「妹……」
そう呟くように言ったきり、私は黙り込んでしまった。だが、頭の中だけは、自分の納得のいく結論を導こうと必死に働かせていた。
生涯において、聖女はたった一人だけ娘を産むことを許されている。
それは、聖女の血を絶やさぬことと、聖女の力を分散させない――娘を産めば産むほど娘たちの聖女の力が弱まっていくとされているためである。
しかし、後者の、〈聖女の力を分散させないため〉というのは、あくまで表向きの理由だ。
本当の理由は、無用な争いを避けることにあった。
聖女の血を確実に残したければ、娘はたくさんいた方がいいに決まっている。だが、〈たった一人〉と限定しているのには、それ相応の理由がある。
たった一つの聖女の椅子に、二人以上は座れない。二人以上の人間が一つの椅子に群らがれば、その椅子を巡って争いになるのは目に見えている。
国と民のために、その身を犠牲にして祈りを捧げる聖女――一見、争いごととは無縁のように思えるが、その実、国王をも凌ぐ権力を持っているのだ。
(養女、ということかしら……?)
私は一つの結論にたどり着いた。
聖女は、実子を一人しか持つことができないが、養女を迎えることはできるのである。
身寄りのない子どもを引き取り、教育を受けさせ、身の回りの世話をさせるのである。
(そうね。そうに決まっている)
ところが、次に母が発した言葉は、私の予想を裏切るものであった。
「カタリナにもあなたと同じ教育を施します」
「……」
今度こそ、私は完全に言葉を失った。
私が今受けている教育――聖女になるための教育は、次期聖女のみが受けられる教育である。それをカタリナが受けるというのはどういうことなのか?
この時、私は初めてカタリナの顔をちゃんと見た。
カタリナの顔は、若い時の母に瓜二つだった。
私は逃げるようにして執務室を後にした。
あの二人と同じ空間にいたくなかったのだ――自分が異物のように感じられてならなかった。
それは母のあの目だ。私とカタリナに向けられる母の目は、明らかに違っていた。
カタリナに向けられる母の目――それは、慈愛に満ちているように見えた。少なくとも、私は生まれてこの方、母にそのような目を向けてもらったことはない。
もともと、私と母の関係性は、一般的な母娘のそれとは違っていたのだと思う。
私と母には、〈聖女〉しか繋がりがなかった。だからと言って、そのことに不満を持ったことはない。〈聖女〉というのは、そういうものだと思って育ってきたからだ。
だが、母とカタリナを見て確信した。
私は母に愛されておらず、カタリナは母に愛されている。
自室のドアの前に立ったとき、私は異変に気がついた。
鍵をかけたはずのドアが開いていたのである。おそるおそる中を覗いてみると、身の回りの世話をしてくれる召使いたちが、慌ただしく動いていた。
彼女たちがやっていることを見て、私は思わず叫んでいた。
「あなたたち、一体、何をしているの!」
いきなり声をかけられたにもかかわらず、彼女たちは手を休める様子はなかった。
「マリア様、お部屋の移動をお願いします」
「部屋の移動? そんな話は聞いていないわ。誰に言われたの?」
「先ほどエリザベート様が。カタリナ様がお使いになるそうです」
「カタリナ……!」
私は聖女のモチーフがついたペンダントを思わず握りしめた。
「そう……それで私の新しい部屋はどこ?」
私は精一杯平静を装った。
「今日から離れで寝泊まりするようにと、エリザベート様が……」
「けほっ、けほっ……」
ドアを開けた途端、埃が舞い上がり、私の喉を刺激した。
離れとは名ばかりの、いわゆる物置である。
実は私は、離れに来る前に、母のところへ寄っていた。どうして愛着のある部屋をカタリナに譲り、離れに移動しなければならないのか、納得できる理由を母の口からちゃんと聞きたかったからだ。
