「史緒は、もう、いません」

 そうはっきりとした声が聞こえると同時に、背中にそっと温かい誰かの手が添えられた。驚いて下を向くと、快人くんが私の隣に立って大塚さんをまっすぐ見ている。私も、大塚さんも田辺も、小さな彼に視線を向けた。

 「……でも、史緒はここに、一緒にいるんです。 紗季さんは、史緒に頼まれてここに来たんです」

 その声は震えてなんていなくて、まっすぐだった。私は快人くんから、大塚さんに視線を戻す。

 「……何言ってんだ。 史緒がもういないって、何なんだ……」

 大塚さんは、眉間に深い皺を寄せて困惑しているような表情を浮かべている。

 「そもそも、じゃああんたが、史緒に頼まれたってのも、どういう…………」

 大塚さんの姿が、今日屋上で田辺と会った時の自分と重なる。私は、震える口元で、すっと息を吸った。

 「田辺は、一昨日……交通事故で、亡くなりました。 今日が、その……お葬式でした」

 これが、精一杯だった。大塚さんは息を呑んで、視線を揺らして、震える手を額に当てる。

 「史緒が、死んだ……? …………そんな……そんな話、信じられる訳……」

 「じいちゃん……」

 田辺はさっきよりも弱々しい声で言って、大塚さんへ一歩歩み寄る。すると、田辺の足元にいたまめ太がパッと立ち上がり、縁側の方へと走ってそのまま家の中に入って行った。

 「まめた、どうしたのー?」

 縮こまっていた隼人くんが言う。返事に困っていると、まめ太は青いボールを咥えて戻ってきてそれを田辺の足元に置いて、尻尾を振って田辺を見上げる。

 「……まめ、なんでそれを……」

 大塚さんはまめ太が見上げる先に視線を移す。そこには、田辺がいる。

 「………………そんなの、信じられるか……」

 絞り出すような消え入りそうな、とても弱々しい声だった。込み上げるものを、必死に堪えようとしているみたいな様子は、覚えがある。

 信じられないのは当たり前だ。いきなり、見ず知らずの人間からこんなこと言われて、すぐに受け入れられるはずがない。だけど、ここには確かに田辺がいる。大塚さんとの思い出をずっと抱きしめて、会うのをずっと我慢してきた田辺が、やっと、ここに来られたんだ。

 だから、どうか、信じてもらいたい。

 「…………田辺は、おじいちゃんは、料理が全部美味しくて、優しくて子供好きだって、言ってました」

 言いながら、私の方が泣き出してしまいそうだった。涙が滲みそうになる目元を拭う。いま、ここで私が泣くわけにいかない。そう思うのに、涙を堪えようとすると、言葉がぐっと喉の奥で詰まる。

 「あと……あとは、」

 「あと、オムライスをよく作ってくれたって。 それから、強面とも言ってました!」

 さっきの何気ない田辺の言葉を聞いていたらしい快人くんが必死にフォローしてくれたが、最後の一言を言ったとき、田辺が小さく吹き出した。快人くんは「え、なんで笑ってるの」と慌てる。その様子から、“強面”の意味をまだ知らないみたいだった。

 「……いや、ううん。 そうだよ。 じいちゃんの作るオムライスはさ、世界一美味い。 強面だけど」

 頷きながら、田辺も泣きだしそうな顔でくしゃっと笑う。

 「…………史緒が、そこにいるのか」

 大塚さんは、再び快人くんと私を見る。私は「そうです」と頷いた。

 「じゃあ、なんで……」

 掠れる声で、大塚さんは言う。

 「……なんで、俺には見えないんだ…………」

 力なく肩を落とした大塚さんに、私も同じように思う。どうして、この人には見えないんだ。田辺が、一番会いたかった人なのに。

 俯く大塚さんに、まめ太が寄り添う。大塚さんは、さっきまめ太が持ってきたボールに視線を落として、「お前には、史緒が見えてるのか」と話し掛ける。まめ太は返事をしない代わりに、また田辺に視線を向けた。大塚さんはそれを見てまた眉根を寄せたけれど、その表情はさっきのような怪訝そうなものではなくて、田辺と同じように今にも泣き出してしまいそうなものだった。

 「……おにいちゃん」

 そのとき、隼人くんがこの緩やかに重みを増していく空気が怖くなったみたいで、助けを求めるように小さく呟く。快人くんは隼人くんの背中に手を当てて「大丈夫だよ」と兄らしく優しく返事をした。

 大塚さんはその小さなふたりと、私を見て「あんた、名前は」と訊く。「に、新名です」と言うと、大塚さんはそうかと言うように頷いた。

 「……わざわざ、ここまで来てくれたんだろう。 入って、ちぃっと休んでいけ」

 大塚さんがこちらへ背を向けて玄関へ入ろうとしたとき、隼人くんが快人くんの背後からタタッと出てきて、さっきまめ太が持って来たボールを手に取った。

 「ぼく、まめたと遊んでもいーい?」

 「……ああ、遊んでやってくれ」

 大塚さんは少しぶっきらぼうに、だけど優しく言うとそのまま玄関に入った。

 「隼人、すぐそこで遊んでるんだよ」

 「うん! まめた、行こっ」

 まめ太は田辺をじっと見上げる。田辺が「遊んできな」と言うと、縁側へ向かった隼人くんを尻尾を振って軽やかな足取りでその後を追いかけて行く。

 玄関に入ると、田辺は「こっち」と言って上り框に上がって廊下を進むと、左側にある引き戸が開いたままの場所へ入っていく。その後をついて行くと、そこは茶の間だった。

 「適当に、そこらへん座ってな」

 大塚さんはさっき私たちが来た入り口から顔を出す。茶の間から見える台所にいると思っていたので、驚きつつ「は、はい」と返事をする。大塚さんは、グラスをみっつと瓶のコーラとオレンジジュースを持っていた。

