【完結】君は僕のストーリーテラー

連れて来られたホテルはシャンデリアが天井から下がって、周りを見渡せばソファからテーブルまでもが高級だとわかる場所だった。



「こっちだ」



男性は僕の隣を歩いて部屋へ向かう。



「食事はルームサービスを使うといい。後はゆっくり休んでくれ。お父さんには連絡しておくから。明日の朝、部屋に迎えに行くよ」



エレベーターが上昇する。

旅行でホテルに泊まった事は何回かあるけど、こんな高級なホテルは初めてだ。

その前に僕は高級という場所を知らない。

なんだか場違いな気がして肩に力が入る。

目的地に着いた音がすると同時な扉が開くと、男性はもうこの場所を知りきっているように迷わず歩き出した。



「ここが君の部屋だ。今日は色々あっただろう。疲れが取れると良いのだが…」



部屋の鍵を開けると男性は僕を先に中に入れるように横に立つ。

僕は軽く頭を下げて部屋に足を踏み入れた。



「す、凄い…」

「この部屋は夜景が綺麗なんだ。嫌なことも忘れさせてくれるはずだ」



目の前に広がるのは大きな窓の夜景。

そこから見える景色は自分がどれほど高い場所にいるのかわかるくらいに小さかった。



「あの、ありがとうございます…」

「良いんだ。それじゃあ私は失礼する。良い夜を」



僕の右肩をポンと叩くと男性は部屋から出ていく。

色々と不思議な人だなと思った。

僕は靴を脱いで早速大きなベッドに飛びつく。



「なんだこれ…!」



体がゆっくり沈んでまるで僕を包み込んでくれるようだった。

備え付けの枕も肌触りが良くてずっと摩っていられる。

もうこのまま寝てしまおうかと思うが今の自分の格好に気づく。

まだ着替えもしてなかった。

僕は首を振って考えてしまった事を振り払う。

しかし着替えは持ってきてない。

僕は部屋着がないからそこらじゅうのクローゼットや棚の扉を探るとバスローブが出てきた。

こんなの大人になる前に着て良いのだろうか。

でも今は着替えるしかない。

服を脱いでそこら辺にぶん投げると僕はバスローブに腕を通した。

ベッドのように僕を包む優しい感覚。

少し立ったまま余韻に浸っていると、部屋に音が響き渡る。

インターホンが鳴って僕は慌てて部屋の扉へ向かった。

男性が戻ってきたのだろうか。

僕はゆっくり扉を開けるとワゴンと共に来た男性がいた。



「えっ」

「ルームサービスを届けに参りました。それと海辺様からの注文の品もお持ちしました」

「は、はい…」



よくわからず扉を開けるとワゴンを押した男性が入ってくる。

しかし完全に中には入らないで、入り口の手前でお辞儀をするとすぐに去って行った。

僕もお辞儀をして扉を閉める。

ルームサービスなんて頼んで無い。

もしかしたら男性が頼んだのか。

それに海辺様…。

男性の苗字かもしれない。

僕はワゴンを押して部屋の中心まで戻ると、綺麗なテーブルの前に置いた。

蓋がしてあってそれを取ると、僕の目が大きく開く。  


「わぁ…!」



サラダ、スープ、パン、そしてステーキが乗せてあった。

何より凄いのはその隣にあるミニケーキ。

上に乗っているチョコには



『ーーくん。誕生日おめでとう!』



とチョコペンで書かれていた。

なんで僕の誕生日を知っているのだろう。

その前に今日が僕の誕生日っていうのがすっかり抜けていた。

嬉しくなって口角が上がる。

