「そのとき、田辺はどうしたの」

 聞くのに緊張している自分の声は、思ったよりも抑揚が無かった。斎場で、朱理から聞いた話が頭の中をよぎる。田辺は、私が持っている茶封筒に視線を落とす。私の手に、重みが増す。

 「……ショックだった。 頼れない親だとは思ってたけど、まさかここまでするか思ったよ。 もしかしたら、何か急な大切な支払いがあったのかもしれないって、それだったらちょっとは仕方ないと思えたけど、母親はその金をどっかの男と遊ぶ為に使っちゃってた。 流石にその時は問い詰めたけど、悪びれる様子もなくてさ。 その男とも、今はもう別れたらしいんだけど」

 渇いた笑いが混ざる。呆れのような、そんな感情も混じっているみたいで、私は胸がキュッと締め付けられる。  

 たぶん、田辺はそんな経験を沢山してきたのかもしれない。もう期待するだけ無駄で、呆れるしかないと思うしかないくらいに。

 頭の片隅で、自分の母親のことを思い出す。もう随分と昔の記憶だけれど、母親は私を祖母の家に置いて行くときに『私は幸せになるから、私のことは心配しないでね』と言った。その母親の顔は今までに見たことないくらい健やかで、当時の私は“良かった”と思った。ずっとボロボロだった母親が、穏やかに微笑んでいる。それだけで、何故か私自身も救われた気がした。

 けれど、微笑んだ母親の瞳の中に私は映っていなかったのだと、今なら分かる。母親は、私を捨てたその先の幸せしか見ていなかった。

 その母親の笑顔が、胸の中に大きなしこりとなって私の中に残っている。思い出すと、胸がたまらなくむしゃくしゃしてきて、どうしようもなくやるせない気持ちになる。まるで呪いみたいに。

 「そんで、なんかもう、全部投げ出したくなっちゃって。 どれだけ自分が頑張ったって、一番身近にいる母親が台無しにしていくんだったら、頑張ったところで意味がないんじゃないかって、そんな風に考えた。 ……でも、今は最悪だとしても、これから先、良いことがあるかもしれないって思えてさ」

 そう言って、田辺は私に視線を向ける。ふいに真っ直ぐ視線が絡んで、思わずドキリとした。

 「そう思わせてくれたのは、新名なんだよ」

 「……えっ?」

 びっくりして、思わず目を見開く。そんな私に、田辺は小さく笑う。

 「はは。 そんな心当たり、なかった?」

 「え、いや、だって……え、なんで」

 田辺は「んー」と片眉を上げる。この顔のときは、ちょっと意地悪しようとしてるときだと思ったら、案の定。

 「新名が分かるまで、言わないでおく」

 「なんでよ。 気になるじゃん。 ヒントとかないの」

 「それ言っちゃったらすぐ分かっちゃうよ」

 ふと、このやり取りにデジャブを感じて、一昨日の屋上でのことだと思い出す。田辺もそれが分かったようで、お互いに顔を見合わせて、ふっと吹き出した。

 「じゃあ、私も田辺が犯人当てるまで教えない」

 田辺に貸していた小説をひらひらさせて言うと「うっわ、まじかよー」と顔をくしゃっとさせて言う。その声は弾んでいて、つい私もいつもの調子で笑ってしまう。ここが、学校の屋上だったらよかった。

 「このお金は、どうするの?」

 「新名が持ってて。 行先で金が必要になる場面があれば、遠慮なく使って」

 「その行先だけど、どこに行くの?」

 訊くと、田辺は「深山。 電車で1時間くらいかな」と言う。行ったことない土地で、どんな町なのかはピンとこない。

 「そこに、俺のじいちゃんがいるんだ」

 「おじいちゃん?」と聞き返すと、田辺はうんと頷く。

 「俺さ、小学生まで父方のじいちゃんと暮らしてたんだけど、突然母親が戻ってきて、俺を引き取ったんだ。 それからはじいちゃんに会うことは禁止されてたから、ずっと会ってなかったんだ。 でも、やっぱり、最後にじいちゃんに会わなきゃと思ってさ」

