田辺は、いつもクラスの中心にいて、ムードメーカーで無駄に声の大きい関口と一緒にいることが多い。でも、関口や他の男子たちと一緒になってふざけることはせず、落ち着いた様子で男子たちがふざけているのを楽しそうに見て笑っている。その笑顔は、もともと整った顔立ちがちょっとだけ幼く見えて、朗らかで人懐こくて、自然と人を惹きつける魅力があった。だからつい、視線が向いてしまう。
田辺自身は、自分が人を惹きつけるそんな魅力があることなんて全く自覚がない様子で、控えめだけど、でも誰とでも分け隔てなく接する社交性はあって、私は田辺のことをどこか飄々としている掴みどころのないような人に見えていた。
でも、屋上に来た田辺は、私が持ち込んでいた小説を目にしたら、小さな子どもが宝物を発見したみたいに目をキラキラとさせて『これ、俺も持ってる!』と弾んだ声で言った。雨は強さを増して土砂降りになっていたけれど、そんなのも気にならないくらい田辺の笑顔は晴れやかだった。小説のことを嬉しそうに語る田辺は、私から見ても“はしゃいでいる”ように見えて、普段の落ち着きを纏ったどこか控えめな様子からは想像できなかったので驚いた。今でも、深く印象に残っている。
——新名は、なんで屋上に?
そう田辺に訊かれて、私は現実逃避のためだと答えた。それから、晴れていたら風が気持ちがいいし、吹奏楽部の演奏が聴こえたりして居心地がいいよと、PRまでしてしまった。今思えば、私もはしゃいでいたのかもしれない。田辺は『いいね、それ』と深くみたいに頷いた。
——もし……明日も晴れてたら、俺も来てもいい? 誰にも言わないし、新名の邪魔もしないから。
控えめにそう言った田辺は、ちょっとだけ不安そうだった。私は、ここのことは誰にも知られたくなかったとっておきの場所だったけれど、そもそも屋上は学校のものだし私が出入りしていること自体違反なので、ダメだなんて言える権利は無かった。PRもちゃったし。
それから、田辺は天気が晴れていてバイトが休みの日には、私と同じように小説片手にここに訪れた。普段は、放課後になって少し経った頃に『いる?』と田辺からスマホに連絡が入る。私がバイトの時は、私から『今日は行けない』と先に連絡を送っていたけれど、最近は私からメッセージを送ることは減った。
教室に居る時は、お互い普段通りに過ごすように努めた。これまであまり接点が無かったふたりが教室で突然親し気に話すというのは、学校という狭い世界の中では変に話題になる可能性もあるし、この屋上のことも知られてしまうかもしれないと考えた。それだけは避けたかった。
だから、屋上から一歩外に出れば、私と田辺は一定の距離感を保つ。それが、誰にも違和感を持たれない、私たちの本来の姿に戻る。ここに居る時が、ただ特別なだけなんだ。
「そうだ。 これ、遅くなったけど」
田辺がリュックから取り出したのは、1週間前に田辺が私に貸してくれると話していたミステリー小説の“彼方へ”だった。
「本当はもっと早く渡そうと思ってたんだけど、タイミング掴めなくてさ。 遅くなって、ごめん」
「いや、そんなの、全然。 バイトで、忙しかったんだし」
この連日バイトに明け暮れてたのだから。帰りのHRが終わると、クラスメイトに申し訳なさそうな笑顔を向けながら足早に教室を出て行く田辺の背中を思い出す。その背中を見て、私は以前よりも今日が晴れていることに喜びを感じるよりも、田辺が今日も屋上に来れないことの方がほんの少しだけ寂しかった。
でも、私に小説を渡さなかったことくらいで謝らないでほしい。そう思うのに、早く渡そうと考えてくれていたのかと思うと嬉しくて、私は自分の手元にある小説に視線を落とす。随分読み込まれているようで所々傷んでいるけれど、中古本屋で売っているものよりは全然綺麗だ。
田辺は、この小説でミステリーが好きになったと言っていた。自分の好きなキッカケになった物を共有してくれるのって、こんなに嬉しいものなんだなと思う。
「……なんか、延命措置受けられた気分」
「なにそれ」
「いま、これが私の生きがいなの」
それを聞いた田辺は「大袈裟だなあ」と笑う。私の言葉に田辺が笑ってくれると、私はちょっとだけ得意げな気分になる。今日は吹奏楽部の演奏もよく聴こえるし、グラウンドの方から運動部の掛け声が風に乗ってここまでよく聞こえてきた。関口の声はやっぱりよく通るねと話して、また笑った。
屋上は、現実から意識を遠ざけてくれる場所だけれど、他の生徒が部活動をしている気配が感じられるから、完全に現実と切り離してくれるわけではない。私は、そこも気に入っていた。現実を忘れた所で、あることには変わらないのだと頭の片隅に語り掛けてくれる。
だけどたまに、それが酷く苦しく感じられることがあった。部活動を楽しんでいるみんなの気配が、私の孤独感を強めて独りぼっちにさせた。小説を読んでも、その孤独感から抜け出せなかった。
別に入りたい部活があったわけではないけれど、クラスで仲の良い子は吹奏楽部やバドミントン部に入っていて、話を聞いていると、やっぱりいいなと思ってしまう。でも、家にそんなお金はない。
だから、私には過ごせない時間を過ごしている彼らを、羨ましい、恨めしいと思っている自分が、あの声を聞くと顔を出すような気がした。そんなことを思ってしまう自分自身が嫌で仕方がなかった。
けれど、田辺がここに来るようになってから、そんな嫌な自分が顔を出すことは減った。結局私は、独りぼっちが寂しかっただけなのかもしれない。そんな単純な自分は、面倒くさい人間だなと心底思う。
「新名から借りた“行方”は、まだ途中でさ。 今日持ってきてここで読もうと思ったけど、昨日読んだまま家に置いて来ちゃったんだ。 もう少し、借りてていい?」
行方は、私から田辺に貸したミステリー小説だ。結構面白くて、最後までなかなか展開が読めずに没入できて良かった。ここでそう話したら読んでみたいと言われたので、1週間前に貸していた。
「ゆっくりで、全然いいよ」
「ありがとう。 いま、最終章の手前まで読んだけど、俺の推理は結構鋭いと思ってんだよね」
田辺はニヤリと笑う。田辺が予想する犯人を聞かせてもらったら、見事に騙されていたし、何なら私も同じことを最終章の前に思っていた。つい笑いそうになったけれど、「ふーん」と鼻を鳴らしてみる。
「え、それどっちの反応? 違うってこと? ちょっと、ヒントとかある?」
「それ、言っちゃったら分かっちゃうじゃん」
「いや、まあそっか。 でも……うーん……」
真剣に難しい顔をして考え込む田辺が可笑しくて、つい笑ってしまう。田辺は「笑うなよー」と言いながら、その顔も笑っていた。



