靴につま先を引っかけて、ろくに踵をはめないまま玄関の扉を開けると「わっ」と小さく声が聞こえた。顔を上げると、そこには仲田さんが立っていて、驚いて私は咄嗟に一歩後ろに下がる。

 「紗季ちゃん……」

 いま、このタイミングで一番会いたくない人だと思った。扉を閉めようと手に力を込めた時、仲田さんが「待って!」と扉の端を掴んだ。

 「急に、ごめんね。 何か、あった——」

 「絢! 戻ってきなさい!」

 階段の上から祖母の叫び声が聞こえて、仲田さんは視線をそちらに向ける。私は奥歯を噛んで、俯いた。

 …………やっぱり、行くのはやめようか。

 こんな状態の祖母を一人にしたら、何が起きるか分からない。またガスをつけたままなのを忘れて過ごすかもしれないし、そのまま眠ってしまうかもしれない。誰も帰ってこないままの家にいたら、母親を探しに夜出歩いてしまうかもしれない。それこそ、事故にでも遭ったら。

 私の所為で、祖母まで失ってしまうかもしれない。そうなったら、きっともう、私は立ち直れない。

 「紗季ちゃん」

 名前を呼ばれたけれど、今にも涙が零れ落ちてしまいそうで、顔を上げられない。

 「紗季ちゃん、聞いて」

 視線を上げると、涙が零れ落ちた。視界の中の仲田さんがぼやけて見えない。再び顔を俯かせようとしたとき、仲田さんは私の腕を引っ張って、後ろの扉をゆっくりと閉めた。

 「ごめん、ごめんね……。 ずっと、あなたを一人にして……」

 私の腕を掴む仲田さんの手は、震えている。私は何のことか分からず、目の前の、いつの間にか背を越していた仲田さんの顔を見る。

 「紗季ちゃんは、ずっと一人で頑張っていたのに……頼っていいって、言ってあげられなくて、ごめんなさい」

 仲田さんの手は私の腕から手に降りて、私の手をぎゅっと握った。私よりも分厚いしっかりした手。幼い頃に、よく祖母と手を繋いで歩いたことを思い出す。祖母の手は、いつも温かかった。 

 「どこかに、行かなきゃいけないのね?」

 そう言われて、私は視線を揺らす。また下を向いて、目元を拭う。感情がぐちゃぐちゃで、まず何から言えばよいのかうまく言葉が思いつかない。

 けれど、ただ一つはっきりしていることは、行かなければ、私はきっと後悔するということだ。

 「大切な友達が…………事故で…………」

 そこまで言って、仲田さんに握られた手が震えてしまい、言葉に詰まる。やっぱり、私はまだこの現実を受け入れられていない。だけど。

 「最後に……その友達に会いに……」

 会いに行きたい。けれど、そんなこと、していいのだろうか。

 「でも、おばあちゃんをひとりには……おばあちゃんは、ガスを消し忘れたまま、寝てしまうんです。 それから……私のことを、もう、思い出せないんです。 何度説明しても、私のことは分からないんです。 だから、ひとりにしたら……」

 そう言いながら、いまの祖母の現実が重たくのしかかる。もう昔とは違う。なんでも出来た祖母よりも、今は私の方が出来ることが増えている。私がいなければ、祖母は…………。

 そのとき、私の手を握っていた仲田さんの手により力が込められて、私は顔を上げた。

 「紗季ちゃんは、その友達に会いに行ってあげなさい」

 その仲田さんの声には力がこもっていて、私はそんな風に言われるなんて思ってもみなくて戸惑う。

 「会いに行かなきゃ、きっと後悔する。 スイさんのことは、おばちゃんに任せてちょうだい」

 「……でも……迷惑じゃ」

 「ううん。 おばちゃんね、昔スイさんに何度も助けられて元気付けてもらったの。 いつか、この恩返しをしなきゃと思ってた。 それが、今この時だけで足りるとは思わない。 でも、今ここで何か出来なきゃ、わたしもきっと後悔すると思う」

 仲田さんは、眉尻を下げて微笑んで言葉を続ける。

 「だから、紗季ちゃんが出かけている間、お家にお邪魔してもいい? スイさんが良ければうちで過ごしてもらったりして、側に居られるようにする」

 その提案に、私は頷いていいのか分からなかった。頼っていいものなのか、分からない。

 「急な話で、戸惑うわよね。 それこそ、この前は急にチラシを渡したりしてごめんね。 ひとまず、あれは忘れて。 今はただ、紗季ちゃんが戻ってくるまで、スイさんと一緒に居るから、紗季ちゃんはその子に会いに行ってあげて」

 この人を、頼ってもいいのだろうか。迷惑じゃ、ないんだろうか。

 「……紗季ちゃん、大きくなったわねぇ。 昔は、私よりうんと小さかったのにね」

 仲田さんも、泣き出しそうな顔で微笑んで私の頬に伝う涙を拭ってくれた。 私は強く頷いて、自分でも、涙を拭う。

 今は、おばあちゃんを守るためには、仲田さんに頼るしかない。そう自分に言い聞かせる。

 「……おばあちゃんを、お願いします」

 「ええ。 まかせてちょうだい」

 仲田さんは「一応、これを……」と言って、鞄からスケジュール帳と小さなボールペンを取り出すと、番号を書いてページを千切って私に渡す。

 「これ、私の電話番号。 邪魔かもしれないけど、行った先で困ったことがあったら、いつでも掛けてきてね。 ……紗季ちゃん、気を付けて、いってらっしゃい」

 「……ありがとう、仲田さん」

 私は頭を下げて、最後に私から仲田さんの手を握った。