田辺はこの状況を受け入れ切った様子で「俺らも行こう」と言い、男の子と同じ方向へと足を進める。ランドセルを背負って重たそうなエコバッグを肩に掛けて歩く男の子の後ろにあっという間に追いつくと、その子はこちらに気付いたようで振り返った。

 「なんですか」

 「俺らも同じ方向なんだよ」

 「え? ……そうなんだ」

 男の子はエコバッグを重たそうに肩に掛け直す。小柄な子供にはランドセルにスーパーの荷物を持つのは大変だろうなと思って、「ねえ、良かったら荷物持つよ」と声を掛ける。男の子はえっとこちらを見上げた。

 「同じ方向だから、そのついでに」

 田辺の方を見ると、いいよ、と言っているみたいに頷いてくれている。

 「でも、これから迎えがあって……」

 「迎え?」

 聞き返した言葉に、男の子は「保育園に、弟の」と私から視線を逸らして言った。

 「いつも、そうなの?」

 「うん」

 小学生の子が弟の迎えに行くなんてあまり見かけたことはない。親は、忙しい人なのだろうか。

 「保育園って、あおぞら保育園?」

 田辺が聞くと「え、なんで知ってるの」と男の子は驚いた顔で言う。田辺も昔通っていた保育園だと知ると、男の子の表情はさっきよりも少しだけ緊張が解けたみたいだった。

 「懐かしいなー、あおぞら保育園。 通り道だし、ついでに見に行くかぁ」

 「じゃあ決まり」

 手を差し出すと、彼は遠慮がちにエコバッグを手渡した。3人で歩き出して、私は「あのさ」と声を掛ける。

 「電車に乗ってた時も、田辺のこと見えたんだよね?」

 男の子は頷く。今思えば、電車の中で会った時の何とも言いようのない違和感は、田辺のことが見えていたのなら納得いくものな気がした。

 「じゃあ、わざわざ俺の隣に座ったってこと?」

 「うん。 他の人に潰されちゃ可哀想だから」

 「つ、つぶ……?」

 衝撃発言に私は困惑しているのに、田辺は「えっ、俺潰されんの」とまるで他人事のように笑っている。

 「ふたりは、名前なんていうの?」

 「田辺史緒」

 「新名紗季。 君は?」

 「清水快人。 紗季さんと史緒は、何歳?」

 「おい、なんで俺だけ呼び捨てなんだよ」

 「17だよ。 高2」

 快人くんは「ふうん」と、少し首を傾げて言う。高2と言われても、あまりピンと来てないのかもしれない。今後は私が快人くんに何歳なのかと聞くと「11歳」と答えた。

 「11……ってことは、小5か。 それにしちゃ、チビだな」

 「はあ? クラスで、後ろから3番目だし」

 「嘘つけ」

 ふたりの自然なやり取りに、私はどこかほっと安心した。自分しか田辺のことが見えてないことに、不安を感じていた。けれど、快人くんのおかげでこれは私の妄想や夢なんかではなくて、ちゃんと現実に起こっている出来事なのだとはっきり理解できた。悲しさは、増すばかりだけれど。

 「お、懐かしー」

 目の前に『あおぞら保育園』という看板が見えて、子供たちの賑やかな声も聞こえてきた。私と田辺は快人くんの後ろをついて、保育園の敷地に入る。

 「あ、快人くん」

 園児と遊んでいた若い女性の先生がこちらに気付いて笑顔で言う。けれど、快人くんの後ろに立つ私たちを見て、不思議そうに首を傾げる。

 「マナミ先生、こんにちは」

 「こんにちは。 あの、快人くん、後ろの方は……?」

 マナミ先生に、あからさまに不審がられていることに今更気付いて「あ、えっと」と言ってみるけれど、次に続く言葉が思い付かない。どうしよう、なんて言い逃れをすればいいんだ。

 「従妹の、紗季ねえちゃん。 一緒に、ご飯の買い物してきたんだ」

 快人くんは、ほら、と私が持っているエコバッグを指差すので、私は慌てて「はじめまして」と軽く頭を下げた。

 「ああっ、そうだったんですね。 はじめまして」

 マナミ先生は快人くんの言葉をすっかり信じたようで、同じように慌てて頭を下げた。警戒が解けたことが分かって安心するとともに、騙してしまったと思うと、申し訳ない。マナミ先生は快人くんに優しい笑顔を向けると、「隼人くん呼んでくるね」と言って、保育園の建物の中へと小走りで向かった。

 「すげぇ、よく交わしたなあ」

 「まあね」

 快人くんはほんの少しだけ笑って見せる。その顔がどこか得意げで、ちょっと可愛かった。

 私は保育園の外で賑々しく走り回っている子たちを見ながら、自分があの歳くらいの時はまだ母親と一緒に居たことをぼんやりと思い出す。一緒に、と言っても母親はほぼ家には居なくて、保育園の送り迎えもバスだったから迎えに来てもらったことはない。家に帰ったら、テーブルの上にコンビニ弁当か1000円札が置いてあるだけだった。私が思い出す母親の姿は最後に別れるときの姿以外には、暗い部屋の中でテーブルに色の抜けた肌触りの悪そうな茶色の髪の毛を広げて、うな垂れている姿だ。

 ぼうっとしていると、快人くんが「……あのさ、弟は……」と言ってこちらを見上げた。

 「おにい〜ちゃあ〜ん!!」

 快人くんが何か言いかけたとき、保育園の方から大きい声が聞こえてそちらを向くと一人の男の子が両手を広げてこちらに向かって走って来ていた。

 「おかぁえり〜!!」

 隼人くんはそのまま快人くんに突進すると、快人くんが「おわっ」と後ろによろけた。私は咄嗟に彼の背中に手を差し出すと田辺の手と重なった。田辺の方が「ごめん」と言ってぱっと手を離す。

 「隼人くんー! リュック忘れてるよ〜!!」とマナミ先生も、青い小さなリュックを持ってこちらに走ってくる。 

 「隼人、リュック忘れて来ないでって、いつも言ってるじゃん」

 「うん、ごめんね!」

 隣で田辺が「そっくりだな」と呟くので、私は思わず頷いた。ふたりともくりりとした目元がそっくりで、快人くんは黒のランドセルを背負ってたから初めから男の子だと分かったけれど、隼人くんは少し髪が伸びていて一見すると女の子に見間違えそうだ。

 隼人くんはマナミ先生からリュックを受け取って背負うと、「ん?」と言って私と田辺の方を見る。

 「おねえちゃん、だ――」

 「隼人。 今日の夕飯、隼人の好きなオムライスだから、はやく帰ろう」

 「えっ、オムライス!? やったぁー!」

 「それじゃあマナミ先生、また来週」

 快人くんは、隼人くんと私の手を取って歩き出す。その手がびっくりするほど小さくて温かくて、私は少しだけ緊張する。ぎゅっと握り返せば潰れてしまいそうだ。

 「せんせえ、またね〜!」とこれまた大きな声で言う隼人くんの声に、私は慌てて振り返ってマナミ先生に頭を下げた。田辺は「オムライスかぁ、いいなぁ」とひとり呑気に呟いている。