天才演者は仮面を外す

「お前、まだ沢村に劇をさせようって言うんだな」

 体育館に走る沈黙を破ったのは、大切さを理解した学の声だった。昨日の気まずさから、ボクはとっさに視線を下げる。けんかをしたことがないボクは、どんな表情で彼と向かい合えばいいのか分からなかったのだ。

 学はあからさまに音を立てながら、ボクとの距離を詰め始める。その足音は数メートル先ぐらいで止まり、ボクらの間に冷たい沈黙が走る。彼は、ボクの反応を待っているようだった。

 ボクは覚悟を決め、彼の方へと視線を向ける。険しいオーラを身にまとう学は、硬い表情で腕を組んで立っていた。

「どうして、ここに」

 閉じた声帯をこじ開けて、なんとか言葉を発する。舞台上でも感じたことのない緊張感に、ボクの手は項をかきむしり始めた。

「副部長の俺が無断欠席すると思うか? お前と仲たがいしたとしても、それぐらいの筋は通す。まあ、一人のお前を見て、入るのをためらったのは事実だが」

 真面目な彼らしい。

 ボクは車椅子の前から離れ、彼の前へと移動する。そして彼の瞳を見つめるや否や、ボクは地面につける勢いで頭を下げた。

「お前は本気でボクを慕ってくれていたのに、裏切ってごめん。確かに、ボクは自分が愛されることばかり考えていて、他の人の心なんて考えてなかった。謝っても許してもらえないと思うけど、本当にごめんなさい」

 沈黙が再びボクらの間に流れ始める。ボクは頭を下げながら、彼の言葉を待ち続けた。しばらくの静寂の後、ため息が頭上から聞こえる。

「お前の過去は聞いた。だが、俺は沢村みたいに優しくないからな。こいつを利用した行為は絶対に許さねえ」

 心臓に鋭いナイフが突き刺さる。別に許されたくて謝ったわけではなかったが、だとしても面と向かって許さないと言われるのは、しんどいものだった。

 もう一度謝罪をして、せめて彼女のために手伝ってくれないかとお願いをしよう。身勝手だとは思うが、ボクが頼れる人間は学しか存在しないのだ。

 それらを伝えようと、ボクは口を開く。しかしそれを阻止するように、彼は言葉を続けた。

「でも、こいつの夢を叶える手伝いぐらいは出来る。……その役が、男でも大丈夫ならな」

「学……!」

 ボクは顔を勢いよく上げ、彼の方へと視線を向ける。学の顔は相変わらず険しいものだったが、身にまとうオーラが少しだけ柔らかくなったような気がした。

「俺も勝手にお前のこと知った気になって、勝手に失望したのは悪いと思っている。お前は自分を博愛主義だって言っていたわけじゃねえし、こうやって腹割って話したこともなかったしな」

 ボクが百悪いにも関わらず、学は自分の落ち度を探し出し、勢いよく頭を下げた。部長のボクよりも立派な姿に、目がくらみそうになる。彼もまた、沢村と同じく眩しい本当の善人だった。

 こんなにも素晴らしい人間が近くに居るにも関わらず、一切気付いていなかったボクは救いようのない馬鹿だったらしい。

「んで、どんな劇にすんだよ部長。これから忙しくなるぞ」

学は顔を上げると、にっかりとした笑みをボクに向ける。彼の挑戦的な笑みからは、どんな難題でもこなしてやるという、彼の心情がひしひしと伝わってくるようだった。

 頼りがいのある表情に背中を押されながら、ボクは即興で考えた内容を三人に相談し始める。演者たった三人の、異端な舞台の開幕だ。
 姿見鏡の前に座り、沢村はウィッグを整え始める。緊張故か病気故か、呼吸は少し乱れており、指先も震えていた。鏡越しに見える青白い肌を心配し、ボクは彼女の肩に手を置いて声を掛けた。

「緊張してるのか?」

「うん、まあね」

 彼女は顔を此方に向け、困ったような顔を見せる。彼女の瞳には嘘の色は見えない。本当に緊張しているだけのようだった。

「ま、最初はそうだろうな。でも大丈夫だよ。何かあったらボクらが支えるし、それに観客も殆どいないからな」

 ボクはそういうと、視線を扉の向こうへ向けた。倉庫の向こうには綺麗に整列された朝日に照らされて、光を反射している。開演十分前にも関わらず、ボクらの劇は空席だらけだった。

