その時、アパートの扉が開いて隼人くんがやって来て「おねえちゃんっ、来て!」と私の手を引く。

 「隼人! 紗季さんたちは、別の用事が……」

 隼人くんを制止しようとする快人くんに、田辺が「いいよいいよ」と後ろから言う。快人くんは、「でも」と申し訳なさそうに眉を下げる。

 「快人くん、私も大丈夫だよ。 家、入ってもいい?」

 快人くんは表情を変えないまま、控えめに頷いてくれた。そんな姿を見て、彼もまた、誰かを頼ったりするのは苦手なのかもしれないと、ふと思う。私は隼人くんに手を引かれるまま玄関に入って靴を脱いだ。

 「これ見てーっ」

 居間にあるテーブルに、画用紙をトンボの形に切り取られたものが置かれていた。よく見てみると、目や羽の模様が描かれている。今日マナミ先生に教えて作ったと言うとそれを、隼人くんは持つと「ほらっ」と空中に投げた。トンボはスーッと真っ直ぐ部屋の中を泳いでいく。その飛行がとても優雅で、「すごいっ、飛ぶんだね」と笑顔で隼人くんを見ると、「うん!」ととびきりの眩しい笑顔が返ってきた。

 「おねえちゃんもやってみて」

 床に落ちたトンボを隼人くんが拾ってくれる。私は見様見真似で隼人くんと同じように飛ばしてみると、今度はくるっと宙返りしながら飛んで行った。それを見て、隼人くんは嬉しそうに笑っていて、私もつられて頬が緩む。

 「おおっ、すげえ。 鳥?」

 「トンボ。 隼人が作ってきたんでしょ」

 「そう! お父さんにも、見せてあげなきゃ」

 また隼人くんは落ちたトンボを拾うと、隣の襖で分けられた部屋に入って行く。私は、彼らの親がいるのにも関わらず無断で入ってきてしまったことに、不審者だと思われたらどうしようと慌てて、隼人くんを視線で追いかけた。

 「お父さん、ただいま! 見て、これ僕が作ったんだよ!」

 襖の向こう側を覗くと、隼人くんは衣装タンスの上に置かれた小さな仏壇に向かって話し掛けている。仏壇には、男の人が映った写真が置いてあった。私はハッとして、襖に掛けた手を少し離した。

 「……あれ、うちのお父さん。 交通事故で死んじゃったんだ」

 快人くんがランドセルを下ろしながら言う。私は咄嗟に言葉が出なかった。

 「おにいちゃんっ、お父さんにただいまって言わなきゃだよ」

 「……分かってるよ」

 「もうっ、いっつもしないじゃん! お母さんがさみしがるよ!」

 隼人くん尖った口調で言って、快人くんはキュッと口を閉じている。先ほどとは打って変わって、空気がピンと張り詰める。

 「……お母さん、今日は泊まりになったからいないよ」

 快人くんは襖の部屋から視線を逸らした。その横顔に、影が落ちる。

 「ええっ。 オムライスどーするの?」

 「兄ちゃんが作るよ」

 「えー?! また、まる焦げのぐちゃぐちゃになっちゃうよ!」

 「ぃい言わないでよっ」

 快人くんは耳を赤くして、こちらに振り返る。その顔は、怒りと、あと何かもう一つの感情が入り混じったみたいで、今にも泣き出してしまいそうに見えた。

 「僕、夕ご飯作らなきゃだから。 荷物、持ってくれてありがとう」

 私から荷物を受け取ろうとする快人くんの手に視線を向ける。その手は、やっぱりまだ小さくて細くて、頼りない。

 「ふたりは、このままお留守番するの?」

 「……うん。 お母さん、看護師で、いま人手がなくて忙しいって。 仕方ないんだ」

 快人くんが言った“仕方ない”は、まるで自分自身に言い聞かせるみたいな言い方で、私はふと、自分が彼よりも小さかった頃のことを思い出す。

 私は、親のいない家で夜を過ごす心細さを知っている。その心細さに気付いてしまわないように、“仕方がない”と自分自身に言い聞かせて気を紛らわせないといけないことも、分かる。夜は、いつもよりも人を孤独にさせる。ひとりで布団にくるまっても、眠気は来ない。窓の外で吹く風の音や車が走る音が、昼間よりも大きく感じて、より一層自分がちっぽけでこの世で一番の弱っぽちに思える。目を瞑ったら最後、明日自分は死んでいるかも、なんて考えまで巡ってしまう。

 「ふたりも、もう行かなきゃでしょ?」

 そう快人くんが言うと、隼人くんが「えっ」と目を丸くした。

 「おねえちゃん、どこか行っちゃうの?」

 私が答える前に、快人くんが「用事があるんだよ」と伝える。隼人くんは「え~っ」と眉を下げてものすごく不満そうな顔をして私を見た。

 「じゃあ、僕も一緒に行くっ」

 「はあ!? 隼人、わがままもいい加減に……」

 「わがままじゃないもん! 僕、おねえちゃんと一緒に行く!」

 「なっ……」

 更に空気が張り詰めて、ふたりとも何かもうひとつ些細なキッカケがあれば今すぐにでも泣き出しそうな雰囲気だ。こういう時、自分はどう立ち回れば良いのか分からず、私は「ふたりとも落ち着いて……」と彼らの表情を伺うように交互に見た。

 「僕、おねえちゃんについてくもん」

 隼人くんは立ち上がって、私にぴったりとくっつく。俯いた彼の顔を見ると、眉根をギュッと寄せて口がへの字に曲がってて、ちょっとだけ泣いているみたいな顔だった。

 ど、どうしよう……。思わず田辺に視線を向けると目が合って、田辺は肩をすくめると、「じゃあ」と口を開いた。

 「とりあえず、一緒に来るか」

 「……えっ?」

 快人くんがびっくりした後、少し遅れて、隼人くんも「……え?」と快人くんと私を交互に見ながら呟いた。

 「快人も隼人も、一緒に来たら?」

 「え……どこに?」

 「俺のじいちゃん家」

 田辺はそう言いながら、さっき外で見た田辺の祖父宅がある方向を指差す。私は、それが良いアイデアなのかは分からなかったけれど、幼いふたりをここに置いて行くよりもずっと良い気がして、「うん、それがいい」と言う。ただ、果たしてどうなるかなんて全く見当がつかない。