【完結】君は僕のストーリーテラー

「なぁ桜!」

「な、何?」

「青春謳歌してるな!」

「はぁ?」

「雨降りの中で走り抜けるって青春の塊だろ!」

「なんで今言うの!」

「今走ってるからだろ!」



雨の音でお互いの声が聞こえにくくなっているため、自然と声量が大きくなってしまう。

でもそれはちゃんと伝え合いたいという証拠だ。

人も歩いていないので私達は構わずに大声で会話する。



「俺もう満足したわ!青春謳歌計画!」

「それは良かったですね!」

「桜と一緒だから楽しい!」

「……またそんなこと言って…」

「何!?」

「うるさい!前見て!転ぶ!」



私は叱るように叫ぶと涼は笑って前を見た。

一応怒ったはずなのに、涼は何だか嬉しそう。

よくわからないなと思いながら絵を抱えて走る。



「駅付近になれば屋根あるから!」

「はぁ、はぁ、り、了解…!」

「大丈夫かー?」

「大丈夫だし!」

「何キレてんだよ」



時々私の方を振り返って笑顔を向ける涼は、言葉通りに青春謳歌を満足しているようだった。

しかしその笑顔は私を困惑させる。

自分自身は青春なんてものを持っているのかと自問自答した。

涼のように日々の生活を充実させたいとか、高校生らしい生活とか、考えたことない。

もし、私の中に涼のような思考があったら…。

また別の道を歩んでいたはずだ。

私の顔に雨では無い液体が流れた気がした。



ーーーーーー



駅前に着くと屋根があったので私達は速度を緩めて走るのをやめる。

雨は本降り近くなっていた。

ゆっくり歩きながら持っている絵を確認する。



「絵は大丈夫」

「良かった」 



少し雨で濡れた部分があるけど、乾かせば問題ない程度だ。

駅のホームに入って私は真っ先に椅子に座った。

涼はそのまま歩いて時刻表を確認してくれる。



「…後5分後だな」

「OK」

「とりあえず最寄駅着いても雨がやばかったから傘買うしかないな」 

「そうだね」



涼は待ってくれていた画材を椅子に置くと周囲を探索する。

あれだけ走ってもなお動ける体は凄いなと感心した。

何かを探すように顔を近づけたり、しゃがんだりしている。



「何してんの?」

「ちょっと探し物」

「落とした?」

「いや」



駅に着いたばかりなのに何を探しているのだろう。

他に人が居ないから多少変な行動をとっても問題はない。

私は涼から目を離して今も降り続けている雨を見ていた。



「桜」 

「何」

「こっち来て」

「涼が来てよ」

「持っていけないから…ほら早く」 

「もー何?」



私は走った衝動で疲れている重い体を立たせて涼の所へ行く。

ホームと線路の境目である黄色い線の前で涼はしゃがんでいた。

私は線の内側に立って涼が指さす方向を見る。

そこには花が咲いていた。

薄い色で、沢山の花が集まっている。

花弁は8枚。

ピンク色に染まった花達が雨に打ち付けられていた。  



「コスモス…」

「あ、これコスモスなんだ」

「知らないで私を呼んだの?」

「だって特徴が似ていたからさ」  



私は改めてまじまじとコスモスを見る。

花弁に付いた雨の雫は1滴ずつ地面へと落ちていく。



「あの人が言っていたのはコスモスだったのかな…?」 



青年が最初に思い浮かんだ花。

それは青年しかわからないけど、私からの答えはコスモスだと確定してしまった。
「探していたのはコスモス?」

「たぶん…」

「花びら8枚だな」

「記憶があやふやだったの」

「まぁ見つけられて良かったわ」

「うん、ありがとう」

「今日はやけにお礼言ってくれるな」

「…感謝することがいっぱいだからね」

「そっか」



私達は雨を纏うコスモスを眺める。

線路のギリギリに咲いているコスモスは強く綺麗に咲き誇っていた。



「こいつらもスレスレで生きてるんだな」

「ふふっ、同じこと思ってた」

「だよな?こんな場所に咲いていたらハラハラする。いつか轢かれるんじゃないかって」

「でも綺麗に咲いてるね」

「別の場所に植えてやりたい」

「ダメだよ。この子達のお家はここなんだから」

「そこは俺が危険だからとかじゃねぇの?」



苦笑いする涼。

私は笑って返すと立ち上がってまた椅子に戻る。

涼も追いかけるように椅子に座った。



「もしさ、自分がやった事が相手にとって迷惑だったらどうする?」

「ん?どう言う事?」

「コスモスの話の続き。涼は危ないから移動させたい。でも私はここが居場所だから移動させたく無い。でもコスモス達は移動を望んでいるのに私が止めたせいであの場所に留まることになったらって考えちゃって…」