僕はこれまた高級な椅子に座り、料理をテーブルに並べる。



「いただきます……お誕生日おめでとう。僕」



美味しい。確かに美味しい。

全てが良い素材を使っているのが丸わかりだ。

でもなんだろう。心は満たされなかった。

お腹も味覚も嗅覚も全てが一流の虜になっている。

それでも心だけは何故か空っぽに感じた。

僕は次々と食べ進めながらも、よくわからない心情に頭を悩ませていた。
目が覚めると見慣れない光景に頭がおかしくなったかと勘違いしてしまう。

しかしすぐに覚醒して、ここは高級ホテルだと言うことに気づいた。

夢ではなかった。

正直夢であって欲しかった。

そうすればお姉ちゃんの事も全てが夢オチで終わってくれたはずだから。

でも現実は現実。

僕は1人で家にいるのが怖いから男性に連れてきてもらったホテルにいる。

慣れないバスローブがはだけていて上半身は裸同然の格好だった。

ふかふかのベッドを降りて時刻を確認する。

朝の7時前だ。眠れたと言えば眠れた。

しかしぐっすり眠れたわけではない。

でもこのベットじゃなければここまで寝れなかっただろう。

高級ベッドに感謝した。

そして僕はまた時計を見ると、目が大き開きシワが寄る。

今日は平日だ。そして学校だ。

どうすれば良いのだろう。

スマホなんて持ってないからお母さんに連絡ができない。

それに学校の電話番号だって知らない。

僕は慌て始める。

とりあえずバスローブを脱いで昨日の服に着替えよう。

急いでシャワールームに入り、昨日脱ぎ捨てた服達を着る。

連続して着るのには抵抗感があったけど、こればかりはしょうがない。

変えが無いのだから。

一瞬と言って良いほどの速さで着替えを終えると、インターホンが鳴る。

もしかして昨日のようにルームサービスの方が来たのかなと思って僕はシャワールームから扉へ移動した。

伺うようにゆっくりと開けるとそこにはスーツ姿の男性。



「あ…」

「おはよう。よく眠れたかな?ちょうど来た時にスタッフと出会したのでこれを運びに来たよ」



男性はワゴンを引いて僕の部屋に入る。

扉が閉まらないように抑える僕の横を通ると、部屋の中のテーブルまで運んでくれた。



「ありがとうございます」

「良いんだ。私の事は気にせずに食べてくれ」



何から何まで頼りっぱなしだ。

男性はテーブルに食事を並べてくれる。

僕は昨日の夕食と同じ椅子に座ると、その向かい側の椅子に男性が座った。



「昨日はよく眠れたかな?」

「ま、まぁ…」

「状況が状況だ。ぐっすりは眠れないか」



笑って男性は僕を見る。

そんなにジッと見られると食べづらい。

僕はそれを誤魔化すように男性に話をした。



「あの、昨日ケーキありがとうございました」

「せめてものお祝いさ。気に入ってくれたかな?」

「はい。とても美味しかったです。でもなんで僕の誕生日を…」

「前に君のお父さんから聞いたんだ。それなのに昨日は大変だったね…」

「い、いえ。お姉ちゃんが悪いわけじゃ無いので」

「今日は君をご両親の元へ送り届けよう。学校の事は心配しなくて良い。そう言うのは大人に任せておきなさい」

「はい」



僕が今質問したい事を全て言ってくれる男性にゾワっとする。

まるで心を見透かされたようで気味が悪くなってしまった。

僕は苦笑いをしながら食事を頂く。

朝食もとても美味しかった。