 ボクの正体を知った今、殆どの人間がボクの劇に興味を持たなくなった。そんな現実をダイレクトに伝えてくる客席に、心臓がズキズキと痛み始める。人望は大切だと改めて理解した瞬間でもあった。

「ま、噂は足を引っ張るよな」

 衣装を身に纏った学が、体育館から姿を現す。上まで結ばれたネクタイに、皺ひとつない紺色のスーツ、ガタイの良い彼はそこら辺の会社員と見間違えるほど凛々しい雰囲気を醸し出していた。きっちりと整えられた髪を指先で弄りながら、彼は席の方へ視界を向ける。一年の頃から満席を見続けた彼にも、空きだらけの現状は珍しく感じるのだろう。

「まあ、態々日曜日に劇を見る為に登校するのも面倒くさいしな」

 今回は緊急ということで宣伝も足りておらず、日程も日曜日という参加しにくい曜日となってしまった。それもまた、此処までの空席を作り上げた原因となってしまっているのだろう。

 初めて出会ったときと同じ病衣を身に纏った沢村は、声を出して気合を入れると、鏡の前から移動する。電子車椅子の移動音を鳴らしながら扉の外へ出た沢村は、ボクらの方を向き、こっちへ来いと手招きをする。

「数人でも来てくれた人は居ます!」

 鏡で変な所が無いかを確認し、彼女に呼ばれるまま倉庫を後にする。そこにはちらほらと、ボクらの劇を心待ちにする観客が腰を下ろしていた。中には配布したパンフレットを片手に、楽しみだねと語り合う人まで存在していた。

「うん。そうだね。彼らの為にも、最高の劇を見せないと」

 劇を態々見に来てくれた先生や生徒に、つまらない劇を見せるわけにはいかない。

 ボクは学ランの袖を曲げ、深く深呼吸をする。左右を見れば、二人も準備万端といった様子だった。

 ボクたちはステージへの階段を上り、舞台裏で各自の持ち場へと向かい始めた。

「さあ演じよう、ボクらの本当の愛が観客に伝わるように」

 二人の頼りがいのある返事が届く。その瞬間、舞台開始を知らせるチャイムが学校中に鳴り響き、赤い幕は徐々にボクらの姿を現した。拍手がボクらに届けられる。それは全国大会ほどの大きさではないけれど、ボクの心に温もりを与えるには十分の量だった。

 なら、ボクはその礼として、倍の愛を与えるだけだ。

『絶対に恋が成立すると言われる桜の木の下で、今日も女生徒は愛する人に告白する』

 桜の木の下で、沢村は車椅子に乗ったまま、舌足らずな声でセリフを放つ。

「私、ずっと貴方が好きでした。私と、一か月だけ恋人になってください」

『これは余命が一か月しかない女子高生が、死ぬまでにやりたいことをやり尽くし成長する物語。そして』

 その瞬間、彼女は胸を手で押さえ、激しく何度も咳き込み始める。彼女の手の平には本物の血が広がり、ぜえぜえと肩で呼吸を繰り返した。台本にはないイレギュラーな事態。ボクはポケットからハンカチを取り出し、彼女の口を拭い始める。

『血を吐くほどしんどいのに、彼女はボクに告白をしてきたのか。なんて可哀そうな子。この子には優しくしてあげないとね。両親に叱られない為に』

 エコーが入るマイクに口を近づけ、モノローグのようにアドリブを語り始める。ボクは血に濡れた手を両手で包み、彼女に優しく微笑んだ。

「ボクでよければ、喜んで」

『両親の操り人形である学園のプリンスが、自分の夢を持つまでの物語』
 姿見鏡の前に座り、沢村はウィッグを整え始める。緊張故か病気故か、呼吸は少し乱れており、指先も震えていた。鏡越しに見える青白い肌を心配し、ボクは彼女の肩に手を置いて声を掛けた。

「緊張しているのか?」

「うん、まあね」

 彼女は顔をこちらに向け、困ったような顔を見せる。彼女の瞳にはうその色は見えない。本当に緊張しているだけのようだった。

「ま、最初はそうだろうな。でも大丈夫だよ。何かあったらボクらが支えるし、それに観客もほとんどいないからな」

 ボクはそういうと、視線を扉の向こうへ向けた。倉庫の向こうには綺麗に整列された朝日に照らされて、光を反射している。開演十分前にも関わらず、ボクらの劇は空席だらけだった。

