「ずるいです。大人だから大丈夫って言わないでください。私は…これでもちゃんと考えているつもりです」
「…本当に?」
「はい」
「そっか。無駄な心配だったね」
私の頬から手がゆっくりと離れて行った。
しかし私がその手を掴む。
驚く表情をする才田さん。
私はそれでも離さなかった。
「私は、才田さんをお姉ちゃんと思っています。何かあったら協力したいんです。初めてこんなに私を可愛がってくれた人だから…」
最初よりもギュッと手を握って才田さんに伝える。
お父さんがかけてくれなかった言葉を才田さんはこの少ない期間で沢山言ってくれた。
姉を通り越して母親みたいな発言だってした。
でも私はそれが今でも嬉しく感じる。
さっき私を見つめて言った言葉だってお父さんからは貰えなかった心配の言葉だった。
年が近くても、血の繋がりがなくても、私は才田さんを家族のように思っている。
その気持ちを伝えるようにずっと手を握っていた。
「いこう」
「さ、才田さん!?」
私の手を離して急に立ち上がった才田さんはすぐさまお会計をしてお店を出る。
突然の行動に私は戸惑ってしまって、後ろをついて行くことしか出来なかった。
「乗っていいよ」
「わかりました…」
車に着くと助手席の扉を開けてもらって私は中に入る。
運転席に回った才田さんは、座って腰をかけると深呼吸をするように顔を上に向けた。
「あーもう…」
目を両手で押さえて耐えるような声を出す。
泣くのを我慢しているのだろうか。
それでも手の隙間から流れ出た涙は頬を伝っていた。
「流石にお店で泣けないよ…。正直言って結構悩んでた。好きだから始めた仕事を強制的に辞めさせられるなんて思いたくなかったから…」
震え声の才田さんはただ上を向いて喋る。
私は黙って見ている。
今は私から話すタイミングではない。
それはちゃんとわきまえていた。
「もう出来ないんだとわかっちゃった瞬間から自分に穴が空いた気がしたの。本当、どうすればいいんだろうって。…でも私よりも桜ちゃんの方が絶対辛いはずだから、、。だから連れて来たのに、私の方が励まされちゃった」
才田さんは手で涙を拭ってやっと私を見てくれた。
私は微笑んで頷く。
目が赤くなっている才田さんの姿は子供大人関係なく、普通の人だった。
「……お姉ちゃん」
「なぁに?」
「私のお願い聞いて欲しいの」
今1番願う、たった1つのお願い。
それはきっとお父さんではなく、才田さんにしか出来ない頼み事。
才田さんは私に話してくれた。
私もそれに返すようにケジメをつけよう。
「彼の……あの人の最後の日、最後の瞬間、私に会わせて」
私がその想いを伝えるのはきっと確定していたんだ。
それは私だけじゃなくて、少なくとも隣にいる才田さんもわかっていた。
驚く事なく才田さんは手を握る。
何回目の重なりだろう。
でも私は嫌なんて思わなかった。
むしろこの優しさをずっと感じていたい。
「8月24日。それが安楽死を実行する日になっているけど、桜ちゃんは耐えられる?」
「…耐えられない。けれど、私は会いたいです」
「うん。いいよ。妹のお願いならなんでも聞いてあげれるから」
私は手を握り返す。
2人の手は少し冷たさもあったけど、重なれば体温が上がった。
「それなら私は桜ちゃんを家に降ろした後、研究室に向かう。社長と話し合ってみるよ。でも安心して。絶対お願いは叶えるから」
「はい。…ありがとう、お姉ちゃん」
「うん」
私と才田さんはシートベルトをして車を発進させる。
まずこの車が向かうのは、私の家。
私は24日までにやる事がある。
学校の課題が疎かになっても構わない。
それ以上に大切な事だから。
才田さんの車は来た道を引き返すように進む。
助手席に乗って前を見つめる私の目は真剣だった。
ーーーーーー
「決まったら連絡するね」
「はい。よろしくお願いします」
「任せて」
ドア越しに才田さんと約束を交わすと、私は車が見えなくなるまで立っていた。
完全に姿が消えたところで動き出して家の中に入る。
行きとは違い私の心は強く固まっていて、目の腫れも治りつつあった。
才田さんの言葉と少しの時間で私は冷静になれている。
家の中にはお父さんは居なく、私はリビングを通り越すと部屋へ駆け上がった。
「…あった」
部屋に投げてあった筒状に丸められた絵。
昨日涼が届けてくれたものだ。
まっすぐに整えて、掲げてみると全然未完成。
実行日まで約1週間。描けるか?
