「ちょっと、史緒のところ行ってくる」
田辺のもとに向かった快人くんの背中を見ていると「遊びに行ったか」と大塚さんの声が聞こえて、私は顔を上げた。大塚さんはお煎餅やチョコが入った菓子盆をテーブルの上に置いた。私は自然と背筋に力が入る。
「史緒は、いまどこにいる?」
「……縁側に触って、あの子たちを見ています」
大塚さんは、眉間に皺を寄せて目を凝らすようにしてじっと縁側を見る。そこ視線の先には、まめ太と遊ぶ小さなふたりを見守る田辺の姿がある。けれど、大塚さんはゆっくりと視線を逸らして溜息を溢した。
「あの子たちは、向かいのアパートの子だろう。 知り合いなのか?」
「お兄ちゃんの快人くんとは、ここに来る前の電車の中で知り合いました。 そこで……その、快人くんだけが、私以外に田辺のことが見えたんです」
「………………そうか」
大塚さんは、ズズ、とお茶を飲む。私は、目の前に置かれたグラスの中で弾ける炭酸に視線を落とした。
「田辺も、コーラをいつも飲んでいました」
大塚さんの動きがピタリと止まる。私は視界の隅でそれを気に留めながら「いつも、同じものでよく飽きないなと思って見ていました」と続けた。
「あんたは……史緒と、同じ高校だって言ったな」
「はい」
「……史緒は、どんな子だった」
不意な質問に、「えっと……」と言いながら再びコーラの炭酸に視線を落とす。
「……田辺は、いつもクラスの真ん中にいて、朗らかで、優しいです。それでいて、人一倍バイトを頑張っていたり……でも、そんな努力は表に出さない感じがあって……こんな良い人っているんだなって、思ってました」
言いながら、視線は膝の上で丸まった自分の手元まで落ちていた。
いま思い浮かべられる田辺の姿は言葉にした様な教室の真ん中でクラスメイトと楽しそうに笑っている様子ばかりで、屋上で一緒に過ごした田辺を思い出そうとしたら、私の隣で呼吸をするのを忘れてしまったみたいに、表情を暗くした田辺の姿だった。
私は、あの時に感じていた何とも言えない不安まで思い出して、思わず縁側に視線を向けた。そこには、さっきと変わらない様子で縁側に座る田辺がいる。
田辺は、屋上にいる時、一体何を考えていただろう。どうしてあの日、屋上に来たんだろう。
そう疑問に思えば思うほど、あの仄暗い影のある表情や田辺が母親と住んでいたアパート、盗まれると溜め込んでいたバイト代のことが、私の思考をどんどん暗い方に引っ張っていく。何よりも、田辺が自殺だったのではないかという疑念が、胸の中を黒く染めていく。そんな筈はないと、ここに来るまでに何度も考えたのに。
「……だけど、ずっと我慢をしてたんじゃないかと、思います」
田辺の笑顔が見える。田辺はいつも穏やかで、笑っていた。私は、今日まで田辺のことを何も知らなかった。
「あんたは、史緒に頼まれてここまで来たって、言ってたな」
田辺から視線を外して目の前にいる大塚さんを見る。ここで初めて、大塚さんとしっかり目が合った。
「……田辺は、最後に、じいちゃんに会わなきゃって、言っていました」
大塚さんは、口を硬く結ぶ。とても難しい顔をして、眉間に入った皺が濃くなる。「…………そうか」と俯きながら絞り出したようにそう言った大塚さんの表情は、うまく見えない。
「…………あの子には……つらい思いばかり、させちまったんだ。 俺がもっとしっかりしていれば……俺が……」
小さな声のまま、ぽつりぽつりと呟くみたいに言った大塚さんの言葉に、ぎゅっと胸が掴まれたような感覚になる。田辺は、
そのとき、「史緒!」と快人くんの声が聞こえて、私と大塚さんは縁側を見る。ボールを咥えたまめ太が縁側に座る田辺に勢いよく飛び付くと、田辺は「わーっ!」と言いながらまめ太の勢いと同時に身体を後ろに傾けた。
「もうーっ、まめ! 俺は投げられないんだって」
「あはは! まめ太、史緒のことすごく好きなんだね」
ここから見える景色の外側から、「まめたー! ボールこっちだよぉー!」と隼人くんの声が聞こえてきた。どうにか田辺にボールを投げてもらおうとするまめ太を田辺と快人くんが、隼人くん側に誘導しようとあたふたしている様子がなんだか拍子抜けで、私は思わず頬が緩む。
「あのボールは……史緒が、まめと遊ぶときにいつも使ってたやつなんだ」
縁側を見つめたまま大塚さんは言って、それから、一瞬だけ表情を崩して右手で目元を隠すように覆った。
「…………なんで、史緒なんだろうなあ…………」
その声は震えていて、大塚さんの顔が見えなくても涙を堪えているのだということが十分すぎるくらい伝わって、私は胸の痛みに耐えながら、膝の上に置いた自分の手をさらに固く結ぶ。
……なんで、田辺なんだろう。どうして、田辺は死んでしまったんだろう。
大塚さんが、その答えを私に求めている訳ではないことは分かる。交通事故で亡くなってしまったら、それはきっと、不意な事故である筈だから。
だけど、私なら、それを田辺に聞くことが出来る。でも、田辺が遭った交通事故が、もしも、不意ではなく故意だとしたら……。
私は、それを知るのが何よりも怖い。出来れば、知りたくないとさえ思ってしまう。
……でも、知らないままで、いいのだろうか。
遠くの方からチャイムの音が鳴っているのが聞こえた。居間の壁掛け時計を見ると、ちょうど夕方の5時になった所だった。



