「え?」
予想外の発言だった。重い、というのは恋愛用語で相手の愛情が大きすぎて苦しい、ということだろうか。そんなこと考えてもみなかったが、学にはそう映ったらしい。
「そう? あまり思わへんかったけど」
「いやいや、鈍いよ恭太くん。他の女の子と仲良くしないでほしいとか連絡もとっちゃだめだとか要求してくる女の子を、世間では『重い』って言うのさ。だって、浮気心がなくたって、どうしても他の子と連絡しなくちゃいけない場面だってあるだろう? それもいちいち咎められてたら生きづらいじゃないか」
「……そう言われると確かに……」
いつになく真顔で諭してくる学に、僕は納得せざるをえなかった。自分が例えば同じゼミのメンバーに連絡をとっている場面を思い浮かべる。内容はそうだな、「明日の6時から研究発表の練習だからよろしく!」といったような業務連絡だ。もしそういった連絡すら真奈は嫌だと感じるのなら、確かに学の言う通り「重い」と思ってしまうかもしれない……。
自分が考えているよりも、ことは重大なのだということをこの時初めて思い至る。
「はあ。そんなことにも気づかなかったなんて、君はやっぱり彼女ができても変わらないな」
むむ、そんな哀れみの目で見ないでくれよ! 第一、アドバイスだけして実践を積んだことのない学から言われる筋合いはないはずなんだけどな。しかしそれでも彼の言うことはいつも的を射ているため、ぐうの音も出ない。
「僕は一体どうすれば……」
「そんなのわいが知ったこっちゃないよ。まあ、江坂くんに『もうちょっと条件を緩めてほしい』とお願いするか、そもそも他の女子とまったく付き合うななんていう要求は無謀すぎるからやめてほしいと訴えるか。どちらにせよ、喧嘩になる可能性は高いだろうね」
以上、コメンテーターからの見解でしたと言わんばかりに学は前髪をさっと撫でた。
「どっちもハードル高いな……。この間の様子じゃ、真奈の気持ちに反抗したら一気に嫌われそうな気がする……」
「わいから言わせてもらうと、そんなことで崩れるような関係は遅かれ早かれダメになるのさ」
「うわ、辛辣やなっ」
今日の学は容赦ない。でも、自分の恋が儚く散って傷心旅行から帰ってきたばかりの身だから仕方ないか。ちょっと学をいじめすぎたかもしれない。これはきっと他人の気もしらずに惚気た僕への制裁なのだ。く……辛いなあ。
「とにかく忠告しておくよ。このままだと君たちの関係は簡単に崩れる。だから恭太の方から何か行動をとるんだな」
「御意……」
ああ、なんてことに気づいてしまったんだ。しかし有頂天のまま真奈と交際を続ければ必ず破滅がくるという学の言葉には一理ある気がする。早々に問題解決しなければ。よおし、次のデートで真奈に提案してみよう。浮気心がない限りは他の女子との付き合いもOKにしてほしいって。話せばわかるはずだ。うん、大丈夫大丈夫。なんとかなる!
「健闘を祈りまする」
学はもう、自分の失恋のことなど忘れたように、今までどおり僕に上から助言をする仙人に戻っていた。まあ彼が彼らしくいられることが一番なのだから、今日は大人しく言うことを聞いておくことにしよう。
はは、僕って友達想いのええやつやなあ。
さて、翌日の夜に早速真奈と会う予定のあった僕は昨日学から言われたことを頭の中で反芻し、真奈に正面きって伝えようと意気込んでいた。
「真奈、相談があるんやけど」
「ん、どうしたの?」
二人で流行りの恋愛映画を見た帰りだった。映画は不治の病にかかり自暴自棄になった女の子が大切な人と出会い、生きる希望を取り戻していくという王道のお涙頂戴ストーリーだった。真奈はこういったロマンスが好きらしく多くの観客と同様、終始鼻をすすっていた。
そんな心温まる映画を見終わり、二人で夜の鴨川を散歩しているときに僕は切り出したのだ。
「この間の、『他の女の子と仲良くしないでほしい』っていうお願いなんやけど」
「うん」
「ちょっと大変やなって……。いや、もちろん僕は真奈のことしか見えてへんよ? でも、業務連絡とかまで制限されるとやりにくいというか」
あくまで彼女の気持ちを尊重しつつ自分の要求を主張するのにはかなり苦労した。「下から、下から」を意識して超低姿勢で臨んだお願いだったのだが。
真奈は突然、ピタリと歩みを止めた。手をつないでいたので、僕の方が一歩前へ進んだところで彼女がついてきていないのが分かった。
「どうしたん?」
「……やだ」
「え?」
俯いて自分の足元を見つめながらそう呟く彼女。
「嫌って、僕が他の女の子と仲良くすること?」
今度は黙ったままこっくりと頷く。
「待ってや。そんな、仲良くするってことはないで? 真奈だって、ただ友達として男と話さないかん時もあるやろ?」
「ない。女子大だもん」
「そ、そうか……」
うーん。
そこまで反論されてしまうと何も言い返せない。論理的に考えれば絶対に僕の方が正論なのだけれど。これは理屈ではなく感情の問題なのだ。これ以上僕が意見を突き通せば、彼女の機嫌を損ねかねない。
「分かった、分かった。ごめんやで。やっぱ真奈の言う通り連絡とかせーへんから許してや」
両手を挙げて「参りました」のポーズをとる。すると真奈は急に顔を上げてぱっと花が咲いたように笑う。彼女が笑ってくれて良かったと思う。もうこの件で彼女の言い分を否定するのはやめよう。
それから僕たちはまた手をつないで鴨川を歩き始めた。昼間は日差しを反射してキラキラと煌めく鴨川が、夜は真っ暗で底無しのように見える。
