「ただいま」
そう声を掛けても、誰の返事も返ってこない。
「……おばあちゃん?」
玄関で靴を脱ごうとした時、なんだか異様な雰囲気を感じて私は靴を脱ぎ捨てて台所へ駆け込むと、ガスがついたままの鍋の蓋がカタカタと揺れていて、その隙間からは白い泡がぶくぶくと溢れ出していた。
「ちょっと……!」
慌ててガスの火を止めたら、鍋は音を立てて蓋の動きは停止した。ガスコンロの天板には、鍋から吹きこぼれた白い液体が溜まっている。まるで、マグマが流れ込んだ
「ねえ!」
すぐ隣の居間に顔を出すと、祖母はソファに座ったまま少しだけ間を置いてこちらに振り返ると「あら、おかえり」と眠たげな目をして言った。
「ガス、また付けっぱなしだったよ!」
テーブルに置かれたテレビのリモコンを掴んで、耳が痛くなる程の大きい声でよく喋るリポーターの音量を下げる。
「やだ、うっかりしてたわ」
祖母はソファからゆっくりな動作で立ち上がると「ごめんごめん」と言いながら、左足を引き摺りながら私の横を通り過ぎて家具に手を添えて歩きながら台所へ向かう。
「今日の夕飯ね、絢が好きなシチューにしたのよ。 あら、鍋が……」
「…………だから……」
手に持っていたリモコンをギュッと掴む。湧き上がった感情とその勢いのまま口から滑り落ちそうになった言葉をぐっと飲み込んで、小さく深呼吸をした。
……分かっている。ここで何を言っても、おばあちゃんには分からない。
そう思っても、自分の体の真ん中でジリジリと焦げ付いたものが収まらない。イラついている自分が余計腹立たしくて、結局ため息だけは重たく溢れた。
「絢、いっぱい食べられるでしょう?」
「……普通でいいよ」
リモコンをテーブルに置いて、玄関に放り投げてしまったエコバッグと保冷バッグの中身を覗く。運よく卵は割れていなかったし、保冷バッグの中の容器も蓋が開いたりはしていなかった。容器の蓋を開けるとロールキャベツが入っていた。仲田さんの作るロールキャベツは、美味しい。
「あとは私がするから、座ってて」
台所でシチューを混ぜている祖母に声をかける。その背中は丸まっていて私よりも随分と小さくて、さっき大声を出してしまったことを後悔した。
「あら、珍しい。 手伝ってくれるの?」
「…………」
……私、毎日手伝ってるよ。そう言おうと思っても、祖母は私のことを自分の娘だと思い込んでいるのだから、私がいくら私自身のことを話しても、祖母は理解してくれない。
祖母に認知症のような症状が現れたのは今年の、雨が降り始めた頃だった。はっきり認知症だと断言できないのは診断を受けたわけではなく、私がネットで祖母の症状を調べただけだから。でも、限りなく、そうなのだと思う。
最初は物忘れが増えたくらいに思っていたけれど、ある日から祖母は私のことを母の名前の“絢”と呼ぶようになった。初めの頃は私の名前は“紗季”だよと伝えると、間違えちゃってごめんねと言っていたけれど、次第にそれを受け入れてくれなくなった。『私はおばあちゃんの娘ではなく孫だよ』と何度も説明したけれど、祖母は不思議そうな顔をして、寧ろ私がおかしくなったんじゃないかと言って取り合ってはくれなかった。
母親なんて、私をここに置き去りにしてから一度もここに姿を現していない。私と祖母を、あの人は見放したのに。私の方が、ずっとずっと祖母と仲良く過ごしてきたはずなのに、この家では“紗季”という私は存在しない人間になってしまった。
それでも私は、祖母がふとした拍子に自分の名前を呼んでくれるのではないかといつも期待してしまう。そんな期待をした所で自分が悲しくなるだけなのに、未だにその期待は捨てきれない。
今日の夕飯は昨日祖母がテレビを観ながら、美味しそうだと呟いていたカレーにしよう思っていたけど、それを作る必要はなくなってしまった。鍋とシンクにべっとりと流れ出たシチューをキッチンペーパーで拭き取る。今日買ってきたカレールウは、棚に仕舞っておいた。
「どう、美味しい?」
食卓について、シチューをひと口食べた私に祖母は聞く。