「あーなるほどな。俺なら潔く諦める」

「諦めるんだ」

「よく言うだろ?何でもかんでも思い通りには行かないって。それだよ」

「そういう考えね」

「それはコスモスの話にも言えるけど、俺の話にも言える」

「り、涼?」



隣に座っていた涼は私の椅子の領域まで身を乗り出して近づいてくる。

頬を触れられたと思ったら私の髪から流れ落ちた雨の水滴を拭いてくれた。



「どんな結果でも受け入れるよ。俺が今したい話…わかるだろ?」

「……うん」



やっと来たか…。

私は涼の行動には驚いたけど、その後の言葉については冷静に考えられた。

大体このパターンで望む答えは誰しもが同じ回答だろう。

YESかNO。

2択という簡単な問いでも、どちらかを選んだだけで結末が大きく変わる。

でも相手の事を考えれば答えなんて簡単に絞れる。

どうせ私はわかってないんだ。

これから知っても遅くない。

私はまだ頬に触れている涼の手をギュッと掴んだ。



「ごめんね」



手を私から離すようにして涼の元へ返す。

雨の中でもハッキリと聞こえたはずの声。

涼の表情を見れば伝えられたのもわかった。



「ありがとう」

「何に、対して…?」

「返事くれたから。その答えでも俺と居てくれたから。…普通に接してくれたから…」



涼の言葉を遮るように電車のアナウンスがホームに鳴り響く。

2人して黙った後、すぐに大きな音を立てて電車はやってきた。

私は立ち上がって電車に体を向ける。



「行こう?」

「ありがとう。でも俺はまだここにいる」

「えっ、何で?」

「余計なこと言っちゃいそうだからさ。…これ最後まで持てなくてごめんな」



涼は自分の下に置いてあった画材のバッグを私に押し付けるように渡した。



「でも電車行っちゃうよ?」

「次も来るから大丈夫。ほら、閉まる」



画材を受け取った私は涼に背中を押されて電車へと押し込まれた。

振り返ると同時に電車の扉が閉まり動き出す。

私はもう、涼の顔を見れなかった。
月日が流れるのは当たり前。

それが速く感じるか遅く感じるかはその人次第だ。

人間はその月日の中で成長していく。

良い方向にも、悪い方向にも。

僕の場合、どっちに成長してくれたかな。

良い方向だったら…嬉しい。

その前に僕自身人間かわからないけど。

でもそんな望み通りには行かないよね。

今、あの女の人は何をしているんだろう?

今、あの男女は何をしているんだろう?

