田舎暮らしが身についている私にとって、やっぱり東京は何度来ても慣れない別世界だった。

「瑠華、こっちこっち」

 人波に押し出されるように駅からはい出た私に、親友の末永真理が手をふってくる。大学のサークルで仲良くなった真理は、今もたまに連絡をとる唯一の親友だった。

「やっぱこの人ごみには慣れないよ」

 肩に背負ったバックを地面に下ろし、冬の日射しに目を細めながら息をつく。そんな私に、すっかり都会に染まった真理が笑みを浮かべた。

「で、渡瀬さんは何時に来るって?」

「昼過ぎには仕事が終わるから、それから連絡するって言ってたよ」

 コートのポケットに入れていたスマホを取り出し、克徳さんのメッセージを確認した瞬間、東京に来たせいもあってふと昔を思い出した。

 ――克徳さん、真面目なんだよね。マメだし、すぐに返信くれるし、まるで出会った時の慎一みたい

 克徳さんとは、一月前に真理の紹介で出会った。来月に九州に異動になるから面倒を見てというわけのわからない理由だったけど、本当は真理が克徳さんとくっつけようとしているのはわかっていた。

「なに辛気臭い顔をしてるのよ。時間があるから、さっさと女子会やろうよ」

 相変わらず勢いが強い真理が、僅かに胸が痛くなった私の手を引いて喫茶店に連れていく。女子会とは言ってるけど、実際は私の本当の気持ちを知りたいのだろう。

「で、気持ちは固まったの?」

 インスタ映えするようなケーキをスマホに収めながら、真理がさらりと聞いてくる。慎一のことなのか、克徳さんのことなのか、どちらかわからないでいると、真理は「両方」と迫ってきた。

「みんな、大学一のおしどり夫婦も結局距離に負けたと騒いでいるけど、本当のところはどうなの?」

 これまで、他のサークルのメンバーと違って一度も慎一とのことを聞かなかった真理が、初めてその話題に触れてきた。それだけ、克徳さんをくっつけることに本気なんだろう。確かに克徳さんは、誰もが好感を抱く誠実な人だ。だからこそ、真理にしたら私の気持ちに決着をつけておきたいのかもしれなかった。

「原因は、田崎? それとも瑠華? それとも、やっぱりみんなが言うように距離に負けた?」

「うーん、原因は色々あると思うけど、やっぱり一番は私かも」

 コーヒーを一口飲み、一度深呼吸して答える。これまで誰にも語らなかった胸の内を明かすことに怖さもあったけど、今日東京に来ることになったときからある程度の覚悟は決めていた。

『九州に移ったら、正式に恋人として真理さんと付き合いたいと思っています』

 不意によぎる克徳さんからのメッセージ。真理の紹介で何度かデートを重ねた末の告白は、私の胸の内を揺るがすには充分だった。

「私ね、慎一と出会ったときに思ったの。この人となら、ずっと一緒にいられるって。実際、慎一と一緒にいると楽しかったし、何年経っても慎一に会う度に感じる嬉しさは変わらなかった」

 克徳さんのメッセージに背中を押されるように決心した私は、ゆっくりと真理に向かいあった。

「でもね、だからといってなにもなかったわけじゃないの。何度も別れを意識するような喧嘩もしたこともあったしね」

 周りが羨むカップルと言われながらも、実際は苦労の連続だった。出会った時から徐々に変わっていき、馴れ合いになっていく慎一に我慢することも多くなっていた。

「だから、慎一が東京に行くってなったとき、私、すごく怖かった。たぶん、このまま遠距離恋愛になったら、うまくいかない予感はしてたんだ」

 慎一から転勤を聞かされた夜、慎一は二人なら大丈夫だと笑っていた。その笑顔に、私はいつものように不安を無理矢理飲みこんで笑顔を返すしかなかった。

「でもね、最初はよかったんだ。慎一が東京に行った最初の頃は、まるで出会った頃の慎一に戻ったみたいで、私、距離なんか関係ないって思えるくらい嬉しかったんだ」

 記憶に残る慎一の笑みは、東京で一ヶ月ぶりに再会したときのものだ。今にして思えば、私が知る慎一の最初で最後の素直な笑みだったかもしれない。

「ねぇ、覚えてる? 真理が言ったこと。遠距離恋愛は、線香花火と同じだって」

「私、そんなこと言ったっけ?」

「言ったよ。真理も誰かから聞いたって言ってたけどさ、本当にそう思うよ」

 落ちる寸前に刹那の輝きを放つ線香花火。私と慎一で例えるなら、遠距離になった数ヶ月が最高の花を咲かせていたのかもしれない。

「でもね、遠距離でも大丈夫だと思った矢先だった。慎一が元に戻っていったのは」

 確信的に大丈夫と思った私の心を揺るがしたのは、慎一の変化だった。徐々に遅れる返信と短くなる電話のやりとり。仕事が忙しいとはわかっているとはいえ、些細なすれ違いが、いつしかか私の心に隙間を作っていった。

「決定的だったのは、慎一からある日送られてきたメッセージかな。『ごめん、仕事が入った』ってスケジュールを調整するものだったんだけどね。これまで何度もあったし、いつものように笑って許せばよかったのに、そのときは本当に仕事なのって疑ってしまったの。でね、そのときはっきり感じたんだ。ああ、この恋は終わるんだなって」