ああ、やっぱり僕は彼女には逆らえんのや。
脳内の学が「これだから恭太は」と呆れ顔で頭を抱えている。いやあ、仕方ないやん。だって、僕にとっては真奈を失うことが一番怖いんやから。堪忍せえ。脳内学を必死に追い払う。けれど、彼を追い払う手にだんだんと力が入らなくなっていることに気づいた。
本当に、本当に僕は真奈とこのままやっていけるんだろうか——。
初めて頭によぎった不安がもくもくと雲の形になり仙人のような学を乗せて飛び始める。『そうだよ恭太くん。君はいずれ、彼女のことを疎ましく感じるようになるさ』
『そんなことあらへんわっ。せっかくできた彼女なのに、大切にせえへん意味が分からん』
『頭で思ってることと、心で感じることは別なのさ。まあ、そのうち君も理解できるって』
『なぬ〜』
脳内の学は僕の妄想の産物に過ぎないのに、実際の学が本当に言いそうなことばかり告げてくる。
『ええから見とけ。僕は絶対に真奈を手離さへん』
『そうかい。まあせいぜい頑張りたまえ』
もわわわん、と雲と一緒に霧散した脳内学。気がつけば僕は肩でぜえぜえと息をしていた。
「恭太くん大丈夫? 顔色悪いみたいだけど」
「大丈夫……ごめんやで」
「なんで? なんだか、今日は謝ってばかりね」
「そうかな? ご、ごめん」
「ほらまた」
真奈が「何か辛いの?」と僕の頭をぽんぽんと撫でる。ああ、なんて温かい手だ。僕はこんなに優しい真奈の想いを踏みにじろうとしていたのか——。
「ありがとう。もう大丈夫や」
「よかった〜」
大丈夫、大丈夫。
何度も自分に言い聞かせる。これだけ彼女のことが好きなのだから、僕は大丈夫。
けれど、この時点で僕は気づいていなかった。そもそも、自分に言い聞かせなければならないくらい、心が「大丈夫」を保てていないということに。
彼女の想いが、ちょっとずつ心に重くのしかかっているということに。
それから約一ヶ月後、クリスマスを一週間後に控えたタイミングで、僕のHPはほとんど尽きかけていた。
「だから、言わんこっちゃない」
「嘘だ……こんなのは嘘だ……」
アポも入れずに突然押しかけた学の家のコタツに肩まで埋めながら、僕は深くため息をついた。
この一ヶ月間、真奈との間に実にいろいろなことが起きた。「いろいろなこと」なんて濁して言わなければならないほど、僕は心にダメージを負っている。
「で、何があったんだい?」
心の傷を容赦なく抉ってくる仙人・学を怨みつつ、しかしこうなったのはすべて自分のせいなのだと悟り、彼に洗いざらい話すことにした。
「……小学校の同級生の女の子から久しぶりに連絡が来てさ」
「君に女の子の友達がいたなんて意外だな」
「さっそく失礼なやつだな。とりあえず最後まで聞けよ」
「うい」
その返事……真面目に聞く気はあるのかと問いただしたい。でも、今の僕には真奈との間に起こった事件を話す以外に体力を使うことができない。
「いきなりの連絡だったからテンパったわけよ。それも、真奈とのデート中やったし。内容は年明けに同窓会をしないかっていう
お誘いやったんやけどさ」
コタツに埋もれているはずなのに、背筋が冷たい。ああ、きっとあのおぞましい事件を思い出して鳥肌が立っているのだ。
「ちょうど真奈が隣にいて、スマホを見て驚く僕に不信感を抱いたんやな。『いま、女の子から連絡が来たでしょ』っていきなり
核心をついてくるもんで、とっさに『あ、うん』って頷いてしもたんよ」
「……素直なやつだな」
「仕方ないやろ。学も知ってる通り、僕は不器用なんよ。とっさの立ち回りがまったくなってなかった」
もっとも、こういう時に上手く立ち回れる器用さを持ち合わせていたら、きっと僕はスマートで賢い男として女の子にモテる人生を歩んでいただろう。
「とにかく、女の子から連絡が来たことがバレてもうて、それからはもう話すのも憚られる……」
僕はぶるぶるっと身震いした。さっきからコタツに入っているというのに寒すぎる。
あの時のことを思い出すと本当に背筋が凍る。女の子と連絡をとらないという約束を破った僕に、真奈はまったく口をきいてくれなくなった。普段は女の子らしくて朗らかな真奈が、デート中ずっと無言でいることはかなり堪えるものだった。そして、そのお通夜デートが終わってから一言、
「スマホ、預からせてもらうね」
と淡々と言い放った真奈は僕のズボンのポケットからスマホを抜き取り、そのまま自分の鞄に入れてしまったのだ。
それが、一昨日のこと。
「ああ、だから今日連絡もなしにうちにやってきたわけだ」
「ご名答。だって、連絡手段がないんやもん!」
それ以前にも、スマホにGPSをつけられたり、単発バイトの間中バイト先の入り口で待たれたり、大学に行くのにも後をつけられたり。それはもう、まごうことなきストーカーとしか言いようのない行為を真奈は繰り返していた。
「も、もう限界なんや……。さすがに、どんなに好きでもこれは耐えられへんっ」
「……」
心の悲鳴を上げる僕に、さすがの揶揄戦士・学もおちょくることができないご様子だ。「ちょっと失礼」とその場を立った。トイレにでも行くんだろう。
真奈のことを考えれば考えるほどに、心がざわついて苦い味が胸いっぱいに広がるような心地がした。あんなに好きだったのに、今は真奈のことを疎ましいと思っている。その事実が、とんでもなく苦しいし、彼女にも申し訳ない気持ちになる。でもやっぱり耐えられないものは耐えられないのだ……!