白く霞んでいる記憶の中の顔部分は僕には誰だかわからなかった。

でもあの苦しかった日から時々声が聞こえてくるんだ。



『お誕生日おめでとう』

『コスモスだよ。ちょうどこの季節にも咲いてるんじゃないかな』

『そうか。ちゃんと躾されているみたいだ。それじゃあ失礼するよ』

『勿論、条件は従うさ。一方的に借りるのは良くないことだからね』

『君は想像できないほどの膨大な金を対価として払った。君は、ご両親に売られたんだ』

『次起きる時はきっと、嫌なことは忘れてる………』



ほとんどが男の人の声で再生されるけど、僕には何のことかわからなかった。

記憶を辿ろうとしてもモヤモヤと霧がかかって疲れるだけ。

もう、何の言葉か考えるのも辞めてしまった。

今頭の中で考えていることと言えば苦しい感情だけだ。

呼吸がしづらく肺が痛い。

前もがき苦しんだ時よりではないけど、着々と自分が弱っていっているのを感じていた。

そんな僕を見て白衣の人達は初めてベッドを与えてくれて、僕はずっと動くこともなく横になっている。

初めてその人達の優しさに触れた気がした。

そういえば桜ちゃんが最後に来たのはいつだろう。

前は頻繁に顔を合わせていたのに、最近は白衣の人達しか会わない。

桜ちゃんはいつ来てくれるのかな。

海、連れて来られなかったのかな。

僕は別に怒らないし、約束破ったなんて言わないのに。

会いたい。

会って、手を握ってほしい。

あの暖かさは僕には無いものだから。



「ゲホッ、」



次、桜ちゃんがここに来てくれたらどんな表情を見せてくれるかな。

「お久しぶりです」と言って笑うのか。

それとも反対に「ごめんなさい」と言って悲しむのか。

もしかしたら僕の姿に驚くかもしれない。

どちらにせよ、僕は早く、貴方に会いたい…。

そんな願いを込めてまた目を瞑った。
8月23日。

私は自分の部屋の片隅で四つん這いになって絵を見ていた。

床に置かれた1枚の海。

たぶん今までで1番神経と時間を使った作品だ。

現在は乾かしている途中なのでいじることは出来ない。

海は一面に広がっている。

同じ場所にあった砂浜と空はわき役的な存在になってしまった。

私はもう少し太陽の光が当たる場所へ移動する。

明日、これを青年に渡す。

この夏休みの一大イベントだ。

しかしその前に私はやる事があった。

絵を置きっぱなしにして部屋を出る。

そして2階の端にある扉を叩くと聞きなれた声が返事をした。



「入るよ」

「ああ」



お父さんは扉を開けてくれて私を招き入れる。

この部屋にはほとんど入った事がないけど、以前見た時より物が圧倒的に少なくなっていた。

いや、少なくしたのだ。明日のために。



「自分の準備は出来たか?」

「うん。大体の荷物は送ったから。おかげさまで部屋が広くなって絵が早く乾くよ」

「そうか」



少し嫌味を含めて言った言葉はあまりお父さんには刺さらなかったらしい。

また私はお父さんの部屋を見渡した。



「元々物少なかったの?」

「そうだな。必需品以外は置かなかった」

「ふーん」

「…普通なら、家族写真くらい置くのにな」

「何今更。別に普通じゃないから良いでしょ」

「桜は撮りたいと思わないのか?」

「思わない」

「そうか」



嘘だよ。何度思ったかわからないよ。

中々一緒になれないお父さんの側に、写真ならずっと一緒にいれるから。

でも本当に今更だ。

現実は犯罪者の父と、その血を引く娘の肩書き。

そんな写真は地獄絵図だろう。

私は冷たい言葉で突き返して答えた。

もう、貴方と撮ることは出来ないという気持ちを込めて。



「明日は9時に始まる予定だ。でもあくまで予定だが、頭に入れておけ」

「うん」

「……彼には何も言っていない」

「それが良いんじゃない?」

「言わない事を反対しないんだな」

「同じ血を引いてるからね」

「……そうだな」

「冗談だよ。血は同じでも私はお父さんと違うから。外見も、内面も、考え方だって別物」



あからさまに落ち込む声で話す物だから私は慌てて弁解する。

冗談くらいわかっていると思うけど、やはり娘に言われるとダメージが大きいようだった。

お父さんは何も言わずに私を見つめる。

怒ってしまったのだろうか。

少し調子に乗りすぎたかもしれない。

私は顔色を伺うように覗き込む。

すると私の頭に手を伸ばされた。
しかしその手は頭に乗ることなくお父さんの元へ戻っていく。



「何したかったの?」

「…撫でようと思った。しかし私に撫でる資格はない。それにこの手は汚れている」

「私は、、構わないけど。だってしばらく会えないんだし」