 田辺は、すごく悲しそうに力なく微笑む。見たことないくらいに弱々しくて、頼りない、小さな子どもみたいだった。

 私よりは大きい、けれど細いその肩を抱き寄せたいと思った。手を握ってあげたかった。そうするくらいしか、田辺を孤独から引き離すことができない気がした。でも、もうその肩にも、手にも触れることができない。

 それがあまりにも悲しくて、やるせない。自分の中に、今まで感じたことが無いくらい熱い何かが込み上げてくる。私は、それが出てこないようにぐっと押し込める。

 「わかった。 じゃあ、行こう」

 私は田辺のお金が入った封筒をリュックに仕舞い込む。田辺がそれを意外そうに見つめてくるので、私はどうしたのと小首を傾げた。

 「いや……その、めちゃくちゃ変な、無理はお願いだと思うから……。 頼んでるのは俺なんだけど、その」

 「さっき、私の家は大丈夫って言ったでしょ。 だから、変でも無理でも、なんでもいいよ。 田辺のおじいちゃんところに、行こう」

 私がここに来なかったらきっと後悔したように、田辺もきっとおじいちゃんに会わなきゃ後悔する。というよりも、田辺はずっと後悔を抱え込んでいたのかもしれない。きっと、いつか。いずれは……。

 私はいま、誰よりも田辺の願いを叶えてあげたい。

 「……ありがとう」

 やっぱり力なく微笑む田辺に、私は努めて明るく「ううん」と言って微笑み返す。私の下手くそな笑顔が、田辺から孤独を少しでも引き離してくれないかと願った。

 では出発しようと立ち上がって部屋から出ようとしたとき、田辺はいつもの癖みたいに開いた襖に手を掛けた。すると、襖が動いてカタンと音を鳴らした。田辺は咄嗟に手を離して、私を顔を見合わせた。

 「……こういうのを心霊現象って言うんだろうな」

 「なるほど……」

 そう言ってみたものの、私からは普通に田辺が目の前にいるので、あまり心霊現象と言われてもピンとこない。腕がドアをすり抜けたのは、腰が抜けるかと思ったけれど。

 部屋から出ると、さっきまで真っ暗だった居間の様子がよく見えた。ローテーブルの上には、缶チューハイや缶ビールの空き缶が転がり、カップ麺の容器には割り箸が刺さったまま放置されていて、床にも、女性ものの下着やワンピースが抜け殻みたいに散乱していた。

 また、遠い記憶が掘り返される。私と母が暮らしていたアパートの部屋にも母の下着や衣類が床に投げ捨てられていたし、万年床でいつも布団がどこか湿っていて温もりなんて感じられなかった。メイク用品も、転がっていたっけ。

 息が詰まるような気がしてきて、すぅっと息を吸い込もうとする。けれど、鼻につくタバコとアルコールの匂いがキツくて上手く空気を取り込めない。

 「新名、大丈夫?」

 名前を呼ばれてハッとする。田辺は玄関でこちらを心配そうに伺っていたので、「大丈夫」と短く伝えて田辺の部屋の襖をきっちり閉じた。

 「駅まで、俺、自転車の後ろに乗っけてくれる?」

 「うん」

 自転車のサドルに跨って、後ろで田辺が乗ったのを確認してからペダルを踏み込む。自転車が動き出すと、後ろで「おー」と田辺の呑気な声が聞こえた。

 「俺、自転車の2人乗りって人生で初めてかも」

 声は聞こえるけれど、自転車にもうひとり分の重みが感じられない。ペダルを踏み込むのに、なんの抵抗もない。不安になって、「田辺」と後ろに呼びかけると「んー?」とまた呑気な声が聞こえてきた。

 「や、なんでもない」

 そう言うと、田辺は「なんだよー」とちょっと笑みを含んだ声で言う。

 この自転車に、田辺の重みを感じられたら。そんなことをまた考えながら、公園に向かう時よりも自転車のペダルはゆっくりと踏んで進んだ。