「あっ、わんちゃんいた!」

 「隼人、しぃーっ」

 ふたりは塀の陰に隠れて家の敷地内を覗いている。私も同じように覗くと、そこは普通の木造の一軒家が建っていて、お店らしい佇まいの建物は見当たらない。田辺が来て、こっちは住まいで塀と草木の向こう側が店舗なのだと教えてくれた。店舗側を覗くとそこにも引き戸があって、上に【おおつか食堂】という看板が掛かっていた。引き戸の横には、只今準備中の札がかかっている。

 「……ちなみに、田辺のおじいちゃんはどんな人?」

 「んー、ちょっと強面?」

 「え」と無遠慮に表情が強張った。田辺は「でも、大丈夫だよ」と優しく微笑む。

 「優しい人で、子どもが好きでさ。 店やってるから当たり前かもだけど、作ってくれる料理は全部美味い。 それこそ、よくオムライス作ってくれてさあ。 美味かったなあ」

 田辺はその時のことを思い出しているみたいに視線を少し遠くに向けた。昔を懐かしむようなそんな表情は、初めて見たなと思う。

 もう一度快人くんたちの後ろから塀を覗き込むと、縁側に緑色の首輪を付けた柴犬が寝ているのが見えた。庭は手入れされていて、白とピンクの花が咲いているのも見える。ふいに、仲田さんの家の庭を思い出す。

 「あっ、“まめ太”」

 田辺は隼人くんの横に立って、庭を覗いてそう呟いた。「まめ太?」と快人くんが聞き返す。あの犬の名前らしい。

 「あのわんちゃん、まめ太っていうの?」

 そのとき、隼人くんの声に反応したようにまめ太が目を覚まして、こちらを不思議そうに見つめながら起き上がった。

 「え、起きた」

 快人くんが言うと田辺は「気付いたな」と嬉しそうに笑う。まめ太はわんっと鳴いてこちらに駆け寄って来ると、近くにいた隼人くんも「わあっ、近くに来た!」と歓喜の声を上げた。てっきりリードで繋がれていたかと思っていたし、近くで見ると割と大きくて思わず一歩後ずさると、隣にいる快人くんも同じようなリアクションをしていた。私は、これまで犬を触ったことがない。

 「わはは、なんかでかくなったなあ。 俺のこと、見えるのかな」

 その場でしゃがみ込んだ田辺のもとに、まめ太はすんすんと鼻を鳴らしながら尻尾を振ってそこに座り込む。田辺の手は、まめ太の頭を撫でるようになだらかに動いて、まめ太はそれを感じているみたいで、なんだか嬉しそうな顔をしていた。その隣に隼人くんもちゃっかりしゃがみ込んで、自分と同じ背丈になったまめ太の顔を覗き込む。

 「おにいちゃん、すっごくかわいいよ!!」

 「う、うん……」

 そのとき、玄関から「誰だぁ」と声が聞こえて扉が開いた。私たちが一斉にそこに視線を送ると、白髪で目付きの鋭いおじさんが立っていた。隼人くんは、サッと快人くんの後ろに隠れる。

 私はまだ心の準備が出来ていなくて咄嗟に隣を見ると、田辺は立ち上がった。

 「じいちゃん」

 そう呼ばれた“大塚さん”は、田辺とまめ太が座っている位置を見てから、私と小さな2人を見る。

 「…………おまえさんら、なんかうちに用か? 飯、食いに来たのか?」

 大塚さんは私に向かって言う。私は「えっと……」と言い淀むと、田辺がこちらに振り返った。

 「……新名、ごめん」

 田辺は眉を下げたまま、また無理やり笑ったみたいな表情で言う。今までで見た中で、一番悲しい表情で胸が思い切り締め付けられる。

 ――見えないんだ。

 私は息を呑む。大塚さんには、田辺のことは見えていない。だから、私が田辺のことを伝えなきゃならない。

 「あ、あの……私、田辺の、田辺史緒くんと、同じ高校の……」

 緊張が最骨頂まで達していて、どう伝えようか精一杯考えようとしてもうまく頭が回らない。大塚さんは「史緒の?」と右側の眉を少し上げて聞き返す。私は声を出さずに頷く。

 「史緒が、来てるのか?」

 大塚さんは片眉を上げて、玄関から辺りを見回したり、私の後ろ側を見ようとしながら聞く。私はもう一度田辺に視線を送ると、田辺は大塚さんをじっと見ていて、手を硬く握っている。大塚さんは私の視線に気付いて、田辺がいるところを見た。

 多分、本当なら、目が合っているんだと思う。だけど、大塚さんの視線は何も捉えずに他の場所に移った。

 ……言わないと。田辺に頼まれたように、全部、伝えないと。そう思って、言葉にしようと息を吸い込むのに、声の出し方を忘れてしまったみたいに何も言い出せない。

 大塚さんは何も言い出さない私を、眉根を寄せて怪訝そうな表情で見る。

 「史緒は、来てないのか」

 「…………えっと……」

 「……史緒が、どうかしたのか!」

 余裕のない張り詰めたその声に、私は思わず身を縮こませる。

 「じいちゃん……!」

 田辺はもう一度大塚さんに呼びかけるけれど、その声は届かないままで、田辺は俯く。その表情はここからだと見えない。でも、手はさっきよりも硬く握られていて、微かに震えているようにも見えて、この悲しみを必死に耐えているみたいだった。

 胸が、引き裂かれそうだった。田辺の背中は、あまりにも切なすぎる。

 「田辺は…………」

 言わなきゃと頭では分かっているのに言葉が詰まるのは、私が田辺がいなくなったことを未だに受け入れきれていないからなのかもしれない。本当は、こんな悲しいことから、今すぐ逃げ出したい。こんな私が、大塚さんに全部を伝えられるはずなんてなかったのかもしれない。

 こんなのは、あんまりじゃないか。