「残念ながらいない」
静かな空間が余計に静粛に包まれる。
僕は唾液を飲み込んだ。絶望はしない。驚きもしない。
けれども僕自身の時が全て止まってしまったかのように動かなかった。
「おまけに言葉を1つ足そう。ここの研究員を除けば君は1人だ。…君の時間は終了した。私達は失礼するよ」
男は扉の方へ向くと、一度も僕を振り返る事なく出て行った。
女もその1歩後ろを歩いて何事もなかったかのように扉をくぐる。
僕はまた1人になった。
…また?またではない。ずっと1人だったんだ。
あの人の言葉通りなら。
僕は後退りした時に散乱してしまった紙をゆっくりと自分の周りへ戻す。
桜ちゃんが描いてくれた花、動物、名前。
それを1枚ずつ手に取ってなぞり書きする。
「花…」
この花にも周りには仲間がいる。
例え種類が違くたって綺麗に咲いて。
「猫…犬…」
この2匹にも家族がいる。
種族を越えた繋がりだって生まれるはずだ。
それなら僕は?
仲間も家族も居ない。
待ってくれる人が居ないというのはそういう事だろう。
それじゃあ何処から来た?何処で僕は授かった?
その前にこの体は人間なのだろうか。
なんだろう…。
急に僕の奥底から湧き上がってくる気持ち悪さと息苦しさ。
すると頬に生暖かいものが流れる。
それは顎を伝って首まで流れた。
でも僕の手はそれに触れる事なくなぞり続ける。
久しぶりに流した涙だった。
「おーっす桜〜」
「もう少し余裕持って行動出来ないの?」
8月に入って初めての土曜日。
私は涼との待ち合わせ場所の駅でイライラしていた。
予定していた電車の出発時間が迫っているのに一向に来なかった涼。
電車に乗り遅れたって数分待てば次の電車が来るから問題無いけど、時間を指定した本人が遅れるのはなんだか許せなかった。
結果的には間に合ったわけだが、一度発生したイラつきは収まらない。
2人して電車に乗り込んで席に座ると少しの反抗心で私は持っていた画材を涼の膝の上に置いてやった。
「重っ」
「遅刻した罰」
「遅刻じゃねぇよ。ギリだよギリ」
「寝坊したの?」
「買い出し。飲み物買ってきた」
「はぁ?海の家で帰るじゃん。自販機だってあるのに」
「わかってないなぁ。駅に着いたって真っ正面に海ってわけじゃないんだぜ?少し歩くんだよ。その間の飲み物。着く前に熱中症になったら困る。まさかコンビニのレジがおじいちゃんとは思ってなかったけど…」
「……」
私は黙って涼に預けた画材を自分の膝に乗せる。
その行動が笑えたのか涼はフッと声を出した。
「許してくれた?」
「怒ってない」
「そっかそっか。ひとまずこれは没収な」
「あっ、ちょっと」
今度は自分から画材を膝の上に乗せる涼。
私が取り返そうとすると代わりにレジ袋に入った2本の飲み物を置かれた。
「重い方は俺が持つ。誘ったのは俺だからな」
「…ありがとう」
「惚れた?」
「惚れない」
即答するとわかりやすいように拗ねる。
今度は私が笑ってやる番だ。
すると涼は余計に唇を尖らせた。
まるで小さな子供のよう。
宥めるように私は顔を覗き込む。
「まぁ、涼に恋してる人なら惚れるんじゃない?」
「ふーん。そんな人いるのかね〜」
「世界に1人くらい?」
「こんな広いのに1人かよ…」
ガクッと肩を下げた涼に対して私はまた笑いが止まらなかった。
電車だから静かに笑うけど、本当は大笑いしたいくらい面白い光景。
きっとあの青年の前ではこんな私は見せられないなと思った。
顔を上げた涼は片手で私の画材が入っているバッグを持つ。
「やっぱり重てぇ」と言いながらまた膝に置いた。
「こんだけ重いなら気合い十分だな」
「そうだね。後は良い風景が見つかれば最高なんだけど」
「これから行くのはそこまで有名な海じゃないから人がごちゃごちゃしてないはず。海の家も小さいらしいから食事は全制覇出来そうだな」