「描けるよ」
自分で問い、自分で答えを出す。
私は絵を机の上に置いてスマホを持つと涼のトーク欄をタップした。
【聞きたい事があるんだけど、電話してもいい?】
【いいよ〜】
相変わらず返信が早くて助かる。
この時ばかりはそう思った。
私は早速涼に電話をかけると、すぐにだらけたような声が聞こえる。
「何〜?」
「帰省中にごめん!どうしても聞きたい事があったの。この前行った海の場所を教えて欲しい。できれば道とか乗る電車とか!」
「な、何急に。その前に俺まだ福島じゃないんだけど」
「はぁ?昨日、お父さんに言ったのは営業トークだったわけ?」
「ちげーよ!ほら、今日の夜から雨がやばくなる予報だろ?ちょうど帰省から帰る時にはもっと凄い雨になるらしくてさ。延期になったんだよ」
「雨…?」
「ニュース見ればどこでもやってるぞ?大荒れの天気だってさ」
「嘘でしょ…」
涼からの情報では私は頭に手を当てる。
こんな時に限って雨予報。
しかも大荒れ。
これじゃあ海に行って絵を描くことは出来ない。
「てか、海行きたかったの?」
「絵をどうしても完成させなきゃいけないの。24日までに」
「24だと雨と被ってるなぁ…」
「どうしよう…」
「流石に雨の中では無理だよな」
「うん…」
「んじゃあ今から行くか?」
「え…」
「雨は夜からだから間に合うはず。とりあえず晴れているうちに写真撮っていればそれ見て家でもかけるだろ?桜がいいなら案内する」
「でも」
出来るならそうしたい。
今は正午を回ったばかりだから時間はまだある。
でも私の事情で涼に迷惑をかけてしまうのではないか?
言葉が詰まっていると涼が呆れ声で話しかけて来た。
「もう、行くぞ。15分後に駅集合。じゃあまた後で」
音がなったと思ったら電話を切られていた。
いつもなら愚痴を言うけど、今日は涼の勢いにお礼を言いたい。
ああいう風に言ってくれなかったらきっと今でもダラダラ悩んでいただろう。
私は大きなバッグに画材と画用紙を丁寧にしまう。
ある程度の荷物も持って、部屋から出た。
駅までは10分あれば着ける距離だ。
私は少しでも早く、と思い玄関から出ると鍵をしめて小走りで駅へと向かった。
少し息が上がって着いた駅。
私が周りを見て涼を探すと後ろから肩を掴まれる。
誰だかわかっているから安心して後ろを振り返ると、私と同じように息が上がっている涼がいた。
「はぁ、はぁ、行くぞ…」
「ふぅ、了解」
私達の状況を知らない人ならなんだこいつらなんて思われてしまってもおかしくない。
2人して息を切らし、髪がボサボサになっているのだから。
しかしそんなのも気にせず、すぐに来た電車に乗り込んで私達は窓際に立つ。
今は午後だから当然乗っている人は多かった。
押し潰させるように私と涼は人に寄せられる。
「ごめん」
「大丈夫。こればかりはしょうがないから」
「ああ」
涼の顔はほんのり赤い。
それもそうだ。
私のことを好きでいてくれるのだから。
しかしその返事もまだ返していない状況。
昨日家に来た時も、面と向かってその話は出なかった。
まぁお父さんがいたからというのがあるけど。
目の前にいる涼は私が苦しくないようにスペースを腕で空けてくれている。
そういうところは優しいなとは思っているけど、好きの感情なのかはわからなかった。
すると涼の手が私の手に触れる。
「持つ」
「ありがと」
下げていた画材達をそっと持ち上げると私と持つのを交代してくれた。
人が周りにいるので会話は最低限だったけど、涼が前に居てくれるのには安心感がある。
後でお礼をしないと、と私は頭の中で何を奢ろうか考えながら段々と変わってくる景色を見ていた。
海の最寄り駅に着くと、あの時の思い出が蘇る。
奇跡的に家に帰れたあの日だ。
でも今はそんなことを考えている場合じゃない。
絵の事に集中しなくては。
涼が私の前を歩いて道を案内してくれる。
こう考えると複雑な道をよく通って帰れたなと自分に感心した。
しかしまた私は頭を振りかぶって余計な考え事を消す。
「少しずつ曇ってきてるな…」
「早めに行って早めに帰ろうか」
「それがいい」
