住宅街を抜けて川沿いにまっすぐ伸びた土手を自転車で走って、桜の葉公園に向かう。ビュウビュウと肌を滑ってゆく風は、もうすぐそこに秋がいることを思わせる香りを纏っている。

 桜の葉公園の大きな桜の木が見えて、ペダルを踏み込む足を止めて車輪の回転に身を任せるとふっと体が軽くなる。少しスピードが緩まって流れる景色が良く見えた。視界の中は、土手を下るとある河川敷と流れる川、伸びっぱなしの樹木。犬の散歩をしているおじいさん。どれも、珍しいものでもなんでもなくて見覚えのあるものばかりだけれど、こんな真昼間に自転車を漕いでどこかに出掛けるなんてことも久々でどこか新鮮だった。

 公園が近づいてきて、大きな木の下に設置されたブランコに誰かが座っているのが見えた。もしかしたら、田辺かもしれない。

 公園の入り口に行くには土手から橋に出てぐるりと遠回りしなくちゃならないけれど、そんなことしている気持ちの余裕はないから、私は自転車のブレーキに指を掛けてそのまま土手の坂を斜めに駆け降りた。 

 「わっ、わわっ」

 思った以上に急斜面で、地面がデコボコで振動が全身に響いて痛い。足をペダルから外して斜面に踵を擦る。平面に近づいたその瞬間にブレーキを思いっきり引くと、金具同士が擦れる甲高い音が鳴った。耳を塞ごうにも、両手を離したら私は頭からひっくり返ってこの斜面を転げ落ちる。そんな光景を瞬時に思い浮かべて、胃の辺りが突然冷たくなった。砂利にハンドルを取られながらなんとか自転車は止まって、地面に片足をつく。大きな鼓動の音が耳の奥で鳴り響いているのを感じながら、気持ちを落ち着かせようと深呼吸してみようとするけれど、恐怖のせいかうまく空気を吸い込めない。

 「新名?」

 名前を呼ばれて顔を上げると、日陰に覆われたブランコに座っている田辺がいた。

 「めっちゃ危ないことするね」

 田辺は少し目を細めて、笑っているみたいに言う。その様子があまりに自然で、やっぱり田辺が死んでしまったのは夢で、今も私は夢を見ているのだと……そう思えるような気がした。それなのに、私の耳の奥で鳴り響く鼓動の音と様の声と急に噴き出してくる汗の感覚が生々しくて、これは夢ではないのだと裏付ける。

 でも、これが夢でないのなら、やっぱり私の頭がおかしくなったとかじゃないかと思う。死んだ人間が目の前にいるこんな非現実的な状況は、あまりにも都合が良すぎる。

 「あれ? 俺のこと、見えてる?」

 田辺がブランコに座ったまま小首を傾げると、木漏れ日が田辺の黒髪を照らす。

 「……見えてるよ」

 言うと、田辺はほっと安心したように「よかった」と言う。

 「新名、もともとこういうの見える人だったの?」

 「いや……全然」

 言いながら、未だに信じがたいと思う。目の前にいる田辺は、あまりにも普通すぎる。足もあるし、透けてもいない。交通事故に遭ったと言うが、それらしい怪我のあともない。やっぱり、一昨日会ったときとなんら変わりない。

 「そうなんだ。 なら、俺のことは見えてよかった。 ……新名、家は、大丈夫?」

 田辺は、私が祖母と二人暮らしであることは話したことがある。

 「……うん。 大丈夫。 信頼できる人に、頼んできたから」

 「……それなら、良かった」

 田辺は「行こう」と言って、ブランコから立ち上がって歩き出す。私は聞きたいことばかりだけれど、とりあえず自転車から降りて、その背中に「どこ行くの」と問いかける。

 「一旦、俺ん家。 すぐそこなんだ」

 公園の出口を出て左に曲がったところのすぐに、桜の木の間から木造のアパートが顔を覗かせた。外壁は所々黒く霞んでいて、周囲に桜の木があるせいか日陰になっていて、なんだかより暗い感じに見えた。

 「新名に、俺の部屋に入って取ってきて欲しいものがあるんだ。 自転車、そこに停めて俺と一緒に来て」

 田辺が階段下に視線を向けてから、階段を登って行く。私は田辺が示した場所に自転車を停めて同じように階段を登ると、田辺は階段を上がり切ってすぐ目の前にある部屋の前でこちらを向いた。

 「多分、鍵空いてると思うから、開けてくれる?」

 「え、私が?」

 「俺、こうなってから何も触れなくなっちゃって」

 ほら、と田辺はドアノブに手をかざすと、その手はスーッとドアノブをすり抜けてドアの向こう側に消えた。その、生身の人間では決してすることのできない光景に言葉を失っていると、田辺は「ドン引きじゃん」とちょっと笑って言った。

 「そりゃそうでしょ……」

 映画や小説なら、失神する登場人物もいるくらいのシーンが目の前で起きている。全身の血が、さぁっと足元に下がっていくような感覚を覚えながら、こういうのを腰が抜けそうと言うのだろうかと頭の片隅で考える。でも、自分が失神までしないのは、あまりに現実感がないからか、もしくは少しずつこの状況を受け入れているということなのだろうか。

 「ほ、ほんとに入っていいの? 誰もいないの?」

 「うん。 母親、斎場に居たでしょ? まだ帰っては来ないと思うから、大丈夫」

 その言葉を信じて恐る恐るドアノブを捻ってドアを引くと、キイと金具が軋む音が鳴った。ドアの隙間から室内を見ると、中はカーテンが締め切られているせいか薄暗くてよく見えない。