 私ははっとして田辺を探すけれど、今ここにはいない。

 大塚さんはオープナーで瓶の蓋を開けると「好きな方、適当に」と言って茶の間から見える台所の方へ入って行った。快人くんにどっちが良いかと訊くと「隼人は炭酸苦手だからオレンジジュースで、おれは、コーラがいい」と言う。おれは、の後はちょっと遠慮がちだった。

 グラスにコーラを注ぐと、炭酸がしゅわしゅわと弾ける音がする。それだけで、私はまた泣きそうなくらい屋上のことを思い出した。

 「あれ、じいちゃんは?」

 茶の間と縁側の間にある廊下から田辺が顔を覗かせる。私が台所を指差すと「そっか」と呟く。

 「あのさ、ふたりとも、ごめん」

 「なに、突然」

 思わず聞き返すと、田辺は眉を下げてどこか困ったような顔で言葉を続ける。

 「俺、じいちゃんには見えるかもって希望は捨て切れなくて、自分で全部伝えることができる気でいた。 でも、実際会ったらじいちゃんには見えてなくて、声も……見えてないから当たり前だけど、声も届かなくて、めちゃくちゃショックでさ、見えないんだって分かった途端、頭ん中真っ白になった。 それに、俺自身、じいちゃんを目の前にしたら何をどう言ったらいいのか全然決められてなかった。 だから、ふたりにはすごく無理させたと思う。 ごめん」

 かしこまって頭を下げる田辺とは反して、私と快人くんはお互いにきょとんとした顔を見合わせた。それから、私たちもちょっとだけ眉を下げてさりげなく微笑んだ。

 「私だって、もっとちゃんとできると思ってたけど全然だめだめだった。 快人くんのおかげだよ」

たぶん、快人くんもとても緊張していたと思う。あのとき、私の背中にそっと添えられた手は、僅かに震えていた。でも、あの手があったから、私もちゃんと伝えなきゃと勇気が出た。
 
 「おれ、無理とかしてない。 隼人のわがまま、聞いてもらってすごく助かったし。 ふたりとあのまま離れてたら、おれ一人じゃどうしようもできなかったと思う。あんな風に楽しそうに全力で遊ぶ隼人久々に見たし。 あれ見れたのは、史緒のおかげだから」

 縁側を見ると、青いボールが弧を描いて庭を飛んでいた。まめ太がそれを口でキャッチすると、弾けるような快人くんの歓喜の声が聞こえてきた。

 顔を上げた田辺は、どこか安心した様にふっと力が抜けたように笑った。

 「俺、ふたりにめちゃくちゃ大きな借り作っちゃったな。どうやって返そう」

 「おれ、アイス食べたい」

 「あ、私も」

 「おー、金ならあるから使ってくれえ」

 微笑んで言う田辺に私と快人くんはまた顔を見合わせて、私たちも小さく、ふふっと笑う。快人くんは、今まで見た中で一番嬉しそうに見えた。

 縁側から再び隼人くんの声が聞こえてくる。田辺は縁側の方を向いて「はは、元気だな」と言うと、ふたりのもとに向かう。まめ太は隼人くんが投げたボールを器用に口でキャッチして、隼人くんの元へと持って行く。 

 田辺も、小さい頃はあんな風にまめ太と遊んでいたのだろうか。

 そのとき、隣から「いいなあ……」とものすごく小さな声が聞こえて、振り向くと快人くんと目が合った。快人くんは「あ、いや……」と目を逸らす。

 「快人くんも、遊んで来たら?」

 そう言ったとき、縁側から「まめ、俺は……」と言う田辺の声が聞こえた。そちらに視線を向けると、さっきまで隼人くんが投げていたボールを口で咥えていたまめ太が、田辺の隣にぴたりと座り込んでいる。

 「俺は、投げられないんだよ」

 優しい声色で言う田辺を見ながら、まめ太は小首を傾げる。その後ろで、快人くんが「まめたどうしたのー?」と話しかけている。田辺は隼人くんを指差して「あの子に投げてもらうんだ」とまめ太に伝えるけれど、まめ太は田辺の手元にボールを置いて尻尾を振って懇願している。

 すると、田辺は後ろ頭を掻きながらこちらに振り向いた。

 「快人〜、ちょっと来て〜」

 「え、おれ?」

 「俺ひとりじゃ無理だからさ〜。 弟、泣きそうになってるし」

 「ええっ。 し、仕方ないなあ」

 快人くんはそう言いながら満更でもないような顔で立ち上がった。