私の言葉で2人して歩くスピードを速くする。
さっきまでは明るかった空は雲が多くなってきた。
雨降りまでとは行かないけど、この天気が酷くなれば絵も描けないし、綺麗な写真だって撮れない。
下書きは描けているのだから後は塗るだけ。
でも1番良い状態の景色を見なくては海を連れて来れない。
何としてでも海を青年の元へ連れて来たいのだ。
「涼、走ろう」
「えっ、桜!?」
私は小走りからちゃんと走り出す。
下り坂なのでそこまでスピードを出さなくても速く降りれた。
「俺荷物あるんだけど!?」
「お願い!時間と天気の勝負なの!」
「わかったわかった!」
涼は画材を抱えながら私の少し前を走る。
やっぱり運動部だなと思いながら着いて行った。
息がまた上がってくるが関係ない。
今日だけで筋肉痛になってしまいそうだが関係ない。
約束はちゃんと果たしたいから。
「大丈夫か!」
「平気!そろそろ?」
「ここを真っ直ぐ!」
滑るようなスピードはどんどん加速する。
でも足元には気をつけながら走るからずっと下を向いていた。
私が涼の言葉に顔を上げると一面の海が見える。
堤防付近の階段まで進むと一旦止まって息を整えた。
「ふーっ、大丈夫か?」
「だ、大丈夫だって……」
「顔死にそうだけど」
「大丈夫…!絵を描かなくちゃ…!」
「…そうか。ちょうどそっち側だ。俺達が前座ったところ」
涼の指が指し示す方向を見て私はそこへ向かう。
後ろから涼もついて来た。
横に広がる海を見ながら良い場所を探す。
この天気だからだろうか。お客さんは10人も居なかった。
「桜、急に波が高くなったらヤバいから堤防で描けよ」
「わかった」
私は堤防の上に座って涼から画材を受け取る。
すぐに準備を始めて、画用紙を板の上に貼り付けた。
前の途中だったから絵の具が固まっている。
あらかじめ持って来ていたペットボトルの水で溶かして元に戻した。
私は無言で描き始める。
「……」
「……」
波の音、風が木々を揺らす音。
あの時は耳に入らなかった音がダイレクトに聞こえてくる。
筆を動かせば動かすほど、この絵の世界に溶け込んでしまいそうだった。
涼は黙って絵を見つめたり、遠くを見たりしている。
申し訳ないと心で謝って私は海を時々見ながら自分の海と対話した。
「……ありがとね。着いてきてくれて」
「別に。暇だったし」
「それでもありがとう」
「…それは誰にやるの?随分とこだわってるようだけど」
「誰に…?関係性は何て言ったらわからないな。強いていえば話し相手」
「友達とかじゃなくて?」
「うん。話し相手」
「それなのにわざわざ絵を描きに?」
「…亡くなるの」
「えっ」
「もうすぐ亡くなるの」
「…そうだったんだ。なんかごめん。ズカズカ聞いちゃって」
「ううん。大丈夫」
私は堤防の上に座りながら絵を描き、涼は堤防の下に立って背中を預けていた。
潮風が私の髪を揺らす。
時々落ちてきた髪を耳にかけながら、私は広がる海と自分の海を見比べる。
「あのさ」
「何?」
「夏休み終わるくらいに花火大会あるの知ってる?」
「毎年あるやつでしょ?」
「一緒に行ってほしい」
涼は海とは反対方向を見て私に言った。
その言葉に筆が止まる。
よくよく考えれば24日を過ぎればあの家には居られなくなる。
ほとんど会ったことのないおじいちゃんとおばあちゃんの家に行くのだから。
それも全部お父さんのせいで。
そしたら必然的に涼には会わなくなってしまう。
私は一瞬だけ涼を見てまた画用紙に筆を走らせた。
「約束は出来ない。お父さんが……忙しくなるの。その関係で自由に動けない」
「…そっか」
「…あのさ、涼はなんで私なんかを好きって言ってくれるの?」
「好きだと思ったら好きって言うだろ。人間なんて衝動的なんだからさ」
「他にも良い子がいるよ」
「桜は好きになったことあるの?」
「誰を?」
「誰かを」
どんな感情かもわからない涼の声に耳を傾けながら悩む。
思い返してもそんな感情は生まれなかった。
その前に私は好きの感情がわからない。
「好きになるとどんな感じなの?」
「ドキドキ?」
「それだけ?」
「バクバク?」
「どっちも同じじゃん」