「それは自分のために選んだの?私のため?」
「お嬢の桜ちゃんに人がゴミのようにいる場所には連れて行きませんよ〜」
「うざ」
「お嬢は否定しないんだな」
「うん」
「……そっか。金持ちは自信が違うな」
「すぐ凹むんだから…」
尽きない会話はまだ海に着いてないのに私を楽しませてくれた。
今回計画してくれた涼には感謝だなと改めて思う。
でなきゃ自分で海なんて行こうとも思わなかったし、青年のために絵を描くことは出来なかった。
涼が言ったように今日の私の腕は気合い十分。
海を連れてくると約束したのだから、本物のように描いてやろう。
電車の中で通り過ぎる風景を見ながら私はまた一段気合が高まった。
海の最寄駅に着いた私達は扉が開いて踏み出すと同時に空気感が変わった気がした。
「海だ…」
「海だね…」
涼も同じ気持ちのようなので勘違いでは無さそう。
潮の香りと言うのか。
とりあえず海という感じだ。
私達にこれを言葉にする語彙力は持っていない。
駅を出て、海までは徒歩で歩く。
涼と小さな日陰を取り合いながら海に近づいていた。
「あっちー」
「飲む?」
「飲む〜」
私は持っていたレジ袋からジュースを取り出して手渡す。
ちゃんとペットボトルのキャップを緩めてあげるとニコッと笑って受け取る涼。
電車を出てからも、私の画材は涼が持っててくれているので少し申し訳ない気持ちになりながらも力持ちの涼に甘えた。
「うめ〜!桜も飲んでいいぞ?」
「うん。でもまだ大丈夫」
「熱中症になるなよ」
「わかってるよ」
私は水分を摂った涼からペットボトルを受け取り、またレジ袋にしまう。
まだ海は建物の奥で見えてない。
日陰に入っているとはいえ、私もちょくちょく飲んだ方がいいな。
この暑さだとやられてしまいそうだ。
私は極力太陽を浴びないように建物の影に隠れる。
既におでこはしっとりしていた。
「そういえば涼は海で何するの?食べる以外で」
「んー、何しよう…」
「泳ぐの?」
「水着は持ってきた」
「準備万端だね」
「桜は泳がねぇの?」
「私は絵を描きにきただけだから」
「ふーん」
「え、私の水着見たかったの?」
「違うわ!」
慌てて大きな声でツッコむ涼に対して私は吹き出すように笑う。
電車ではちゃんと笑えなかったからか、止まらなかった。
「そんなに慌てなくても…ふはっ」
「お前が変なこと言うからだろ!」
「ははっ、ダメだ面白い!流石思春期男子」
「お前だって俺と同い年だろ…」
「大丈夫。私は涼の水着姿見てもなんとも思わないから」
「俺が変態みたいに言うなよ」
笑いが止まらない私と、眉を寄せて私を軽く睨みつける涼。
するとさっきまでは恥ずかしがって怒っていたのに、急に安心したように涼は微笑んだ。
「え?何?」
「なんか朝から変だったから。海行くだけなのに力入ってるし、少し難しい顔してるし。だからやっと笑ったなって思って」
「電車の中でも笑ったけど?」
「今の笑いの方が柔らかい。俺はそっちの方が好きだよ」
そう言うと私の頭に空いている手を乗せて撫でた。
私達は身長差があるから背が高い涼は撫でるなんて容易いこと。
それでもなんだか恥ずかしくなって私は思わず手を振り払う。
「……髪乱れる」
「はいはい。どうせ海行けば風で崩れるのに」
「うるさいなぁ」
サッパリ髪の涼なら関係ない話だ。
同意されないのはわかってる。
口では可愛くない言葉ばかり言い並べているけど、内心は驚きと涼の優しさに触れたせいか戸惑っていた。
しかしそこまで力が入ってしまっていたか。
私は肩を少し動かす。
涼にバレるくらいなのだから分かりやすく出ていたのだろう。
青年に海を連れてくるためにと、気合を入れたつもりが緊張まで付けてしまったらしい。