 ボクの正体を知った今、殆どの人間がボクの劇に興味を持たなくなった。そんな現実をダイレクトに伝えてくる客席に、心臓がズキズキと痛み始める。人望は大切だと改めて理解した瞬間でもあった。

「ま、噂は足を引っ張るよな」

 衣装を身に纏った学が、体育館から姿を現す。上まで結ばれたネクタイに、しわひとつない紺色のスーツ、ガタイの良い彼はそこら辺の会社員と見間違えるほどりりしい雰囲気を醸し出していた。きっちりと整えられた髪を指先で弄りながら、彼は席の方へ視界を向ける。一年の頃から満席を見続けた彼にも、空きだらけの現状は珍しく感じるのだろう。

「まあ、わざわざ日曜日に劇を見るために登校するのも面倒くさいしな」

 今回は緊急ということで宣伝も足りておらず、日程も日曜日という参加しにくい曜日となってしまった。それもまた、この空席を作り上げた原因となってしまっているのだろう。

 初めて出会ったときと同じ病衣を身にまとった沢村は、声を出して気合を入れると、鏡の前から移動する。電子車椅子の移動音を鳴らしながら扉の外へ出た沢村は、ボクらの方を向き、こっちへ来いと手招きをする。

「数人でも来てくれた人は居ます!」

 鏡で変な所がないかを確認し、彼女に呼ばれるまま倉庫を後にする。そこにはちらほらと、ボクらの劇を心待ちにする観客が腰を下ろしていた。中には配布したパンフレットを片手に、楽しみだねと語り合う人まで存在していた。

「うん。そうだね。皆のためにも、最高の劇を見せないと」

 劇を態々見に来てくれた先生や生徒に、つまらない劇を見せるわけにはいかない。

 ボクは学ランの袖を曲げ、深く深呼吸をする。左右を見れば、二人も準備万端といった様子だった。

 ボクたちはステージへの階段を上り、舞台裏で各自の持ち場へと向かい始めた。

「さあ演じよう、ボクらの本当の愛が観客に伝わるように」

 二人の頼りがいのある返事が届く。その瞬間、舞台開始を知らせるチャイムが学校中に鳴り響き、赤い幕は徐々にボクらの姿を現した。拍手がボクらに届けられる。それは全国大会ほどの大きさではないけれど、ボクの心に温もりを与えるには十分の量だった。

 なら、ボクはその礼として、倍の愛を与えるだけだ。

『絶対に恋が成立すると言われる桜の木の下で、今日も女生徒は愛する人に告白する』

 桜の木の下で、沢村は車椅子に乗ったまま、舌足らずな声でセリフを放つ。

「私、ずっとあなたが好きでした。私と、一か月だけ恋人になってください」

『これは余命が一カ月しかない女子高生が、死ぬまでにやりたいことをやり尽くし成長する物語。そして』

 その瞬間、彼女は胸を手で押さえ、激しく何度もせき込み始める。彼女の手のひらには本物の血が広がり、ぜえぜえと肩で呼吸を繰り返した。台本にはないイレギュラーな事態。ボクはポケットからハンカチを取り出し、彼女の口を拭い始める。

『血をはくほどしんどいのに、彼女はボクに告白をしてきたのか。なんて可哀そうな子。この子には優しくしてあげないとね。両親に叱られないために』

 エコーが入るマイクに口を近づけ、モノローグのようにアドリブを語り始める。ボクは血にぬれた手を両手で包み、彼女に優しくほほえんだ。

「ボクでよければ、喜んで」

『両親の操り人形である学園のプリンスが、自分の夢を持つまでの物語』
 舞台に設置されたベッドの上、沢村は一言も発することなく上を見上げ続けていた。ボクはそんな彼女の右手を両手で包み込み、彼女に向って笑い掛ける。しかし、反応は一切帰ってこない。

