っていると、店の名前が「キンモクセイ」だった。初めて江坂さんに会ったとき、彼女が金木犀の香水を纏っていたのを思い出す。
「ここ。秘密基地みたいでいいでしょ」
「ああ。最高だ」
まだ店の中に入ったわけでもないのに、僕はキランと歯を光らせて(たぶん、光っていた)答えた。はにかんだ彼女の顔を見て心の中でガッツポーズ。
「いらっしゃい」
お店の戸を開けると店主と思われる中年のおじさんが顔を覗かせた。
「こんばんは」
「お嬢ちゃん、久しぶりだね」
「ご無沙汰してます」
「あれ、今日はいつもの連れじゃないのかい?」
「あ、はい。今日は違うんです」
「そうかい。そこ座りな」
「ありがとうございます」
店主とは顔馴染みらしい彼女が常連客の風格で椅子に腰掛けた。僕もさっと正面の席に座る。それにしても店主、「いつもの連れ」って、もしかして彼女の元彼のこと? 普通そういうのは気を遣って聞かないでおくだろう……とちょっと凹む。
彼女も、元彼との思い出の店に僕を連れてくるのか——と若干切なかったが、まあ店に罪はないしな。小さなことでウジウジ悩むのはやめよう。
「キンモクセイ」は京都のおばんざいを中心とした料理を扱う居酒屋だった。京料理、と聞くと何だか高くて上等なものに思えるが、ここは学生にも優しい価格で料理を提供しているようだった。
生湯葉や生麩の田楽、西京焼きなど気になるメニューを注文していく。ビールが苦手らしい彼女はももの果実酒を頼んでいた。果肉がたっぷり入っていて美味しいそうだ。
「ここの料理、優しい味がして好きなの」
「そうなんや。確かにマイルド。心も和むね」
「ふふ、でしょう。安藤くんが好きそうだなって思って」
「それはありがとう」
元彼との思い出の店も、「あなたが好きそうだから」なんて言われてしまえばもう関係なかった。僕は、彼女が放つ一つ一つの言葉に感心し、喜怒哀楽してしまう。いや、ほとんどが喜、喜、喜。彼女はきっと男を喜ばせるのが得意なのだ。
それから僕たちは大学での日々やお互いの友達の話、就職の話などをして盛り上がった。なんでもない話なのに、いちいち大げさにリアクションしてくれる彼女はもはや聖母マリア。特別美人というわけでもないが、こんな子は男によく好かれそうだと思わせられる。放って置いたらきっとすぐに次の彼氏候補が現れるだろう——そう予感した。
「ちょっと、飲みすぎたかなー」
お店に入ってから二時間、彼女は三杯お酒を飲んだがそこまで酔っているようには見えない。対する僕は四杯。まあまあアルコールが回っている。
しかし、今日は酩酊するわけにはいかない。気をしっかりもたなくては。
彼女が店主に「お会計お願いします」と伝える。二人で合計六千四百六十円。財布を出そうとする彼女を制して僕は一万円札を店主に渡した。
「そんな、悪いよ」
「ええよ。美味しいお店教えてくれたお礼」
「……ありがとう。ごちそうさまです」
花が咲いたように笑う彼女。僕に向かって丁寧に頭を下げている。その一つ一つの仕草が、僕にはもう特別なものに見えて仕方なかった。
店を出ると、辺りはすっかり暗くなっており、街頭が石畳の道を照らしていた。狭い路地に、僕と彼女だけが取り残されたかのように存在している。街頭がなければ今にも幽霊が出てきそうだ。でも、恐怖や孤独感はまったくない。彼女が隣にいるだけでここは楽園だった。
「駅まで一緒に行こう」
「うん」
僕も彼女も京阪電車で家に帰るため、二人で「清水五条」まで歩いた。暗い道で、あと数センチで触れ合うか触れ合わないかの距離を保ちながら。今日は、今日だけは酔っ払ってみっともない姿を晒すわけにはいかない。
清水五条駅が見えてくると、僕の心臓は一気にけたたましく鳴りだした。実際に音が聞こえたわけではないが、激しく脈打つ心臓が痛いくらいだ。
「ここまでだね。今日は楽しかった。ご飯もご馳走してくれてありがとうね」
僕たちは反対方向の電車に乗るので、駅でお別れだった。
爽やかな笑顔で手を振り去って行こうとする彼女。ああ、ダメだ。このままでは彼女が行ってしまう。この気持ちを次回のデートまで持ち越すなんて耐えられない。そもそも、次回のデートがあるかどうかなんて保証はどこにもないのだ。
「待って」
気がつけば僕は彼女の手を掴んでいた。
咄嗟の出来事に、彼女が目を丸くする。僕も自分の行動に自分で驚いていた。ヤバイ、もう後には引けない。道路を走る車のエンジン音がだんだんと聞こえなくなる。向こうから犬の散歩をしている人が歩いてきた。あの人が来る前に、この気持ちを伝えよう!
「ぼ、僕さ、江坂さんのことが好きなんやけど」
やっちまったああぁぁぁぁ。
大事な場面で「ぼ、僕」なんて吃る男、彼女が好きなはずがない! それに、「好きなんやけど」って何だよ。だからどうしたいってところが肝心だろう!