ただ言葉を変えただけの涼の返事に私はフッと笑う。
また潮風が私の髪を下ろした。
「その人のためならどうでも良くなるんだよ。後先考えずに動きたくなる」
「それって友達にも言えるよね?」
「また違う部類。なんかこう……込み上げてくるっていうかさ」
「ふーん」
「桜が聞いてきたんだろ」
「涼も私を見ればそう思うの?」
「勿論」
「素直なこと」
すると涼は堤防から背中を離して体の向きを変えると、私が座っている真っ直ぐなコンクリートに腕を乗せた。
そして顔を腕の上に置くと顔だけ私に向ける。
「言っただろ?1回言えば何回だって言えるって」
「そうだったね…」
私は涼の視線を返せない。
段々と色付いていく画用紙は何だか暗く見える。
私は自分の表情を隠すように、落ちた髪を戻しはしなかった。
「なんか曇ってきたな」
私は顔を上げて空を確認する。
涼の言う通り、灰色の雲が多くなってきた。
「ここらで写真撮っておいた方がいいかもしれない」
「そうだね」
私は画用紙を貼り付けている板を置くと、前みたいに飛ばされないように重しを乗せる。
空いた手でスマホを持って海の写真を何枚か撮り始めた。
目で見るのと、写真で見るのとでは風景が全く別物になってしまう。
本当は実物をこの目で見ながら描きたいけど仕方ない。
雨の中描いたって綺麗な海の絵にはならないのだから。
「…うん。撮れた」
「それじゃあどうする?帰る?粘る?」
「この後の天気どうだろう?」
「俺の天気アプリだと2時間後から小雨」
「30分粘って良い?」
「良いよ」
涼の承諾も得た私はまた板を膝の上に乗せる。
出来るだけ目に海を写しておきたかった。
涼はずっとさっきの体勢とは変わらずにボーッと海を見つめている。
「天気が良いと綺麗なんだけどさ。こう、曇ってると何だか明るいのが欲しくなるよな」
「祈ってれば?」
「今更天気変えられねぇよ」
「もっと前だったら変えられたんだ」
「てるてる坊主作れば何とかなる」
「ふはっ、てるてる坊主って」
「笑うなよ。誰しも小さい頃は信じてたろ?……もっと綺麗な景色だったら良かったのに」
「そうだね」
私が動かす筆は力の入れ方に強弱をつけて色の濃さを変えていく。
大体大まかな所までは塗れた。
一旦海を見つめて、私の絵に何が足りないかを探す。
…波の色が少し薄いかな。
私は筆をパレットと画用紙を行き来させてまた塗るのを再開した。
「なんで海って花が咲かないんだろうな」
「何急に」
「今の海って天気のせいで寂しく感じるからさ、どうやったら眩しく見えるのかなぁって考えたら花が浮かんだ」
「だって砂浜に花は生えないでしょ」
「そうなんだけど…」
すると私の中である出来事が浮かんでくる。
思わず止めてしまった筆の部分は濃く色付いていた。
慌てて水で伸ばして色を薄くする。
「涼、質問なんだけど」
「んー?」
「薄い色で、周りにいっぱい咲いて、花びらは…5枚?それで木じゃなくて地面に生えているのって何かな?」
「何それ。そんなの沢山あるだろ」
「そうかもしれないけどさ」
「俺は花詳しくないから知らねぇ」
あっさり諦めた涼に対してむすっとした顔を向けた私。
すると涼はスマホを私に見せてきた。
「25分経過」
「後5分ある」
「空見ろ」
「あっ」
また顔を上にするとさっきよりも雲が暗くなっている。
私はため息をついて片付けを始めた。
「帰りもあるからな」
「わかってるよ…」
渋々動いて画材をしまう。
絵はクルクルと巻いて輪ゴムで留めた。
少し風も冷たくなっている気がする。
私は今更だけど、乱れた髪を整えた。
全ての荷物をバッグに入れて堤防の上から降りる。
そこまで高くは無いけど降りるのに恐怖が出るが、何とか無事降りれた。
画材のバッグを肩にかけると涼がそのバッグを引っ張る。
持ってくれるんだとわかったので私は素直に下ろして涼に渡した。
「ありがとう」
「次は上り坂だから走るなよ」
「さっきは急いでいたけど、今は急いでないから大丈夫」
「これ重いんだからな」
「沢山入ってるからね」
涼の隣に並んで来た道を引き返す。
下れば上り。
