駅は、私たちと駅員以外には誰もいなかった。切符販売機の前に立つと田辺が「俺の分必要ないかもだけど、無賃乗車は悪いから切符2枚買ってくれる? あ、電車代、封筒から出してね」と後ろから言ってくる。液晶画面を操作して、指示通り深山行きの切符を2枚購入した。電車はタイミングよく後5分後に反対側の3番線ホームに到着するらしい。
改札窓口の前に立つと、白髪頭の駅員は重たそうな腰を持ち上げるようにゆっくりと立ち上がった。切符を1枚差し出すと、「ありがとうございます」としゃがれた声が聞こえて、駅員は慣れた動作で素早く切符を切った。
——1枚だけで、いいんだ。
私は切られた切符を受け取って、田辺の分の切符はポケットに仕舞い込んだ。
ホームに降りると、私たちが待っている電車が到着するアナウンスが鳴った。待っていると、3両編成の電車がやってきた。田辺はドアの前で足を止めて、開閉ボタンに人差し指を向ける。
「はは、やっぱ押せないわ」
笑う田辺の後ろから私がボタンを押すと、電車の扉は簡単に開く。田辺は「お〜」とリアクションして先に車内に入ると「ガラガラだね」と呟いてボックス席に向かい私に手招きをする。リュックを肩から下ろして、田辺の正面に座った。
「新名、疲れてない?」
「平気。 田辺は?」
「俺は全然平気。 全部、新名にしてもらってるから」
田辺は車窓に視線を向ける。電車はゆっくり進み、一定のリズムを刻んで走り出す。
「あのさ、なんで新名は、来てくれたの?」
改めて聞かれると明確にこれと言った理由が分からず、私は口を結んで考える。その数秒の沈黙の間、電車が揺れる硬い音が一定のリズムで刻まれる。視界の隅では、景色がどんどん後ろ側に流れて、私たちの町から離れていく。
「友達だから」
そう言ってから、私が田辺を友達だなんて呼んで良かっただろうか。田辺の反応を見るのが怖くて、視線を田辺と車窓の間の空間に泳がすと「そっか、良かった」と声が聞こえた。
田辺は座席の背もたれにトンと寄り掛かって、どこか安心したような表情で「新名が俺のことどう思ってるか、ちょっと心配だったんだよね」と言う。思わず「なんか、意外」と言うと、田辺は「え、意外かな」と小首を傾げる。
「だって、田辺は友達多いし……そういうの気にするような感じには見えなかった」
「ああ~……まあ、うん。 今までは、気にしたことなかったかも」
田辺はひとりで何かを納得したような顔をしている。
「寧ろ、私でよかったの? 今更だけど」
「え、なんで?」
「だって、私電車で遠くに行ったことないし、色々頼りないところも多いからさ」
自分の膝の上に置かれた手を見ると、指先がささくれ立っていた。恥ずかしくて、ぎゅっと握って指を隠した。
「新名って、割と自分に自信ないよね」
「えっ」
思いもよらなかった言葉だけれど、図星だった。顔を上げると、田辺は困ったみたいな顔で笑っている。
「割とというか……全然ないよ」
「ふうん。 俺は、新名のことすごいと思うけどね」
「な、なんで」
「だって、ピッキングできるでしょ?」
真顔でそう言う田辺に、私はぽかんとする。田辺は「え、なに」と自分が可笑しなことを言っているなんてまるで思っていないような顔で言う。
「いや、確かにピッキングは出来るけど……それ、特技って言えるのかな」
「言えるでしょ。 めっちゃかっこいいよ。 俺、屋上が開いてるってことは他の誰にも知られたくなかったけど、新名の特技は言って広めたかったな」
私は思わず小さく吹き出す。田辺がそれをクラスメイトに言い広めているところを想像すると可笑しい。
「やだ、やめてよ。 誇れる特技ではないでしょ。 一歩間違えれば犯罪だし」
「そうかあ? 俺、自分家の玄関でやったけど、全然開かなかったよ」
そんなことをしていたなんて初耳で、私は可笑しくてまた笑う。 真剣に話している田辺が、尚更面白い。
「新名は他で試したことないの?」
「あるよ。 自分ん家の玄関で」
「まじ! どうだった?」
「できた」
「うっわ、天才」