「さぁ、君のやりたいこともこれで最後だよ。だからほら、もう少しだけ頑張って」

 普段と変わらぬように接するが、彼女は瞬き一つしなかった。

彼女の枕元に置かれたやりたいことリストと書かれたメモ帳を開き、最後のページを確認する。そしてメモ帳に書かれた文字に、ボクは大げさに目を開けた。

「ボクが父親と仲直りして、自分のやりたいように生きる」

 書かれた言葉を再確認するように読み上げる。彼女の人生最後の願いは、どうやらボクの幸せな日々らしい。

 ボクは椅子から飛び降り、彼女を強く抱きしめる。さっきまで微動だにしなかった沢村は、顔をゆっくりとこちらへ向け、弱々しい笑顔をボクに見せた。表情筋を動かす気力もないといったような、弱り切った笑顔に頬に涙が伝い始める。

「かなえ、て、ね」

 彼女はかすれた声でボクに告げると、ゆっくりとまぶたを閉じた。舞台上には心肺停止を知らせる電子音が響き続ける。彼女とボクの別れの合図だ。

 ボクは沢村をベッドに乗せると、両手を包んで涙を流す。肩を震わせ、しゃくりを上げる。彼女の青い病衣は、より濃い青へと変色していった。

「もちろん、最後まで、約束は守るよ」

 聞くに堪えないだみ声で、彼女の言葉に返事を返す。こうして、波乱万丈の劇は幕を下ろしたのだった。



「凄い歓声、成功したんですね」

 車椅子へ移動するためにボクの腕に収まる沢村は、頬を高揚させながら、降ろされた幕の方を見つめていた。彼女の言う通り、幕の向こうでは、開始時と比べ物にならないほどの歓声が響き渡っていた。その様子は満席会場顔負けの盛り上がりだった。

 あの少人数では上がるはずのない拍手に違和感を覚えながら、袖幕の方へと彼女を運ぶ。すると、先に出番を終えていた学が、スマホを片手に此方へ駆け寄ってきた。

「こっち来てみろよ!」

 興奮状態の学にあっけを取られ、ボクは沢村を腕に抱いたまま、学に言われた通り幕越しに客席をのぞき込む。客席は埋まり切っており、中には立ち見する者まで存在していた。いつの間にか、ボクたちの劇は満員になっていたのだ。

「は、なんで?」

 舞台が始まったとき、座っていたのは間違いなく数人程度だったはず。それが何倍にも跳ね上がっている現状に、ボクは驚きを隠せなかった。それは沢村も同じらしく、彼女もこの異様な風景をぽかんとした顔で眺めていた。

 学はスマホを操作し出し、ボクらの前に出す。

「お前のアドリブのやつ。あれを気迫がやべぇってSNSに投稿したやつがいてさ、それを見たうちの学生が次々と入ってきたんだよ!」

 やっぱりお前は劇の天才だなと、学は強い力でボクの背中をたたく。学のいう通り、スマホには沢村の声が出なくなったときの動画と、感想がつづられた投稿が映し出されていた。その投稿は多くのいいねが付けられており、リプも大量に寄せられていた。

 今回の劇は、まごうことなき大成功である。

 夢を叶えられたあんど感と、観客を楽しませることができた喜びが一気にせり上がり、思わず笑いが零れる。自分の為だけに磨いてきた演技力は、人に笑顔と喜びを与えることが出来る。そんな今更気付いた事実が、嬉しくて仕方がなかった。

「礼をするぞ」

 未だに鳴りやまない拍手に背を伸ばし、ボクは沢村を抱えたまま舞台の中心に足を進める。その状態に待ったをかけたのは学だった。

「おい、沢村を車椅子に乗せなくていいのかよ」

 舞台の中心に立つと同時に、ボクはしゃがみ込んで沢村をの足を地面に降ろす。地に足がついたのを確認した後、ボクは彼女の上半身を抱えたまま立ち上がった。ボクの急な行動に、沢村は無意味に瞬きを繰り返した。

「最後ぐらい、立って皆の前に出たいだろ?」

 彼女は頬を真っ赤にし、嬉しそうな顔でこちらを見上げた。そして首を何度も上下し、ボクの考えに賛同する様子を見せる。学はあきれたようにため息をつくと、ボクらの方へと駆け寄りだす。そして彼女の右腕を自分の首に回した。

「お前らはほんと、仕方ねえな」

「ありがとう、学」

 彼女の左手を自分の肩に回し、幕を上げるように指示をする。すると幕は徐々に上り、眩しいほどの観客の笑顔があらわになる。割れんばかりの拍手は、ボクらの登場により一層勢いを増した。