「これでも飲みなはれ」
カタン、と彼が焦げ茶色の陶器のコップに入れたお茶をコタツの上に置いた。
「みかん茶だよ。柑橘の香りは気分を落ち着けてくれるからね」
「あ、ありがとう」
トイレに立ったわけじゃなかったのか。わざわざ僕のためにみかん茶なんて珍しいお茶を淹れてくれたんだ。
温かいお茶を口に含むと、ほんのりと香るみかんの香りが鼻腔をくすぐった。しつこすぎない匂い。意識しなければみかん茶だと気がつかないくらい、お茶の味に溶け込んでいて、控えめで美味しい。
僕が惚れた真奈も、控えめで可愛らしい女の子だったはずだ。それがいつしか僕を締め付ける存在へと変わってしまった。あの可憐な真奈はきっともう帰ってこない。
「別れても、いいんやろか……」
付き合った当初、別れることになるなんて微塵も想像していなかった。しかも自分から別れを切り出そうなんて。自分に彼女ができたことが奇跡みたいなもんで、この子を手放せばもう一生恋人なんかできないと思っていた。
しかしちょっと付き合っただけで、簡単にボロは出た。彼女は僕のことを好いていてくれるがゆえに、重たい女だと思われるようになった。それで振られる彼女は可哀想といえばそうだ。悪い人ではないのだ。ただ好きという気持ちが、彼女を暴走させているだけなのだから。
「仕方ないさ。恋なんて、最初から最後まで自己満足に過ぎないよ」
遠い目をして呟く学。三輪さんへの恋を失恋したからか、以前よりも言葉に説得力が増している。
彼の格言を聞いて、僕はよくやく決意を固めた。
来週はクリスマスだ。こんな気持ちのまま、真奈とクリスマスを過ごすのは真奈に失礼だと思う。なんとかそれまでに決着をつけるんだ!
「クリスマス・クライシスだね」
キラーンという効果音でも聞こえてきそうな切れ目をして、彼は格好良く言い放つ。
「決め台詞みたいに言わんでええから」
おそらく今すごく気分が良くなっている学とは反対に、僕は大きなため息をついた。
本格的な冬の寒波が身体の芯から抉るように刃となって襲いくる。なんとか目的地まで辿り着くと、緊張感で一気に身体が萎縮した。
僕は、肩で息をしながら恋人の揺れる瞳を見つめて、呼吸を整える。
「別れて、欲しいんや」
あのあと、善は急げだ恭太くん! と首根っこを掴まれてブンブンと身体を揺すられた僕は彼の勢いに負けて、その日の夜に自転車を漕いで真奈に会いに行った。
「今、なんて……?」
突然彼女の住むマンション前までやって来た僕に、真奈は心配そうな表情を浮かべていた。そりゃそうだ。連絡もなしに突然恋人がやって来たとなれば、本来は嬉しいはずなのに、その恋人の口からまさかの別れ話が飛び出して来たのだ。もっとも、連絡できなかったのはスマホを取り上げられているからだが。
そして、彼女の懸念通り僕は彼女が一番聞きたくないであろう台詞を放ったのだ。
僕と彼女の間に冬の冷たすぎる夜風が吹き抜ける。コートを一枚羽織っただけの僕は、はああっくしゅんっ! と盛大なくしゃみをした。普段なら真奈がポケットからティッシュを差し出してくれるのだが、この時ばかりは彼女も硬直していて眉一つ動かさない。
「僕さ、真奈と付き合えて本当に幸せやったんや。本当ならずっと幸せなまま付き合っていたかったんやけど」
言わなくちゃいけない。彼女が僕のことを本気で好きでいてくれた分だけ、僕も本気で彼女を振るんだ。
「最近、ちょっと気持ちが重なってきて……僕は真奈の気持ちの大きさに応えられへんっ。このままじゃ真奈のこと傷つけてまう。やから、別れて欲しい」
彼女は、僕の必死の別れの言葉を無言で聞いていた。泣くことも喚くこともせず。まるでそれは何が起こっているのか分からないという戸惑いのようでもあったし、この時が来るのを予感していたからこその落ち着きとも感じられた。
「嫌……」
彼女がふるふると身体を震わせる。殴られるか、泣きつかれるか——どちらに転んでもおかしくない。だって僕は、僕を大好きでいてくれる彼女を振って、傷つけたのだから。僕は息をのみ、覚悟して目を瞑った。