「ダメだ。私自身が許せない」

「そう…」

「桜は私をまだ父と呼んでくれるのか?」

「えっ、何で?」

「先程普通に言っていたからな。桜は私の娘だ。しかし私自身を桜の父親とは言えない」

「本当自分に厳しいよね」

「厳しいかどうかの問題ではない。…当然の事だ」



お父さんは1回、目を静かに閉じてまた開ける。



「だからもう、お前とは会えないだろう」

「……」



片隅ではわかっていた。

しばらく会えないのではなく、2度と会えないだと言う事を。

でもそれを認めたくなくて都合よく私の中で変換していた。

でもお父さんがそう言うのなら、もう会うことは無いのだろう。



「桜」

「うん?」

「私は何もお前に捧げてやれなかった。それなのにお前は私に何度も幸せをくれた。……最後に欲しい物はあるか?」

「欲しい物…」

「金でも今の私に出来ることなら何でもやろう。私の命が欲しいのなら喜んで差し出す。それが私からの最初で最後のプレゼントだ」



私は背の高いお父さんの目を見つめる。

必然的に上を向くことになるが、高校生の今なら中学生、小学生、幼稚園児の時よりはマシになっているだろう。

それでもお父さんは大きい。

私は体をちゃんとお父さんに向けた。



「抱きしめて、頭撫でて」

「……それは…」

「何でもするんでしょ?」

「桜はいいのか?」

「大丈夫。やるのは一瞬だけ。そしたらお父さんが触れた部分は皮膚が痛くなるまで洗うし、この服は捨てる。そうすれば何も残らないでしょ?」

「…そうだな」

「それじゃ…よろしく」



了承を得ても私はその場に立って動かない。

お父さんも動かなかった。

数分の時が流れて、お父さんは首を傾げる。

私は呆れたようにため息をついてしまった。



「今だけは普通になりたいの。…腕広げて、おいでくらい言ってよ…」

「そ、そうか。……桜おいで」



やっと腕を横に開いてくれたお父さんに顔を緩ませて抱きついた。

控えめに背中へと腕を回すお父さん。

それに反するように私は腕に力を入れた。

ゆっくりと壊れ物を扱うように頭を撫でられる。

2回ほど触れられた後、その手は降りていった。



「ありがとう」

「ああ、」



宣言通り一瞬で離れる。

私は微かに残るお父さんの香りと暖かさでまた笑った。



「私が離れたら、桜が思う良い人に沢山笑わせてもらえ。桜の笑顔は花のように綺麗だ」

「ふふっ、初めて言われたよ。もしかして桜って名前はお父さんが付けたの?」

「よく使われる名前だけど、私が好きなのは桜の花だからな。一瞬で過ぎ去る季節を可憐に咲く姿は愛おしい」

「私は一瞬だけじゃないよ?」

「人は、一瞬という名の永遠を生きるものだ」

「科学っていうか文学だね」

「そういうのは秋菜が好きだったんだ」

「お母さんが…」

「さて、私はそろそろ出て行くよ。鍵は閉めておく。明日の朝出る時も一応閉めておいてくれ」

「うん」

「それじゃあな」

「うん」



お父さんは最後の1つのカバンを持つと、後ろにいる私を振り返ることなく部屋から出て行く。

明日会えるかはわからない。

もしかしたら今この瞬間が最後かもしれない。

それでも私はお父さんの後ろ姿を引き止めなかった。

だって、お父さんはこれから新たに人を殺すのだから。
8月24日の朝は快晴だった。

連日の雨が嘘のように晴れ渡っている。

私は部屋のカーテンを開けてその眩しさに目を細めていた。



「……よし」



着替えも終わり、ただ1つの持ち物の絵を巻いて大切に抱える。

この海は私の最後の作品だ。

もう2度と絵は描かないと決めた。

そのため画材も捨てたし、風景画の描き方の本だって処分した。

だからだろうか。

この絵が1番大切に思えてくる。

私は絵を片手に持ち替えて玄関へと歩き出す。

あらかじめ貴重品などは昨日の夜のうちに今日泊まるホテルへと、才田さんの力を借りて持って行ってた。

なので部屋の中はすっからかん。

当然スマホも持ってないから今日の世間の情報を私は知らない。

でもそれで良かったかも。

余計な事を考えなくてすむ。

最後に部屋をぐるりと見渡して私は扉を閉めた。

階段をいつもよりゆっくり降りて行って私の最後の足跡をつける。

慌てて登ってスネをぶつけて泣いた時もあったな。

どの場所にも、どの家具にも最低1つは思い出がある。

私は玄関まで来ると1回深呼吸して靴を履いた。



「行ってきます」



家中に響いた挨拶は誰にも返してもらえなかった。

そのままの足で私は家の前に停まっている車に乗り込む。

運転席には才田さん。

助手席に座ってシートベルトをするとすぐに車を発進してくれる。