と頭では分かっているのに、それ以上言葉が出てこない。早く続きを話さなければならないのに、頭が真っ白になった。
ああ、神様仏様学様。
安藤恭太は、どうやらここまでのようです南無阿弥陀仏。
心の中で天を仰ぎ両手をすり合わせた。目の前の江坂さんは瞠目したまま動かない。ああ、やっぱり。大事な場面で格好悪いところを見せてしまったから呆れてるのだ。返事は絶望的か——。
前方から歩いてきていた男性と犬がいよいよ僕らの横を通り過ぎた。ワン、と犬が僕に向かって吠える。なんだ、僕のことが気に入らないのか。江坂さんには吠えていないところを見るとあながち間違いではなさそうだ。
彼女はよくやく瞬きをした。すう、と息を吸う音がして口を開く。途端、耳を塞ぎたい衝動に駆られる。聞きたくない。僕は彼女からの「ごめんなさい」を聞くのが怖い。これまで何度も女の子に断られ続け、振られることには慣れている。だけど、彼女は特別だ。ここまで意気投合して僕の前ではずっと楽しそうに笑ってくれていた彼女を失うのは、どうしようもなく怖かった。
「安藤くんって」
「は、はいっ」
何を言われるのだろう。
ごめん。
友達のままがいい。
恋愛対象にはならないかな。
想像した言葉たちが脳内で暴れ回り、僕の心臓の動きをより激しくさせた。
逃げ出したい。さっきの告白はなしにして、「またね」って手を振ってお別れしたい。そうしたら明日にでも三回目のデートに誘う。彼女のことだから、きっとまた誘いに乗ってくれるに違いない。たとえそれが友達としての優しさでも、今ここで会えなくなるよりはずっといい——。
その場にじっとしているのがもう限界だった。「やっぱり……」と言ってついにその場を去ろうとしたとき。
「やっぱり、面白いね」
「え!?」
どういうことだ。「面白いって」!? 僕の告白が? 確かに大事な場面で吃ってしまう僕は他人から見れば「面白い」のかもしれない。
「心で考えてることが口に出てる。目の前のことに一生懸命って証拠だよね。私、そういう安藤くんのことが好きだよ」
「な……!」
さっきまで考えてたことが口に出ていただとぉぉぉぉ!
最悪だ。あまりに最悪だ……。やっぱりもうお婿にいけない……。
……て、今何か大事なことを彼女は言わなかったか?
「ごめん、もう一回言ってくれる?」
「考えてること口から出てて面白いってこと?」
「違う違う。そのあとの」
「ああ。私、安藤くんのことが好きだよ」
「……」
風の音や道路を走る車のエンジン音、ジーという虫の声がすべてなかったみたいに聞こえなくなった。僕は思わず彼女の顔を二
度見した。真っ直ぐな瞳をこちらに向けてくれる彼女はまさに天女のようだった。
分かった、これは夢だ。
試しに一回頬をつねってみる。
「イテテ……」
「何してるの?」
「い、いや。しっかり痛いな」
「大丈夫?」
彼女の右手が、僕の頬に触れた。ぎょっ、という変な声が口から漏れる。彼女が「なにそれ」と笑う。「なんだろうな〜」とつられて僕も笑う。もう訳がわからない。しかし心が有頂天になっていることだけは明白だった。
「……それで、僕たち付き合うってことでええんよね?」
「うん、そういうことだと思ってたよ」
「くー! ありがとう江坂さん! これからよろしく」
今度は喜びの声を隠すことすらできず、全力で口に出してしまった。江坂さんがにっこり微笑んでこちらこそよろしくね、と小さく頭を下げた。
京都の宵の景色は鴨川を薄暗く染めて、昼間に見る煌く水面とは別の妖艶さを漂わせている。三年半京都に住んであまり意識したことがなかったけれど、この時間の鴨川は誰にも言えない秘密を抱えているようで好きだ、と改めて思う。
江坂さんはそんな妖艶な鴨川を眺めていた。僕の恋人。今日から恋人になった人。意識すれば恥ずかしいし、恋人のできたことのなかった僕にとってはかなり違和感がある。でも、紛れもなく僕の彼女なんだ。
薄闇の中で目を閉じて、これからの生活を心に思い浮かべる。そこには幾筋もの明るい光が輝いていた。
月曜日の昼間、大学構内でやることのない私はぼんやりと時計台前のクスノキの椅子に腰掛けていた。大きなクスノキをぐるっと囲むようにして椅子があるので、待ち合わせの人やコーヒーを飲みながら本を読んでいる人なんかがよく座っている。
大学四回生の私は残す単位もほとんどなく、大学に来る意味があんまりない。やることがないならバイトにでも行けばいいのかもしれないけれど、幸いなことに私は今お金にはまったくと言っていいほど困っていなかった。
『YouTubeはもういいの?』
一週間前につばきから聞かれたことが頭の隅にこびりついている。
私は元人気YouTuberだ。「カナカナちゃんねる」というチャンネル名で「在学中にアイドルを目指す京大女子」というコンセプトで歌やトーク動画をアップしていた。チャンネル登録者数は一番いい時で五十万人にも上り、同世代の女の子なら私の名前を知らない人はいないんじゃないかというくらい、当時は有名人になった気分だった。
でも。
「頭がくらくらする……」
