夜の帳が降りはじめた無人駅を出ると、吐く息も凍りそうな銀世界が広がっていた。

 大学を卒業して五年。都会に染まった俺がかつて大学生活を送っていたこの地を訪れるのは、久しぶりのことだった。

「慎一、こっちだ」

 人気のないロータリーに出たところで、同じサークルだった柳瀬彰が声をかけてきた。長身に細身の俺と違って丸い体躯だった柳瀬は、五年の歳月でさらに丸みを増していた。

「また太ったな」

 半年ぶりに会う柳瀬にお決まりの言葉をかけると、柳瀬は「うるせえ」と言いながら軽トラに乗るように促してきた。

「で、瑠華ちゃんとは連絡をとったのか?」

 静かに軽トラのハンドルを握りながら煙草に火をつけた柳瀬が、前置きもなく口を開く。サークルの同窓会前日に会いに来た俺の目的を、柳瀬は薄々感づいているようだった。

「お前に背中を押してもらったけど駄目だった」

 柳瀬に合わせるように煙草に火をつけた俺は、町並みに目を向けたまま静かに答えた。

 半年前、東京に遊びに来た柳瀬と飲みに行った際、柳瀬には瑠華と破局寸前とだけ伝えた。サークルのみんなからは結婚確実と言われた俺たちの危機を知った柳瀬は、驚くと同時に俺を励ましてくれた。

「そうか」

 柳瀬はそれだけ呟くと、黙って運転を続けた。親友のあっさりした反応に少し不安になったが、なにか考えているようにも見えたから、俺は柳瀬の言葉を待つ間、窓の外を眺め続けた。

 五年ぶりの町並みは相変わらずだが、今夜は明日に控えた祭の前夜祭があっているせいか、浮き足立つ人の群れはいつも以上に多い気がした。

 ――瑠華と毎年来たよな

 人ごみの中に、自然と記憶の二人が重なっていく。サークルで意気投合した俺と瑠華は、この祭の日に俺が告白してから付き合うことになった。

 その日以来、大学一のおしどり夫婦と茶化されるくらいの仲だったが、大学卒業後五年目にして自然消滅の結末を迎えようとしていた。

「ここでよかったよな?」

 結局、瑠華との話題に触れてこなかった柳瀬が、馴染みの店に軽トラをとめた。大学時代に二人で散々語り合った小料理店に連れてきたあたり、柳瀬も俺の心境を察しているようだった。

 近くの大型交差点を行き交う人々が見渡せる席につくと、柳瀬が勝手に注文をすませていく。同窓会の幹事を任せられただけあって、手際のよさは大学時代から変わっていなかった。

「で、なにがあったのか話す気になったか?」

 ビールで乾杯した後、前置き不要とばかりに柳瀬が本題に入ってきた。半年前は詳細を語っていなかったから、今日こそはその話を聞けると思ったのだろう。

「九州での話はしたよな?」

 最初から話を聞いてもらうつもりだった俺は、柳瀬の期待に応じるべく、まずはジョッキを一気に空にした。

 大学卒業後、就職した俺は運良く瑠華と共に九州に住むことになった。会社は違うが互いに全国転勤のある会社だから、二人揃って九州に行けたのは幸運だった。

 大学時代の延長のような付き合いは、環境が変わっても変わることはなかった。むしろ、働きだしたことでやれることが増え、仲はより一層深まったと言えなくもなかった。

「実は、俺が東京に転勤になってから状況は一変したんだ」

 二杯目のジョッキもすぐに空にした俺は、覚悟を決めて口を開いた。俺の飲み方に柳瀬が眉をひそめたが、しらふでいたくない気持ちが今は勝っていた。

「初めての遠距離恋愛だったが、最初は特に問題はなかったんだ」

 九州で三年過ごした後、俺だけが東京に転勤になったことで遠距離恋愛がスタートした。遠距離とはいえ、長年培ってきた関係が崩れることなど想像していなかった俺と瑠華は、いつか一緒になることを信じて疑っていなかった。