 これまで、慎一のわがままや馴れ合いには我慢してきたし、疑うこともなかった。けど、すれ違いの果てに生まれた溝を、もう私には埋める気力も余裕もなかった。

 そのときだったと思う。

 私の中で、最後の火花を静かに散らして落ちていく火の玉を感じたのは。

「私、慎一と出会えて幸せだった。楽しいことばかりじゃないし、辛いこともあったけど、慎一と一緒にいられたら、もうそれだけでいいかなって思ってたの」

 不意に蘇る思い出に耐えられなくなった私は、人の目を気にするように顔を伏せて嗚咽をもらした。

「瑠華……」

「私ね、慎一といられるならどんなことにも耐えられるって思ってた。でも、会いたいと思ってもすぐには会えないっていうのが、こんなに辛いことだとは思わなかったよ」

 顔をあげ、無理矢理涙を拭いながら真理を見つめる。私が自分に負けた理由は、ただ一つ。徐々に慎一が離れていってしまう怖さに潰されてしまったことだった。

「会いたくても会えないのはわかってた。だから、せめて会えない分あの頃の慎一のままでいてほしかった。別に、特別になにかをしてほしいとかじゃなくて、どんなに離れても大丈夫だと思わせてくれた慎一のままでいてほしかっただけなの」

 胸に溜めた思いを吐き出しきると、真理に支えられがら涙を零した。最後の連絡の後、間が空いて返ってきた慎一のメッセージはもう私にはなにも響くことはなかった。

 だから、私は今も返信していない。私が返信したかった慎一は、もうどこにもいなかったから。

「ごめんね、瑠華。辛いこと思い出させてしまって」

「ううん、いいの。真理には聞いてもらいたかったから」

 予想外に私が泣いたことで、真理が辛そうな表情を隠せていなかった。話を聞いてもらいたかったのは本当だし、実際、真理に聞いてもらえて胸が少し軽くなったのは事実だった。

「あ、克徳さんから連絡」

 ちょっと気まずい空気を見事に変えるように、克徳さんから仕事が終わったと連絡が入った。

「私、迎えに行ってくるね」

 克徳さんは近くまで来てるみたいだったから、私は迎えに行くことにした。

「よろしくね」

 ちょっと無理した笑顔で、真理が私を見送ってくる。きっと、真理は気づいたんだろう。私の中で慎一のことが完全に区切りがついていないことを。

 慎一からのメッセージに返信はしていないとはいえ、別れを切り出したわけでもない。ただ、ピリオドをうてないまま燻っている私に気づいたからこそ、真理はなにも言わなかったのかもしれない。

 そんなことを考えながら、冷たい風が吹く東京の人ごみにまぎれていく。スクランブル交差点に着いたところで克徳さんにメッセージを送ると、すぐに返信が届いた。

 克徳さんのメッセージを読み、スマホを戻しかけたとき、一ヶ月前に届いたサークルのメンバーだった柳瀬くんのメッセージがなぜか目についた。

 ――同窓会か

 送られてきた同窓会の案内に、私は慎一に会うのが怖くて欠席で返信した。

 ――慎一は参加するのかな?

 同窓会は明日だから、参加するなら今ごろ準備に追われているだろう。

 そんなことを考えた瞬間だった。

 ――え? まさか……

 信号が変わって動きだした人ごみの中、黒いコートの後ろ姿に私の心臓は急停止した。

 ――慎一?

 不意に見えた懐かしい背中。人波に消えていく背中を見ながら、私はスマホを握りしめた。

 ――慎一……

 急激にせり上がってくる感情のうねりに足がもつれながら、私はふらふらと歩きだした。

 ――でも……

 走り出す寸前で足を止めると、私はすぐに方向を元に戻して歩きだした。

 ――ちゃんと、ケジメをつけよう

 人ごみに消えていく慎一の背中を見送ると、私は慎一との思い出が詰まったスマホをポケットに入れた。

「お待たせしました」

 交差点を渡り切ると、すぐに克徳さんが声をかけてきた。吐く息は白いのに、胸が温まるような笑顔に私は安らぎを感じた。

「あそこの店ですよ」

 克徳さんを前にして、仄かな緊張が胸に広がる。克徳さんは、私がどういう状況にいるのか全てわかった上で私に接してきている。

 そこには、私に諦めろだとか頑張れだとか迫る態度はなく、ただいつも優しく包み込む眼差しだけがあった。

 ――だから

 そっと手を伸ばし、克徳さんの手を握った。

「瑠華さん?」

「告白の返事です。克徳さんが九州に来るのを待てませんでした」

 戸惑う克徳さんの手を握り直しながら、自分でも驚くくらい大胆なことを言ったことが急に恥ずかしくなってきた。

「ありがとうございます。とても嬉しいです」

 どんなときも動揺しなさそうな克徳さんか、ちょっとだけ声をふるわせて笑みを浮かべた。

 ――これで、よかったんだよね?

 人ごみに消えた慎一の背中にそっと問いかけてみる。もう過去の思い出にしがみつくことも縛られることもできなくなった以上、私にできることは克徳さんと前を向いて歩いていくことだけだった。

 ――ありがとう、慎一。あなたは、私が出会った最高の人でした。だから、慎一も今度は間違わないようにして、幸せになってね

 もう決して見ることはなくなった慎一。同じ空の下、今度はお互いに幸せになれたらと願った。

「行きましょうか」

 優しく私の手を握り直しながら、克徳さんが歩き始める。その笑みに頷き返した私は、完全に人ごみに消えていった慎一に心の中で手をふった。

 ――バイバイ、慎一


 〜了〜