認知症の症状のひとつに、料理の味付けが変になってしまうことがあるらしいが、祖母が作る料理の味は変わらない。なんて皮肉だろうと思う。祖母は私のことも私の好物も忘れてしまったというのに、ここにはもういない人の好物を突然思い出したように作って、私が食べる様子をニコニコしながら嬉しそうに見ている。
「美味しいよ」
その言葉を聞いた祖母は「良かった」と目尻のシワを濃くして笑った。
私自身も、祖母の料理で好きだった物を、今はあまり思い出せない。
食事を済ませた後は、祖母が飲んでいる薬を確認する。夜は、漢方と錠剤合わせて4種類。小さい頃、シートから錠剤をプチプチと取り出すのが楽しくて、薬を用意するのは私の一つの役割になっていた。
けれど、祖母が私を私だと認識しなくなってからは、薬を飲み忘れることが増えてしまった。
「あら、絢。 そんな薬、どうしたの」
「これは私のじゃないよ。 この前一緒に病院に行ったとき、貰ったじゃん」
「ええ? ……そう」
毎月の通院は面倒だと祖母が言って3ヶ月分貰ってきた薬ももう残り少なくなって来た。次の予約は来月の頭だったっけとぼんやり考えながら、祖母の手に錠剤を2錠ずつ渡して飲んでもらう。漢方は美味しくないみたいで、ごくんと水で流し込んだ後も眉根を寄せて顔をくしゃっとさせる。健康のためだよと声をかけると、祖母は、そうねと頷く。毎日繰り返されるやり取りだ。
それから食器洗いを終えた祖母がお風呂に入っている間、水切りカゴに並べられた食器を洗い直す。老眼が進んで、眼鏡をかけても汚れが見えにくいらしい。皿の縁や鍋底についた汚れを、もう一度スポンジで擦る。食器洗剤が無くなりそうなので、近々買ってこないと。
食器洗いを終えたら洗濯機を回して、昼間に祖母が畳んだ洗濯物を仕舞い直す。忘れっぽくなった祖母は、自分のタンスに決められたごとに仕舞えなくなったので、引き出しにそれぞれ衣類のシールを貼ったけれど意味を成していない。靴下が下着の引き出しに、タオルが寝巻きの引き出しに紛れ込んだりしている。
時々祖母の様子を気にしながら、お風呂から出てきた祖母が着替えにくそうにしている時は手を貸す。不思議なもので、私の母親は祖母の着替えの手伝いなどしたことがない筈なのに、祖母は寝衣を着せる私に「ありがとうね」と言う。祖母は一体、誰に感謝しているのだろう。
コップ一杯の水分を飲ませ、祖母が居間から襖一枚で仕切られた寝室に入ったのを見届ける。足が悪いので、ふとした拍子に些細な段差でも躓くことが増えた。
洗濯機が回り終わって、縁側に取り付けられた物干し竿に干していく。
今日、祖母がサロンに行かなかった理由は、足が痛かったからだと言っていた。少し前までは、『リハビリがてらに』と言いながら、杖をついて頑張って行っていた。けれど、運転免許もなくて、左足に麻痺が残っている祖母にとっては、たった徒歩5分の距離にある集会場は、とても遠いのだろう。
でも、その分祖母が家にいる時間が増えてしまう。今日は運良く、惨事になる前に帰って来れたけれど、昼間となるとそうは行かない。
洗濯物を干し終えて、少しだけ息を吐く。今の時間は21時半。2ヶ月前は、今から22時にシフトに入っていたコンビニのバイトに自転車で向かっていた。正直、それが無い今は随分楽だけど、次をできるだけ早く見つけないと。
洗濯かごを持とうとした時、床に落ちていたエコバッグの中からはみ出しているチラシが視界に入った。ああいう、高齢者の困りごとを相談する場所があることは、“認知症”で調べると関連して引っかかるので何となくは知っている。だけど、そこに行ってしまったら、祖母はここに居られなくなるかもしれない。
少し前に、クラスメイトの朱理が同居していた祖父が認知症になって面倒を見切れなくなったから、親が施設に入れたと話していて、ぞっとした。
今の祖母が、まだ高校生の私と二人暮らしであることは、きっと世間から見れば良い状況ではないことは何となく想像ができる。だけど、離れてしまったら、きっと元には戻れない。
そんなことになるくらいなら、私が耐えれば大丈夫なんだ。お金だって、祖母の年金と私のバイト代でやれている。だから、これからも、大丈夫なはずなんだ。自分に言い聞かせる。大丈夫、大丈夫……。