体の力を抜かないと描けるものも描けないよなと思って私は少し深呼吸した。
その瞬間に鼻から強い海の香りが吸い込まれる。
前から建物が少なくなって隙間の方から一面真っ青なものが目に入る。
「おっ、見えた」
「海…」
思わず目を大きく開いてしまう。
初めて見た実物の海。
テレビで見るよりもキラキラと輝いている。
太陽の光が反射して眩しい。
間近に居なくても私は目を細めてしまった。
「ここから見る限りだと、そこまで混んでいなさそうだな」
「よく見えるね。眩しくて目が開かない」
「本当だ。目が潰れてる」
「潰れてるとか言わないでよ」
涼に悪口を言われても私の目は開けられない。
私は少し俯きながら涼と一緒に真っ直ぐ向こうにある海へと歩いていった。
ーーーーーー
浜辺に着くと涼は自分のリュックからレジャーシートを取り出す。
ジュースと同じく準備がしっかりしているなと思った。
ちょうど木で日陰になっている場所を見つけて私達は荷物を置く。
チラッと周りを見るが人は居るけどそこまで多いわけではなかった。
これなら集中して絵を描けそうだ。
私は早速、涼が持ってくれていた画材を取り出す。
画用紙を板の上に置いて絵の具もパレットの横に添えて周りの準備は完了した。
後は水を持ってくるだけ。
「私、水汲んでくる」
「水なら目の前にあるぞ」
「真水だよ」
ボケをする涼を速攻で切ると私は水道へ足を運ぶ。
涼も追いかけるように後ろから走って来た。
「別にバケツにやるわけじゃないから重くないよ?」
「俺は水着に着替えてくる。それと途中まで護衛だ」
「護衛?なんで」
「護衛は護衛」
「そ、そう…」
護衛というのは最後まで付き添うものではないのか?
私はよくわからなくなりながらすぐに着いた水道付近で涼と別れる。
別れ際に「知らない人に着いて行くなよ〜」と小さい子に言い聞かせるように言われて。
私は少しムカつきながら、小さいコップに水を汲んだ。
私と涼のレジャーシートへ戻ると、まだ涼は帰って来てないらしく誰も居なかった。
2人して荷物置きっぱなして歩くのは危ないなと私は反省する。
しかし詳しく考えれば私が先に離れたので後から着いてきた涼に何かあれば責任を取ってもらうことになる。
涼なら平謝りで済ませようとしそうだけど。
私はシートに座ってなるべく木陰に身が隠れるように移動した。
改めて目の前に広がる海を見つめる。
場所はもうここで良いだろう。
もしかしたら他にも綺麗な角度はあるかもしれないけど、変に凝るよりも真っ正面から描いた方が伝わりやすい気がする。
まぁ本心を言えばもう動きたく無いから。
私は体育座りをした太ももの上に板と画用紙を載せて、まずは鉛筆で下書きをする。
鋭く尖って勉強に使えなさそうなこの鉛筆は美術部の特徴だ。
私の場合この尖りを見ると、「絵を描くぞ!」という気分になれる。
そう思いながら静かに鉛筆を動かして始めた。
「さーくら」
「ん?」
せっかく始めたというのに呑気な声が聞こえて鉛筆は止まる。
私は嫌そうな顔をして声の主を見ると、表情は一瞬で元に戻った。
「どう?似合う?」
程よく割れた腹筋はいかにも運動部らしい。
腕も足もムキムキじゃない具合の筋肉だった。
これを細マッチョと呼ぶのかと私は思う。
「何?見惚れちゃった?」
「ちょっと待って」
私は板と画用紙を置いて自分のカバンの中を漁る。
ちゃんと持って来たはずだから奥の方に落ちているのだろう。
「何?撮影?いいよ、桜なら」
「待ってって」
「どうせなら記念写真撮ろう!自撮りにする?それとも撮ってもらう?」
「はい。これ」
私は筒状のものを涼に渡す。
涼はそれを受け取って表面を見ると何これ?と眉を寄せた。
私は涼の姿を見て居ても立っても居られなかったのだ。
その真っ白な肌に。