いつも食事を作ってくれるお母さん達には申し訳ないけど、素材が良いとどんな料理でも美味しいのだな。

僕はコーンスープを飲みながら、目の前に座る男性を見る。

今日も昨日と変わらずのスーツ姿。

今はジャケットを脱いでいるけど、ワイシャツもシワひとつない。

現在は足を組んで外の景色を眺めていた。



「あの…」

「ん?なんだい?」

「海辺さん…であってますか?」

「そうだ。海辺博貴(うみべ ひろたか)だ。スタッフから聞いたのかな?」

「はい。ケーキを持ってきてくれた時に」

「そうか。まぁ好きに呼んでくれ」

「はい」



海辺さんは微笑むとまた景色を見始める。

僕はチラッと景色を見て、また食事に戻った。
豪華な朝ご飯を食べ終えると、僕は海辺さんの後ろをくっ付いてホテルを出る。

海辺さんはもっとゆっくりして良いと言ってくれたのだが、僕は1秒でも早くお父さんとお母さんに会いたかった。

お姉ちゃんの状況を知りたくて。

ホテルを出ると真っ黒な車に乗せられる。

僕は助手席に乗るとまた緊張が走ってしまった。

僕は何回高級を味わうのだろう。

肩に自然と力が入りそうなのを抑えて僕は前を見た。



「それじゃあ出発するよ」

「はい。お願いします」



海辺さんは僕の返事に頷くとすぐに車を発進させる。

車なのに凄く静かなのが印象的だった。



「ーーくんのご両親は病院ではなく別の場所にいる。そこに向かうからね」

「はい。…お姉ちゃんの事って何かわかりますか?」

「生憎、私からは何も言えない。でも安心して欲しい。ご両親は君を待っている」



一瞬だけ僕の方を向いてそう言ってくれた海辺さん。

お母さん達が僕を待ってくれているという嬉しい感情の反面、お姉ちゃんの状態がどんなのかわからない不安が奥底から湧き上がっていた。

車は道路を進んで行く。

平日の朝なので、多少は混んでいる。

それでも海辺さんは安全運転のお手本と言えるくらいに丁寧に走っていた。

ちょっとした信号無視をするお父さんとは大違いだ。

それに運転姿はなんだかカッコいい。

僕の周りにはスーツを着る人がいないからなのか。

ピシッと決まった姿でハンドルを握るのは大人の男性だ。

僕はひっそりと憧れを持ってしまった。

いつか僕も社会に出たらこんな風に乗りこなしてみたい。

サングラスをかけてみたり、洋風の音楽に耳を傾けながら運転してみたり。

妄想は止まらなかった。



「海辺さんはお父さんのお友達なんですか?」



でも今の僕は優雅に程遠い。

静かには耐えられなくて、隣で運転している海辺さんに話しかけた。

僕の急な質問でも海辺さんは答えてくれる。



「友達と言っても親友とは言えないかな。感覚で言えば学校で同じクラスの人間くらいの距離だね」

「そうなんですね」

「ーーくんには親友と呼べる子はいるかい?」

「親友…。居ないですね。その前にそこまで親しい友達は…」

「そうか。失礼な事を聞いてしまった。でもそれも良いかもね」

「友達が居ないことがですか?」

「ああ。だって自分のことだけと向き合えるだろう?結局は友達と言えど他人になる。それに君はもう……」

「え?」



海辺さんの最後の言葉は前の方のクラクションで掻き消される。



「朝は困るね。イライラした人が音を鳴らす。こっちだって朝と言うものを頑張っているのに」

「そうですね…」



僕は最後の言葉を聞かなかった。

視線を斜め前にずらすと制服を着た学生が歩いている。