「なんだ、まさかおしどり夫婦も距離に負けたというのか?」

「そんな簡単なことなら苦労はしないさ。たぶん、いや、きっと俺たちは距離に負けたんじゃないと思う」

「じゃあなにに負けたんだ?」

「瑠華はわからないが、俺は自分に負けたんだと思う」

 そう口にした瞬間、胸の中が一気に暗く沈んでいった。瑠華と連絡が途絶えて以降、毎日のように夢に見る幸せだった日々の思い出が、ことあるごとに自分を後悔の念に押し込めていた。

「自分に負ける?」

「そうだ。俺も最初は距離に負けたと思ったが、実際は違っていたんだ。たぶん、遠距離恋愛が始まったときから既に破局は始まっていたんだと思う」

「どういうことだよ」

「遠距離恋愛は、線香花火みたいなもんだって会社の同僚に言われたよ。ほら、線香花火は落ちる前に一際きれいな花を咲かすだろ? けど、それも一瞬のことで、落ちてしまったら終わりだ。つまり、遠距離恋愛は他の恋愛と違って一瞬だけ燃え上がる恋だってことさ」

 柳瀬に説明しながら、過去の自分を思い出す。確かに、遠距離恋愛スタート時は会うだけでも大変だった。色んなスケジュールを調整し、費用と時間を使ってたった一日か二日の為に心血注がないといけなかった。ただ、その分瑠華と会う日はかつてないほどの嬉しさや楽しさで盛り上がっていた。

 それを線香花火というなら、たった一日か二日しか会えないときこそが、激しく火花を散らす輝きと言えるだろう。

「ただ、激しく燃え上がる分、落ちてしまったら二度と戻れないのも事実だ」

 三杯目のジョッキを空にした後、すぐに日本酒へと切り替えた。悪酔いするのはわかっていたが、胸に渦巻く後悔を吐き出すには、さらなる酔が必要だった。

「で、その落ちるきっかけってなんだったんだ?」

「なにもないさ」

「は? なにもないって」

「本当にきっかけっていうほどのことはなかったんだ。ただ、あえていえば自分の甘さと慣れが原因だったと思う」

 東京に来た頃には、社会人として三年が過ぎていた。当然、背負う仕事の責任と量は毎日のように増えていくばかりだった。

 そうなると、当然ながら瑠華とのスケジュール調整にも支障が出ていた。その度、謝る俺を瑠華は笑って許してくれていた。

「スケジュール調整ぐらいならいいほうだった。けど、甘えはどんどん加速していき、仕事を理由に瑠華とのささいなやり取りにも支障が出始めたんだ」

 東京に来た当初は、毎日のように電話をしていたし、メッセージのやり取りも欠かさなかった。

 だが、それも段々と多忙によって疎かになり、返信が翌日になることや、仕事を言い訳にして電話をしなかったりと、いつしかしんどさに負けることが多くなっていった。

「東京に来て一年が過ぎる頃には、九州に行くのが段々と億劫になっていったんだ。そのぐらいからだよ、瑠華と連絡を取らなくなったのは」

 瑠華との連絡が途絶えた理由は、あっさりしたものだった。何気ないメッセージを放置し、放置したことすら忘れていた。

 ようやく気づいて返信したときには、瑠華から返信がくることがなくなり、いつしかそのままやり取りをすることもなくなっていった。

「こう話すと、距離に負けたように聞こえるだろうが、実際、瑠華と連絡取らなくなってからようやくわかったんだ。俺が甘えてたのは、東京に来てからではなくて、ずっと前からだったってな」

 出会った頃は、瑠華からのメッセージは常に待っていたし、メッセージがくればすぐに返信していた。電話にしても、時間も気にせず瑠華とのやり取りに夢中になっていた。

 それが、いつの間にか当たり前ではなくなり、当たり前ではなくなったことが当たり前になっていた。

「瑠華と連絡とれなくなる前は、いつも言い訳ばかり考えていた。気づくと、仕事が忙しい、疲れているってばかり口にしていたよ。けど、瑠華はそんな俺を責めることはなかった」