いつも、YouTuberだった頃のことを思い出そうとすると頭痛がしてそれ以上考えていられなくなる。毎日のように動画を投稿していたはずなのに、具体的にどんな動画を上げていたのか、私はうまく思い出すことができないのだ。歌ったり視聴者と対話したりしていたことは覚えているのだが、記憶にもやがかかったようにそれ以上のことが思い出せない。
記憶喪失、という物騒なワードが頭をよぎる。医者に行ったわけではないけれど、私はそうではないかと思っている。
ただ、一つだけ覚えていることがあった。
YouTubeに出ること自体、楽しくて仕方がなかったこと。普段人前で堂々と喋ることができない私が、画面の中でならキラキラ女子でいられたこと。それだけは心が覚えているのだ。
「ああ、せめて恋人でもいればなぁ……」
YouTubeを辞めてから、私の日常は灰色だ。かといって、もう二度と動画を撮りたくはない。そんな気分になれない、というのが正直なところだ。
しかし退屈な日々も、もし恋人がいれば、その人が楽しませてくれるに違いない。
こうしてクスノキ前に座っているだけでも、隣に好きな人がいてくれたら。会話するだけで楽しくて、今日家に泊まりに行ってもいい? なんて甘い提案をして、きゅんとして。馬鹿みたいな妄想だけど、馬鹿みたいに幸せな気分に浸っていたい。まあ、今はその「好きな人」がいないのだけれど。
妄想を重ねながらぼんやりと前方を見ていると、タイムリーにカップルと思われる学生二人がこちらに向かって歩いてきた。男の子の方は、失礼だが見た目からしてすぐに京大生だと確信したのだが、女の子の方は女子大の子かもしれない。トレンドのカーディガンを羽織り、高そうなブランドもののヒールを履いている。透明感のあるメイクが遠くからでも艶やかに光って見えた。特別美人とは言い難いが、ファッションもメイクも完璧に決まっている。女の子は、時折男の子の方を見て柔らかく微笑んでいた。男の子がボケて、女の子の方がツッコミ役をしているように見える。きっと、どうでもいいことを話して盛り上がっているんだろうな。そういう何気ない会話を楽しめるのもカップルの特権なのだ。
私は自分の足元に視線を落とす。二日に一回履いている白いソックスは、片方の親指の裏の部分に穴が空いている。誰にも見られないからいいや、とそのままにしているのが悲しいところ。
心とは裏腹に、心地の良い風が身体を吹き付ける。ゆったりとした時間の中で、私はいつの間にかまどろんでいた。
「そんなところで寝てて、風邪ひかへん?」
ふっと、意識が戻ったとき、私の顔を覗き込むその人を見てぎょっとのけぞった。
「あなたは……」
「僕? ああ、経済学部の四回。いや、そんなこと今どうでも良くて、こんなところで眠ったら風邪ひいてまう」
「え、いや。大丈夫です。うたた寝しちゃっただけなので」
「そう? まあそれならええわ。気いつけて」
「はい」
もさもさとした髪の毛に眼鏡をかけたその男の人は、紛れもなく先ほど私が見たカップルの片割れだった。
彼女はどこに行ったのだろう。時計を見て二度びっくり。なんと、二時間も時間が経っている。ということは、ここでかなり眠り込んでいたということか……。この人が起こしてくれなかったら本当に風邪をひいたかもしれない。
「あの、ありがとうございます。起こしてくれなかったら、やっぱり危なかったかも」
「どういたしまして。せやろ? さっき大学に来たときから見かけててん。あ、変な意味で見てたんとちゃうで? たまたま目に入っただけやから」
「大丈夫です。それより、さっき彼女さんと一緒にいましたよね。今どこに?」
「ああ、真奈——ふふ、彼女ならバイトに向かってん。京大を見たいって言うてたからちょっと案内しただけで。て、僕らのこと見てたん?」
「私も、さっきあなたたちが歩いてるところが目に入ってきたんです」
「せやねんな。じゃあおあいこということで」
男の子は歯を見せてニッと笑った。失礼だがちょっと並びの悪い歯が印象的だ。同じ大学四回生だが、彼を見たことはない。大学には同級生が数千人いるから仕方ないと言えばそうだ。
「じゃあ僕はこれで。このあと学——友達と会う約束しててん」
「そうなんですね。ではまた」
言ったあとで、「また」があるのかどうか分からないやと思い至る。いや、十中八九彼とはもうこれっきりだろう。四回生にもなって新しい交友関係を広げようとも思わないし。
彼は私に背を向けて、後方へと歩いて行った。その姿はまるでさすらい者のようだ。四回生になってから、「こんな人もいたんだな」と思うことが増えた。大学生になったばかりの頃は、自分とは違う地域から京都にやって来た人たちに溢れる大学が新鮮で、常に新しい刺激を浴びていた。新しい友達、新しい土地、新しい生活。その分不安も大きくて、一人でも多く友達をつくりたくて周囲の人に必死に話しかけていたっけ。その頃は周りの人も同じように友達づくりに夢中だったから、浮くこともなかった。それが今では大学構内で一人で物思いにふけっているなんて。
「やっぱり一人は寂しい……」