逃げられると思ったが、意外にも母は直接私に理由を教えてくれた。
――聖女はいつ、いかなるときも、民の心を知り、民に寄り添わなければならない。自分一人の力で離れをきれいにし、庶民の生活を知れ。
母の言い分はこのような感じだった。私は瞬時に嘘だと見破ったが、あえて指摘せず、今回はこのまま引き下がることにした。
私は生まれてこの方、家事をほとんどやったことがない。
だからいきなり掃除をしろと言われても、やり方がわからない。そもそも、離れには掃除道具らしきものもなかった。
(まずは掃除道具を調達しないと)
私は建物の外に出た。
外に出てしばらく歩くと、使用人たちの話声が聞こえてきたので、掃除道具のことを尋ねようと声がする方に足を向けた。
「カタリナ様ってどういう方なんですか? その……エリザベート様にそっくりですよね」
年若い使用人が、年長の使用人に聞いていた。
今、二人の前に歩み出て、話しかけられる雰囲気ではなくなった。
いや、正直に言おう。私はこの二人の会話が気になり、物陰に身を潜め、じっと聞き耳を立てていたのだ。
「やっぱりあれは……そうだったとしか思えない」
年若い使用人の疑問に答えるように、年長の使用人――メアリが話し始めた。
聞き耳まで立てておいて何だが、メアリが話に乗って来たのは意外であった。
メアリは、私が生まれる前からここで働いているベテランの使用人である。だが、担当している仕事が炊事場や掃除なので、あまり私とは関わることがない。
しかし、寡黙ではあるが、真面目な働き者という印象は持っている。
そのメアリが、諫めるどころか、自ら口を開いているのだ。
この件に関して、メアリには、何かしら思うところがあるのだろう。
「エリザベート様がお体を悪くして、一年ほど療養で地方に行っていたことがあってね……」
「えっ! そんなにお体が悪かったんですね……今はとってもお元気そうなのに。でも、聖女様が一年も地方に行ってしまって、大丈夫だったんですか?」
「あの頃はまだ先代の聖女様がご存命だったから。でも、聖女様が一年も療養しなければならない大病をしたっていうのに、あまり大騒ぎにはならなかったね。不思議なことに」
「それって……もしかして、病気ではなかったということですか?」
朧気ながら、私にも記憶があった――母が不在だった時の記憶が。
そして、カタリナの年齢を考えると、母が不在だった時期と、カタリナが生まれた時期はちょうど重なるのではないだろうか?
「あっ……。それにしても、どうして今頃……?」
若い使用人――名前をエマと言ったか、エマもメアリが言わんとしていることを理解したらしい。
「先代の聖女様がお亡くなりになられたからだよ」
先代の聖女――私の祖母は、つい最近亡くなった。聖女の座を母に譲り渡していても、実質的な権力は祖母が握っていた。
そのため、祖母が生きている間は、母も好き勝手なことはできなかった。
祖母が亡くなって、母が真っ先にやりたかったこと、それが、カタリナを自分の元に呼び寄せることだったのだ。
「カタリナ様が本当にエリザベート様の実娘だったなんて……聖女は、一人しか娘を産んではいけないはずですよね?」
「……そう。おかしなことにならなきゃいいけど」
メアリは、少し間を置いてから答えた。
「本当に! 今朝なんて、あのお二人と廊下ですれ違ったら、とっても仲良さそうに買い物に行く約束なんてしていたんですよ!」
エマは、国民の手本となるべき聖女が、堂々と違反を犯していることに怒りを感じているようだった。
そして、私は衝撃を受けていた。私は、母と仲良く会話をしたことも、一緒に買い物に行ったこともない。
母にとってカタリナは、私よりも特別な娘、ということなのだろうか?
