「海…」
桜ちゃんが居なくなったこの場所で、僕はいつものように座っていた。
彼女が帰る前に僕に言った言葉。
それは海を連れてくるだった。
ずっとここに居ても海くらいはわかる。
青くて、冷たくて、広がっている水溜り。
しかしそれを連れてくるというのはどういうことだろう。
海は歩けるのだろうか。
海坊主?
いや、桜ちゃんが連れてくるのだ。
自分で歩くわけない。
だとしたら何だろう。
僕は考えるけど全く方法が思い浮かばなかった。
ちょうど足元に置いてあった絵を持って見る。
犬の絵は桜ちゃんが付け足したことによってとても綺麗になっていた。
僕は思わず頬が緩む。
こんな犬がいたら良いのになと思った。
「失礼するよ」
絵を見ていると急に扉の方から声がする。
桜ちゃんじゃない。男の声。
僕はそっちを見ると白衣を着た男と同じような女が歩いてくる。
この人達が点滴以外で僕に話しかけるなんて今までなかった。
散々ここに閉じ込めておいてただ僕を窓から見るだけ。
僕は白衣の2人を睨みつける。
「感情が出てきたようだね。これも桜の影響か?」
「そう思われます」
「この計画は正解だった。桜にも後でお礼をしなければ」
「はい」
僕をそっちのけで2人で会話をする。
感情?計画?喋っていることが全く理解できない。
会話に置いていかれてる気がした。
僕は後退りするような体勢になる。
すると男の人が笑った。
「警戒しないでほしい。別に今は何もしない。ただ、経過を見たいだけでね」
「………」
「さて、いくつか質問しよう。才田、メモの準備はいいか?」
「はい」
男と女は見下すように僕を見る。
睨みつけるのは変わらないけど、手が震えてきた。
「君は名前を言えるかい?」
「………わからない」
「そうか。次だ。ここにどれくらい居るか知ってるか?」
「……知らない」
「次だ」
僕が質問する間もなく聞いてくる。
名前もどれくらい居るかも聞きたいのに聞けない。
全く隙をくれない。
女はずっとメモを取っている。
僕の返事を書いているのだろう。
「自分が何をされているかわかるか」
「……」
答えるのも嫌になって僕は話さずに首を横に振る。
もう喋りたくなかった。
睨みつけるのもやめて視線を下に向け、この人達と目を合わせないようにする。
「最後だ。記憶はどれくらい残ってる?」
名前も言えない僕に記憶なんてない。
また首を振った。
「そしたら次は君の時間だ」
「え…」
「しゃ、社長?」
僕と女は男の言葉を聞き返す。
思わず顔を上げてしまった。
男は僕を見下す体勢は変えずに少し近づく。
逃げるように後ろに下がりたいけど、手が震えて力が入らなかった。
「1つだけ君の質問に答えよう。何でも構わない。偽りなく教える事を約束する」
「社長、それはどういう…」
「才田。黙ってろ」
「…かしこまりました」
「君自身、疑問に思ってることはいくつもあるはずだ。それとも何も聞きたくないか?」
僕は男を見る。
1つだけの質問を答えてくれるというのは自分の状況を知るチャンスだ。
それなら何を聞けばいい?
