私が目を覚ましたのは床の上だった。
(……痛いっ!)
ピリッとする痛みを後頭部に感じ、手をやってみる。すると、たんこぶができていた。
だが、すぐに私は、たんこぶの痛みを忘れてしまうくらいの衝撃的な事実に直面する。
下半身に違和感を感じ、寝たままの姿勢でおそるおそる下半身を探った。
そして私は、昨晩、自分の身に何が起こったのか、全て理解した。
私は、父が迎えに来たときに、どうして一緒にここを出て行かなかったのか、激しく後悔した。
アベルを私に差し向けたのも、きっと私を陥れるための罠に違いない。
私がまんまと罠に嵌まったことを、母の耳にはもう入っていることだろう。
もうすぐ、母が何らかの行動を起こして来るはずだ。今度こそ私は、どんな目にあわされるかわからない。
どのような目にあわされるにしろ、万が一に備え、私にはやるべきことがあった。
私は体の痛みを堪えながら、本棚の前に立った。
私が手にしたのは、薬学の本だ。
(確かこの辺りに作り方が出ていたはず……あ、あったわ)
そのページを開いたとき、情けなくて涙が出てきた。
まさか、自分がこの薬を使う日が来るとは――私がこれから作ろうとしているのは、堕胎薬だった。
薬を作り終えた私は、荷物をまとめ始めた。
今更ながら、父との約束を実行することになる。
――先ほど作り終えたばかりの薬、今まで書き溜めた薬のレシピ、そして、父と別れるときに渡された紙切れ……。
全てひとまとめにしても、片手で持てるくらいの量しかない。その荷物を私は、離れの外に隠した。
だが、薬のレシピと堕胎薬だけは、肌身離さず洋服の下に隠し持っておくことにした。
こんなに小さな荷物をまとめるだけで、結構な時間を費やしてしまった。
でも、これで、いつでもここを出て行くことができる準備が整った。
私が準備を終えて一息つく間もなく、私は母からの呼び出しを受けた。しかも至急の用事だそうだ。
未だかつて私は、母から急な呼び出しを受けたことはなかった。
母が私を呼び出す理由――それは、昨晩のことに違いない。
しかし、愚かな私は、この期に及んでも、母に対して一縷の望みを抱いていたのである。
――いくら母でも、実の娘の私に対して、あんな酷いことができるだろうかと。
私が母に指定された場所に行くと、その場には母だけではなく、カタリナと国の要職に就く全ての者たちが揃っていた。
この状況を見て、私が母に寄せていた期待は、見事に裏切られることとなった。
「マリア、どうしてここに呼ばれたのかわかっていますか」
母の第一声を聞いて、私が母に抱いていた淡い期待は裏切られた。
「……いいえ」
私は、自分から何も言わないことに決めた。これから私が口にすることは、今後の私の運命に大きく関わってくる。
下手なことを言えば、余計な攻撃材料を与えることになり、更なる窮地に追い込まれることになるのだ。
「そう。それでは仕方ありません」
母はわざとらしくため息をつき、首を左右に大きく振った。
「あなたが素直に非を認めれば……と考えていましたが、そんな気はなさそうね」
「昨晩、あなたが離れにアベルを招き入れたのを見た人がいます。一体、あなたたちは何をしていたの?」
「あれは薬を分けてあげていただけです!」
信じてもらえないとわかっていながら、私は無実を主張していた。
「あら、そう……でも、何人もの人間から、アベルがしょっちゅう離れの方角に歩いて行くのを見たと聞いているけど……。あなたに会いに行ったのではないの?」
「それは……」
言葉に詰まった。そして、母はこの瞬間を待っていたようだ。
「だったら、直接アベルに聞いてみましょう。アベルをここへ呼んできてちょうだい」
「あなたが、こんなにふしだらな娘だったなんて思ってもみなかったわ!」
母の思惑通り、アベルは、私に誘惑され、同意の上で関係を持ったと泣きながら訴えた。でたらめを、さも本当ことのように感情を込めて話す様子は、まさに迫真の演技であった。
アベルに乱暴された私がふしだらなら、夫がいる身で、他の男性と恋に落ち、挙句の果てにその男性の子を産んだ母は何なんだろう?