なのに、不意に涙が込み上げてきそうになって喉元がジンと熱くなる。祖母との生活の中で楽しいことも沢山あった。お花見やお祭り、落ち葉狩りにも出掛けて、週末は一緒に21時からテレビで放送される映画を観ながらアイスを食べた。
その日常は私の当たり前だったけれど、いつもどこかに不安があった。祖母は私よりもずっとずっと早くにもっと歳を取ってしまう。だから、この生活はきっと長くは続かないと幼いながらに思って、ひとりで泣くこともあった。
それがいま、どんどん現実になろうとしている。ぼんやりとしていた不安がはっきり形を作っていく。心細くてたまらない。涙がこぼれ落ちて、慌てて拭う。
何度も思う。泣いたって仕方がない。こればかりは、どうしようもない。そう言い聞かせる。けれど、不安は消えない。
これからは私も屋上に行く頻度は落ちるかもしれないな。そんなことを考えて、ふと、田辺が教えてくれたリバイバル上映のことを思い出す。テレビの前に座り込んで、台の下の収納扉を開けて見ると、埃っぽい。中には、私が小学生の時に観ていた映画のVHSやDVDが、そのときの記憶のままの状態で並べられていた。背表紙を横に撫でてみると、そこにも埃がついていたようで、指でなぞったところが一直線に鮮明になる。
祖母が買ってくれたアニメ映画のDVD。群れからはぐれてしまったイルカと島暮らしの少女が心を通わせて冒険をする話で、私が挿入歌で流れる歌が好きでよく歌っていたから、時々祖母も家事をしながら口ずさんでいることがあった。私は、自分の好きが祖母の中にも移ったみたいで、それが嬉しかった。
懐かしい。自然と自分の頬が緩んでいるのに気が付いて顔をあげたら、真っ黒なテレビの画面には小学生の頃よりも大人の顔になった自分が映っていた。思わず顔を伏せる。祖母は、いまでもあの歌を覚えているのだろうか。
アルビオンのVHSが入ったケースを見つけて、もれなく埃がついていたのでティッシュで拭き取った。VHSのデッキは探しても見つからなかったので、やっぱりいつの間にか処分されてしまったのかもしれないなと思う。目を瞑って、印象的なシーンを思い浮かべる。田辺は観たことがないって言っていた。きっと気に入ると思うから、いつか観てみてほしい。VHSは、また同じ場所に仕舞い込んだ。
お風呂を済ませて、2階にある自分の部屋に入ると日中閉め切られていた部屋は生ぬるい空気が漂っていた。ここにいるだけでまた汗が吹き出しそうで、急いで窓を開けると、どうやら雨は止んだようですうっと涼しい風と夜の匂いが入り込んできた。それが心地よくて、その空気を肺いっぱいに吸い込む。
この、夜の冷たくて澄んでいる匂いが好きで、どこか屋上にいるときの匂いに似ている。目いっぱい吸い込んで、その分自分の中に溜まった黒いものを吐き出す。このままずっと、自分の身体の中が綺麗な空気でいっぱいになって、嫌な感情なんて一生芽生えなきゃいいのにと思うけれど、なかなかそうはならない。
窓に背を向けて、田辺から借りた小説をカバンから取り出してベッドに上がる。読み進めていくうちに夢中になって、この時だけは嫌なことを忘れられる。ページを捲るたびに、次はどんな展開になっているのだろうと気になって、なかなか止められない。田辺が貸してくれるものにハズレは一切ない。どうして今まで知らなかったのだろうと悔しくなる程だ。
時計を見ると時間は0時になろうとしていた。198ページまで読んだけれど、残りはまだ300ページくらいある。今日のところはここで我慢しよう。
田辺の言う通り、面白い。まだ途中だけど、読んだところまでの内容を田辺に話したい。
スマホで明日の天気予報を見る。明日は、晴れ。パッと気持ちが明るくなって、けれどすぐに、雲が翳る。今日のことがあると屋上でのんびり過ごせる心の余裕が、自分には無いなと気づく。田辺は、明日屋上に来るつもりだろうか。
明日は屋上に行けないとメッセージを送っておこうか。いや、でも、そもそも田辺は明日屋上に来るつもりがなかったらちょっと気まずいかな……。
メッセージアプリの田辺とのトーク画面をじいっと見つめ、文字を入力しては消してを数回繰り返して、結局何もしないままアプリを閉じた。
明日のことは、明日考えよう。そう自分に言い聞かせ、スマホを枕横に伏せた。