 グラスを握りしめながら、わきあがる後悔を必死で耐える。きつかったのは俺だけじゃなく、瑠華も同じだった。考えてみればわかることなのに、そのときの俺は笑って許す瑠華に甘えてばかりだった。

「なあ柳瀬、なんで今さらになって気づくんだろうな」

 ぼやくように呟いた瞬間、頬を熱い雫が流れ落ちていくのを感じた。

「ずっと瑠華が支えてくれてたのに、本当に大切なのは瑠華だったのに、なんで見失ってしまったんだろうな」

 あふれる感情をおさえきれなくなった俺は、机に顔を伏せて嗚咽をもらした。

 東京に来て、仕事で日々が忙殺されていくことで見失ったもの。

 それは、ずっと一番近くで寄り添ってくれていた瑠華の存在の大きさだった。

「時間が戻れとは思わない。ただ、今なら瑠華にちゃんと伝えられると思うんだ。だから――」

 意を決し、黙って見守る柳瀬に目を向ける。柳瀬は同窓会の幹事をしているから、瑠華が出席するかどうか知っている。だからこそ、柳瀬の前で事前に気持ちを固めておきたかった。

「残念だけど、瑠華ちゃんは来ない」

 俺の意図を知った柳瀬は、隠すことも誤魔化すこともなくあっさりと告げた。

「そう、だよな……」

 柳瀬の答えを聞いて、俺は情けなさを痛感しながら自虐的に笑うしかなかった。

 結局、それ以降は会話もなく、酔いつぶれかけた俺を心配する柳瀬と別れて店を後にした。

 ――瑠華は来ない、か

 ちらつきだした雪景色の中、街灯が仄かに灯る町並みを歩いていく。わかっていたとはいえ、瑠華が来ないことの意味が頭の中をぐるぐる回っていた。

 祭の前夜祭を楽しむ人ごみの中、交差点で足を止める。火照った身体と感情は、いつの間にか冷たい風を受けて冷えきっていた。

 ――しかた、ないのか?

 信号が変わって動き出した人ごみの中、やけに冷静な自分に嫌気がさしてくる。あれだれ暴れていた感情も、時が過ぎればなにごともなかったかのようになることが怖かった。

 ――時間って、怖いんだな

 瑠華の大切さに気づき、どんなに悔い悩んで瑠華を求めたとしても変えられない現実。だが、その後悔の念でさえ、日々の忙殺の中でいつしか枯れ萎んでいくのを感じずにはいられなかった。

 だから、急かされように柳瀬に会いに行った。この気持ちが萎みきる前に、瑠華が来るのを確認した上で瑠華に最高の想いを伝えたかった。

 ―――全ては、遅かったのか?

 そう思った瞬間だった。

 ――瑠華?

 すれ違う人ごみの中で捉えた残像。慌ててふりかえった先には、あの日から見失っていた瑠華の後ろ姿があった。

 ――待って、瑠華!

 呼び止めようとしたが、なぜか声が出なかった。もつれる足で人ごみをかきわけ、消えていく背中を必死で追いかけた。

 ――まだ間に合う!

 懸命にすれ違う人を避ける瞬間、ポケットからスマホが落ちていった。慌てて拾い上げ、待ち受けに映る瑠華の笑顔から力をもらった。

 ――瑠華、俺はこの笑顔を思い出にしたくはないんだよ。これからもずっと見ていきたいんだ

 瑠華との思い出が全て詰まったスマホをポケットに入れ、人ごみに消えた瑠華を追いかけていく。

 勢いを増した雪の中、ただ瑠華への想いだけが唯一の灯りのように夜道を照らしていた。


 〜サイド:瑠華に続く〜