こんなところで独りごちたところで、余計に虚しくなる。大学では華の女子大生を満喫するオシャレ女子たちや初めて髪の毛を染めて浮かれている男の子たちが華やいでいるというのに。
私は何の気なしにポケットからスマホを取り出して最近使っていたマッチングアプリを開いた。もう癖で無意識にそうしてしまう自分がいてげんなりする。しかし、アプリを開けば女に飢えた虎たちが溢れるほどいて、心が慰められた。
様々な男性の顔をフリックしていく中でふと、とある男性のプロフィールに目が止まった。
『上っ面だけのやり取りは苦手です。真面目に恋愛できる人を探しています。』
「この人……」
ツンツンの黒髪に黒いジャケットを羽織った男の子。年齢は二十四歳と書かれている。外見はまあまあ格好良い方で、首元にうっすらとあざがあるのが特徴的だった。
どうしてこの人のプロフィールに目が留まったのか。それは、「上っ面だけのやり取りは苦手です」という言葉が、やけに胸にずっしりと響いたからだ。そうだ、私も。表面的な言葉で適当に会話をするのが苦手だ。生産性がないのにダラダラと続ける異性とのメッセージのやりとりも、京大女子だと分かった途端、一歩引いた視線を送ってくる人との会話も。
私だって、真面目に恋がしたいだけなのに。
YouTuberだった頃の私は、目の前のことに一生懸命で、素敵な恋だってすぐにできると思っていた。それがいま、誰かのプロフィールに書かれた言葉に、こんなにも感傷的な気分にさせられているなんて。
キラキラ輝いていた私はもう存在しない。
だって、私は——。
「あの人、カナカナちゃんねるの人じゃない!?」
「うわ、本当だー! 京大生って本当なんだ」
「ね、写真撮ってもらお〜」
後ろから高い声が聞こえて私ははっと振り返った。紺色のブレザーを着た高校生たちが私のもとに駆け寄ってくる。京大には大学見学に来る中高生が珍しくない。この子たちもきっと見学に来たんだ。
彼女たちは私という目標に向かって一直線に走ってきた。まずい、このままでは一緒に写真を撮る羽目になってしまう。いやそれ以上に、チャンネルを辞めた私が、本当の私が根暗女子だと知ったら幻滅させてしまう。
いろんなことが一度に頭の中でぐるぐる浮かんだ。咄嗟の出来事に心が下した決断は、「今すぐこの場から逃げろ」だった。
「ご、ごめんなさいっ」
なぜ謝らなくてはならないのかも分からないまま、私は彼女たちの脇をすり抜けて、正門とは反対側の構内で入り口まで走った。
「待ってください!」
女子高生たちは持ち前の体力を活かして追いかけてくる。こちらが嫌がっていると知ってもなお、目的を達成しようとする心意気に若さを感じる。と、感心してる場合ではない。このままでは追いつかれる——。
絶体絶命かと思われたとき、構内に捨て置かれていた自転車に、鍵がついているものがあるのを発見した。周囲を見回して人が見ていないことを確認すると自転車にさっと跨る。いくら捨てられた自転車とはいえ、他人の自転車を勝手に使うのにはいささか気が引けた。しかし、そもそも大学に自転車を捨てる人も良くない! と自分に言い聞かせ、なんとなく罪悪感は相殺される。
「あ」
自転車で颯爽と走り去る私の後ろ姿を見て、さすがの女子高生たちも諦めたようだ。後ろを振り返ると、「あーあ」と肩を落としている姿が目に入る。少し申し訳ないと感じるものの、捕まらなくて良かったという安堵がどっと押し寄せてきた。
安心して全身の力が抜けていく。構内出口から百万遍と呼ばれる交差点に出る。交差点の四隅に鎮座した串カツ屋さんやコンビニ、薬局は京大生の御用達の店ばかりだ。道路自体広く、人通りも車通りも多い。
拾った自転車に乗ったまま、自宅まで帰ろうと信号を渡ろうとしたときだった。
「危ないっ」
誰かが叫ぶ声が聞こえて、「え?」と声の方を見る。視界の隅に、バイクに乗った男性が現れ私の目の前を横切った。
あまりに突然のことだったので、うまくハンドルを切ることができずにその場でガシャンと倒れ込む。身体のどこか分からないが、嫌な衝撃が突き抜けた。
「大丈夫!?」
聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。身体が重くいうことを聞かないので、頭を声の方に向けることもできない。次第に身体の感覚が戻ってきて、ようやくその人が誰なのか確認することができた。
「さっきの……」
「喋らんでええ。自転車どけるからちょっと待ってや」
クスノキ前で眠りこける私に話しかけてきた例の男の子が、私の身体の上に覆いかぶさっている自転車を起こしてくれた。そうか、この自転車のせいでなんだか身体が重たく感じたのだ。それにしても、予想よりもずいぶんと早く再会の時が訪れてしまった。かなり恥ずかしい再会だ……。
自転車の重みから解放されると、思ったよりも怪我が重症じゃないことに気づいてほっとした。手首や膝など地面に打ち付けた部分に擦り傷ができている程度だ。頭を打たなくて良かった。
「ありがとうございます」
「いやー、びっくりした! 心臓止まるかと思ったわ」
「すみません……」
