「……な、新名」

 目を開けると、私の顔を覗き込んでいる田辺と目が合った。いつの間にか目を瞑って、うたた寝をしてしまっていたらしい。

 「ついたよ」

 慌てて立ち上がりつつ、リュックを背負って田辺の後を追って電車を降りる。

 「新名、改札こっち」

 周りを見渡す余裕もないまま田辺に呼ばれて改札へ向かうと、自動改札機を通り過ぎる人を見て切符を落としたのではと一瞬ヒヤリとしたが、ちゃんとスマホと一緒に手に握っていた。切符を自動改札機の投入口に差し込むと、それは勢いよく吸い込まれていった。

 ほっと息をつくと、また田辺に名前を呼ばれる。顔を上げると、全く知らない景色が広がっていた。駅構内から出て階段を降りると、駅前からアーケードが向こう側まで設置されている歩道があったり、広い駐車場に何台かタクシーが停まっていたりして、地元よりほんの少し栄えているのが分かる。

 ここが、田辺が幼少期に暮らしていた町。

 「新名、ちょっと休む? なんか、飲み物とか飲む?」

 田辺は私の顔を覗き込むようにして言う。懐かしむよりも、私のことを気遣う田辺は、やっぱり優しいと思う。

 「疲れてはないよ。 でも、飲み物は買おうかな」

 そう言いながら辺りを見回して自動販売機を探すと、ちょうど業者が入れ替え作業に入っていた。駅裏にコンビニがあると聞いて移動すると、店舗改装中で入れず「こんなことあるかー?」と田辺は笑いながら不満を漏らす。結局は、目的地の途中でスーパーがあると言うので、そこで調達することにした。

 通りを歩きながら、辺りを見回す。ふと今の時刻が気になってスマホの画面を開こうとしたら、前を歩く田辺が「懐かしー」と呟いた。田辺の視線の先には公園があって、そこには複数の親子連れがいて、子どもたちが遊具でそれぞれ遊んでいる。

 「俺、よくここで遊んでたんだよね。 じいちゃんがさ、

 「あれ、タイヤ飛び無くなってる」

 「うっわ、タイヤ飛びとか懐かしい」

 赤とか青とか黄色とか緑色の、地面に半分埋まったタイヤ。あれで遊んで、足を引っ掛けて顔から転んだこともあったっけ。私も小学生の頃は桜の葉公園でよく遊んでいて、擦り傷を作って家に帰って祖母が手当をしてくれた。公園にブランコは残っていたけど、タイヤ飛びがあったかまでは見なかった。

 「俺、ここの公園でよく遊んでさー、

 公園の前を通過しようとしたとき、男の子が母親から転がされたボールを取り損ねて、ボールがそのまま私たちの方へと転がって来た。田辺が咄嗟に屈んだのを見て、私は、あっと思う。田辺の手では、触れない。

 同時に田辺も気付いたようで「あ」と小声で言ったけれど、ボールは田辺の指先に当たったように不自然に一瞬だけ止まった。それからはスピードを緩めながら転がって、田辺の足元をすり抜けて私の足に当たってピタリと静止した。

 ボールを拾うと、ちょうど男の子がこちらに走ってきた。その後ろから母親が「すみませーん」と言いながら駆け寄ってくる。男の子は私からボールを受け取ると、母親に「ほら、ありがとうって」と声を掛けられ恥ずかしそうに「ありがとう」と呟いた。

 私もぎこちない感じで「どういたしまして」とだけ言った。母親と目が合うと「ありがとうございました」と会釈をされて、少し慌てて会釈を返す。親子はもといた場所に戻っていき、再びボール遊びを再開する。

