焦茶色の古い木造の家が見えた時、頬にぽつりと冷たい何かが当たった。
ん? と思った時には、また冷たいものが頬にぽつり、手にぽつりと当たって、雨が降ってきたんだと思ってペダルを漕ぐ速度を上げる。
空は濃い灰色に覆われていて、一歩足を進めるごとに雨粒の量も大きさもどんどん増していくようだった。
幸いあまり濡れることなく家の玄関まで辿り着いて、自転車を停める。 エコバッグと保冷バッグを両手に持って、玄関の重たい引き戸は足先で開けた。
「ただいまー」
そう声を掛けても、誰の返事も返ってこない。
「……おばあちゃん?」
玄関で靴を脱ごうとした時、なんだか異様な雰囲気を感じて、私は靴を脱ぎ捨てて台所へ駆け込む。
すると、ガスがついたままの鍋の蓋がカタカタと揺れていて、その隙間からは白い泡がぶくぶくと溢れ出していた。
「ちょっと……!」
慌ててガスの火を止めると、鍋はシュウーッと音を立てて、蓋の動きは停止した。 ガスコンロの天板には、鍋から吹きこぼれた白い液体が溜まっている。
「ねえ!」
すぐ隣の居間に顔を出すと、祖母はソファに座ったまま、少しだけ間を置いてこちらに振り返ると「あら、おかえり」と眠たげな目をして言う。
「ガス、また付けっぱなしだったよ!」
私はテーブルに置かれたテレビのリモコンを掴んで、耳が痛くなる程の大きい声で元気よく喋るリポーターの音量を下げる。
「やだ、うっかりしてたわ」
祖母はソファからゆっくりな動作で立ち上がると「ごめんごめん」と言って、左足を引き摺りながら私の横を通り過ぎて台所へ向かう。
「今日の夕飯ね、絢が好きなシチューにしたのよ。 あら、鍋が……」
「…………だから……」
私は手に持っていたリモコンをギュッと掴む。 でも、湧き上がった感情とその勢いのまま思わず口から滑り落ちそうになった言葉と、溢れそうになるため息をぐっと飲み込んで、小さく深呼吸をする。
……もう、こんなこと何回もあったのに。
そう思ってもイラついてしまう自分に尚更イライラして、結局ため息だけは重たく溢れた。
「絢、シチューいっぱい食べられるでしょう?」
「……普通でいいよ」
リモコンをテーブルに置いて、玄関に戻って放り投げてしまったエコバッグと保冷バッグの中身を覗く。
運よく卵は割れていなかったし、保冷バッグの中の容器も蓋が開いたりはしていなかったことに安堵した。 容器の蓋を開けるとロールキャベツが入っていた。
仲田さんの作るロールキャベツは、絶品だ。
「あとは私がするから、座ってていいよ」
台所に戻って、鍋をお玉で混ぜている祖母に声をかける。
「あら、珍しい。 手伝ってくれるの?」
「…………」