「……お邪魔します」
部屋に入ると、タバコと食べ物の混ざった匂いが鼻腔を突いた。空気は生温かくて、それがより匂いを強くしているようだった。慎重へ進むと、何かが足に当たってカランと何かが倒れることが鳴って、私はヒッと飛び上がる。
「ごめんっ、なんか、蹴っちゃったかも」
「いいよ、そのままで。 足元気を付けてって早く言えば良かったね。 そこが俺の部屋だから、入って」
田辺が示した部屋の襖を開けると、カーテンが全開で眩しかった。目の奥に弱い痛みを感じつつ部屋を見渡してみると、本棚と小さな机と畳まれた布団だけが置かれていた。物があまりない部屋だ。
「まず、これを新名に返そうと思って」
田辺は机の上に置かれていた小説を手に取ろうとした。けれど、寸前で手を止めてきゅっと握って後ろに引っ込めると「触れないんだった」と誤魔化すみたいに少し笑う。その笑顔は、どこかバツが悪そうだった。栞は挟まれたページを見てみると、一昨日、田辺が“ここまで読んだ”と言っていたシーンで、その日から田辺がこの部屋に戻っていないことを物語っていた。
「あとで、犯人教えてよ」
「え、今じゃなくて?」
「うん。 話の順を追って、教えてほしいからさ。 あとで、時間があるときに」
そう言うと、田辺は机の前でしゃがみ込んで「新名に頼みたい一つめは、これ」と机の一番上の引き出しを指差した。
「引き出しごと、出してくれる?」
言われるがまま引き出しを全部出してそれを机の上に置くと、田辺は空洞になったその中を覗き込みながら「新名、ここ」と指差す。同じようにしゃがんでそこを覗き込むと、天板に何かが貼り付いていた。
「あれ剥いでくれる?」
「…………」
私は手を突っ込んで貼り付いたそれに親指を引っ掛ける。中々取れず力を込めると、ビリリッと音を立てて勢いよく剥がれた。取り出すと、養生テープが貼り付けられた茶封筒だった。
「これ、何が入ってるの?」
「貯金してたバイト代」
「え」
どうして、こんな所に。言葉にはしなかったけれど、田辺は私の考えが分かったみたいに「ここなら、盗られないからさ」と一言付け加えた。予想もしてなかった言葉に驚いて思わず聞き返しそうになったけれど、気軽に聞いてはいけないことのような気がして喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
「誰に?って思うよね」
田辺は肩をすくめて笑う。
「……前にさ、うち、ちょっと変わってるんだって話したの、新名覚えてるかな」
私は、覚えてるよ、と頷く。以前、屋上でお互いの印象深い小説について話していたとき、田辺は、複雑な家庭環境の中で自分の存在価値を見失っていた主人公が、ある人との出会いで自分自身を取り戻していく話をふと思い出すのだと言っていた。
『うち、人ん家より変わってるから、何となく主人公の考えてることが分かるんだ。 でも、その話は家族が複雑でも自分は自分だし、辛いことがあっても、自分はちゃんと頑張ってるじゃんって、思い出させてくれるんだ』
私は、田辺の言う“つらいこと”はどんなことだろうと想像したけれど、答え合わせはしなかった。私がそこまで聞いていいのか分からなかったし、聞くにはもう少し時間が必要な気がした。
「俺の母親、仕事はしてるけど給料全部好きなことに使っちゃうから足りなくなんの。 俺は、バイト代ほぼ家に入れてるフリして、毎月3万くらいはここに隠してたんだ」
笑ったまま話すのは、話の内容をできるだけ重たくしないようにする為みたいだった。いつもなら、田辺が笑ってする話には私も同じように笑って返すけれど、こればかりは、そうはできなかった。
――ほら、田辺くん、家庭環境もちょっと複雑で……。
そんな、朱理の言葉を思い出す。途端に、胃のあたりにずんと重たい何かがのし掛かる。
「ここに、貯金してたの?」
封筒が破けないように、べっとり張り付いた養生テープを慎重に剥がす。
「目指せ100万と思ってた。 ……でも、一回母親に見つかっちゃって全部無くなっちゃってさ。 結局、100万は貯まらなかった。 今は、30万くらいしかないかな」
自分の耳を疑ったけれど、聞き間違いではないようだったので聞き返さなかった。養生テープを引っ張る指先にうまく力が入らない。
田辺の血の滲んだ絆創膏が巻かれた指先を思い出す。田辺の手元を見ると、その指はそのままになっていた。あのとき、田辺が言っていた“つらいこと”は、そのときのことも含まれていたのではないかと、確かに思う。そのとき、田辺は、一体何を思ったのだろう。
私は、また聞くのを躊躇している。だけど。