「嫌だって、言いたい……でも、もう決意は固いんだよね」
予想外の言葉に、僕はゆっくりと目を開ける。
目の前には、潤んだ瞳から涙がこぼれないように必死に我慢している真奈がいた。
彼女のことだから、もっと泣きついてくるのかと思っていた。
別れたくないと僕を引き止めてくると覚悟していた。
しかし、僕の言葉に小さく頷いた彼女は、諦めたように眉を下げて笑う。だから僕も、ゆっくりと頷いた。
「分かった。やっぱり重かったんだ」
「自覚あったん?」
「うん、ちょっとは。実はね、前の彼氏から振られたのも浮気って言ったけど……私が重かったのが原因なの。。私、ちっとも成長してなかったんだね」
「そんなことは……」
意外だった。彼女が自分の行いを客観的に見つめていたということ。女の子と付き合うのが初めてだった僕には、同じ理由で二回も恋人に振られた彼女の気持ちを完全に理解することはできない。でも、僕の意思を受け入れてくれた彼女のことを思うと、胸がツンとした。ああ、僕は真奈のことが本気で好きやったんやな。だからこそ、辛さを必死に噛み殺している彼女に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいになってるんや……。
「ごめんね、恭太くん」
「謝らんでええよ。むしろこっちこそごめん」
「ううん。私、次は頑張るから」
「うん」
「もしまた会ったらさ、成長した私を見てよ」
「分かった。期待してるで」
泣き笑いを浮かべる真奈に、僕もつられて泣きそうになった。でも僕が泣くのは違う。僕が泣いたら、この後真奈は一人で泣かれへんくなる。
「あ、そうだ。スマホ返すからちょっと待ってて」
「ああ」
家の中に戻っていく真奈。僕は遠ざかる真奈の背中をぼうっと見つめる。
しばらくして戻って来た彼女は僕の手にスマホを握らせた。
「はい、クリスマスプレゼント」
「何やねんそれ」
「ふふっ」
最後まで可愛らしい彼女でいることを怠らなかった真奈は、「遅いから早く帰った方がいいよ」と僕の背中を押した。
「真奈」
「ん?」
「ありがとうな」
最後にそれだけ伝えたかった。
真奈と恋人になれたことで、少なくとも僕の灰色の大学生活は色を取り戻した。たった数ヶ月の付き合いだったけれど、真奈との紡いだ思い出は僕の人生にとって必要不可欠な宝だ。
真奈は淡く微笑んで頷いた。きっと今傷ついているはずなのに最後まで気丈に振る舞うなんて、やっぱり君はすごいよ。
彼女に背を向けて僕は自転車に跨る。
背後からくちゅん、という可愛らしいくしゃみの音が聞こえたけれど、僕は振り返らない。
12月の京都の夜は、独り自転車で駆ける僕にはあまりに暴力的な寒さを運んでくる。顔面に凍てつくような寒さの風が突き刺すたびに、ヒリヒリとした痛みを覚える。手袋をしているはずの両手の感覚がなくなっていく。それでも必死に漕ぎ続ける。いち早く彼女から遠ざかりたい一心で。だってそうしなければ、彼女が早く一人で泣けないと思ったから。
「ぷはっ」
熱い。身体がむずむずと熱を帯びているのを感じながら、私は布団から跳ね起きた。今、たぶん37度はいっているだろう。しかし前後の記憶がない私は、なぜ自分がいまベッドから起き上がったのかすら分からず不思議だった。しかも、よく見ると私の部屋じゃない。理路整然と並んだ家具や本棚にずらりと並べられた心理学の本を見る限り、ここはつばきの部屋、だと思う。
「わ、びっくりした。大丈夫?」
「……つばき」
ああ、そうだ。私は確かつばきとご飯を食べていて、途中で頭がぐらぐらしてきて——たぶん倒れたのだ。
「えっと……家に運んでくれたんだ。ありがとう」
「運んだ? いや、ずっと家で飲んでたんじゃん。それでぶっ倒れるからベッドに寝かしといただけよ」
「家で……?」
あれ、なんか記憶が混乱している。
私はさっきまでイタリアンレストランでつばきとご飯を食べていたんじゃなかったっけ……? それが、つばきの家で宅飲みをしていたことになっている?