「荷物はこれだけ?」

「はい」



才田さんは私が持ってきた、ただ1つの絵をチラッと見て言った。



「今日中なら自由に動けるから何か足りないものがあったら言って?明日からはバタバタすると思うけど…」

「わかりました。その時は言います」

「うん。…眠れた?」

「全く」

「だよね」



笑って返す才田さんの目の下には少しクマが出来ている。

当然私も目元は薄っすら黒く染まっていた。



「才田さんは、これからどうするんですか?」

「うーん…。まだ明確に決まってないけど、とりあえず実家に帰るかなぁ。桜ちゃんは?」

「お父さんのおじいちゃんとおばあちゃんの家に行きます」

「じゃあ転校になるのかな?」

「はい」

「そっか」

「でも大丈夫。話を聞く限り、小さな学校らしいので人数も少ないみたいです。大人数が嫌いな私なら馴染めると思います」

「なら良かった。でもなんかあったらすぐに連絡してね?お姉ちゃんと約束」

「はい。約束します。でもそれはお姉ちゃんにも言えることだから…」

「ふふっ、そうだね」



私達は指切りはしてないものの、固い約束を交わす。

お姉ちゃんが出来たのはこの手伝いで数少ない良かったところだ。

私は運転をして前を向いている才田さんを見てそう思った。



「そろそろ着くけど、準備はいい?」

「はい。大丈夫です」



才田さんが運転する車は研究室のある真っ白な建物の駐車場へと入って行った。
車から降りるといつものように建物の中に入って受付を通る。

今日はあの2人組のお姉さん方は居なかった。

才田さんはエレベーター前に着くと首から下げていたカードをかざす。

全ての動作がいつもと同じ。

でも心の中はモヤモヤとした何かが渦巻いている。

下に降りて行くエレベーターと同じように私の気分も下がって行った。

扉が開いたと同時に才田さんと並んで真っ直ぐの廊下を歩く。

その奥の扉の前でまたカードをかざして、パスワードを入力すると機械的な音を鳴らして横に開いた。



「ここには誰も居ないから」



才田さんはそう言って奥へと進む。

私はパソコンが置かれている部屋を見渡すが本当に1人も研究者は居なかった。

そして前を向いて青年がいる部屋の大扉の前に立つ。

才田さんは横にある機械を操作し始めると私の方に顔だけ向けた。



「彼が最後に会うのは桜ちゃんよ。窓を叩く音がした10秒後に薬が自動的に投入される。そこで離れるか、最後を看取るかは桜ちゃんが決めて」

「…はい」

「開くね」



説明がし終わると同時に重い音が鳴り響いた。

私は完全に開ききった扉から前を見る。

真っ白な部屋の中央には、ベッドに横たわっている青年がいた。

1歩、1歩としっかり床を踏み締めて近づく。

今回は大扉は閉まらなかった。

私はベッドに近づくと目を瞑っている青年の手をそっと握る。



「……あ…」



冷たい手が私の体温で温められていくと同時に青年の目が覚めた。

顔だけ横を向いて薄っすら開けた目で私を認識しようとしている。



「桜です」

「さ、くら、ちゃん…」



前よりも途切れ途切れになっている青年の言葉。

私は床に膝をつけてなるべく青年と目線を合わせようとした。

やっと綺麗な青い目が見れて私は微笑む。



「こんにちは。会いたかったです」

「ぼ、く、も…」



目を細めて笑ってくれる青年。

私は改めて体全体を見るとありとあらゆる所に管が繋がっていた。

これも全てお父さんが…と思うと自然と握ってない手に力が入る。



「今日は約束を守りに来ました」

「うみ……?」

「はい。海を連れて来たんです。良かったら見てくれませんか?」

「う、ん」



青年も覚えてくれていた約束。

私は嬉しくなって手を離し、絵を広げようとする。

しかし離した途端青年の手は動き出す。

まるで何かを探しているように。



「どうかしましたか?」

「て……」

「あっ、はい」



私の手を探していたようで咄嗟にまた手を握る。

すると安心したように表情を変えてくれた。

左手は青年の両手によって包み込まれているので私は右手だけで輪ゴムを外して絵を整える。

ちゃんと広げられるように逆に巻いて真っ直ぐにした。



「見れますか?」

「う、ん…」

「はい。これが貴方と私の海です」



私は布団を被っている青年のお腹に絵を立てて海を見せた。

みるみる口角が上がる青年。

私はそのリアクションだけで満足だ。

青年の右手が離されてなぞるように絵に触れようとするが、画用紙に指が触れる前に止まった。

私はその様子に笑ってしまう。