1人でいる人も、友達といる人も、これから学校に向かうのだ。

海辺さんが大人に任せろと言った意味はよくわからないけど、きっと今日は休むことになると言うのは理解できた。

色んな問題があるが、僕は登校している知らない人達に心の中でマウントをとる。

「今日、僕は学校には行かないんだぞ」と。
海辺さんが運転する車は大きくて白い建物の駐車場に止まった。

シートベルトを外して車を降りる海辺さん。

僕も同じように助手席から降りた。



「こっちだ」

「はい」  



案内してくれる海辺さんに着いて行き、建物の中に入ると受付には2人のお姉さんがいる。

綺麗なお辞儀をして迎え入れてくれた。

海辺さんは軽く手を上げてお姉さん達の前を通ると、エレベーターに乗り込む。

僕も置いていかれないように慌てて後を追った。



「もうお母さんとお父さんは来てるんですか…?」

「ああ。既に着いていると連絡があった」



エレベーターの表示が5階になると同時に音が鳴って開く。

スタスタと海辺さんは歩き出す。

すると長い廊下の1部にある扉を開けて後ろを歩く僕に手招きをした。

僕は入り口から顔の覗かせる。

そこには長テーブルの椅子に座っているお母さんとお父さんがいた。



「お母さん!お父さん!」

「ーー…」

「さぁ君はこっちに座りなさい」



駆け寄ろうとしたけど、海辺さんに静止されて僕はお母さん達の向かい側に座る。

その隣には海辺さんが座った。

こんなに長いテーブルなのになぜこの位置なのだろうと疑問に思ったが、どうでもよくなる。

だって会えたのだから。

向かい合ったため、2人の顔がよく見えるが顔色は悪かった。

僕は急に心配になって眉を下げる。



「結論は出せたかい?」

「……ああ」

「勿論、条件は従うさ。一方的に借りるのは良くないことだからね」

「……」



お父さんと海辺さんが僕にはわからない話をし出す。

すると海辺さんがスーツの懐から1枚の紙と万年筆を取り出した。

それをお父さんとお母さんの手元へ差し出す。



「サインを」



なんのサインだろう。

僕は目を凝らして紙の内容を読み取ろうとしたがよく見えない。

お父さんは差し出された紙をジッと見ていた。

海辺さんにサインを書けと言われても手は一向に動かない。



「お父さん…?」



僕がそう声をかけると一瞬肩を震わせ、僕を見た。

釣られてお母さんも僕を見る。

なんでそんな悲しそうな顔をするのだろう。

何を考えているかわからずに首を傾げた。

するとお父さんは僕から目を離してようやく万年筆を待つ。

そんなお父さんを心配する目で見るお母さん。

隣いる海辺さんは最初から表情を変えずに一点だけを見つめていた。



「書いたぞ」

「……確かに受け取った。それじゃあ2人はここで待っていてくれ。少ししたら案内役がくるから、その人について行ってほしい」

「わかった」

「ーーくんは私と一緒に」

「えっ、でも…」

「とても大事な話があるんだ」



先程まで無表情に近い顔だった海辺さんが僕に話しかけた時は少し柔らかい表情になる。

でも言葉には僕の意見を言わせないくらいに力があった。



「ーーくんのお姉さんの話なんだ。お父さん達は今混乱しているから私が代わりに話そう」



お姉ちゃんの話。

僕はその単語が出てきた時点で頷かずにはいられなかった。

しかしそれならば何故車に乗った時点で教えてくれなかった?