私は、無意識のうちに、不満を顔に出してしまっていたようだ。それに気がついた母は、こう付け加えた。
「次期聖女の身で異性を連れ込み、破廉恥な行為に及ぶとは……何と言うことでしょう……!」
私にはもう反論する気力はなかった。私が何を言おうと何も変わらない。
しかし、危機的な状況にあるにも関わらず、私は意外と冷静であった。最悪な状況に備え、準備をしておいたからかも知れない。
――早くこの茶番が終わって欲しい。
「マリア、先ほどからずっと黙っているけど、言うことはないの?」
「……」
「黙っているのは、全てを認める、ということね?」
「……」
沈黙こそが、私のせめてもの抵抗であった。
「これであなたが、次期聖女にふさわしくない人物であることがよくわかりました」
母は立ち上がり、その場にいる全員の顔を見渡した。
「マリアをこの国から追放し、カタリナを次期聖女といたします」
かくして私は、次期聖女という高貴な立場から、あっという間に追放者になった。
将来、聖女になる運命の元に生まれ、次の聖女として育てられ、私自身も聖女になることに何一つ疑いを持っていなかった。
それが急になくなった。
私はわずかな硬貨を持たされて、ほとんど着のみ着のままの状態で、生まれ育った場所を追い出された。
私は、宮殿から一番近くにある町にたどり着いた。
――〈聖女〉が私の人生の全てだった。〈聖女〉しか知らない私は、これから先どうやって生きて行けばいいのか?
そんなことを考えながら町中を歩いていると、道行く人と肩がぶつかった。
「これ、あんたの?」
突然背後から声をかけられ、振り向くと、私の硬貨の入った袋を持った少年がいた。
「私ったら、落としてしまっていたのかしら? 拾ってくれてどうもありがとう」
「違うよ。さっき肩をぶつけられただろ? その時に掏られたんだよ」
「そうなの? 全然気が付かなかったわ……」
「あんた、どこかの貴族のお姫様だろ? そんな高そうな服を着て、一人でふらふらしていたら、狙われるに決まってる」
少年に指摘され、私は自分の服と町の人たちの服を見比べてみた。私が来ている服は、特別華美なものではなかったが、それでも町の人たちの服よりははるかに良い素材が使われていることが、一目でわかった。
「今度町に来るときは、もっと庶民的な格好で来なよ!」
少年は、袋から硬貨を何枚か抜き取ると、私に袋を投げて寄越した。
(町の人たちが粗末な服を着ていることも、平気で他人のお金を盗むような人がいることも知らなかったわ……)
今着ている服のままでは、またスリの被害にあいかねないことがわかった。
そこで私は、服を買うことにした。
ちょうど私の目の前に、古着屋があった。どうやらこの店は、古着の販売だけではなく、買取も行っているようだ。
(何なのかしら……この生地。やけにごわごわするわ)
購入した古着を着た私は、その肌触りの悪さに驚いた。
それでも、私は、店で売っている服の中では、比較的状態が良い服を選んだつもりだった。
(この国の国民は、こんな服を着ているの? それとも、私が着ていた服が特別贅沢だった……?)
