家に着いて、靴を脱ぎ捨てて自分の部屋に駆け上がった。今日は私たちは授業を休みにすると聞かされていたので、鞄も何も持って行っていなかった。

 田辺が言う遠くとは、一体どれくらいだろう。今日のうちに、帰ってこられない程だろうか。

 遠くになんて出かけたことがないから、どんな荷物を用意すればいいのか分からない。押し入れから中学の修学旅行の為に祖母が買ってくれたリュックを引っ張り出すと埃を被っていたようで、それを吸い込んでしまい咽せる。

 せっかくリュックを買ってくれたのに、祖母が脳梗塞で倒れたのは修学旅行の前日で、結局修学旅行には行けなかった。そんな時ですら、母親とは連絡がつかなかった。私がもうこの先一生母親に頼らないと決めたのはその時だ。

 ファスナーを開けると、祖母が誕生日にプレゼントしてくれた水色の折りたたみ傘が入っていた。無くしたと思っていたけれど、こんなところに入ってたとは。使った回数は片手で足りるくらいだから、まだ新品も同然で綺麗な状態だ。

 ……私が遠くへ行ったら、片足が不自由で、認知症でガスを消し忘れてしまうような、私の名前と存在すら忘れてしまったような祖母が、この家に一人になる。

 私は折りたたみ傘をリュックの中に戻した。普通だったら、そんな祖母を置いて田辺のところには行かないだろう。 それでも、私は迷っている。罪悪感が入り混じった、大きな不安がよぎる。

 「絢?」

 後ろから声が聞こえて、咄嗟に振り向いてしまう。祖母は、戸に手を掛けてそこに立っている。祖母には、昨日クラスメイトが亡くなったことは伝えていない。

 「絢、学校は?」

 「…………」

 返事をしないまま、視線をリュックに戻して私は再び手を動かす。その名前は、今一番聞きたくなかった。

 「絢、その荷物は……」

 「……絢じゃない」

 「え?」

 「私、絢じゃないよ」

 もう一度振り返って、祖母の顔を見る。目尻に皺が深く入った、大好きな祖母がそこにいる。

 「おばあちゃん。 私、紗季だよ。 おばあちゃんの娘の、絢じゃない」

 私はリュックから折り畳み傘を取り出して、祖母に向けて差し出した。 

 「これ、私の8歳の誕生日に、おばあちゃんが買ってくれたんだよ。 私、イルカが好きだったから……おばあちゃん、わざわざ探して、私の為に、買ってきてくれたんだよ」

 傘のケースと、傘本体にワンポイントでイルカのイラストが入っている水色の折り畳み傘。祖母は、それに視線を落とす。

 「……さき」

 祖母は私の手元から視線を外して、私の顔をじっと見た。

 「そんな子、知らないわ」

 首を横に振って、祖母は言う。さき、と祖母から呼ばれたその2文字は、まるで初めて口にした言葉みたいにぎこちなかった。

 「……そっか」

 小さく呟いて、涙が溢れ出してしまう前に立ち上がる。リュックを背負いこもうとした時、通学鞄の中に田辺から借りている小説を見つけた。それもリュックの中に仕舞い込む。

 「ちょっと絢、どこへ行くの。 さきって、誰なの?」

 祖母の顔を見ないように顔を足元に下げて部屋から出る。その時、祖母が私の腕を掴んだ。

 「絢、やめなさい。 どこに行くっていうのよ」

 右手だけで掴まれたその力は思ったよりもしっかりとしていて、体の動きが止まる。「離して」と祖母を見ないまま言う。

 「そうやって、また勝手に出て行くのなんてだめよ!」

 「離してってば!!」

 掴まれた手を振り払うと、祖母は後ろに体制を崩した。あっ、と顔を上げそうになったけれど、ぎゅっと奥歯を噛んで、私はそのまま階段を駆け下りた。

 「絢!」

 もう聞きたくない。大嫌いな母親の名前なんて。ずっと祖母を置き去りのままにしている、あんな女の名前なんて。

 だけど、私も、同じことをしようとしている。結局、私もあんな人と一緒なのかもしれない。