もしかしてさっきの紙に関係するのだろうか。

難しい話はわからない。

とりあえず僕は席を立って海辺さんと部屋を出る。

扉を閉める時、お父さんとお母さんの目が僕の姿を捉える。



「またね」

「……ああ、また」

「待ってるね」



僕は軽く手を振ってお父さんとお母さんがいる部屋の扉を閉めた。

海辺さんとエレベーターに乗って下に降りていく。

電光掲示板は地下まで下がっている事を教えてくれた。

もしかしたらこの時点でおかしいと気づけば結末は変わったのかもしれない。

でも今の僕の頭の中にはお姉ちゃんで埋め尽くされている。

さっきの部屋でお父さん達と居なかったのなら今は病院だろう。

それでも僕は聞きたかった。

なんの病気なのか。

お姉ちゃんはこれから普通に過ごせるのか。

海辺さんから逃げる選択肢なんて僕には1ミリもない。

地下に着くとエレベーターが無機質に開く。

出た先には1本の廊下だった。

真っ白な壁。

奥には扉が1つだけある。

海辺さんは僕を見ると人差し指を差してこっちだと教えてくれた。

僕は頷いて足を踏み出す。

海辺さんは隣をゆっくり歩いてくれる。



「……本当に聞いて良いのかい?」

「え?何がですか?」

「これからの話をだ。君にとっては酷い話になるかもしれないよ」

「酷い話なんですか?」

「それは受け取り方しだいだ。逆に嬉しい話に聞こえる場合だってある。どう思うかは人それぞれだよ」

「…聞きます。だってお姉ちゃんの事ですから。家族として、弟として、聞きたいです…」

「わかった。君のその純粋な気持ちに応えよう」



奥に佇む扉の前に来ると海辺さんはパスワードを入力する。

この時点でも全く疑わなかったのは、馬鹿を通り越すくらいの鈍さだろう。

僕はただ話を聞きたいだけなんだ。

開いた扉を2人で潜ると中はパソコンが何台も置いてある部屋だった。

人は誰もいない。

けれども1人で仕事をするには台数が多すぎるし、部屋も広い。

今は居ないだけだろう。

海辺さんはそんな部屋を見向きもしないで進んでいく。



「この部屋で待っていてくれるかな?」



パソコンが置かれた部屋のまた奥。

頑丈な鉄で出来た扉が僕を待っていた。



「私は準備がある。なに、心配する事ない。ちゃんと話すから」

「わかりました」



海辺さんを見てしっかりと頷く。

そんな僕を見て頭を撫でてくれた。

お父さんが撫でる時とはまた違う感覚だ。

優しくて、まるで壊れ物を扱うような触り方。

僕は重く開かれた扉と部屋の境界線を跨ぐ。

その部屋は一面が白の部屋だった。

さっきのパソコン部屋と比べて明るく感じる。

その中央にはテーブルと2つの椅子があった。

ここで話すのかと理解できた僕は片方の椅子に座る。



「……」  



海辺さんはまだ来ない。

それにしても眩しいな、この部屋。

なんでこんな部屋を選んだのだろう。

僕は机に肘を着いて手に頬を乗せる。

足をぶらぶらと揺らし待っていると、この部屋に海辺さんの声が響き渡った。



「やぁ。気分はどうかな?」 

「えっ、海辺さん…?」



扉は開いていない。

ピッタリと閉められている。

どこから声がするのだろう。

僕は周りをキョロキョロ見渡すが、姿は全く見えない。



「これは放送さ。スピーカーから流れている。面と向かって話すよりも、こうして話したほうが冷静で居られるからね」

「え……」  



その時、僕は初めて恐怖を持った。

思わず立ち上がってしまう。



「ーーくん。大丈夫。座りなさい」  



海辺さんの声はまるで強制的に命令をするかのように僕の耳を通る。

僕はそれに従うように座った。



「そうだ。話をするならリラックスが大事。それではトーク会を始めよう。ひとまず私の話を聞いてくれるかな?」



声も出なくなってしまった僕はゆっくりと頷いた。

それを見た海辺さんは



「良い子だ」



とまるで耳元で囁くように喋り出した。
「まずは君が1番気になっている事から話そう。お姉さんの状態だ」

「お姉ちゃん…」

「現在、ーーくんのお姉さんは意識がない。しかし死んでいるのではないから安心してくれ。簡単に言えば…植物状態に近いね」



植物状態。

それは無知な僕でもわかる事だ。

僕は椅子をガタッと鳴らしながら立ち上がってしまう。



「お姉ちゃんはいつ目を覚ますんですか!?」

「落ち着いてくれ。冷静に……ね」

「は、はい…」



また座った僕を確認したのか、海辺さんは話すのを再開する。



「いつ、目を覚ますのかはわからない。その前に目が覚めるかもわからない。もしかしたら明日死んでしまう可能性だってある。人間の運命っていうのは読めないから私から確定では言えないんだ」

「そんな…」



体が震え出した。

手足、肩、口。

まるで氷水の中に入れられたみたいに震える。

お姉ちゃんが目を覚さないのなら僕はどうすれば良い?