笑っている田辺を見て、どこかほっとしている自分を自覚する。 私は今、うまく笑えているだろうか。泣き出しそうな顔を、していないだろうか。
これが、夢だったなら。
友達と、電車に乗って、どこか遠いところに行こうとしている。ずっとずっと、憧れてきたことを、いまできている。
それなのに、どうしてこんなに。
「だからさ、新名はすごいんだよ。 俺は、ずっとそう思ってる」
そう言った後、田辺は少し間を置いて「それからさ」と言葉を続ける。
「俺、新名がおばあちゃんとふたり暮らししてるってのは、前から知ってたんだ。 それで、屋上でさ、新名がおばあちゃんが寝た後にコンビニのバイト行ってるって聞いたとき、本当に尊敬した。 同じくらい、心配もしたけど」
田辺は、気を遣ってくれているのか、どこか遠慮がちに言う。私の家のことは、多分私と中学が一緒だった子から聞いたりしたのだろうと安易に想像できたし、もう慣れていることなので今更気にならない。それよりも、田辺が私のことを尊敬していたという方が驚きで、感傷的になっていた気持ちがふっとどこかに飛んで行った。
今になって、田辺と一緒に過ごしやすかった理由が分かった気がした。きっと、毎日の日常の中で、孤独や不安を抱え込んでたのが一緒だったからかもしれない。
「田辺に尊敬されてたってのは、私の自慢のひとつになるな」
「おい、ちょっと馬鹿にしてるだろ」
「してないしてない」
3駅通過しても、車両には人が乗ってこなかった。このまま深山まで到着してくれないかなと思ったけれど、4つめの駅のホームには結構人が待っていた。
「新名、俺が話し掛けても喋っちゃダメだからね」
「なら、話し掛けないでね」
「それは、分かんない」
ちょっとだけ意地悪く笑っている田辺を睨みつつ、私はリュックを膝の上に乗せる。
どうかみんな他の車両に行ってくれないかと願ったけれど、そんな願いも虚しく電車が停車してドアが開くとこの3車両目には5、6人ほど入って来た。みんな空いてる場所にそれぞれ座っていくだろうと思っていると、黒いランドセルを背負った男の子がヒョイッと田辺の隣の席に座った。思いがけない出来事に私はハッと息が止まる。目の前を見ると、田辺も驚いた表情でその男の子を見てから、私に視線を向けて眼で“俺のこと見えてないよね?”と語り掛けてくるので、私は“分からない”と首を小さく横に振った。
もう一度男の子に視線を向けると、不意にその子と一瞬だけ目が合った。けれど男の子はすぐに膝の上に抱えたランドセルに顔を埋めて眠るような姿勢になった。目が合ったのはたまたまらしい。私はもう一度田辺の方を向いて“大丈夫”と頷いて見せた。電車は再び動き出し、車窓に映る流れていく景色は少しずつ知らないものになっていく。
座席の背もたれに体重を預けて、ふう、と小さく息を吐いて、少しだけぼうっとする。
そういえば、昨日からあまり眠っていない。昨日は屋上にも行かないまま帰って、家に帰ってもなんだかずっと上の空だった。お腹も空かなくて、夕飯を残したら祖母から具合が悪いのかと心配された。その時も、母の名前で私を呼んでいて、友人が死んでしまったこと、気持ちの整理がつかないことなんて話すことができなかった。それからシャワーを済ませて、そのままベッドに沈むように倒れ込んだのだけは覚えている。
母の名前を叫ぶ祖母を思い出す。あんな風に怒らせてしまったのは初めてだった。祖母は、私が仮病を使って学校を休んでも、祖母がお気に入りだったお皿を割ってしまった時でも、怒らなかった。
いま祖母と仲田さんは何をして過ごしているだろう。仲田さんの言葉に甘えてしまったけれど、本当に大丈夫だっただろうか。
これまで、仲田さんに素っ気のない態度を取ってしまっていたことが悔やまれる。気にかけてくれていることは分かっていたし、チラシをくれたのだって心配してくれていたからなのに、私はなんて失礼なことをしていたんだろうと思う。
あの時もっと、お礼を伝えるべきだった。謝らなければならないのは、私の方なのに。帰ったららおばあちゃんにも、ちゃんと謝らないと…………。