「今回は乾いてるので大丈夫ですよ?前のこと覚えててくれたんですね」



そう言うと止めた手を伸ばして画用紙に直接触れた。

以前、乾いてない絵を触れようとした時に私が注意してしまった事を覚えていたようだ。

なんだかその様子が可愛くて私の顔は綻ぶ。

青年は海をなぞるように人差し指を動かした。



「きれ、い…」

「ありがとうございます。特にここ…波の部分を意識しました。今にも連れ去ってくれそうでしょ?」

「うん…」



青年は夢中になってなぞる。

これで約束は果たせたのだ。

頑張った甲斐があった。

青年は一生懸命に海を描く。

これは青年と私だけの海辺だ。
少しずつなぞっていた青年の指が急に止まる。

私はその理由がわかった。

ある場所へ辿り着いたからだ。



「こ、れ…?」



青年が指差して私に問いかけるもの。

それは画用紙の1番端に描いてある2つの花だった。



「コスモス、そして桜の花びらです」

「……!」



目を丸くして私を見る青年。

私は微笑んで青年の手を優しく掴むとコスモスに持って行った。



「前、花の事を教えてくれましたよね?名前はわからなかったけど、どんな花かって言うのを」



青年はコクリと頷いて興味津々で花に触れる。



「貴方が言っていた花の特徴で私の回答を見つけたんです。これが正解かわからないですけど…」

「な、、まえ…?」

「コスモスです」



私がそれを言った瞬間に青年の目から涙が一筋流れた。

私は驚いて何も言えなくなってしまう。

涙の筋を流し続けても青年は優しく花に触れていた。



「コス、モ、ス…」

「はい」



青年の涙は枕を濡らしていく。

なぜそこまで泣くのかは私は知らない。

それでも私まで涙が移りそうになってしまった。

でも今は泣く時ではない。

目に力を入れて堪える。



「私は薔薇が好きって言ったんですけど、やはり自分を表せる花は桜だなって思って。コスモスは貴方。桜は私。だから2人だけの海なんです」

「う、ん…うん…」



やっと私の方を向いてくれた青年は画用紙から右手を離してずっと握っている私の左手に添えた。

立ててある画用紙を離すわけにはいかないので私は両手で包み込めない。

もう1本だけ腕があったらなと思ってしまった。



「この絵はあげます」

「いい、の…?」

「勿論。約束は貴方の元に海を連れてくるだったので」

「ありが、とう…」



震える口角を上げながら青年は笑う。

その際にまた涙が溢れた。

青年は私を見ながら小さな声で話す。

一言も逃さないように口の近くに耳を寄せた。



「ぼく…なに、もあげ、られ、な…い」

「そんなの良いです。喜んで貰えるだけで私は嬉しいので」

「でも…」

「……それなら私がこれから言うことをしてもらえますか?」

「う、ん…」

「…もう少し、待っててください……」



私は遂に画用紙から手を離して青年の両手を重ねるように握る。

お互いの体温が心地よい。

私は目を閉じて青年の手から伝わる冷たい体温を感じていた。


コンコン



窓を叩く音が鳴る。帰る時間だ。

残り10秒の時。

私は目を開けると青年はジッと見ていた。

きっともう私だけが帰る時間だと思っているのだろう。

違うよ。貴方も帰る時間だよ。

私は両手を青年から離した。

残り8秒。

私は青年の耳元へ口を寄せる。

残り6秒。

口から小さく息を吸い込んだ。

残り4秒。

私は青年に呪いの言葉を吐いた。



「死んで」



残り2秒。

青年は驚いたように私を見る。

次の瞬間、顔を顰め始めた。



「うううう、っ」



私は耳元から口を離して目を瞑る。

この空間には青年が苦しみ、荒い呼吸になる音しか聞こえなかった。

私はそれを聞き続ける。

まだか。まだか。早く終わってくれ。

早く…死んでくれ。

段々と耳に入ってくる声が細くなっていったと思ったら青年の声は聞こえなくなった。

私は目を開けて、目の前に寝ている人を見る。



「これで、私も犯罪者だよ…」



もう青年には聞こえない。

私が目を開けたと同時に閉じたのだから。

青年の左手はベッドから垂れ下がっている。

もしかしたら最後まで私の手を探していたのかもしれない。

でももう終わったのだ。

私は立ち上がって青年の亡骸を見下すように見た。



「貴方の事…たぶん好きだったと思います。友達が言っていた好きの感情が私の中にあったから」



返事は帰って来ない。

私は青年に背を向けて歩き出した。



「せめて、貴方の名前が知りたかったな…」



振り返ることなく、そのまま開きっぱなしの大扉を通る。

青年はもう動かなかった。