質問だから自分の願いが叶うわけではない。
ここから出してなんて言ってもそれは質問にはならなかった。
僕は今何を聞きたいかを考える。
欲を言えば全部聞きたい。最初から最後まで全てを。
でもそんなこと僕は言えなかった。
ずっと黙っていると女が声を放つ。
「社長、失礼ですが1つだけ。彼はプロジェクトの影響で知的能力が下がりつつあります。もしかしたらちゃんと言葉が出ない可能性も…」
「まぁ待て。直接聞いた方が本人の為だ。…君からの質問はないのか?」
「……ある」
聞きたいことは沢山ある。
両手で数えられないほどの悩みと不安が僕を攻撃する毎日だ。
だから僕は知りたかった。
ここが何処とか今は何日とかを理解したって現状は変わらない。
だからこれから言う質問が僕の心の支えになってほしい。
そう思って僕はジッと男の目を見た。
この人は桜ちゃんのように僕の目線には合わせてくれない。
ずっと見下している。だからだろうか。
本当に真実を言ってくれるように思えた。
桜ちゃんみたいな優しい人だときっと悪い状況だったら誤魔化すか嘘をつく。
僕が知りたいのは、本当の事だ。冷たいこの人なら……。
「僕、…僕を」
「……」
「僕の事を待ってくれている人は、居ますか?」
「残念ながらいない」
静かな空間が余計に静粛に包まれる。
僕は唾液を飲み込んだ。絶望はしない。驚きもしない。
けれども僕自身の時が全て止まってしまったかのように動かなかった。
「おまけに言葉を1つ足そう。ここの研究員を除けば君は1人だ。…君の時間は終了した。私達は失礼するよ」
男は扉の方へ向くと、一度も僕を振り返る事なく出て行った。
女もその1歩後ろを歩いて何事もなかったかのように扉をくぐる。
僕はまた1人になった。
…また?またではない。ずっと1人だったんだ。
あの人の言葉通りなら。
僕は後退りした時に散乱してしまった紙をゆっくりと自分の周りへ戻す。
桜ちゃんが描いてくれた花、動物、名前。
それを1枚ずつ手に取ってなぞり書きする。
「花…」
この花にも周りには仲間がいる。
例え種類が違くたって綺麗に咲いて。
「猫…犬…」
この2匹にも家族がいる。
種族を越えた繋がりだって生まれるはずだ。
それなら僕は?
仲間も家族も居ない。
待ってくれる人が居ないというのはそういう事だろう。
それじゃあ何処から来た?何処で僕は授かった?
その前にこの体は人間なのだろうか。
なんだろう…。
急に僕の奥底から湧き上がってくる気持ち悪さと息苦しさ。
すると頬に生暖かいものが流れる。
それは顎を伝って首まで流れた。
でも僕の手はそれに触れる事なくなぞり続ける。
久しぶりに流した涙だった。
「おーっす桜〜」
「もう少し余裕持って行動出来ないの?」
8月に入って初めての土曜日。
私は涼との待ち合わせ場所の駅でイライラしていた。
予定していた電車の出発時間が迫っているのに一向に来なかった涼。
電車に乗り遅れたって数分待てば次の電車が来るから問題無いけど、時間を指定した本人が遅れるのはなんだか許せなかった。
結果的には間に合ったわけだが、一度発生したイラつきは収まらない。
2人して電車に乗り込んで席に座ると少しの反抗心で私は持っていた画材を涼の膝の上に置いてやった。
「重っ」
「遅刻した罰」
「遅刻じゃねぇよ。ギリだよギリ」
「寝坊したの?」
「買い出し。飲み物買ってきた」
「はぁ?海の家で帰るじゃん。自販機だってあるのに」
「わかってないなぁ。駅に着いたって真っ正面に海ってわけじゃないんだぜ?少し歩くんだよ。その間の飲み物。着く前に熱中症になったら困る。まさかコンビニのレジがおじいちゃんとは思ってなかったけど…」
「……」
私は黙って涼に預けた画材を自分の膝に乗せる。
その行動が笑えたのか涼はフッと声を出した。
「許してくれた?」
「怒ってない」
「そっかそっか。ひとまずこれは没収な」
「あっ、ちょっと」
今度は自分から画材を膝の上に乗せる涼。
私が取り返そうとすると代わりにレジ袋に入った2本の飲み物を置かれた。
「重い方は俺が持つ。誘ったのは俺だからな」
「…ありがとう」
「惚れた?」
「惚れない」
即答するとわかりやすいように拗ねる。