「日焼け止めスプレー。そんな白いと後で真っ赤になってお風呂入る時に痛くなっちゃうよ。皮も剥けるらしいからやっておきなよ」
「………おう」
急に大人しくなった涼はキャップを外すと無言で自分の体にスプレーを振りかける。
短パンの水着だと出る部分も多いからスプレーで良かったのかもしれない。
元は私が使う予定だったが、今は涼の体の方が危ない。
腕と足しか出てない私は後ででも十分だ。
前側を全てかけ終わった涼は背中にもかけようと体を捻る。
私はスプレーを取り上げて後ろを向かせた。
「ジッとしててね」
「はーい」
背中にスプレーを満遍なくかける。
私よりも大きい背中は、私よりも白くてなんだかムカついた。
スプレーをかけ終えると私はバチン!と背中を叩く。
「うお!」なんて声を出しているけど絶対痛く無いんだろうなと思った。
「なんだよ」
「白くてムカついた」
「酷っ」
「うるさい。ほら泳いできたら?」
日焼け止めスプレーをカバンにしまうと私はまたさっきと同じ姿勢に戻り海の下書きを描き始める。
すると立っていた涼は私の隣に座った。
「行かないの?」
「見ていたい」
「見ててもつまらないと思うけど」
「全く」
「ふーん」
水着姿の涼とワンピース姿の私。
もし私も水着だったら他の人からどういう風に見られるのかな。
私は尖った鉛筆を動かしながら涼の視線を感じていた。
「……」
「……」
「楽しい?」
「楽しくは無い」
「泳げば良いじゃん。海の家もあるんだから行って来たら?」
「いい。見てる」
楽しく無いのになんで見てるんだろう。
私は少し涼の視線が強くてやりにくいなと思ってしまう。
けれども涼は立ち上がって海に行くことなく隣で座っていた。
このままだと私だけの為にここに来た感じになってしまう。
せっかく涼が青春謳歌したいって言ってわざわざ来たのに、自分がしたい事をしないで私の隣にいる。
そんなに絵に興味あったっけと頭の片隅で考えながら鉛筆を動かしていた。
「これってコンテスト用?」
「ううん」
「じゃあ何で描くんだよ」
「渡したい人がいるの」
「…緊張してたのはそのせい?」
「気合い入れすぎちゃった」
ある程度のレイアウトは決まったので私は鉛筆を置いて絵の具をパレットに出す。
海の色を再現したいので遠くを見ながら私は青色を混ぜていった。
パレットの上に筆で線を引きながら確認していく。
薄い色はこのくらいで十分だろう。
私は1番薄い場所から描き始めた。
「あのさ」
「んー?」
「桜って青春してんの?」
「何でよ。今青春してる途中じゃん」
「まぁ青春は友達の為のものでも出来るけどさ。自分の為の青春だよ。桜、してないんじゃないかなって」
「私は涼みたいに青春、青春ってこだわらないから」
「あっそ。…俺何か食べ物買ってくる」
「はーい」
やっと立ち上がって私の隣から離れた涼。
私は涼の姿を見ずに返事だけして送った。
ずっと画用紙から目を離さない。
薄い色を奥になるにつれて濃くしていく。
境目の微調整が難しい。それでも塗り続けた。
海なのだから水の部分に力を入れたい。
神経を尖らせながらゆっくりと細かく作業していた。
大まかなところまで進んだら私は一旦画用紙などをシートの上に置く。
ずっと描いていると肩が痛くなるし、なにせ体育座りなものだから腰がズキズキする。
まるで老人のような立ち上がり方で私は背中と腕を伸ばした。
「んんー」
「お疲れ」
腰に手を当てながら軽く反ってストレッチをして居ると両手に袋を持って帰ってくる涼。
結構買ったなと思いながら私はシートに座った。
「何買って来たの?」
「大盛り焼きそば、たこ焼き、イカ焼き、ジュース」
「そんな食べれるのかい…」
「桜にも手伝ってもらうし」
「え?涼が買ったんだからいいよ。食べな」
