「これ、被ったらいいの?」

「うん」

私は言われる通りにキャップを被る。 普段帽子を被ることなんてないから変じゃないだろうかと不安になったけれど、目が合った田辺が「いいね」とどこか満足そうに言うので、ひとまず安心した。

「封筒、リュックに仕舞っててくれる?」

「うん」

「じゃあ、行こう」

リュックを背負って部屋から出ようとした時、さっきは真っ暗で見えなかった居間の様子が田辺の部屋から照らされた明かりで見えて、私は思わず足を止めた。

居間に置かれたテーブルには、ビールの缶と吸殻が溜まった灰皿、そして割り箸が刺さったままのカップ麺が置かれている。

床に視線を向けると、多分私が蹴ってしまったものと思う酎ハイの缶が転がっていた。

―――家庭環境も悪かったらしいよ。

結衣の言葉を思い出す。 

私は思わず振り返って、田辺のこざっぱりとした部屋をもう一度見る。 

田辺の家庭の事情は、なんとなく知っていた。 だけど、学校で会う田辺は、家庭の事情は他の人と変わってることなんて気にならないくらい自然体で、だからこそ、家庭の事情なんてと、私は思っていた。

でも、たぶん、そうじゃない。

私は、教室にいる時は目立たず、周りと同じような振る舞いをすることだけを考えていた。 何か違う行動をしたら、“やっぱり親がいない子は変わってる”と思われてしまいそうで怖かった。

だから、もうあの家には帰りたくなかった。 家には、私を捨てた母の名前で私を呼ぶ祖母が待っている。 誰も私のことを知らない家は、自分が生きている心地がしない。

誰もいない屋上で過ごしている時だけが、自由でいられる気がした。

もしかしたら、田辺も同じだったかもしれない。 学校で見る田辺は、家の事情など見えなくなるくらいに普通だった。

……本当に、田辺は、自殺なのだろうか。

「新名?」

呼ばれてハッとして、視線を田辺に向けると「どうした?」と言われて私は首を横に振る。

「ううん、なんでもない」

私は田辺の部屋の襖をキッチリ閉じて、今度は何も蹴ってしまわないように注意して歩いて、玄関に向かう。