 「なんで、一瞬だけ触れる感じがあるんだろう」

 田辺は自分の手を開いたら閉じたりしながら、再び歩き出す。

 「触った感覚ってあるの?」

 「一瞬だけね。 でも、生きてた時とはちょっと違う感じかな」

 生きていた時。そんな言葉に、まだ胸がざわっと音を立てる。

 スーパーに到着すると田辺は外で待ってると言うのでさっさとドリンクコーナーに行き、レモンスカッシュを手に取る。セルフレジは不具合が生じているのか規制されていたため、有人レジに並ぶとランドセルを背負った見覚えのある男の子が会計をしていた。店内で、その黒いランドセルは際立って目立っていた。辺りを見回しても、その子の親らしき大人の姿は見当たらない。学校帰りに、おつかいを頼まれたのだろうか。

 「1,113円になります」

 店員の中年女性に言われ、男の子は財布の中から千円札を取り出す。けれど「あ、あれ」とどこか焦ったように言う。財布を小さく振ってみている様子から、もしかすると小銭が足りなかったのかもしれないと思った。

 「あの、100円、足りなくて……」

 男の子の困った横顔を見る。私も昔に同じ経験をしたことがある。恥ずかしくて、やるせなくて、ちょっとだけパニックになった。

 店員が「あー……じゃあ、どれか買うのやめる?」と訊くと、男の子は背伸びをしてカゴの中を覗き込もうとした。

 「こ、これ、落ちてましたよ」

 私は咄嗟に自分の財布から100円玉を取り出して、男の子に手渡した。店員と男の子はきょとんとした表情で私を見るので、自分でもなんでこんなことをしてるのか分からないと自覚した途端、かあっと変な汗が出てきた。

 「え、落ち……?」と男の子は自分の足元と、私の手のひらにある100円玉を交互に見る。もう後にも引けないので「足元にね」と念を押す。

 「……ありがとうございます」

 男の子は私から100円玉を受け取って会計を済ませると、エコバッグを持ってそのままレジを立ち去った。

 ほっと息をつく。顔の熱はまだ引かない。私も会計を済ませて出入り口の自動ドアを通って店内から出たとき、さっきの男の子が立っていて思わず「わっ」と声が出た。男の子はまっすぐ私の顔を見上げている。

 「な、なに」

 「おれ、本当に100円落としてましたか」

 「えっ、あー、うん」

 「……ほんとに?」

 「ほ、ほんとだよ。 ポロって、財布から足元に落ちたんだよ」

 男の子は口を真一文字にして、私の顔をじっと見る。その視線はなんだかこんな小さな嘘はすぐ見抜かれそうに思えて、視線を逸らしたくなる。すると、男の子は「じゃあ」と言うので私は何を言い出すのかと身構えた。

 「さっき、電車に乗ってましたよね」

 「え? あ、うん……」

 なんなんだこの子、と私は無遠慮に戸惑った顔をして男の子を見下ろす。

 「そしたら、あの」

 「新名、どうした?」

 男の子の真後ろに田辺が立っていて私はまた「わっ」と声を上げる。すると男の子も不思議そうな顔をして振り返ると「あっ」と言って、明らかに、田辺を捉えたように視線を向けた。

 「さっき電車にいた子?」

 「さっき電車にいましたよね」

 田辺は私に、男の子は田辺に向かって話しかけている。私は訳が分からず、2人に交互に視線を向けた。

 「え、てか俺に話しかけてる?」

 田辺も混乱しているみたいに、次は男の子に顔を向けて話しかけると、その子はうんと頷く。田辺は「うそっ、まじ?」と目を丸くした。

 「ふたりは知り合い?」

 「うん、そう」

 「なんだ、そうなんだ」

 もう普通に会話し始めているふたりに、私だけ完全に置き去りにされている。また、変な汗を額に感じる。

 「じゃあ、いつから……」

 男の子は私の方に振り返ってなにか言いかけたけれど、「いや」と首を小さく横に振って言葉を止めた。

 「何でもないです。 ……それじゃあ」

 「え、ちょっと……」

 男の子はお辞儀をすると、田辺をよけてスタスタと歩いて行ってしまった。

 一体、あの子はなんだったんだ。自分以外に田辺のことが見ている人と出会えたことに、動揺して、小さくなっていく背中を視線で追ってしまう。