「つばき、今日って何日だっけ」
「12月17日」
「……え」
おかしい。私の記憶では今日、11月21日なんだけれど。なぜ1ヶ月も記憶が飛んでいるんだ。
「もしかしてまた記憶が飛んだの?」
「……そうみたい」
これまでもちょくちょく記憶が飛ぶことがあったが、こんなに長い期間の記憶が空白なのは初めてだ。
「熱があるみたいだし、苦手な割に結構お酒飲んでたから混乱してるのよ、きっと」
「そっか、そうだね」
つばきはいつも冷静で、私を落ち着けてくれる。こういうところが本当に頼れるお姉さんという感じで、私は彼女の世話になりっぱなしだ。
「あ、そういえば」
私はポケットから自分のスマホを取り出し、例のマッチングアプリを開く。
私の記憶がどうにかなっている間、「ライク」をしてくれている人が百人以上溜まっていた。ずっと放置していたのだから仕方ない。「ライク」をしてくれた男性のプロフィールを覗く前に、私は「ユカイ」とのメッセージ画面を開いた。
『初めまして! メッセージくださって嬉しいです。よろしくお願いします』
前回ユカイがメッセージを送ってくれてからというもの、私は何も返事をしていなかったのだが、さらにユカイから新しいメッセージが来ていた。
『奏さん、ここで色々とやりとりするより、会って話がしてみたいです。もしよければ返信ください』
「おお……」
「どうしたの、カナ」
スマホの画面を見て固まっている私を訝しく思ったのか、つばきがそう聞いてきた。
「いや、例のマッチングアプリの人からメッセージが来てた」
「へえ、どんな?」
「なんか、会いたいって」
「え!」
マッチングアプリを使ったことのないつばきは分かりやすく驚いているが、「会いたい」と言われること自体は特にびっくりすることはない。
それよりも意外だったのは、ユカイが見た目のチャラさに反して本当に丁寧なメッセージを送ってくることだ。前回のメッセージに返信していない私にうざがられないように気を遣っている様子が窺える。
「展開が早いのね。で、会うの?」
「うーん、どうしようかな」
私としてはもう少しメッセージでやりとりをしてから会いたいというのが本音だ。しかし彼の言い分もよく分かる。散々ここで
やりとりをして結局会ってくれない女の子もいるだろうし、そうなるぐらいなら最初から会える人かどうかを確かめたくなるものだ。
「来週クリスマスだし会っちゃえば?」
「クリスマス……」
なんと。
そうだ、私はまだ11月の気分でいるが、現在12月17日。ちょうど来週の今日が24日ときた。
毎年聖なる夜には華苗と一緒に家に引きこもり、カップルたちのデートを盛り上げる夜景の灯火となっているが、今年は華苗がいない。二人なら彼無しのクリスマスも十分楽しめたが、一人きりで家に閉じこもっているなんて、耐えられるだろうか?
「つばきはクリスマス、神谷くんと過ごすの?」
「うん、今のところは」
「そっか。ていうか、神谷くんとあの後どうなったの」
「変わらないよ。相変わらずデートは少ないし返信も遅い。来週のクリスマスのデートが超久しぶり」
「なるほどねえ」
つばきは先月神谷くんとの関係が上手くいっていないと悩んでいたがまだ続いているらしい。
「クリスマスで勝負をかけようと思って」
「マジで。クリスマス・クライシスじゃん」
「よそのカップルの危機を面白おかしく表現せんでいい!」
「ごめんごめん」
頬を膨らませてむくれるつばきだが、内心不安だということは分かる。自分に夢中だった恋人がどんどん離れていくのを感じたら、私だって同じ気持ちになるだろう。
「カナもデートしてくればいいじゃない」
「デートって、このユカイと?」
「そう。案外ウチの大学にいる人だったりして」
「あり得なくはないね」
ユカイは24歳と書いているが、社会人なのか学生なのかは書いていない。大学院生なら24歳でも不思議じゃないし、浪人経験があれば同級生だってあり得る。
「どうしようかな〜」
デートと言っても初対面の人とじゃクリスマスのロマンを感じる余裕はない。それなりに緊張するし、服装や振る舞いに気を遣って疲れることになる。しかし、誰とも予定のないままクリスマスを迎えるのは悲しすぎるし、一歩踏み出さなければ恋人なんて夢のまた夢、というのは間違いない。
「正直言うとさ、あたしゃ不安なワケよ」
「不安って神谷くんとのこと?」
「違う違う。カナが一人でクリスマスを過ごすこと。だって初めてでしょ? 今年はその、ナエだっていないんだし……」
ナエ、というのは華苗のことだ。つばきはいつになく真剣な表情で私を見つめている。私はつばきに、余計な心配をかけているのだ。私と華苗のことを両方知っているつばきにとって、華苗がいなくなった今の私が頼りなく見えているのだろう。