「ありがとうございました!」

 ボクらは頭を下ろし、最上級の感謝を込めた言葉を観客に向ける。すると客席からはボクらの名前や、良かったぞといった感想が拍手とともに投げかけられた。ボクらは頭を上げ、世界一愛に満ちた光景を目に焼き付ける。

「舞台って、本当に綺麗」

 沢村のつぶやきに心の中で同意しながら、幕が下りる寸前まで、ボクらはこの宝石箱のように輝く風景を満喫する。

 こうして沢村にとって最初で最後の舞台は、大成功を収めたのだった。
 舞台から数日間、ボクは毎日のように沢村の見舞いへと足を運んでいた。

彼女が好きなピンク色の花束を抱え、もう来慣れた病室に足を踏み入れる。そこには酸素マスクをした沢村が眠っており、彼女の母は編み物をしながらベッドの直ぐ傍に座っていた。

「おはようございます」

 ボクは彼女の母にあいさつをし、窓側に置かれた花瓶にカーベラの花束を差し込んだ。多くの人に愛される彼女の窓側には、たくさんの花が綺麗に並べられていた。

 彼女の母は編み物をする手を止め、彼女にそっくりな笑顔でボクに笑い掛ける。

「あら、こんな早くに来て大丈夫なの? 学校は?」

「今日はサボりです。学も後々学校を抜けてくると思いますよ」

「まあ、美雪の友達は悪い子ばかりなのね」

 彼女の母は編んでいたマフラーをバスケットに片付け、立ち上がる。そしてボクに美雪を任せると、扉の外へと姿を消した。彼女の部屋が個室ということもあり、今はボクと沢村の二人きりである。

「おはよう。今日の調子はどうだい?」

 ボクは彼女の母が座っていた椅子に腰を下ろし、眠る彼女に声を掛ける。もちろん、返事は返ってこなかった。無理がたたって死期が早まった沢村に動く気力は残っていないらしく、最近は常に眠った状態だっだ。

 しかしそれでも構わないと、ボクは彼女に話しかけ続ける。彼女が寂しくないように。

「あのうわさの話。あれどうやらボクと学の話を盗み聞きしていた部員が流したものだったわ。勝手に学が流した、なんて思いこんで悪いことしちゃったよな。一応互いに話し合って解決した。沢城心配していただろ? 一応報告と思ってさ」

 点滴の針が刺さった左手をなでながら、彼女の顔を見て話しかける。もともと青白かった肌からは生気が薄れ、幽霊のように真っ白になっていた。酸素マスクが時々白く曇らなければ、既に死んでいると勘違いしてしまっていただろう。

「あれからさ、沢村すっごい有名人になったんだよ。あの女の人誰なんですかー、感想言いたいですーって。だからボク、自慢気に君のこと言いふらしているんだよね。凄いやつだろ、大切な仲間だってさ。って、もう耳にタコが出来るほど聞いてるってな」

 開かれないまぶたに、目頭が熱くなり始める。しゃべることに集中しなければ泣いてしまいそうだ。

「ボクさ、俳優の道を目指そうかなって思っているんだよね。ボクには演技力しかないし、それが一番だと思ってさ」

 震える足を右手でたたき、唇をぎゅっとかみしめる。離れるのが怖い、寂しい。そんな感情が今にも口から飛び出して、子供のように泣きじゃくってしまいそうだった。

 でもボクはもう沢村の前では泣きたくない。だからこそ、ボクは感情を押し殺しながら眠る彼女に笑顔を向ける。それは彼女に心配を掛けたまま、天国へ言ってほしくないわがままと、男としての意地故だった。

「それに沢村言っていただろ? 舞台上のボクが他の誰よりもキラキラ輝いていたって。あれ、すっごい嬉しかったんだよな。だから、もうちょっと頑張ろうかなって」

 感情を押し殺して笑う。それは幼少期からやり続けた演技の次に得意なことのはず。それなのに、ボクは普段通りの笑顔を浮かべられている自信がみじんもなかった。声は徐々に震えだし、彼女の手に触れる右手も無様に震えだす。