「謝ることやないけど。悪いのはバイクの方やし。でもちゃんと周りは確認せなあかんで」
「急いでいたのでつい」
「何でそんなに急いでたん? 見たところボロボロやし、自分のじゃないんやろ?」
「はい、大学に捨ててあった自転車をかっさらっちゃいました。高校生に追いかけられて」
「高校生? 何でまた」
私は、おそらく私が元人気YouTuberだと知らない彼に正体を伝えるべきか迷った。今現在活動をしているわけではないし、わざわざ自慢げに言うことでもないな。
「うーん、なんか、大学進学に向けてインタビューをしたかったらしくて」
「そうなん? それぐらいやったら答えたればええやん」
「いや、私そういうの苦手で。『これだけ勉強頑張ったから試験に受かりましたー』みたいな話をするの、吐き気がする」
「ほー……。なるほど、そういう人もおるわな」
咄嗟に考えた作り話を、彼は信じてくれたらしい。実際、一回生の時に高校生にインタビューをされた経験があったから、あながち嘘でもない。
「まあとにかく、自転車に乗る時は要注意やな」
「気をつけます」
それに関してはぐうの音も出ない。もう少しで大惨事になっていたかと思うと身震いした。
「そういえば、名前聞いてへんかったな」
「私も聞いてないです」
「あれ、そうやっけ? 僕は安藤恭太」
「西條奏といいます。文学部の四回生です」
「四回生やったんか。じゃあ同級生やね」
「はい。よろしくお願いします」
卒業を控えた四回生の秋に、同じ四回生と「よろしく」することがあるなんて思ってもみなかった。
「じゃあ、私はこれで——」
「いやいや待って。その怪我、何とかした方がええよ」
「え、でもこれくらい自分で手当てしますよ」
「まあまあそう言わずに。良かったら一緒にこーへん?」
「行くってどこに?」
「僕の友達の家。ここから近いし、たぶんお茶ぐらい出してくれると思うよ」
「でも悪いし」
「ええやん。傷だらけの女の子を一人放っておくわけにはいかへんよ」
「はあ」
安藤恭太は私の方へ手を差し出してきた。さすがにその手を握るのは憚られたので、大人しく彼に従うことにする。いろんなことが一度に起こりすぎて、断る理由を考えるのが億劫だった。それに野生の勘だけど、この人は悪い人じゃない気がする。
クスノキ前でぼうっとしていた時には考えられなかった急展開。身体がくたくたで、確かに彼の言う通りこのまま一人で家に帰っても動けそうにないと感じた。
彼は百万遍の交差点を北へと進んでいった。「元田中」と呼ばれる地域だ。この辺りは京大生の下宿先として人気のエリアで、つばきも元田中に住んでいる。
彼の言う通り、友達の家は交差点のすぐ近くにあった。この距離であれば、寝坊しがちな一限の授業にもすっと出席できそう。そういう私は出町柳駅近くに住んでおり、まあそこから大学へもたかが知れた距離だが、何度も一限をブッチしてしまった経験がある……。
安藤くんは、勝手知ったる様子で友達のマンションへずけずけと入っていく。
「学、いるー?」
「いるに決まってるじゃないか。君が訪ねてくるっていうのに」
「ちゃんと覚えてくれてて良かった」
「わいがいつ君との約束を忘れたって言うんだ——て、誰だそちらの人は」
学、と呼ばれた男の子は安藤くんの後ろに待機している私の存在にようやく気づいたらしく、目を細めてぐっと顔を近づけてきた。
「は、初めまして。文学部四回生の西條奏です。ちょっと訳があって安藤くんに連れられて来ましたー……」
私が自己紹介をした途端、「ほう」と唸り、彼はジト目で安藤くんの方を睨んだ。
「ち、ちがうよ。これはその、浮ついたアレではなくってやな」
「アレじゃなかったら何なんだい?」
「ただの友達? いや、さっき知り合ったばかりだから友達ではないか……そうや、行きずりの人?」
「それ、使い方間違ってると思うよ」
コントのような二人のやりとりを、私はぽかんとして聞いていた。
「ああごめんね西條さん。怪我してるのに待たせて」
「いや、大丈夫です」
「あれ、怪我してるの? 確かによく見たら擦り傷だらけじゃないか。とにかく手当てしないとな」
上がって、と学が私に部屋に入るよう促した。二人とも親切だなと素直に感心する。
「お言葉に甘えて、お邪魔しまあす」
学の部屋はいたるところに観葉植物が置いてあって、家具はダークブラウンの色でまとめられていた。まさに“自然派”ぽい部屋だ。本人は甚平を着ているし、京大によくいる「こだわりの強い人」に間違いない。
「適当に座ってていいよ。あ、紅茶は飲める?」
「は、はい。お構いなく……」
突然押しかけたにもかかわらず、なんという好待遇だ。安藤くんはというと、何も言わずにソファにどかっと腰を下ろしている。それほど親しい友人同士なんだろう。
学はキッチンの方からティーカップに入れた紅茶を持って来てくれた。私の家にこんなにお洒落なティーカップはない。彼は一体何者なんだ。甚平に洋風のティーカップがこれほど似合う男の子を他に見たことがない。
「ルイボスティー。好きかどうか分からないけれど」
「ありがとうございます」