「こんなん食べきれねぇよ。桜と食べるから色々買って来たんだし」
「ならお金出す」
「要らない」
「ダメ」
前はクレープだったし、私もジュースを買ったから丸く収まったが今は違う。
海の家は食べ物の値段が普通よりも高い。
そう考えると甘えることなんて出来なかった。
私はバッグの中から財布を出そうと手を伸ばすと涼に掴まれる。
「要らないって」
「私がダメなの」
「ひとまず食べよう。冷めると美味しくなくなる」
「でも…」
私の手を離すと涼は焼きそばが入っているパックの蓋を外して、割り箸を渡してくる。
私は渋々受け取ってたこ焼きとイカ焼きの蓋を外した。
「「いただきます」」
イカ焼きを1つ食べると濃厚な味が口に広がり鼻を通る。
なんで屋台のものってこんなに美味しいのだろう。
「美味しい」
「だろ?焼きそばも美味いから、ほら」
「ありがとう」
涼の言う通り焼きそばも香ばしくて美味しかった。
やはり出来立てを食べた方がいいな。
お金問題は後にして私達は目の前にある食べ物達を片付けた。
普通の速度で食べる私に対して、ガツガツと食べる涼。
もっとゆっくり食べれば良いのにと現在、熱々のたこ焼きを頬張り苦しんでいる涼を見て思った。
「あっち〜」
「ジュース飲みなよ」
「これは後でかき氷だな」
「まだ食べるの!?」
「かき氷なんて水と同じだろ」
「そうかもしれないけどさ…」
やっぱり高校2年生の男子はみんなこんな感じなのだろうか。
異常なまでの食欲に若干引きつつある。
「最後食べろよ」
「涼が食べて。私イカ焼き食べる」
「はいよ」
たこ焼きを差し出してくれたが私は地獄のように熱いたこ焼きを食べれる自信がなかった。
丁重に断って返す。
その代わりこのイカ焼きを食べる。
最後に取っておいたゲソの部分。
涼に食べられるかなと思ったけど、ちゃんと残っていた。
私は端に残ったタレを満遍なくつけて口にすると頬が落ちそうなくらいの幸福感が来る。
人間は濃厚タレをたっぷり付けたゲソを食べるだけで幸せと感じるらしい。今、私がその状態だった。
「ご馳走様。それじゃあお金を…」
「要らないって言っただろ」
「だからさぁ…」
また口喧嘩態勢に入るが、涼は自分が持っていたたこ焼きを箸で持つと私に近づけてくる。
「な、何」
「これを1口で食べたら金もらうよ」
「はぁ!?」
ニヤニヤと私を見ながらたこ焼きを口の前まで持ってくる涼。
こいつ、やる事が小学生だろ…。
別に食べさせてもらうのが恥ずかしいわけじゃない。
相手は涼だから。それでも私は躊躇する。
だってまだ湯気が立っているたこ焼きを1口で頬張るなんて、さっきの涼みたいに苦しむだろう。
最悪の場合口の中火傷する。
しかし今、私の対抗心に火がついてしまった。
ここで食べれば申し訳なさを消す事が出来るし、お金問題は円満に解決だ。
私は覚悟して目の前にあるたこ焼きにかぶりついた。
「あ、あれ?」
私の口は空振りする。
たこ焼きが前から逃げて行ったのだ。
涼の手によって。
「ちょっとどういうこと…」
「流石に地獄だろ。…ほい」
涼は半分に割ったたこ焼きをふーふーして私に向ける。
私は小さくなったものを口に入れてもらうと多少の熱さと膨大な美味しさが広がった。
「半分は俺な」
「…うん」
口をモグモグさせながら私は頷く。
噛んでいて気付いたが、私の方にタコを入れてくれたらしい。
と言うことは今涼が口にしたのはただの焼き。
また私は眉を下げた。
「なんかごめん」
「何がだよ」
「色々としてもらっているし…」
「別にいいよ」
「さっきだって普通なら女性の役目じゃない?」
「ん?何が」
「冷まして食べさせてあげるの」
唇を尖らせていかにも拗ねてます感を出してしまう。
実際は拗ねているのだから間違ってはいないけどなんだか子供っぽいと思われてしまいそうだ。