今度は私が笑ってやる番だ。
すると涼は余計に唇を尖らせた。
まるで小さな子供のよう。
宥めるように私は顔を覗き込む。
「まぁ、涼に恋してる人なら惚れるんじゃない?」
「ふーん。そんな人いるのかね〜」
「世界に1人くらい?」
「こんな広いのに1人かよ…」
ガクッと肩を下げた涼に対して私はまた笑いが止まらなかった。
電車だから静かに笑うけど、本当は大笑いしたいくらい面白い光景。
きっとあの青年の前ではこんな私は見せられないなと思った。
顔を上げた涼は片手で私の画材が入っているバッグを持つ。
「やっぱり重てぇ」と言いながらまた膝に置いた。
「こんだけ重いなら気合い十分だな」
「そうだね。後は良い風景が見つかれば最高なんだけど」
「これから行くのはそこまで有名な海じゃないから人がごちゃごちゃしてないはず。海の家も小さいらしいから食事は全制覇出来そうだな」
「それは自分のために選んだの?私のため?」
「お嬢の桜ちゃんに人がゴミのようにいる場所には連れて行きませんよ〜」
「うざ」
「お嬢は否定しないんだな」
「うん」
「……そっか。金持ちは自信が違うな」
「すぐ凹むんだから…」
尽きない会話はまだ海に着いてないのに私を楽しませてくれた。
今回計画してくれた涼には感謝だなと改めて思う。
でなきゃ自分で海なんて行こうとも思わなかったし、青年のために絵を描くことは出来なかった。
涼が言ったように今日の私の腕は気合い十分。
海を連れてくると約束したのだから、本物のように描いてやろう。
電車の中で通り過ぎる風景を見ながら私はまた一段気合が高まった。
海の最寄駅に着いた私達は扉が開いて踏み出すと同時に空気感が変わった気がした。
「海だ…」
「海だね…」
涼も同じ気持ちのようなので勘違いでは無さそう。
潮の香りと言うのか。
とりあえず海という感じだ。
私達にこれを言葉にする語彙力は持っていない。
駅を出て、海までは徒歩で歩く。
涼と小さな日陰を取り合いながら海に近づいていた。
「あっちー」
「飲む?」
「飲む〜」
私は持っていたレジ袋からジュースを取り出して手渡す。
ちゃんとペットボトルのキャップを緩めてあげるとニコッと笑って受け取る涼。
電車を出てからも、私の画材は涼が持っててくれているので少し申し訳ない気持ちになりながらも力持ちの涼に甘えた。
「うめ〜!桜も飲んでいいぞ?」
「うん。でもまだ大丈夫」
「熱中症になるなよ」
「わかってるよ」
私は水分を摂った涼からペットボトルを受け取り、またレジ袋にしまう。
まだ海は建物の奥で見えてない。
日陰に入っているとはいえ、私もちょくちょく飲んだ方がいいな。
この暑さだとやられてしまいそうだ。
私は極力太陽を浴びないように建物の影に隠れる。
既におでこはしっとりしていた。
「そういえば涼は海で何するの?食べる以外で」
「んー、何しよう…」
「泳ぐの?」
「水着は持ってきた」
「準備万端だね」
「桜は泳がねぇの?」
「私は絵を描きにきただけだから」
「ふーん」
「え、私の水着見たかったの?」
「違うわ!」
慌てて大きな声でツッコむ涼に対して私は吹き出すように笑う。
電車ではちゃんと笑えなかったからか、止まらなかった。
「そんなに慌てなくても…ふはっ」
「お前が変なこと言うからだろ!」
「ははっ、ダメだ面白い!流石思春期男子」
「お前だって俺と同い年だろ…」
「大丈夫。私は涼の水着姿見てもなんとも思わないから」
「俺が変態みたいに言うなよ」
笑いが止まらない私と、眉を寄せて私を軽く睨みつける涼。
するとさっきまでは恥ずかしがって怒っていたのに、急に安心したように涼は微笑んだ。
「え?何?」
「なんか朝から変だったから。海行くだけなのに力入ってるし、少し難しい顔してるし。だからやっと笑ったなって思って」
「電車の中でも笑ったけど?」
「今の笑いの方が柔らかい。俺はそっちの方が好きだよ」
そう言うと私の頭に空いている手を乗せて撫でた。
私達は身長差があるから背が高い涼は撫でるなんて容易いこと。
それでもなんだか恥ずかしくなって私は思わず手を振り払う。
「……髪乱れる」
「はいはい。どうせ海行けば風で崩れるのに」
