ネリネ

 「あ、そうだ。 新名、これ知ってる?」

 向けられたスマホの画面を見ると、ネットニュースの記事に[アルビオン、再上映決定!!]と見出しがあった。私はまたえっと声を上げる。

 「え? なにこれ、どういうこと?」

 「いま、昔の映画を劇場でリバイバル放映してるらしくてさ。 今日何気なくリスト見てたら、アルビオンがあったんだ。 これ、好きな映画だった新名言ってたから、伝えたくて」

 「リバイバル……え、すごいすごい」

 驚きながら、確か田辺にアルビオンの話をしたのはたったの一度だけだったはず。それを覚えてくれていることにも、私は内心びっくりしていた。

 アルビオンは、2000年に公開された洋画。物語の舞台はロンドンのスラム街。街の地下に、攫ってきた子どもを収容し労働させている施設があって、そこに暮らしていた10歳の4人の男の子たちが、いつかこの最悪な世界から抜け出して、夢と理想が詰まった天上の国〈アルビオン〉に行こうと計画を立てる冒険物語。

 私がアルビオンを観たのは、主人公たちと同じ10歳の時だった。彼らは、劣悪な環境で何度も酷い目に遭うけれど、決して希望を捨てなかった。当時の私にとって、彼らはヒーローだった。

 リバイバル上映は、今月の23日かららしい。今日何日だっけ、と訊くと、田辺は「20日」と教えてくれる。

 「もうすぐなんだね。 ……大好きな映画なのに、もうずっと観てないや」

 「DVDは、持ってないんだっけ」

 「持ってるのは、HSV。 もう、今は観れないからさ」

 家に置かれていたデッキは、故障して、どこかに仕舞われてしまった。もしかしたら、知らない内に処分されたかもしれない。

 「映画館って、ここから一番近くて……在岡かな。 乗り継ぎ込みで、大体電車で2時間とか、かかるよね」

 遠いね、と言葉を続けると、田辺はうんと呟いてフェンスに寄り掛かった。

 「映画館で、観たいと思う?」

 私もフェンスに寄り掛かり、見上げて、空一面に大きなスクリーンを思い浮かべた。

 「うん、一回くらいは観てみたい。 でも、私、映画館には行ったことないんだよね。 ……映画の中でしか、映画館って見たことないかも」

 ここから映画館までの距離は、私にとっては程遠い。周りの子たちはみんな映画館は中学生の頃までには履修済みで、高校生にもなって映画館に行ったことないなんて、恥ずかしくて言えなかった。

 それなのに、田辺が隣にいると本音がつい口から溢れてしまう。

 「あんな視界いっぱいの大きなスクリーンで、映像の端から端まで観れるのかな。 音だって、全身が震えるくらい大きな音が鳴りそう」

 「はは。 確かにね。 大迫力だと思うよ」

 そっと寄り添うように、田辺は微笑んで言う。私は視線を落として、灰色のコンクリートに転がる自分の足先を眺めて、自宅の小さなテレビを思い浮かべる。映画のスクリーンは、あのテレビの何個分だろう。

 「映画館なら、音の大きさを気にする必要もないし、誰にも邪魔されない。 それに、ポップコーンやチュロスもあるから、甘党の新名ならきっと気に入るよ」

 「私、ポップコーンは塩派」

 「えっ、意外。 俺はキャラメル一択」

 「そうなの? なんか、バター醤油が好きそうな気がしたのに」

 「それ、どういう意味だよ」

 お互いに横目で顔を見合って、わはは、と笑った。やっぱり、趣味が合うのは小説や映画だけらしい。

 「映画館と言えば、新名、あの映画観たことある?」

 小首を傾げる田辺に、私は即座に「ニュー・シネマでしょ?」と答えると、「うっわ、アタリ! すげえ、なんで分かんの」と田辺は嬉しそうに声を上げた。その教室ではあまり見ない反応に、私は思わずニヤッとしてしまう。

 好きなものの話をしている時は、どうしてこうも胸の辺りがくすぐったくなるのだろう。そのせいで、ちょっとしたことでも笑ってしまう。あまり笑いすぎても良くない気がして、私は時々田辺から目を逸らして笑顔を誤魔化した。

 そうしながら、ふと、田辺があの日ここに来た理由について考える。あの夕立ちの日に訊けば良かったけれど、そうする前に田辺と一緒に屋上を後にして解散したので、それ以降はずっとタイミングを逃していた。

 今更訊くのは、なんだか詮索していると思われてしまうのではないかと考えてしまう。そんな風に思われるくらいなら、何もしない方がいいんじゃないかと思う。私はただ、この時間が続けばそれでいい。だから、余計なことはせずにいた方が安全だ。

 ひとしきり話をした後、田辺は視線を上げて塔屋にある時計を見る。時間は15時52分を指していた。私は、途端に気分が落ちるのを自覚する。

 「あれ、時間ずれてるよ」

 「そうだった」

 田辺がスマホの画面を開くと、正しい時間は16時だった。あの時計、随分ずれてるよなと言いながら、田辺はスマホをズボンの後ろポケットにねじ込む。

 「新名、帰らなきゃだもんね」

 「そうだね」

 私はいつも、田辺が帰ってから屋上を施錠する。以前、一緒に帰らないかと訊かれたことがあったけれど、私は首を横に降った。私は屋上なら気兼ねなく田辺と話せるけれど、ここから一歩出れば、周囲の目が気になって仕方なくなってしまうだろう。きっと挙動不振になるのに、わざわざそんなところ渡辺に見られたくない。

 それに、勿論田辺は自覚していないけれど、田辺はとても優しい。話してみて分かったけれど、決して相手の話を否定せずに、受け止めてくれる。そんなところがある。

 その優しさは、私にとっても心地が良かった。でも、ただちょっとだけ、やっぱりこの人は掴みどころがないと思わせた。

 田辺はそれ以来、私を一緒に帰ろうと誘うことは無くなった。