そんな私を見て涼はクスクスと笑い始めた。
「そんな笑う?」
「ごめん。面白くって」
「何でよ」
「可愛いなって」
「…え?」
初めて涼が私に対して言った言葉に思考と体が停止する。
そんな姿も面白かったのか涼は笑い続けていた。
でも私は笑える状況じゃない。
全てが停止してしまったのだから。
すると涼は持っていた箸とたこ焼きが入っていたパックを置いて、私を見つめた。
「今度は桜がしてよ」
「あ、あの…」
「別に食べさせるのは男でも女でもどっちでも良いじゃん。でもさ、桜がしてくれるのであれば俺は喜んで食べるよ」
涼は柔らかい表情でそう言う。
意図がちゃんとわからない。
私はやっと動けるようになった口で小さな声で涼に尋ねた。
「それってどういう意味で…」
小さくても届いた私の言葉に涼は真剣な顔付きになる。
この状況、その表情。
やっと今、先を予想出来た。
「好きだよ。中学の時から」
声は優しいのに、目つきは力強い。
私は涼から目が離せなかった。
涼ってこんなに大人っぽいっけ?
それとも私が子供なだけ?
頭では何とも思ってません感を出しているけど、顔には熱が集まってどうにかなりそうだった。
「桜…」
涼が私の名前を言った瞬間、海風によって熱が冷える。
それと同時に描いていた海の絵が少し先に飛ばされた。
「あっ!」
私はシートから立ち上がり絵を追いかける。
ちょうど堤防の壁に止められたので見失う事なく、絵を見つけられた。
破かないよう丁寧に持ち上げて砂を払う。
特に汚れることも無く、ただ飛ばされただけで終わってくれた。
私はホッとして胸を撫で下ろす。
けれども話の途中だということを思い出すと私は涼の所まで駆け寄った。
「ご、ごめん」
「平気。少し重しでもしとけば?」
「うん…」
絵の具を2個取って画用紙の上に置いてまた涼の顔を見る。
大事な話をしているのに逃げるように離れてしまった私の行動に怒ることなく穏やかな表情をしていた。
私は少し俯いて涼の顔から目を逸らす。
それでも涼の視線を感じるので私をずっと見てくれているのだろう。
どうしたら良いのかわからない。
告白されるなんて初めての事だ。そして相手は涼。
何を言えばいい?黙ることしか選択肢が無かった。
「なんか吹っ切れたわ」
「え…?」
「1回言えばもう何回でも言える。俺は桜が好き」
爽やかな笑顔で笑って言う涼。
その笑顔はからかいや、悪巧みのような小学生の笑いではない。
ちゃんと本気で思っている大人の笑顔だと私はわかってしまった。
余計にどう行動を取ればいいのか迷う。
私は軽く唇を噛んだ。
「本当は急かすのは良くないってわかるけど…。桜はどう思ってる?俺のこと」
良い人だよ。
うるさい時もあるけど、その時は必ず私は笑っている。
数少ない私の本音を言えて何も気にしないで軽口叩ける相手だよ。
そう思っていた。いや、今もそう思っている。
でも何でだろう。
頭の中の霧が私の思考を鈍らせる。
本音はどう思っているのか見つからない。
さっきまでならきっと涼に本音を言えていたのに。
私は俯いていた顔を上げた。
涼の真っ直ぐな目が私の視線とぶつかる。
私は震え声で涼に答えた。
「ごめん…」
「…」
「私、帰る」
「えっ?さ、桜?」
急いで立ち上がりバックを持って砂浜を駆け抜ける。
途中で足がもつれそうになるけどとりあえず動かした。
砂がかかった階段を登って道路へ行くと、来た道を引き返すように走った。
運動なんてしないから息が上がるけど、私は逃げたかった。
後ろから涼が追ってくる気配はない。
それでも走った。
私の目には涙が浮かんでいて風と共に流れていく。
そして頭の中ではある人の顔が浮かんでいた。
その人が、私の考えを邪魔したのだ。
今どこを走っているかわからない。