「うるさいなぁ」
サッパリ髪の涼なら関係ない話だ。
同意されないのはわかってる。
口では可愛くない言葉ばかり言い並べているけど、内心は驚きと涼の優しさに触れたせいか戸惑っていた。
しかしそこまで力が入ってしまっていたか。
私は肩を少し動かす。
涼にバレるくらいなのだから分かりやすく出ていたのだろう。
青年に海を連れてくるためにと、気合を入れたつもりが緊張まで付けてしまったらしい。
体の力を抜かないと描けるものも描けないよなと思って私は少し深呼吸した。
その瞬間に鼻から強い海の香りが吸い込まれる。
前から建物が少なくなって隙間の方から一面真っ青なものが目に入る。
「おっ、見えた」
「海…」
思わず目を大きく開いてしまう。
初めて見た実物の海。
テレビで見るよりもキラキラと輝いている。
太陽の光が反射して眩しい。
間近に居なくても私は目を細めてしまった。
「ここから見る限りだと、そこまで混んでいなさそうだな」
「よく見えるね。眩しくて目が開かない」
「本当だ。目が潰れてる」
「潰れてるとか言わないでよ」
涼に悪口を言われても私の目は開けられない。
私は少し俯きながら涼と一緒に真っ直ぐ向こうにある海へと歩いていった。
ーーーーーー
浜辺に着くと涼は自分のリュックからレジャーシートを取り出す。
ジュースと同じく準備がしっかりしているなと思った。
ちょうど木で日陰になっている場所を見つけて私達は荷物を置く。
チラッと周りを見るが人は居るけどそこまで多いわけではなかった。
これなら集中して絵を描けそうだ。
私は早速、涼が持ってくれていた画材を取り出す。
画用紙を板の上に置いて絵の具もパレットの横に添えて周りの準備は完了した。
後は水を持ってくるだけ。
「私、水汲んでくる」
「水なら目の前にあるぞ」
「真水だよ」
ボケをする涼を速攻で切ると私は水道へ足を運ぶ。
涼も追いかけるように後ろから走って来た。
「別にバケツにやるわけじゃないから重くないよ?」
「俺は水着に着替えてくる。それと途中まで護衛だ」
「護衛?なんで」
「護衛は護衛」
「そ、そう…」
護衛というのは最後まで付き添うものではないのか?
私はよくわからなくなりながらすぐに着いた水道付近で涼と別れる。
別れ際に「知らない人に着いて行くなよ〜」と小さい子に言い聞かせるように言われて。
私は少しムカつきながら、小さいコップに水を汲んだ。
私と涼のレジャーシートへ戻ると、まだ涼は帰って来てないらしく誰も居なかった。
2人して荷物置きっぱなして歩くのは危ないなと私は反省する。
しかし詳しく考えれば私が先に離れたので後から着いてきた涼に何かあれば責任を取ってもらうことになる。
涼なら平謝りで済ませようとしそうだけど。
私はシートに座ってなるべく木陰に身が隠れるように移動した。
改めて目の前に広がる海を見つめる。
場所はもうここで良いだろう。
もしかしたら他にも綺麗な角度はあるかもしれないけど、変に凝るよりも真っ正面から描いた方が伝わりやすい気がする。
まぁ本心を言えばもう動きたく無いから。
私は体育座りをした太ももの上に板と画用紙を載せて、まずは鉛筆で下書きをする。
鋭く尖って勉強に使えなさそうなこの鉛筆は美術部の特徴だ。
私の場合この尖りを見ると、「絵を描くぞ!」という気分になれる。
そう思いながら静かに鉛筆を動かして始めた。
「さーくら」
「ん?」
せっかく始めたというのに呑気な声が聞こえて鉛筆は止まる。
私は嫌そうな顔をして声の主を見ると、表情は一瞬で元に戻った。
「どう?似合う?」
程よく割れた腹筋はいかにも運動部らしい。
腕も足もムキムキじゃない具合の筋肉だった。
これを細マッチョと呼ぶのかと私は思う。
「何?見惚れちゃった?」
「ちょっと待って」
私は板と画用紙を置いて自分のカバンの中を漁る。
ちゃんと持って来たはずだから奥の方に落ちているのだろう。
「何?撮影?いいよ、桜なら」
「待ってって」
「どうせなら記念写真撮ろう!自撮りにする?それとも撮ってもらう?」
「はい。これ」
私は筒状のものを涼に渡す。
涼はそれを受け取って表面を見ると何これ?と眉を寄せた。
私は涼の姿を見て居ても立っても居られなかったのだ。