なんと。ダージリンでもアールグレイでもなく、ルイボスティーが家に常備してあるなんて、もう上流階級としか思えないっ。
「そういえば申し遅れてたな。わいは御手洗学。恭太とは一回生の頃から付き合いがある」
「御手洗くん。なんだか京都っぽい名前だね」
「ああ、よく言われるよ。下鴨神社に『御手洗祭』があるからだね」
「そうそう。一度行ったことがあるから」
「そうかい。京都に住む学生の特権だよね」
「ええ」
下鴨神社の『御手洗祭』は毎年夏に開催されている。境内の御手洗池に裸足で入り、お祓いの神様に参拝したあと、神水を飲み身体を清める。夏の風物詩として京都では有名なお祭りだ。御手洗池の水はびっくりするほど冷たくて、心地が良かったのを覚えている。
「それで、怪我はどうして?」
「ああ、これは——」
「バイクに轢かれかけたんよな」
私が口を開きかけたところで、のんびりとソファでくつろいでいた安藤くんが口を挟んだ。
「そ、そうなんです。恥ずかしい話ですけど」
「それは災難だったね。でも何でそんなことに?」
私は、先ほど道端で安藤くんに話した内容を御手洗くんにも伝えた。呆れられるかと思ったけど、「大変だったね」の一言で片付けられた。あまり詮索されたくないことだったのでありがたい。
「消毒と絆創膏ぐらいだったらあるけど、それで大丈夫?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
御手洗くんは部屋の奥から救急箱を取り出して、消毒液と絆創膏を渡してくれた。初対面の、しかも男の子にそこまでしてもら
えるとは思っておらず、面食らいながら怪我の手当てを済ませた。
「本当に、ありがとうございます。これでもう大丈夫です」
「どういたしまして。いやー恭太が女の子をウチに連れてくるなんて初めてでびっくりしたよ」
「ちょ、余計なこと言わんでええから」
「最近は彼女といちゃついてばかりいたのに、もう別の女の子に乗り換えたのかと」
「人聞きの悪い! 大体僕がこの短期間に彼女を取っ替え引っ替えできるくらいの器があったら、大学生活バラ色やったって」
「確かに。君は時々いいことを言う」
「……別にいいことではない」
コントのような二人のやりとりを、呆けたように私は聞いていた。何だか、久しぶりに京大生同士の会話を耳にしたような。楽しくなってきてつい笑ってしまった。
しかし、突然押しかけた初対面の人の家に長居するわけにはいかない。
「あ、私そろそろお暇させてもらいますね」
「え、そうなん? 今からここでタコパしようと思っててんけど」
「タコパ?」
むろん、タコパ=たこ焼きパーティーというのを知らないわけではない。安藤くんが突然私をたこ焼きパーティーに誘ってきたのが不可解すぎたのだ。
「そ。僕の彼女も後で来るんやけど、良かったら一緒にどう? いいよな、学」
「うむ。わいとしては恭太が彼女といちゃつくのを目の前で見せられるぐらいなら、西條さんにもいてもらった方がいいな」
「おい、余計なこと言うなよ」
正直、このまま残るかどうかは迷いどころだ。今日出会ったばかりの同級生からたこタコパに誘われて参加するかどうか——たぶん、アンケートを取ったらかなり意見が分かれるところだろう。どうせ同じ大学の友達なんだし、パリピ精神で参加しちゃおうぜ! という人もいれば、いきなりはちょっと……と遠慮する人もいるに違いない。
うーん、どうしようかなぁ……。
まあでも、帰ったところでいつものように一人孤食をするだけだし、たまにはこういうのも悪くないか。何より、安藤くんも御手洗くんも悪い人じゃなさそうだから。
「それなら、お言葉に甘えて。あと、もし良かったら友達も呼んでいい?」
「おっけー。賑やかになりそうだ」
二人の許可が降りると、私はさっそくつばきに電話をした。
『タコパ? どうしたの急に』
「いいじゃん。こういうの、一回生ぶりだし楽しそうじゃない?」
『うーん、まあ確かに。たまには潤いが必要かもね』
「でしょ。じゃあ18時に百万遍まで迎えに行くから」
『分かった。楽しみにしてる』
約束の18時、私は百万遍の交差点まで、つばきを迎えに行った。御手洗くんの家に戻ると、安藤くんが誰かと電話をしていた。おそらく例の彼女だろう。
「初めまして〜三輪つばきです」
「御手洗学です。こっちは安藤恭太。よろしゅう」
「よろしく〜」
二人はごく自然に挨拶を交わし、たこ焼きを作る準備を始めた。つばきは普段から国際交流サークルでいろんな人と接して来ているから、新しい人間関係を築くのに慣れている様子だ。
「二人は仲良しなの?」
「仲良しっていうか、腐れ縁っていうか」
「恭太はわいの金魚の糞みたいなもんだよ」
「おい、その言い方はヒドない?」
「へぇ〜その様子だと常に一緒にいるってカンジね」
「それだと恋人みたいやから! 勘違いさせるからやめて!」
「ふ、面白い」
ほえ〜。つばきってば、出会ったばかりなのにこのなじみ様はなんなの? 先に会った私の方が一人ポツンと輪の中からはみ出ている気がする。