それは当たり前な事だけど、最初に走った私の足は結構辛かった。
涼は何ともない顔で歩いているから、ちゃんと運動をしている証拠だろう。
チャンスがあれば運動を始めてみるのもいいかもしれない。
最近お腹周りに肉が付いた気がする。
私は頑張って足を上げながら坂道と戦った。
「どっか寄り道でもするか?」
「涼何か食べた物ある?お礼に奢るよ」
「いや、いい」
「なんでよ。私の気が済まないから」
「好きな人から金は取れねぇよ」
「……」
本当に吹っ切れたみたいに私を好きと言ってくれる。
でも私はその言葉をどう返していいかわからない。
涼は今でも告白の返事を待っているのか。
そう考えるといつまでも答えを出さないのは失礼になる。
しかし自分の気持ちなんてわからない。
だから返事を焦らさない涼に甘えてしまう。
私は色んな人に甘えっぱなしだなと思った。
そういえば才田さんはどうなったのかな。
スマホには通知が来ていないからきっとまだ確定してないのだろう。
あの頼もしい言葉通りになってほしい。
いや、才田さんなら実現させてくれる。
今回ばかりは期待させてほしい。
「あっ」
色んなことを想っていると頬に水が流れる。
もしかして感情的になって泣いてしまったのだろうか。
昨日から泣いてばかりだから涙腺の制御が出来てないのかもしれない。
私は慌てて水を手で拭って目を擦ると涼も同じ声を出す。
「あー、降ってきたわ…」
私は目から手を離して空を見るとポツポツと水が落ちてくる。
また1滴、顔に付いた。
涙ではなく雨だったらしい。
「傘持ってる?」
「持ってねぇ」
「走る?」
「走るか」
涼と私の意見が一致したと同時に走り出す。
まだ完全に降っているわけではない。
でもこれから本降りになるはずだ。
上り坂を走るのはきついけど、雨で絵が濡れてしまったら元も子もない。
一応私に合わせてくれる涼の後ろを追って坂を駆け上がった。
「なぁ桜!」
「な、何?」
「青春謳歌してるな!」
「はぁ?」
「雨降りの中で走り抜けるって青春の塊だろ!」
「なんで今言うの!」
「今走ってるからだろ!」
雨の音でお互いの声が聞こえにくくなっているため、自然と声量が大きくなってしまう。
でもそれはちゃんと伝え合いたいという証拠だ。
人も歩いていないので私達は構わずに大声で会話する。
「俺もう満足したわ!青春謳歌計画!」
「それは良かったですね!」
「桜と一緒だから楽しい!」
「……またそんなこと言って…」
「何!?」
「うるさい!前見て!転ぶ!」
私は叱るように叫ぶと涼は笑って前を見た。
一応怒ったはずなのに、涼は何だか嬉しそう。
よくわからないなと思いながら絵を抱えて走る。
「駅付近になれば屋根あるから!」
「はぁ、はぁ、り、了解…!」
「大丈夫かー?」
「大丈夫だし!」
「何キレてんだよ」
時々私の方を振り返って笑顔を向ける涼は、言葉通りに青春謳歌を満足しているようだった。
しかしその笑顔は私を困惑させる。
自分自身は青春なんてものを持っているのかと自問自答した。
涼のように日々の生活を充実させたいとか、高校生らしい生活とか、考えたことない。
もし、私の中に涼のような思考があったら…。
また別の道を歩んでいたはずだ。
私の顔に雨では無い液体が流れた気がした。
ーーーーーー
駅前に着くと屋根があったので私達は速度を緩めて走るのをやめる。
雨は本降り近くなっていた。
ゆっくり歩きながら持っている絵を確認する。
「絵は大丈夫」
「良かった」
少し雨で濡れた部分があるけど、乾かせば問題ない程度だ。
駅のホームに入って私は真っ先に椅子に座った。
涼はそのまま歩いて時刻表を確認してくれる。
「…後5分後だな」
「OK」
「とりあえず最寄駅着いても雨がやばかったから傘買うしかないな」
「そうだね」
涼は待ってくれていた画材を椅子に置くと周囲を探索する。
あれだけ走ってもなお動ける体は凄いなと感心した。
何かを探すように顔を近づけたり、しゃがんだりしている。
「何してんの?」
「ちょっと探し物」
「落とした?」
「いや」
駅に着いたばかりなのに何を探しているのだろう。
他に人が居ないから多少変な行動をとっても問題はない。
