ネリネ


 ふと、田辺は映画館に行ったことがあるだろうかと思う。行ったことがあったら、最後はいつだろう。聞こうと思って隣を見ると、田辺はアスファルトにぼうっと視線を落としていた。風に前髪が揺れて、その目元を隠す。

 田辺は時々、ほんの一瞬だけ呼吸を忘れてしまったみたいな、頭の中を空っぽにしたような感情の読み取れない顔をする。私は、この時々見る姿が田辺の自然体なんじゃないかと思うことがある。でも、それは気のせいでただの勘違いかもしれない。そう思っても、私はなぜか何とも言えない、不安な気持ちになる。

 「田辺」

 居心地の悪い沈黙を断ち切りたくて名前を呼ぶと、田辺は「ん?」と、ふっと呼吸を吹き返したようにしてこちらを見て、いつものように微笑んだ。

 「どうした?」

 「え、っと、そうだ。 これあげる」

 リュックから、鼈甲色の飴をひとつ取り出す。田辺は笑って「これ見ると、いつも新名を思い出すよ」と言う。私は沈黙がなくなったことだけに安堵して微笑み返す。私の笑顔は、とてもぎこちないのだろう。

 「じゃあ、俺帰るね」

 「うん」

 立ち上がった田辺の足元に落ちる影を見ながら、映画館のことは、また今度聞くことにしようかと考える。別に今訊いたって良いことだけど、少しの勇気が出ない。

 「新名」

 顔を上げると、こちらを見下ろす田辺と目が合う。けれど、その顔は陰っていて表情がうまく見えない。

 「俺さ……」

 「え?」

 田辺との間に風が通って声が流されてしまい、聞き返す。

 「なに?」

 「……いや、何でもない。 雨もうすぐ降りそうだから、新名も早めに帰ってね」

 次はちゃんと聞こえたのでうんと頷くと、田辺は声が届いたことに満足したみたいに微笑んで私と同じように頷いた。

 「じゃあ、また明日」

 田辺はさっきよりも大きな声でそう言って、扉の方に向かう。私はいつものようにその背中が扉の向こうに消えるまで見送ってから、田辺が貸してくれた小説に視線を落とした。

 ……もし、一緒に映画を観に行こうなんて言ったら、田辺はどんな反応をするだろうか。やんわり断られたりして。バイト、忙しいからさ、とちょっと申し訳なさそうに言う田辺の顔を想像して、勝手にショックを受けてしまう。

 やっぱり誘わなくて良かった。仮に一緒に行ってくれるとなっても、私自身が“田辺に無理をさせていないか?”とずっと悩み続ける様子も、安易に想像できた。そうなるくらいなら、何もしない方がいい。

 立ち上がってフェンスの隙間から校門を見下ろしていると、下校していく生徒の中に、田辺らしき生徒が誰かに手を振りながら校門に向かっていくのが見えた。

 そういえば、田辺は今日ここで小説を読まずにずっと話していた。特段珍しいことでもないけれど、今までで一番田辺と話ができた気がする。

 借りた小説を大事に鞄の中に仕舞い込む。顔を上げると、灰色の雲がもう屋上を覆ってしまいそうなほど近くまで流れ込んでいた。