「それにしても、なんでカナがここにいるんだっけ」
「それには深いワケがありまして……」
私は、高校生に追いかけられて怪我をして御手洗くんの家に来るまでの流れをつばきに説明した。
「その高校生ってさ、カナのこと本当は知ってて——」
「あーあー、なんだろ、私の顔に何かついてた!?」
「ちょっとカナ」
私は、つばきに「これ以上は話さないで」と目で訴えた。つばきは私が元YouTuberで、高校生たちがそのことを知っていたから私を追いかけて来たのだと勘付いたようだ。
しかしそんな込み入った事情をここで暴露してもらうわけにはいかない。私はもう、YouTube時代の私じゃないのだ。
「そんなことよりたこ焼き焼こうよ! あ、安藤くんの彼女さんはまだ?」
「真奈はバイトが8時までやからその後来るよ」
「そっか〜。はい、じゃあこれプレートに塗って」
私は安藤くんにプレートに塗る用の油を渡す。何かを取り繕っている私の様子に疑問を抱く様子もなく、彼は油を受け取ってくれた。つばきは私の行動に呆れつつ、生地を作るのを手伝ってくれた。御手洗くんが切ってくれたタコをお皿に用意して、私は一気に生地を流し込んだ。
関西人じゃない私はたこ焼きを作るのに慣れていないのだが、関西人ぽい安藤くんも、さして得意というわけでもなさそうだ。関西人がたこ焼きをたくさん食べているという偏見について、そろそろ議論する必要があるのかも。
いい感じに生地が固まるとタコを投入し、くるくると生地を返していく。生地の焼けるいい匂いが部屋の中に充満する。と同時に急速にお腹が減ってきた。他のみんなも同じらしく、「早く食べよう」と御手洗くんが取り皿を用意していた。
「よっし、焼けた!」
ふんわりと丸く焼き上がったたこ焼きをお皿に盛り付ける。鼻腔をくすぐるこの匂い。たこ焼き自体久しぶりだ。ソースとマヨネーズ、かつお節と青のりをかけるともう店のたこ焼きと寸分違わぬ出来栄えになった。
「うわ、おいひい」
「つばき、ほっぺたにソースついてる」
「そういうカナこそ、青のりが歯についてる」
「ふぇ!?」
「女性陣、楽しそうやね」
「恭太だってずっとニヤついてるじゃん」
「誤解を招くようなこと言いなさんな」
あっちでもこっちでもどうでもいい会話で盛り上がる。友達と(正確に言えば今日あったばかりの知り合いだが)たわむれるのが久しぶりで、心がほっと和んでいく。
安藤くんの彼女が来るまでお酒は飲まないでおこうと言っていたのだが、無理だった。ビールやらハイボールやら酎ハイやら、御手洗くんが冷蔵庫から持って来てくれた。それぞれ好きなお酒を飲み、江坂さんが来る頃にはいい感じにほろ酔い状態に陥った。
「江坂真奈です。よろしくお願いします」
バイト終わりの彼女がやって来ると、安藤くんの表情が一気に緩む。こりゃ、相当惚れてるんだなと誰もが一瞬にして分かってしまう。
「よろしくね」
初めまして、の私とつばきが交互に自己紹介をした。近くで見ると可愛らしい子だ。やはり、彼女は女子大の学生らしい。「女
の子」感のあるメイクや服装が物語っている。
「真奈〜はいこれ飲んで〜」
「はいはい」
酔っ払いの安藤くんが、江坂さんにレモンチューハイを手渡した。
「二人はいつから付き合ってるの?」
お酒に強いつばきは淡々と気になることを聞いていく。
「実は、昨日からなんです」
「へえ、そうなんだ。それで彼はデレデレなのね」
そりゃ付き合いたてのカップルがラブラブなのは当然だ。それを間近で見せられる私たちはむしろラッキーなのかもしれない。
「ねえ、江坂さんは連絡はまめにしたいタイプ?」
「はい、そうですね。私って返信も早いみたいで、よく友達とかに話すとびっくりされます」
「おお、そうなんだ。あたしもさー、すぐに返事しちゃうから最初彼氏からは驚かれたよ。今はなんともないけどね」
「同じですねっ」
男性陣には聞こえないくらいのボリュームで、いわゆる「ガールズトーク」で盛り上がる二人。うぬぬ、これは私が入る隙がない……。
「ちなみに、安藤くんのどこが好きなの?」
「うーん、モテなさそうなとこ?」
「え、そうなの!?」
彼女の衝撃発言が耳に入ってきたのか、酔っていた安藤くんがものすごい勢いで江坂さんの顔を覗き込んだ。
「冗談だよ。でも、前の彼氏に浮気されちゃったのもあって、女遊びが好きそうな人が苦手なのは本当だよ」
「ほほう。ということは、恭太が女慣れしてなさそうだからってのもあるんだ。まったくその通りだなあ」
「ちょ、そりゃあまりに失礼じゃありません?」
「いやでも事実だし」
「くそぅ……」
悔しがる安藤くんの姿に、どっと笑いが湧いた。確かに、素直すぎる安藤くんの性格だと女の子にはモテないのかもしれない。しかし、怪我していた私の手当てをしようとしてくれたところなんかは、優しい人だと思った。
安藤くんのモテないエピソードを中心に、その後のタコパも盛り上がった。彼氏の冴えない話を聞いてもふわふわと笑っているだけの江坂さんはあっぱれとしか言いようがない。私だったら聞いていられず別の話題を振ってしまうだろう。
