田辺は、台所に視線を向ける。そこからは、幼いふたりの楽しそうな声と、落ち着いたしゃがれた声が聞こえてくる。

「俺も、あんな風にじいちゃんから料理教えてもらったんだ。家庭科の授業で料理実習があると必ず予習復習が家であって、俺以上に張り切るんだよ」

 そういえば、少し前にあった調理実習で田辺は包丁の扱いが上手だと先生から大絶賛されていたっけ。あの時はバイトの厨房で料理をしているから上手なのかなと思ったけれど、それよりもずっと前から大塚さんから教わっていたんだ。

 田辺は、当時大塚さんと過ごした思い出をぽつりぽつりと話してくれた。授業参観は田辺は店が忙しいからと言いながら、こっそり見に来てくれたことや、食材調達のために時々市街に一緒に出かけたりしたことなど。「ここに住んでた時が、一番楽しかったなあ」と話す田辺は、今まで見た中でもどこか幼さを感じさせた。

 「でも、母親が突然迎えに来た時、俺がここに居たいって言っても、親権は母親にあって誰もそれには抗えなかった。 それなのに、最後の日にじいちゃんに“ごめんな”って謝られたんだ。 じいちゃん、全然悪くないのに、謝ることなんてひとつもないのに。 でも、俺はそう言えなくてさ。 自分の無力さとか、母親の身勝手さとかに腹が立ってて、今まで面倒見てくれたじいちゃんにありがとうって言えなかった。 それがずっと心残りで、いつか会いに行って伝えようと思ってたんだけど、どんな顔して会えばいいのか分からなかった。 そしたら、こんなことになっちゃって。 ……ほんと、俺は、そんなことばっかりだ」

 そう話す田辺は、本当はずっと誰かに聞いて欲しかったみたいに、気持ちが溢れているようだった。その気持ちはなんだろうと見つめた横顔は、屋上でふと見せる、呼吸を忘れてしまったみたいな表情で、隣にいるのに決して手が届かないような、手が届いてしまったら壊れてしまいそうな程に脆そうな、そんな雰囲気を纏っている。もしかしたら、このまま消えてしまうんじゃないかと、縁起でもない想像が頭の中で膨らむ。

 何か言葉をかけようかと考えるけれど、田辺の言葉を受け止めるので精一杯で、自分から何か言葉を口にした瞬間、涙が溢れてしまいそうだった。

 田辺も私も、親の身勝手さに振り回された。力ない子どもにはどうしようもできないことが悔しくて空しくて、ずっと怒っていただけどその分、受け止めてくれた人の温かさを誰よりも強く感じて、その人と一緒に過ごした時間はどの記憶よりも幸せだ。

 ……私も、一番大切な人にありがとうって言えなかった。伝えられないまま、私の声は祖母に届かなくなってしまった。

 いつでも伝えられると思ってた。自分の気持ちがもっと大人になって、思春期の恥ずかしさから少し抜け出せた頃にしっかり伝えられると思っていた。でも、時間はそこまで優しくない。

 それに気付くのに、私たちは遅かった。

 でも、田辺はまだ間に合う。いま私の手が田辺に手が届かなくても、田辺を離してはいけない。

「田辺は、それを大塚さんに伝えたくてここに来たんだよね」

 私の問いに、田辺は遠慮がちに頷く。

 大塚さんも、田辺と離れ離れになったときから今日まで、ずっとずっと後悔してきたのだと思う。

「じゃあ、伝えなきゃ。 大塚さんも、田辺と同じだと思う。 伝えたい言葉があるはず。 私は、それを手伝いたい」

 田辺と目が合う。少し茶色がかった澄んだ瞳を捉えた。

「どう伝えたい? 手紙がいいかな。 私が田辺の伝えたいこと、書くのはどう?」

「……うん、うん。 名案」

「よし、決まり。 あとで、レターセットをコンビニに買いに行こう」

「いや、そこらへんの紙で十分だよ」

「いやいや、大事なものだからちゃんとしなきゃ」

 田辺は、「レターセットなんて、人生で買ったことないな」とどこか恥ずかしそうに笑った。

「おねーちゃん! オムライス、できたよ〜!!」