「確かに華苗がいないクリスマスは初めて。そうか、本当の意味で一人きりのクリスマスを過ごしたことなかったんだ私」
「でしょ? だからアプリの相手、どうせいつか会うのなら予定のないクリスマスでいいじゃない。ま、お相手もクリスマスが空
いてるとは限らないけどっ」
「マッチングアプリしてるぐらいだからさすがに空いてると思うけどな」
「さあて、どうでしょう」
いたずらっ子の笑みを浮かべるつばき。良かった、つばきが心配そうな表情をしているのに、私は耐えられない。彼女にはいつだって頼れる姉御として笑っていて欲しい。
「分かった。会ってみることにするよ」
「そうこなくっちゃ」
つばきにアドバイスをされるがままに、私はユカイに返事を送る。
『お誘いありがとうございます。ぜひ一度お会いしてみたいです』
ちなみに24日はどうですか? と送ろうとしてやめた。向こうにその気があれば、そんなこと焦って送らなくても日にちを聞いてくれるだろう。一度にたくさんメッセージを送りすぎるのはご法度だ。重たい女だと思われてしまう。
「なんか楽しそうじゃない、カナ」
「え、そう?」
気づかないうちに笑みが零れていたようだ。
「うん。やっぱりクリスマスのデートはいいよね。あたしも頑張ってくるわ」
楽しんでくる、ではなくて「頑張ってくる」。そこにつばきの神谷くんへの想いの強さが垣間見えて、頑張れと心の中で叫んだ。
ユカイにメッセージを送った次の日、ちょっと寝坊して昼前に目が覚めると早速ユカイからの返信が来ていることに気づいた。
『ありがとう! いつがいい?』
いくらか口調がラフになっている。しかし悪い気はしない。ちょっとずつ距離を詰めようとしてくれているのが分かり、好感が持てた。
『もし良かったらですけど、24日はどうですか? 私は予定がないので(笑)』
あまり重くなりすぎないように、あくまで「くりぼっちを回避したいぜ!」という軽いノリを演出する。
『いいよ〜クリスマスイブだね。俺も予定ないから喜んで!(笑)』
スマホの向こうで、ユカイが笑っている顔が浮かぶ。年上だけど子犬みたいに可愛らしいテンションで。
案外簡単にクリスマスイブのデートを了承してくれて肩透かしをくらった気分だ。
その後私はユカイとデートの内容、待ち合わせの場所、時間を決めた。初対面のデートだと普段はご飯に行くだけで終わることが多いのだが、せっかくクリスマスだしイルミネーションでも見に行こうということになった。
『どこのイルミネーションを見に行きますか?』
『今年は鴨川でやるらしいから、そこに行こう』
『そうなんですか? 了解です』
京都に三年半住んでいるが、鴨川でイルミネーションをやっているのなんて聞いたことがない。でも私よりも京都暦が長いであろう彼が言うのだから、穴場スポットがあるんだろう。
『じゃあ、24日の17時に出町柳駅前でいいかな』
『場所、こちらに合わせていただいてすみません』
『当たり前だよ。楽しみにしてます』
彼とのやりとりが終わり、私はスマホの画面を閉じた。
あれ、そういえば私、最寄駅が出町柳駅だって伝えてあったっけ。
プロフィールに大学名を書いていたかもしれない。まあ何でもいいか。待ち合わせ場所が自宅近くだとありがたい。
私はつばきに、「ユカイとクリスマス過ごすことになったよ〜くりぼっち回避(笑)」と送っておいた。つばきから、「グッジョブ」とスタンプが送られてくる。つばきの方は、今度はドタキャンなんかされずに神谷くんと予定通りクリスマスを過ごせるだろうか。親友がむくれているとことを見たくないから、頼んだよ神谷くん。
先ほど起きたばかりのベッドにぼふっと倒れ込み、目を閉じる。大学四回生、もうほとんどやることもなく卒業を待つばかり……あんなに寝たのに冬って異常に眠い。やることないし、もう少し寝るか……おやすみなさい。
……
……
………。
て、違う!
今日は確か、社会学研究室の院生たちが研究発表するから出席しないといけなかった!
時計を見ると午後1時過ぎを回っている。すぐに跳ね起きたと思ったのになんと一時間も眠りこけていた。
「発表って1時からよね……」
誰にともなく呟き、はあ、とため息をつく。
院生たちの発表を聞くのに出席点などがあるわけではないが、先輩たちの研究発表をぶっちするなんて後ろめたい。私の所属する文学部では卒業後就職する人が大半だが中には院進する人もいる。そういう人たちにとって、今回の発表は今後の研究の道筋と言っていい。いくら私が就職組だからと言って、出席しないのはあまりにも不良だ。
