坂を駆け上がって駅に着いた私は奇跡的に1分後の電車に乗れて、奇跡的に家へ辿り着く事が出来た。

しかし私は大事な物を忘れている事に気付く。

途中半端の海の絵を持っていなかった。

財布やスマホが入っているバッグだけを持って無我夢中で走ってしまったので、家に着いて落ち着いたところで現実に目が行った。

その瞬間、やってしまったという思いで玄関に両手を着いてまるで土下座のような体勢になる。

青年に約束した「海を連れてくる」というのを嘘にしてしまう行動だ。

また描き直すために海へ行くか。

いや、また研究室に行く日々が始まるし課題もある。

1日1日が貴重だ。

青年に謝って約束を破るしか方法が見つからない。

私はまるで魂が入ってないような無気力さでゆっくり立ち上がり部屋に向かう。

ふらつく体はもう死人のようだった。



ーーーーーー



その日の夜。

私は昼寝と言うには長すぎる眠りから覚めると、スマホの通知音が鳴ったのが聞こえてベッドから降り、側に置いてあったバッグを漁る。

昼間は部屋に戻った後、すぐにベッドへ横になってしまったので片付けもしていない。

それに服もワンピースのままだった。

皺になってしまうかななんてぼんやりとする頭の中で考える。

私はスマホの画面を開くと通知欄に2件のメッセージがあった。



【今日はごめん。無事帰れた?絵を描くやつ忘れて行ったから今度届ける。都合の良い日教えて】



【明日、来る予定だった会話の件は無しでお願いしてもいい?ちょっとこっちでトラブルがあったの。もしかしたら次来るのも無しになるかもしれない。詳しい事がわかったらすぐに連絡するね】



上から涼、才田さんの連絡だった。

私は先に涼のメッセージを開く。

でもメッセージの送信欄を開いても何を伝えればいいか浮かばない。

私は涼が送ってきた文章に既読だけを付けて才田さんとのトーク欄へ移動した。



【わかりました。連絡待ってます】



涼の時とは違い、すぐに言葉が出て送信する。

才田さんのメッセージに私はなんだか胸のつっかかりが取れた気がした。

トラブルがどんなものかは想像出来ないけど、青年に会わないで済むなら私は何だっていい。

会えない時間で解決策を考えられる。

明日と次の予定が無くなったら約1週間は会わない。

前なら会話内容を考えるだけで楽しかったけど、今の私は青年に関する事を考えるだけでモヤモヤしてしまっている。

約束は破るわ、何も悪くない青年に会いたくないと思うわで最低だなと私はため息をついた。

するとまた通知音が鳴る。

才田さんからだ。現在時刻は7時。

お仕事は終わったのだろうか。返信が速い。



【ありがとう。社長もきっと今日は帰って来れないと思うからちゃんと家の鍵閉めておくんだよ?】



才田さんの言葉に私は少し表情がほぐれる。

お姉ちゃんと言うよりもお母さんみたいだなと思ってしまった。

私はすかさず返信する。

やはりスムーズに文章を打てた。



【はい。ちゃんと閉めておきます。トラブルって結構深刻なんですか?】

【まぁね…。でも桜ちゃんは気にしなくて大丈夫。ここは大人が何とかするから】

【わかりました。才田さん、無理しないでくださいね】

【ありがとう!それじゃあ妹の鼓舞も貰ったことだし、仕事に戻るね!】



仕事は終わってなかったみたいだ。

たまたま休憩時間だったのかもしれない。

でもトラブルは深刻だと言っている。

青年に何かあったのだろうか。

少し心配が出てくるけど私は首を振って払った。

今は自分の心配をした方がいい。

私だって深刻な状況なのだから。

それでも青年の顔が隙あらばと私の頭に浮かんでくる。



「……とりあえず玄関閉めとこ」



私はまた死人のように立ち上がると玄関に向かって静かに歩いて行った。