翌朝、学校に行くといつも私より早く教室にいるはずの田辺の姿がなかった。私が早く来すぎたのだろうかと教室の壁掛け時計を確認したけれど、時間はいつもと変わりない。教室にいるクラスメイトの顔ぶれもいつもと同じだった。
寝坊でもしているのだろうか。私は自分の席についてスマホを操作してイヤホンから流れてくる音楽を変える。イヤホン越しに、クラスメイトの一人が「田辺遅くね?」と話している声が聞こえた。田辺と同じクラスになってから、田辺が学校を遅刻する姿は見たことがない。スマホのメッセージアプリを起動して、指をスクロールしながら田辺の名前を探す。
けれど、もうすでに田辺には他の子からメッセージが送られているだろうと思って、私はアプリを閉じてスマホの画面を伏せた。
クラスメイトの結衣や朱里が教室にやって来て、私は耳からイヤホンを外して他愛もない会話をする。その会話は、他のクラスメイトや先輩の誰々が載せたSNSの投稿のことや、動画クリエイターの誰々の話ばかりで、私の興味のある話題とは少し違うけれど、適当にそれっぽい相槌を打つ。いつもの、私の朝の過ごし方だ。
それでも、田辺は来ない。クラスメイトの一人が「田辺、既読になんねーわ」と言っている。胸が、少しだけざわつく。何か、あったのだろうか。昨日読んだミステリー小説の不穏な雰囲気を思い出す。いやいや、考えすぎだ。
そう思うのに、田辺が来ないまま朝の予鈴が鳴ってしまった。一つ空いている一番前の窓際の席が、この教室の中でとてつもない存在感を放っている。
「田辺、寝坊?」
また、クラスメイトの一人がそう呟いた。
「わからん、今も既読付かん」
「お前も? 俺も昨日の夜から既読つかないんだよね」
「それはただ無視されてるだけだろ」
「まだ寝てんじゃね」
「だとしたら珍しくない?」
「バイト遅かったんじゃん?」
「俺通話かけてみよっかな」
「ばか、もう相川来るぞ」
「まだいけるって」
みんな、抱えきれなくなった不安を共有するみたいに次々と言葉を発するので、私の中にもあったぼんやりとした不安が輪郭を作っていく。
「田辺くんが休むなんて、珍しいね」
結衣の後に、朱里が「田辺くんって、駅前の居酒屋でバイトしてるんだっけ」と言った。それに対して、結衣が「うん」と頷く。
バイトは、昨日は休みだった。帰ったのも、夕方の5時で決して遅い時間じゃない。じゃあ、寝坊ではないんじゃないか。それなら、風邪でも引いて、今も寝込んでいるのかもしれない。
頭の中で色々考えながら、クラスメイトが掛けているその通話に田辺が出てくれればと願う。けれど、その願いも虚しく、田辺が通話に出る前に教室の扉が開いた。
私を含めたクラスメイトの視線を一気に集めたそこには、担任が真っ赤な顔をして立っていて、ギョッとする。いつもメイクばっちりで決めてくるのに、今日はスッピンみたいで、しかも目を腫らして鼻も真っ赤。その後には教頭の姿もあって、ただ事ではない何かが起こったのだろうと、皆が教室の中のたった一つ空席の田辺の席に視線を向けた。
担任は鼻を啜りながら教壇に立って名簿ファイルをぱたんと置くと、嗚咽の混ざった震えるか細い声で、田辺が死んだことを告げた。死因は、下校途中の交通事故だった。
それを聞いた瞬間、私は心拍数が一気に跳ね上がって、視界がぐわんと歪んだ気がした。田辺が、死んだ?
そのとき、誰かが驚きのあまりか立ち上がったようで、椅子が床に倒れる音が教室中に大きく響いた。音のした方を見ると、それは田辺と仲が良い関口だった。その他は、ただ茫然とする生徒、わっと泣き出す生徒がいた。
その中で、私は何故か胸の辺りに何か得体の知れないものが込み上げてきて、ただただ吐き気がした。その理由は、分からない。
驚きのあまり……涙が込み上げてきそうで……告げられた言葉の意味を受け入れられなそうで……。どれも、違う気がする。それでも、込み上げてきたものを我慢する為に私は顔を俯かせて、込み上げてくる何かをぐっと堪えた。
嗚咽で喋れなくなった担任の横に立つ教頭が「田辺くんのご家族によると、お葬式は執行わないそうです。もし、田辺くんと最後の挨拶をしたい人は、明日、先生と一緒に斎場に行きましょう」と静かに言った。その声は冷静だったけれど、教頭の顔を見たら泣いているように見えて、私は視線を逸らした。
その日は、私たちのクラスはそのまま放課となった。それでも、すぐに帰宅するような生徒はいなかった。
教室は、今までにないくらい異様な雰囲気に包まれていた。田辺と特に仲が良かったクラスメイトは泣いていて、担任や他の子達が集まって、肩を摩ってやっていた。
「ねえ、紗季、朱里」
後ろの席の結衣が声を掛けてきた。結衣は、机に視線を落としていて、なんとも読み取れない表情をしている。
「明日、一緒に行かない?」
結衣の提案に、隣の席の朱里はすぐに「うん」と頷き返している。私は咄嗟に、同じようにできなかった。
「行くって、斎場に?」
「……うん」
結衣は、田辺のことが好きだった。私は結衣からも視線を逸らして「そうだね」とだけ呟きながら、田辺の空いた席を見て、昨日田辺が帰る間際に言いかけたことはなんだったのだろうとぼんやりと思った。