楽しい時間はあっという間で、気がつけば午後10時を回っていた。
「そろそろお開きにする?」
「せやな」
「あ、ちょっと待って」
後片付けでも始めようとしたところで、御手洗くんが甚平の袖口をまさぐった。なんだなんだと見つめていると、袖口からスマホを取り出して耳に押し当てた。
「ちょっとごめん」
みんなにそう断りを入れて、彼は隅っこの方で誰かと電話を始めた。御手洗くんが電話中なので私たちも大きい音を立てるわけにもいかず、自然とその場は一時静まり返る。
電話はすぐに終わったらしく、御手洗くんは「いやーまいったな」と頭を掻いて戻って来た。
「どないしたん?」
「なんか、明日妹がうちに来るみたいで」
「ああ、例の妹さんか」
「そうそう。あいつ、わいの生活に口出ししまくるからなあ。面倒なことになった」
「御手洗くん、妹さんがいるんだ」
江坂さんが彼に問う。妹、という響きに、私の心臓がどくんと一回跳ねた。
「うん。年子だから妹というより後輩みたいなもんだけど」
「そっか。でもいいよね。兄妹って羨ましい。私は一人っ子だから」
つばきがちらりと私の方を見た。何を言いたいのか、私には分かる。だけどこの明るい空気感の中で、私の抱えているものをぶちまけるのは場違いだ。私はつばきに気づかれないように、ゴクンと唾を飲み込んだ。
しかしその不自然なほど緊迫した私とつばきの無言のやりとりは、この家の家主にははっきりとした違和感として映ったらしい。
「二人とも、どうかした?」
御手洗くんが私の方をじっと見て何かあったのかと首を傾げた。その声に、他の二人も反応して「どないしたん」と興味を私たちの方へと向けてきた。
もう逃げ場はない。
今後付き合いを続けていくとすればいずれはバレてしまうかもしれない。でもそれ以上に、心の中で疼いているこの大きな不安を、誰かに知って欲しいという気持ちが大きかった。
私は、大きく深呼吸をして聴衆の方を向く。
「私も妹がいたんだ」
言ってしまえば、なんだそんなことかと拍子抜けした様子の安藤くんと江坂さん。しかし御手洗くんだけは、私の台詞のおかしさに気づいたようだった。
「いる、じゃなくて、いた?」
「そうなの。込み入った話になるんだけど……」
つばきの真剣な表情が私の胸に突き刺さる。続きを話そう。つばき以外、誰も知らない私の妹の話を。
「今年の6月にね、私の双子の妹——華苗っていうんだけど……失踪しちゃったの」
西條さんの口から「失踪」という言葉を聞いて、僕は思わず息を呑んだ。
ニュースや小説の中でしかそんな言葉は耳にしたことがない。失踪、つまり行方不明ということか。
西條さんの表情は強張り、僕もつられて頬がヒリヒリと突っ張るような感じがした。気のせいかもしれないけど、それぐらいの緊迫感が彼女を纏っていた。
「確かあの日は妹と一緒に買い物に出かけるところだったの。電車に乗る前に妹が『忘れ物したからちょっと待ってて』って家に戻って行って。それっきり、妹は私の前に現れなかった」
事情を知っているらしい三輪さんが眉をしかめる。彼女の話を聞いた僕は、なんとなく違和感を覚えずにはいられなかった。
「手がかりとかないん? いろいろと話が飛んでる気がするんやけど……」
たぶん、真奈も学も同じことを思っていたんだろう。僕の疑問にうんと頷いている。
「それが……私、実はよく覚えていなくて」
「覚えてへんって?」
「その日の記憶が曖昧なの。それ以外にも、なんだか記憶が飛ぶことが多くて。あんまり深く考えると頭がくらくらしてきて……」
うう、と彼女は自分の頭を抑えた。
「カナ、もういいよ」
三輪さんが西條さんの肩を支える。
「無理に思い出そうとしなくてもいいよ。警察からの話はあたしが聞いてるし。まだ何も手がかりがないんだって言ってたわ」
「……ごめん」
これは最初に西條さんが言ったとおり、かなり「込み入った」話だ。今日会ったばかりの僕たちが聞いても良かったのかと心配になる。
「いや、こちらこそごめんなさい。空気重くして。妹が早く戻って来たくなるように、私も前を向いて生きなきゃーって思ってた
とこなんだ」
「そっか。無理は禁物だよ」
「ありがとう」
西條さんは胸に手を当てて少し乱れた呼吸を整えていた。彼女は胸の内を話すことで自分を保とうとしたのかもしれない。僕だ
ってずっと恋人が欲しいという気持ちを学に話すことで、叶わない思いを昇華させてきた。それと何ら変わらないのではないか。
西條さんが少し落ち着いたところで、三輪さんが「あたしたちそろそろ帰るね」と彼女の手を引いた。僕たちもそろそろお暇しようと思っていたところだったのでちょうどいい。
「じゃあ、また。今日はありがとう」
「こちらこそ。突然押しかけてごめんね。楽しかったわ」
三輪さんと西條さんが先に玄関から出て行った。家に帰って、西條さんの気持ちが落ち着きますように。
「僕たちも帰るわ。学ありがとな」
「いつものことさ。気をつけて帰って。江坂さんも、また」
「はい。お邪魔しました」
盛り上がっていたたこ焼きパーティの終わりはしんみりとした夜風に吹かれ、秋の深まりを感じさせた。