もう話せない。触れられない。

守ってくれない。

じんわりと目が潤ってくる。



「話を続ける。お姉さんの病気についてだ」

「……!」

「これは完全にーーくん達のお父さんとお母さんに責任がある。君達姉弟には特殊な菌を生まれ持った。それは未だに世間では出ていない。そしてこの菌を持った人は現在ーーくんとお姉さんしか確認出来ていない」



その言葉で僕は自分の手を見る。

まだ震えている手。

この中に特殊な菌があるのか…?

そんなの聞かされていない。

僕の目からは遂に雫が漏れ出した。



「私は君達が小さい頃から知っていた。君達の医師は僕の仕事仲間でね。情報が入ってきたんだよ」

「仕事…?」

「ああ、言ってなかった。私は科学者さ。海辺博貴という科学者。…また話に戻ろう。私は医師から君達の菌の話を聞いた時、調べてみたいと思ったのだ。いや調べなければ、だね。だから君のご両親に連絡を取った。それが私との繋がりの始まりだ」



淡々と話す声は余計に僕を恐怖に晒す。

何が嬉しいと思う可能性もあるだ。

こんな話ちっとも嬉しくない。

逃げたい。

僕は部屋を見るけど、鉄の扉以外出れる場所はない。

唯一窓のようなものがあるけど、それを破れるほどの筋力は持ってなかった。



「すぐにご両親に本題を話したよ。しかし2人は信じなかった。医師の力を借りても、調査の協力はしてくれない。一向に首を縦に降らなかったんだ。まぁそれが今回に結びつくのだけどね。もし、ご両親が協力してくれたら……お姉さんはこんな事にはならなかった」

「お姉ちゃんは……その菌のせい?」

「そうだ。君達を早く調べれば、早く特効剤が作れた。でもーーくんのせいじゃない。全てはご両親のせいだ」



この人の言葉の力は凄い。

僕を簡単に支配できる。

今、僕はお父さんとお母さんに怒りを持っていた。

2人が了承してくれたら、お姉ちゃんはあんな事にならなかった。

悪い菌を殺せるなら僕は喜んで参加する。

だって薬が作れれば、普通に平凡に暮らせたのだから…。
すると僕の中である考えが浮かび上がる。

顔を上げて海辺さんに尋ねた。



「それじゃあ、僕も、お姉ちゃんみたいに…?」

「気づいてくれたか。そうだ。同じ菌を体に持つ君も近い将来そうなるだろう」

「じゃあ!どうしたら!」

「だから先程のサインだ」



興奮して声を出す僕に対してずっと冷静な声で話す海辺さん。

冷静の塊だと言えるだろう。

僕は次の言葉を待つように黙り込む。

1回溜まった唾液を飲み込んだ。



「これは契約書だ。ご両親は君を研究に使って良いと了承を得た」

「そしたら、僕の菌は無くなるんですか…?」

「断言は出来ない」

「そしたらやる意味は!」

「よく聞いてくれーーくん。この研究は1人を犠牲にして1人を助けるものなんだ」

「えっ…」

「それは薬を作る段階で言える事なのだが、もし、ご両親が早い段階で頷けば君かお姉さんどちらか犠牲にして薬を作り上げる。最悪の場合研究されたどちらかは死ぬことになるんだ」



それじゃあ、どうしたら良いんだよ…。

だからお父さん達は頷かなかったのか?

どっちか死ぬってなるから。

僕の頭の中は混乱が激しく回り始める。

どっちに怒りを向ければいいかわからない。

特効薬を作れる海辺さん。

僕たちを失いたくなくて、協力しなかったお父さんとお母さん。

僕は机に頭を置いて抱え込む。

涙は頬を流れ、机の上に水溜りを作る。

この涙にも菌が含まれているのかな。

僕が体をあげて薬を作ったって僕のためにはならないかもしれない。

でも、もしそれでお姉ちゃんが助かるとしたら?