私は、国民の幸せを祈る聖女になる立場にあったのに、国民のことを何も知らなかったのかも知れない。
「ここへ行くにはどうしたらいいのでしょうか?」
私は古着屋の店主に、父からもらった紙切れを見せた。
店主は、私に乗合馬車で行くことを勧めた。
なぜなら、紙切れに書かれていた場所は、乗合馬車の終点付近にあるからだ。
私は今まで、自分の意思で外出をしたことがない。外出をするときは、いつも誰かが外出の準備をしてくれ、私は馬車に乗るだけで良かった。
だが、今の私は、自分の意思で全てを決めなくてはならなかった。
一人で行動することは、私を不安にさせた。そして、聖女の宮殿に住んでいた頃の生活が非常に恵まれていたと痛感した。
乗り心地の悪い馬車に揺られ、私は目的地にたどり着いた――そこにあったのは、農場であった。
私は父がくれた紙切れを見た。そこには、簡単な住所と、この農園の名称らしきものしか書かれていなかった。
ちょっと見渡しただけでも、この農場はかなりの広さがあり、作業をしている人たちもたくさんいる。
(誰のところに行けばいいのかしら……)
聖女の夫である私の父は、大貴族と言って差支えのない名家の出身である。
その父が、この農場に行くように私に言ったのだから、父の実家に縁のある場所であると考えるのが普通だろう。そうなると、私が会うべき人は、この農場の主だ。
そうと決まれば、どこに主がいるのか案内してもらえばいい。
私は、案内を頼むべき人を探した。
すると、向こう側から私の方に向かって歩いてくる人影が見えた。
(あの人に聞いてみよう)
私も、人影に向かって歩き始めた。人影に近づくにつれ、その人影が女性であるということがわかった。しかし、日差し避けのつばの広い帽子をかぶっているせいか、顔まではわからなかった。
「あの、すみません。お伺いしたいことが……」
私が女性に話しかけると、女性は帽子のつばを上に上げて顔を見せた。
「あっ! あなたは……」
女性の顔を見て、私は思わず声を上げた。女性の方も私の顔を見て驚いている。
「メアリ! メアリなの? どうしてここに……?」
会うべき相手はメアリだった。
父は、メアリが出ていくときに、私のことをメアリに託していたのだ。
「離れを掃除してくれていたのはあなたでしょう? ごめんなさい……あなたまで巻き込むことになってしまって」
私はメアリに詫びた。
「いいえ、こうなることは覚悟していましたから。私よりもマリア様の方が……」
メアリの声は、涙声になっていた。
聞けば、この農場はメアリの遠縁にあたる者が経営しているそうだ。そして、その縁でここで働かせてもらっているという。
メアリと相談し、次期聖女だったという身の上は明かさない方が良いという結論に至った。
幸いなことに、現在、人手不足で、住み込みの使用人を探しているというとのことだった。そこで、私は、仕事を探しているメアリの元仕事仲間という立場になり、農場に置いてもらうこととなった。
こうして私の農場での、使用人としての生活が始まった。宮殿での生活とは正反対で、私にとっては戸惑うことばかりであった。
作業内容は、ひたすら肉体労働だった。朝早くから暗くなるまでずっと野外で働き、作業が終わるころには口もきけないほど疲れ果ててしまっていた。
宮殿にいた頃は、空き時間があると、読書をしていたが、疲れのせいで、読書をしようという気にはとてもなれなかった。
また、食事にしても、素材がそのまま煮込まれただけのスープや、固くてスープに浸さないと食べられないようなパンが出された。
長い時間をかけて丁寧に下ごしらえされた、口当たりも柔らかく、見た目も美しい食事しか食べてこなかった私は、食事の粗末さに非常に驚いた。後でメアリに聞いてみると、この農場は経営状況が比較的良いので、これでもましな方だと教えられた。
給料日後の休日、私たち住み込みの使用人は、買い物のため、みんなで町にやってきた。
この買い物が、使用人たちの唯一の楽しみとなっている。
町に着いてからは自由に行動することができる。好きな店に行って、商品を物色したり、市場でおいしい物を腹いっぱい食べる……といった感じで、思い思いに休日を楽しむ。
私は、この町に来るのが初めてということもあり、ロザリーという同じ年頃の使用人と一緒に行動することになった。
私は本屋の前で立ち止まり、軒先に出ている本を手に取った。
「あんた、本なんて読めるの?」
「え? ……あなたは読まないの?」
私には、ロザリーの問いかけが奇妙に聞こえた。そして、その理由はすぐに判明した。
「そもそも字が読めないんだから、本なんて読めるわけないじゃない! あんたこそ、どこで読み書きを習ったの?」
私は、しばし言葉を失ってしまった。この国に、読み書きができない人がいるとは知らなかった。
「学校には行かなかったの?」
以前、公務で学校の視察に行ったことを思い出した。
「学校? そんなの金持ち連中しか行かないよ。ああ、そうか。あんた、メアリさんと一緒に聖女様のところで働いていたんだっけ。そこで習ったの?」
「え、ええ。実はそうなの」
答えに困る質問であったが、ロザリーが勝手に答えを出してくれて助かった。
「ふうん……。で、聖女様ってどんな人だった?」
ロザリーは、またしても答えにくい質問を投げかけてきた。