一か八か、途中参加できる可能性にかけて急いで支度をし家を飛び出した。自宅から大学まではすぐなので、起きてから30分で文学部校舎にたどり着いた。入り口のところで今日の研究発表の出席者を調べているらしく、私は「西條奏です」と名乗った。
「西條奏さん。あなた、確か……」
なぜか事務員は首を傾げている。私、事務員さんに何か覚えられるようなことでもしたっけ。まあいいや。今はそれどころじゃない。早くしないと研究発表が終わってしまう。
いざ中へ突入! と意気込んだところで、近くから聞き覚えのある男の人の声が聞こえてきた。
「クリスマス〜? もちろんナナコと一緒に過ごすに決まってんじゃん」
「わあい。真斗、やっぱり私の方が好きやん」
「そんなこといちいち言わせんなよ。恥ずかしいだろ」
ほうほう、いちゃいちゃカップルの甘々トークですか——と簡単にはスルーできない。なぜなら今、関西弁の甘ったるい声で
「真斗」と男を呼ぶ声がはっきりと聞こえたからだ。
「真斗って、神谷くん……?」
「まさと」なんてよくある名前だ。他に「まさと」がいたとしてもおかしくないのだが、男の方の声が聞き覚えのあるものだったから、私は思わず息をのんだ。
文学部校舎に踏み込んだ足をいったん引き戻し、声のする方へと顔を向ける。声は文学部校舎の駐輪場の方から聞こえていた。授業時間の今、駐輪場には声の主以外誰もいない。
「ナナコの方こそ、彼氏は大丈夫なのかよ」
「私―? うん、もうすぐ別れるしええよ。あいつ、なんか最近素っ気無いし研究室に篭りきりで相手してくれへんから」
「そうか。なら決まりだな。せっかくのクリスマスだし、どっかでコース料理でも食べるか」
「やった、賛成!」
ナナコ、と呼ばれた女の子の腰に腕を回す男は満足げな表情で彼女を見ていた。
はたしてそれは予想通り、神谷真斗だ。
彼の目にはおよそナナコのことしか映っていないのだろう。ちょっとずつ私が近づいているのにこちらには目もくれない。神谷くん、どうしてつばきという彼女がありながら、堂々と他の女の子と笑っていられるの? もしかして、その子と上手くいってからつばきのことを振るつもり? それってキープって言うんじゃないの。
自分の恋人でもないのに、いや友達の恋人だからこそ、怒りで頭の中が熱くなっていく。終業のチャイムが校舎から聞こえてくる。もう研究発表には間に合わない。それならばせめて、つばきが傷つく前に神谷真斗に制裁を加えたい。
無計画で心の従うまま、彼の方に手を伸ばす。ナナコに夢中の彼は私の存在に気づかない。なんでもいい。なんでもいいから反省してほしい。胸ぐらを掴んで問い詰める? いやいや、そんなヤクザぶったことが自分にできるわけない。だけどこのまま黙って見てるだけなんて嫌だ。つばきが傷つくところを、私は見たくない。じゃあ、どうすれば——。
「何してんねん、西條さん」
伸ばしていた手を誰かに掴まれる。神谷真斗の方に向いていた意識が引き戻され、掴まれた腕の先にいる人物を捉えた。
「……安藤くん」
彼に会うのも一ヶ月ぶりだった。図書館で会話を交わしたとき、彼は恋人の真奈から他の女の子と話すのを止められていると言っていた。それなのになぜ今、彼は自分から私に声をかけてきたんだろうか。しかも手を触れるなんて、大丈夫なの?
「なんや変なことしようと思うとらん?」
「私はべつに。親友を救おうとしてるだけで」
「親友って、三輪さんのこと?」
「そう」
私の主張を聞いた彼は神谷真斗とナナコの方へと視線を向けた。私が何を言おうとしているのか悟ったのか、「なるほど」と呟いてメガネをクイッと上に持ち上げる。
「あの男の子、もしかして三輪さんの彼氏?」
「うん」
「てことは……」
京大生は得てして頭の回転が速い。状況を読み取る能力も長けていることがほとんどだ。
「もしかして浮気?」
「そうみたい」
「なるほど……」
友人の彼氏の浮気現場を目撃してしまった場合、とるべき行動は次のうちどれか。
一、浮気者は誰じゃあああと殴り込みに行く
二、見なかったことにする
三、今すぐ友人に連絡をして、おたくの彼氏、浮気してまっせと告げ口する
四、逃げる
怒りが沸沸と煮えたぎっている今の自分の精神じゃ、どの選択肢をとってもおかしくない。気持ちとしては今すぐ彼を詰りたいし、つばきに連絡したい。でも、クリスマスデートを楽しみにしているつばきが傷つくところを見たくない。見なかったことにして逃げるのもアリだが、心にモヤモヤが残ることになるだろう。
う〜ん。
私が頭を押さえて考え込んでいると、真面目系男子安藤くんは「どないするつもり」と私に問うた。そんなこと、私が聞きたい。君ならこの状況、どうするの?