僕は小さい声で海辺さんに質問した。



「薬を作ればお姉ちゃんは元に戻る?」

「戻らない」

「じゃあ僕がやる意味なんて…!どっちにしたって死ぬじゃないか!」

「私は君の体を使わせてもらう対価としてご両親に条件を出した。なんだと思う?」

「知らないよ…」

「金だ」

「か、ね…?」

「君は想像できないほどの膨大な金を対価として払った。君は、ご両親に売られたんだ」



海辺さんの言葉がただ頭の中でこだまする。

真っ白だ。何も浮かばない。

何を言えば良いのだろう。わからないや…。

売られた?売られるってあれだよね?

お金と引き換えにするやつ。

それって人間でも出来るんだ。

お金。お金。お金。お金。

改めて聞きたいよ。

僕はどっちに矛先を向ければ良い?

お金で交換した海辺さん?

それとも条件の頷いたあいつら?

……もうどっちでもいいや。

ただ今思うのは…死にたい。



「この機会だ。教えておこう。金は料理店の借金返済とお姉さんの入院費に使うらしい。私としては使い道なんてどうでもいいが…」

「は、はは、はははは」

「うむ。そろそろ始めようか。壊れた瞬間がちょうど良い」



プシューと僕がいる部屋に空気が入ってくる。

僕は頭を上げて脱力するように腕を下に下げた。

鼻から空気が入ってくる。

もう、どうだって良いんだ。



「おやすみ。ーーくん。次起きる時はきっと、嫌なことは忘れてる………」



最後に聞いた男性の声は優しかった。
私はこの1週間、家から一歩も出なかった。

数日経てばお盆の時期に入る。

余計に家から出ないだろう。

才田さんの連絡も最低限で済ませるから会話相手も居ない。

あの海の日から涼とも会ってないし、メッセージも送ってなかった。

絵の件も解決しないまま時がすぎている。

ご飯を食べて、課題をやって、昼寝してご飯を食べる生活だから少し太ったかもしれない。

そう頭では思っても何かしようとは思えなかった。

しかし突然のインターホンで私の体は起き上がる。

無理矢理に近い動かし方は寝ていた私の頭をクラクラさせた。



「はーい」



階段を降りながら声を出して、自分がいることをアピールする。

インターホンは1回鳴ると止まったのできっと私がいる事を認識したはずだ。

玄関の鍵は閉まっているのでガチャリと音を立てながら開ける。

玄関先には2人の男がいた。



「涼……とお父さん」



どんな組み合わせだと尋ねたくなる。

手前に涼がいて後ろからお父さんが歩いてきた。

私が「お父さん」と呼ぶと涼は驚いたように振り向く。

この様子だとたまたま時間が被っただけのようだ。



「君は…」

「は、はじめまして!桜の友達の和賀那涼です」

「こんにちは。桜の父です」

「えっと、まず涼どうしたの?」

「これ…」



涼の右手にぶら下げているのは私が海で置いてきてしまった画材だった。

そして左手には丁寧に巻かれた画用紙を持っている。



「ごめん。ありがとう」

「明日から俺、母さんの実家に帰省するからしばらく会えなくて。渡せるのは今日しか無かった。急に押しかけてごめんな」

「ううん。助かった」

「どうしたんだこれは」

「私が友達と遊んだ時に忘れちゃったの。だから涼が持ってきてくれただけ」

「そうか」



私は咄嗟に軽い嘘をつく。

本当は涼と2人で海に行って忘れたのだ。

でもそれをお父さんに言ったら後で何を聞かれるかわからない。

今の答えは正当な判断だったと自分を褒めた。

するとお父さんは私と玄関の扉の隙間を潜るように家の中に入る。



「和賀那くん。暑い中ありがとう。良ければお茶でも飲んでいかないか?」

「えっ、でも」

「涼少し汗かいているし、水分摂ったほうがいいよ。入って」