 こんなことも出来ないようじゃ、もう誰かの理想を演じるのは無理そうだな。

 そんなことを考えながら、ボクは苦笑を漏らした。

「これから演じるのは舞台の上だけにするよ。理想の誰かで居ることも、自分で偽ることもやめる。君が愛していると言ってくれた綾瀬ライとして生き続ける。」

 ぼたぼたと、彼女の手の甲に雫がこぼれ始める。一度泣き出したら止まらないことは自覚しているから、ボクは泣き止むことを諦めて、無様に泣き続けた。本当ならこの間の劇のように彼女を抱きしめたいところだが、それは彼女とつながるたくさんの線が許してくれなそうだった。

 左手を両手で強く握りながら、ボクは目を伏せる。嫌だ、死なないで、一人にしないで。そんな言葉が次から次へと口から飛び出そうとする。ボクはそんなわがままをかみ砕きながら、ただひたすらに彼女を思って涙を流し続けた。

「なか、な、で」

 か細い声が耳に届く。驚いて視線を沢村の方へ向ければ、彼女のまぶたは久方ぶりに開かれていた。

「沢村!」

「てごくで、みてる。ずっと、ささえる、から」

 彼女は口を小さく開きながら必死に言葉を紡ぐ。その声に、これが彼女と居られる最後なのだと理解した。彼女は今、最後の力を振り絞ってボクに言葉を残しているのだろう。

 だからボクは何も言わずに、ただ彼女の声に耳を傾ける。

「すき、だすき、ライ、大好き」

 沢村は、そう言い残すと再び目を閉じた。その瞬間、心肺停止を知らせる電子音が部屋中に響く。

 ボクは彼女の手を強く握りしめ、今作れる最上級の笑顔を彼女に向ける。

「ボクも愛してるよ。美雪」

 二人きりだった部屋は、人の横道で一気に忙しなくなる。そんな中で、ボクは医者が許す限り彼女の手を握りしめ続けた。

天国へ行った彼女は、まるで夢でも見ているような穏やかな表情をしていた。
 美雪の葬式が終わり、夜の帳が降り始めた中、ボクたちは行き先も決めずにぶらついていた。喪失感に襲われるボクらの間に会話はなく、車のエンジン音だけが辺りに響いていた。

「ボクさ、理想のライを卒業するわ」

 そんな沈黙を破るように、ボクは学に宣言する。学は何も言わず、空を眺め続けていた。

「泣き虫で、弱っちくて、頼りない。そんなボクらしく生きていこうと思う。美雪に言われた通りに」

 ボクはその場で足を止め、先を進む彼の背中を呼び止める。ボクの呼び声に足を止めた学は、ゆっくりとこちらへ身体を向けた。彼の顔は、悔しさそうにゆがめられていた。

「そんなボクだけど、友達になってくれますか」

「それでダメって言われたらどうするんだよ」

 学は足を踏み込み、ボクとの距離を徐々に詰める。そしてボクの頭に手を置くと、無造作に頭をなでまわした。

「お前と沢村とで劇の練習をしてたときはすげえ楽しかったからな。あの時のお前が本当のライだってんなら、友達になってやるよ」

 その言葉が嬉しくて、ボクは思わず学の胸に飛び込む。学は鬱陶しい、暑苦しいと文句を吐きながらボクを剥がそうと必死になっていた。ボクは離れるものかと意地を張り、必死に彼の服をつかみ続ける。しかしガタイの良い学の筋力に負け、抵抗は空しく引き剥がされてしまった。

「んじゃ、卒業祝いにファミレスでも行くか」

 学は制服のしわを整えながら、いつもの笑顔でボクに声を掛ける。友人との外出というのは初めての体験に、ボクは元気の良い返事を返しながら、彼の横に並ぶ。

 これから先、これがきっかけで苦しい思いをするかもしれない。虐めだって受けるかもしれない。だけど、ボクが最も恐れていた孤独が今後やってくることはないだろう。学と美雪は、こんなボクを受け入れてくれたのだから。

「美雪! ありがとう!」

 ボクはその場に立ちどまり、大きく息を吸い上げ、天国に居る美雪に届くような大声で叫ぶ。するとボクに倣って、学も大声で叫んだ。

「ありがとな!」

 肩に腕を回し合ったボクたちは、お互いに顔を見合わせ、街のど真ん中で笑いあう。愛されるために理想を演じていたボクは、もう存在しなかった。

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