「少なくとも今すぐ僕たちが出ていくのは得策じゃないと思わへん?」
「そ、そうだね」
私の頭の中のコマンドが見えているかのような口ぶりで、彼は腕を組み私の目を見つめた。罪人を裁く裁判官のような目だ。
「それとあっちの女の子、なんか見たことがあるような気がするんだよなー……」
「ナナコって呼ばれてる人?」
「ナナコ……ああ、そうや。確か一回生の時、学が僕と仲良くなる前にぱんきょーで一緒の授業を受けていたって言うてた女の子
だ! 写真を見たことがあるから彼女で間違いない。結構仲良くなったらしいけど、なんでか突然交流を辞めたって聞いたな。何かあったんとちゃう?」
「それじゃあ、御手洗くんにナナコのこと知ってるか聞くの? でもそれって何か意味ある?」
「ふふ、僕にいい考えがある!」
悪魔のような笑みを浮かべた安藤くんは、神谷真斗とナナコの方をキリっとした目で睨み付けて高らかに笑う。
彼らと安藤くんの間を、数人の学生たちが横切る。午後イチの授業が終わったらしく、周りを見回すと校舎からごちゃごちゃと学生が出てくるところだった。
たまたま安藤くんと目が合った女の子が、「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。ナナコたちを蛇の目で睨んでいる安藤くんに恐怖したのだろう。
「西條さん、今すぐ彼らに制裁を加えるのはちょっと待ってくれへん?」
「う、うん。でも何? いい考えって」
「それは後で教えるわ。今から学の家に行くで」
「え、今から?」
「そうや。善は急げや!」
なんだかとっても楽しそうな安藤くんが、私に右手を差し出す。いつか自転車で転倒した時のことを思い出す。あの時も彼は私に手を差し伸べてくれた。私はそっと、彼の手を握る。
「って、うひゃ!」
喉の奥の方からおかしな声を上げる彼に驚いて、私は慌てて握った手をさっと引いた。どうやら自ら手を差し出したくせに、実際に手を握られてびっくりしたらしい。
「ごめんなさい」
「い、いや僕の方こそごめんやで。馴れ馴れしく手なんか出して……」
二人の間に気まずい空気が流れる。彼は無意識に私の手を引こうとしたのだ。まるで彼女にそうするように。真奈さんと間違えたんだなと気づく。それに応じようとした自分が急に恥ずかしくなって、耳の先まで熱くなった。
「……そういえば私と話して大丈夫なの? 真奈さんから怒られるんじゃ」
安藤くんが私に話しかけて来てから気になっていたことを聞いた。
彼は私の問いに、ああ、とどう言おうか考えあぐねている様子だった。額をポリポリと掻き、空を仰ぐ。答えにくいことを聞いてしまったという罪悪感が生まれ、「言いたくないならいいよ」と伝えようとした。しかし彼はすぐに口を開き、「それが」と事の顛末を話し出した。
「真奈とは昨日別れてん」
「えっ」
真奈さんにぞっこんだった彼の様子を思い出した私にとって、まさに青天の霹靂。確か二人はまだ付き合い始めたばかりだったと記
憶している。何かあったんだろうか。
「……変なこと聞いてごめん」
「いやええよ。別れたのは僕が原因やし」
「そうなんだ。真奈さんの方から別れを?」
「ちゃうねん。僕が別れようって言ってん」
「……」
まさか。安藤くんがあの可愛らしい彼女を自ら振るなんて。きっとのっぴきらない事情があったに違いない。
青天の霹靂に寝耳に水で思わず私は口をつぐんでしまう。彼らのラブストーリーの終わりが気になって仕方なかったのだが、さすがに昨日の今日であまり踏み込むこともできない。見れば彼は真剣な眼差しで真奈さんと別れたことを思い出しているようで、彼にとって彼女との別れが傷になっていることが明白だった。
私がしばらく無言で彼の表情が変わらないのをじっと見つめていると、彼は「どうしたん?」と私に聞いた。
「いや、その……きっと事情があったんだろうなって思うと、何を言えばいいか分かんなくて」
しどろもどろに答えると、安藤くんは「ははっ」と場面に似合わず頬を持ち上げた。
「気遣ってくれてるんやね。ありがとう。真奈のことはめっちゃ好きやってんけど、どうしても付き合い続けることができひんって思って」
「そっか……そういうこともあるよね。付き合ってみないと分かんないことだってたくさんある」
「そや。僕は恋愛初心者すぎてそういうこと知らんかった。世の中のカップルたちは皆例外なく幸せやって思うてた。でもちゃう
んやな。幸せなカップルもおれば、今まさに別れの危機に瀕してるカップルだっておる。二人にしか分からん事情っていうのはごまんとある。『リア充爆発しろ』とかもう言えへんわ」
最後は笑い混じりに鼻の下を掻く安藤くん。彼の言うことは、恋人が欲しいと願って止まない私にとって目から鱗だった。
世のカップルたちが全員幸せなわけじゃない。確かにそうだ。親友のつばきだって不動の彼氏だと思っていた神谷くんとの関係で悩んでいる。それなのに私はただただ自分の肩を預けられる恋人が欲しくて、いなくなった妹の代わりになってくれるような存在を探して。エゴまみれの自分に、たとえ恋人ができたって本当に幸せになれるのかと言えば分からないのだ。
「私、安藤くんのこと誤解してたかも」
「え、そうなん?」
「うん。なんかもっと恋に飢えたイカ京だと思ってた」
「なんやその悪口。ひどいなあ」
「ふふ、ごめんごめん。でも今はすごいなって思ってる」
「ほんまに? 悪意とかないよな?」
「ないって。私も安藤くんみたいにちゃんと地に足つけて恋愛しようって思った」
「地に足か。僕の場合、泥沼に足を取られて溺れそうやわ」
「なーに、その例え。変なの」
私たちはお互いの顔を見合わせて笑った。安藤くんって見た目はガリ勉だけれど、話していくうちに取り留めもないことを面白おかしく話してくれるから楽しい人だ。傷心話で実感するのも申し訳ないが、見直したということで許してもらおう。
「僕のしょうもない話は置いておいて、早いとこ学の家に行こう」
「そうだったね。でも突然押しかけて大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。カモミールティーでも出して迎えてくれるって」