「でも、これもマリア様が聖女になるまでの辛抱だわ。マリア様だったら理想的な聖女になられるでしょうから!」
「そうだといいけどねえ……」
一体、メアリは何を知っているのだろうか、私はその場から動けなくなっていた。
「聖女だって神様じゃない。感情のある人間だ。もちろん母娘の情だってある」
「そんなの当然じゃないですか! エリザベート様にとって、マリア様もカタリナ様も自分のお腹を痛めて産んだ娘ですもの」
エマは力説するが、メアリはどこか冷めたきった表情をしている。
「自分が産んだ子どもだったら、誰でもかわいいと思う?」
「そりゃそうですよ!」
エマはきっと、家族仲の良い普通の家庭で、何の疑いもなく育ったのだろう。
「父親の違う子でも?」
「どういうことですか?」
「好きになった相手の子と、そうじゃない相手の子を、同じように愛せるかってことだよ」
私はまたしても衝撃を受けた。それも、さっき受けた衝撃とは比にならないくらいの衝撃だ。
聖女にも夫がいる。だが、世間一般の夫婦像とはかなりかけ離れている。
聖女の夫の重要な役割は、ただ一つ、次の聖女を作ることだ。
無事に娘が生まれれば解放されるかと言えば、そういうわけではなく、死ぬまでずっと聖女の夫でい続けなければならない。
しかし、それが不幸かと言えば、決してそういうわけでもない。聖女の夫に選ばれるというのは、大変名誉なことだからだ。
聖女の夫は、生涯窮屈な生活を強いられることになるが、それ相応の特権が本人とその実家に与えられる。
そのため、その特権を濫用しないような、確かな身許の潔癖かつ優秀な人物が聖女の夫として選ばれる。
私の父も〈聖女の夫〉の例に漏れず、名家の出身だ。
そして、父は、〈聖女の夫〉にふさわしい条件を持っているということだけで、〈聖女の夫〉に選ばれた。
母と父との間には、特別な感情は存在しない――父は、次の聖女をこの世に出すためだけに母にあてがわれた。
それでもそれなりに夫婦としての時間を持つことができたのなら、母と父との関係は進展したのかも知れない。
だが、二人にそれは許されなかった。
なぜなら、夫に対し、愛情が芽生えてしまい、夫の支配下に置かれることを避けねばならないからだ。強大な権力を持つ聖女は、特定の誰かに便宜を図ってはならないのだ。それがたとえ身内であっても。
母だけではなく、私だってそうだ。次の聖女である私も、父とは必要以上の接触を持つことを禁じられている。
それもやはり私に、親子の情を持たせないためである。
こうやって、聖女の完全なる中立性は守られてきた。それを母は自ら破壊しようというのか。
確かに、多くの国民が聖女をお飾りだと思っている今、聖女のあり方を考え直してもいいかも知れない。
だが、それにしても母のやり方は早急すぎる。
祖母はもういない。母を止められる人間はもうこの国にはいないのだ。
「マリア様、今度開催されるお茶会の日程が決まりました」
「そう、どうもありがとう」
母は定期的にお茶会を開催する。
お茶会に参加するのは、母と仲の良いご夫人たち。私も一応は参加するが、ただその場にいるだけだ。
お茶会の内容はいつも決まっている。いわゆる噂話や陰口の類だ。
しかし、母は〈聖女様〉なので、そんな下衆な会話には積極的に参加せず、黙って聞いている。
その分他のご夫人たちが、気を利かせて母の気に入りそうな話題を、母の分まで面白おかしく喋ってくれる。それができないご夫人は、次回からお茶会に呼ばれなくなるのだ。
私はそんなお茶会に参加するのが、毎回憂鬱であった。
お茶会当日――。
次期聖女である私は、お茶会の準備と、招待客の出迎えのため、言われた通りの時間よりも早い時間に、お茶会が開かれる部屋に到着した。
部屋の扉を開けると、驚くべき光景が目に飛び込んできた。
母をはじめとする、お茶会の招待客全員がすでに着席していたのだ。しかも、部屋の様子から察するに、お茶会が始まってかなり時間が経過している。
さらに私を驚かせたのは、母の隣にカタリナが座っていたことである――いつも私が座っていたその場所に。
視線が一斉に私の方に向けられた。
「マリア! 一体、どういうことなの、こんなに遅刻をするなんて!」
私が部屋に入るなり、母は私を激しく叱責した。
「あの……私は言われた通りの時間に来ただけですが……」
「言い訳をするなんて、次期聖女としてあるまじき行為ね!」
母は信じられないといった表情をわざと作った――ように私には見えた。
だが、次の瞬間、一気に顔をほころばせ、
「まあ、いいでしょう。あなたの代わりに、カタリナががんばってくれたわ。今日のところはカタリナに免じて大目に見てあげます。わかったら席に着きなさい」
「申し訳ございません……」
私は案内された席に着いた。
そこは、母の隣の席ではなく、一番身分の低い者が座る席であった。
今日のお茶会は、いつも以上に辛かった、いや、屈辱的だった。
母は終始、カタリナがどんなに素晴らしい娘であるかを語っていた。
これで、母が、私とカタリナのどちらを重視しているかを、はっきりと示したことになる。
私がお茶会に呼ばれなくなる日も、そんなに遠い未来ではない。そして、私がいないお茶会では、ご夫人方が、私のことをさぞ面白おかしく話題にしてくれることだろう。
お茶会からの帰り道、私は離れの方角から歩いてくる人影を見た――それは、メアリであった。