今の時間、電車だって来るかも知らない。
けれど私は全てを振り払いたくて走った。
坂を駆け上がって駅に着いた私は奇跡的に1分後の電車に乗れて、奇跡的に家へ辿り着く事が出来た。
しかし私は大事な物を忘れている事に気付く。
途中半端の海の絵を持っていなかった。
財布やスマホが入っているバッグだけを持って無我夢中で走ってしまったので、家に着いて落ち着いたところで現実に目が行った。
その瞬間、やってしまったという思いで玄関に両手を着いてまるで土下座のような体勢になる。
青年に約束した「海を連れてくる」というのを嘘にしてしまう行動だ。
また描き直すために海へ行くか。
いや、また研究室に行く日々が始まるし課題もある。
1日1日が貴重だ。
青年に謝って約束を破るしか方法が見つからない。
私はまるで魂が入ってないような無気力さでゆっくり立ち上がり部屋に向かう。
ふらつく体はもう死人のようだった。
ーーーーーー
その日の夜。
私は昼寝と言うには長すぎる眠りから覚めると、スマホの通知音が鳴ったのが聞こえてベッドから降り、側に置いてあったバッグを漁る。
昼間は部屋に戻った後、すぐにベッドへ横になってしまったので片付けもしていない。
それに服もワンピースのままだった。
皺になってしまうかななんてぼんやりとする頭の中で考える。
私はスマホの画面を開くと通知欄に2件のメッセージがあった。
【今日はごめん。無事帰れた?絵を描くやつ忘れて行ったから今度届ける。都合の良い日教えて】
【明日、来る予定だった会話の件は無しでお願いしてもいい?ちょっとこっちでトラブルがあったの。もしかしたら次来るのも無しになるかもしれない。詳しい事がわかったらすぐに連絡するね】
上から涼、才田さんの連絡だった。
私は先に涼のメッセージを開く。
でもメッセージの送信欄を開いても何を伝えればいいか浮かばない。
私は涼が送ってきた文章に既読だけを付けて才田さんとのトーク欄へ移動した。
【わかりました。連絡待ってます】
涼の時とは違い、すぐに言葉が出て送信する。
才田さんのメッセージに私はなんだか胸のつっかかりが取れた気がした。
トラブルがどんなものかは想像出来ないけど、青年に会わないで済むなら私は何だっていい。
会えない時間で解決策を考えられる。
明日と次の予定が無くなったら約1週間は会わない。
前なら会話内容を考えるだけで楽しかったけど、今の私は青年に関する事を考えるだけでモヤモヤしてしまっている。
約束は破るわ、何も悪くない青年に会いたくないと思うわで最低だなと私はため息をついた。
するとまた通知音が鳴る。
才田さんからだ。現在時刻は7時。
お仕事は終わったのだろうか。返信が速い。
【ありがとう。社長もきっと今日は帰って来れないと思うからちゃんと家の鍵閉めておくんだよ?】
才田さんの言葉に私は少し表情がほぐれる。
お姉ちゃんと言うよりもお母さんみたいだなと思ってしまった。
私はすかさず返信する。
やはりスムーズに文章を打てた。
【はい。ちゃんと閉めておきます。トラブルって結構深刻なんですか?】
【まぁね…。でも桜ちゃんは気にしなくて大丈夫。ここは大人が何とかするから】
【わかりました。才田さん、無理しないでくださいね】
【ありがとう!それじゃあ妹の鼓舞も貰ったことだし、仕事に戻るね!】
仕事は終わってなかったみたいだ。
たまたま休憩時間だったのかもしれない。
でもトラブルは深刻だと言っている。
青年に何かあったのだろうか。
少し心配が出てくるけど私は首を振って払った。
今は自分の心配をした方がいい。
私だって深刻な状況なのだから。
それでも青年の顔が隙あらばと私の頭に浮かんでくる。
「……とりあえず玄関閉めとこ」
私はまた死人のように立ち上がると玄関に向かって静かに歩いて行った。