私は涼から目を離して今も降り続けている雨を見ていた。
「桜」
「何」
「こっち来て」
「涼が来てよ」
「持っていけないから…ほら早く」
「もー何?」
私は走った衝動で疲れている重い体を立たせて涼の所へ行く。
ホームと線路の境目である黄色い線の前で涼はしゃがんでいた。
私は線の内側に立って涼が指さす方向を見る。
そこには花が咲いていた。
薄い色で、沢山の花が集まっている。
花弁は8枚。
ピンク色に染まった花達が雨に打ち付けられていた。
「コスモス…」
「あ、これコスモスなんだ」
「知らないで私を呼んだの?」
「だって特徴が似ていたからさ」
私は改めてまじまじとコスモスを見る。
花弁に付いた雨の雫は1滴ずつ地面へと落ちていく。
「あの人が言っていたのはコスモスだったのかな…?」
青年が最初に思い浮かんだ花。
それは青年しかわからないけど、私からの答えはコスモスだと確定してしまった。
「探していたのはコスモス?」
「たぶん…」
「花びら8枚だな」
「記憶があやふやだったの」
「まぁ見つけられて良かったわ」
「うん、ありがとう」
「今日はやけにお礼言ってくれるな」
「…感謝することがいっぱいだからね」
「そっか」
私達は雨を纏うコスモスを眺める。
線路のギリギリに咲いているコスモスは強く綺麗に咲き誇っていた。
「こいつらもスレスレで生きてるんだな」
「ふふっ、同じこと思ってた」
「だよな?こんな場所に咲いていたらハラハラする。いつか轢かれるんじゃないかって」
「でも綺麗に咲いてるね」
「別の場所に植えてやりたい」
「ダメだよ。この子達のお家はここなんだから」
「そこは俺が危険だからとかじゃねぇの?」
苦笑いする涼。
私は笑って返すと立ち上がってまた椅子に戻る。
涼も追いかけるように椅子に座った。
「もしさ、自分がやった事が相手にとって迷惑だったらどうする?」
「ん?どう言う事?」
「コスモスの話の続き。涼は危ないから移動させたい。でも私はここが居場所だから移動させたく無い。でもコスモス達は移動を望んでいるのに私が止めたせいであの場所に留まることになったらって考えちゃって…」
「あーなるほどな。俺なら潔く諦める」
「諦めるんだ」
「よく言うだろ?何でもかんでも思い通りには行かないって。それだよ」
「そういう考えね」
「それはコスモスの話にも言えるけど、俺の話にも言える」
「り、涼?」
隣に座っていた涼は私の椅子の領域まで身を乗り出して近づいてくる。
頬を触れられたと思ったら私の髪から流れ落ちた雨の水滴を拭いてくれた。
「どんな結果でも受け入れるよ。俺が今したい話…わかるだろ?」
「……うん」
やっと来たか…。
私は涼の行動には驚いたけど、その後の言葉については冷静に考えられた。
大体このパターンで望む答えは誰しもが同じ回答だろう。
YESかNO。
2択という簡単な問いでも、どちらかを選んだだけで結末が大きく変わる。
でも相手の事を考えれば答えなんて簡単に絞れる。
どうせ私はわかってないんだ。
これから知っても遅くない。
私はまだ頬に触れている涼の手をギュッと掴んだ。
「ごめんね」
手を私から離すようにして涼の元へ返す。
雨の中でもハッキリと聞こえたはずの声。
涼の表情を見れば伝えられたのもわかった。
「ありがとう」
「何に、対して…?」
「返事くれたから。その答えでも俺と居てくれたから。…普通に接してくれたから…」
涼の言葉を遮るように電車のアナウンスがホームに鳴り響く。
2人して黙った後、すぐに大きな音を立てて電車はやってきた。
私は立ち上がって電車に体を向ける。
「行こう?」
「ありがとう。でも俺はまだここにいる」
「えっ、何で?」
「余計なこと言っちゃいそうだからさ。…これ最後まで持てなくてごめんな」
涼は自分の下に置いてあった画材のバッグを私に押し付けるように渡した。
「でも電車行っちゃうよ?」
「次も来るから大丈夫。ほら、閉まる」
画材を受け取った私は涼に背中を押されて電車へと押し込まれた。
振り返ると同時に電車の扉が閉まり動き出す。
私はもう、涼の顔を見れなかった。