ここで不審な行動でもしたらそれこそ疑われる。

私はお父さんに賛成して扉を大きく開けた。

涼は最後まで迷って家の中に入る。

私が扉を閉めると小さな声で「お邪魔します」と言った。



「桜、飲み物はあるだろう?」

「うん。お茶もジュースもある」

「私は着替えてから行く。準備は頼む」

「わかった」



お父さんはスーツの上着だけを脱いでワイシャツ姿になるとネクタイを緩める。

そして2階にある自分の部屋へと向かった。



「リビングこっち」

「ああ、サンキュー」



お父さんが行った事を確認すると、私は涼を連れてリビングに入った。

「そこのソファ座って」

「わかった」



涼をソファに座らせた後、私は台所に行って飲み物を用意する。

全員麦茶で良いだろう。

ちゃんと朝ご飯の食器を片付けといてよかった。

私は3人分のコップに麦茶を注いでいると後ろからお父さんの声が聞こえる。



「桜、冷蔵庫に小さめのケーキがあったはずだ。それも出してくれ」

「そんな俺大丈夫ですよ?長居はしないので!」

「遠慮しないでくれ。2人暮らしだからケーキが余ってしまっているんだ。手伝ってくれないか」

「そういうことなら…」

「お父さん、これで良い?」

「ああ。麦茶は私が持って行こう」



私服に着替えたお父さんはおぼんに麦茶を置くとテーブルまで運んでくれる。

普通に出迎えてしまったが、お昼頃に帰ってくるのは夏休み前以来だ。

トラブルは片付いたのか。

でも才田さんからは連絡が入っていない。

涼が帰ったら聞いてみようと、私は大きな背中を見て思った。



「ありがとうございます」

「良いんだ。むしろ消費の手伝いをしてもらって悪いね」

「いえいえ!食べることは好きなので」

「涼は甘党だからね」

「そうか。遠慮なく食べてくれ」

「いただきます」



涼はケーキを受け取ると美味しそうな表情で食べ出す。

私はお父さんの隣の椅子に座って同じように食べ始めた。



「桜は迷惑かけてないか?」

「ちょっとお父さん…」

「全然です。むしろ面倒見がいいから勉強とか助かってます」

「それならよかった」  



涼の答えに安心したような言葉で返すお父さん。

なんだか今日はおかしい気がする。

暑い中、私の忘れ物を届けてくれたからというのもあるけど友達を自分から家に入れた。

それに私の事を誰かに尋ねることなんて今まで1回も無かったのだ。

それなのに今日は違う。

何かあったのかなと逆に心配になってきた。

私はケーキを麦茶で流し込んで口の中をリセットする。

既に涼はペロリと平らげていた。



「涼くんのお母さんのご実家はどこに?」

「福島です」

「なら新幹線かな?私も仕事で出向いたことがあるけど、福島県は自然豊かだね」

「はい。夜になると静かだし、真っ暗だからよく眠れます」

「そんなに静かなの?」

「少し虫の音がするけど、嫌な音じゃないよ」

「へー。田舎は行ったことないや」

「小さい時は探検ばっかりしてたよ。そして汚れて帰ってきて、すぐに風呂に入れられるのがお決まり」

「はははっ。男の子はそれくらい元気でなくては」

「今は探検っていうかゴロゴロしちゃうけど…」

「高校生になって探検はあまりしないか」

「小さい頃の興味というのは本当に面白いからね。それは大人になるにつれて徐々に薄れていってしまうのだが」

「凄いですね。答えが科学者らしいというか」

「実際科学者だからね」
 

お父さんは少しだけ表情を緩ませた。

涼の人懐っこさなら簡単に打ち解けるのだろう。

改めて涼のコミュニケーション能力に尊敬した。

私でさえお父さんの表情を緩ますのは至難の技なのに。

少し嫉妬を向けながらも私は涼から繰り出される話に相槌を打っていた。