その真っ白な肌に。
「日焼け止めスプレー。そんな白いと後で真っ赤になってお風呂入る時に痛くなっちゃうよ。皮も剥けるらしいからやっておきなよ」
「………おう」
急に大人しくなった涼はキャップを外すと無言で自分の体にスプレーを振りかける。
短パンの水着だと出る部分も多いからスプレーで良かったのかもしれない。
元は私が使う予定だったが、今は涼の体の方が危ない。
腕と足しか出てない私は後ででも十分だ。
前側を全てかけ終わった涼は背中にもかけようと体を捻る。
私はスプレーを取り上げて後ろを向かせた。
「ジッとしててね」
「はーい」
背中にスプレーを満遍なくかける。
私よりも大きい背中は、私よりも白くてなんだかムカついた。
スプレーをかけ終えると私はバチン!と背中を叩く。
「うお!」なんて声を出しているけど絶対痛く無いんだろうなと思った。
「なんだよ」
「白くてムカついた」
「酷っ」
「うるさい。ほら泳いできたら?」
日焼け止めスプレーをカバンにしまうと私はまたさっきと同じ姿勢に戻り海の下書きを描き始める。
すると立っていた涼は私の隣に座った。
「行かないの?」
「見ていたい」
「見ててもつまらないと思うけど」
「全く」
「ふーん」
水着姿の涼とワンピース姿の私。
もし私も水着だったら他の人からどういう風に見られるのかな。
私は尖った鉛筆を動かしながら涼の視線を感じていた。
「……」
「……」
「楽しい?」
「楽しくは無い」
「泳げば良いじゃん。海の家もあるんだから行って来たら?」
「いい。見てる」
楽しく無いのになんで見てるんだろう。
私は少し涼の視線が強くてやりにくいなと思ってしまう。
けれども涼は立ち上がって海に行くことなく隣で座っていた。
このままだと私だけの為にここに来た感じになってしまう。
せっかく涼が青春謳歌したいって言ってわざわざ来たのに、自分がしたい事をしないで私の隣にいる。
そんなに絵に興味あったっけと頭の片隅で考えながら鉛筆を動かしていた。
「これってコンテスト用?」
「ううん」
「じゃあ何で描くんだよ」
「渡したい人がいるの」
「…緊張してたのはそのせい?」
「気合い入れすぎちゃった」
ある程度のレイアウトは決まったので私は鉛筆を置いて絵の具をパレットに出す。
海の色を再現したいので遠くを見ながら私は青色を混ぜていった。
パレットの上に筆で線を引きながら確認していく。
薄い色はこのくらいで十分だろう。
私は1番薄い場所から描き始めた。
「あのさ」
「んー?」
「桜って青春してんの?」
「何でよ。今青春してる途中じゃん」
「まぁ青春は友達の為のものでも出来るけどさ。自分の為の青春だよ。桜、してないんじゃないかなって」
「私は涼みたいに青春、青春ってこだわらないから」
「あっそ。…俺何か食べ物買ってくる」
「はーい」
やっと立ち上がって私の隣から離れた涼。
私は涼の姿を見ずに返事だけして送った。
ずっと画用紙から目を離さない。
薄い色を奥になるにつれて濃くしていく。
境目の微調整が難しい。それでも塗り続けた。
海なのだから水の部分に力を入れたい。
神経を尖らせながらゆっくりと細かく作業していた。
大まかなところまで進んだら私は一旦画用紙などをシートの上に置く。
ずっと描いていると肩が痛くなるし、なにせ体育座りなものだから腰がズキズキする。
まるで老人のような立ち上がり方で私は背中と腕を伸ばした。
「んんー」
「お疲れ」
腰に手を当てながら軽く反ってストレッチをして居ると両手に袋を持って帰ってくる涼。
結構買ったなと思いながら私はシートに座った。
「何買って来たの?」
「大盛り焼きそば、たこ焼き、イカ焼き、ジュース」
「そんな食べれるのかい…」
「桜にも手伝ってもらうし」
「え?涼が買ったんだからいいよ。食べな」
「こんなん食べきれねぇよ。桜と食べるから色々買って来たんだし」
「ならお金出す」
「要らない」
「ダメ」
前はクレープだったし、私もジュースを買ったから丸く収まったが今は違う。
海の家は食べ物の値段が普通よりも高い。
そう考えると甘えることなんて出来なかった。
私はバッグの中から財布を出そうと手を伸ばすと涼に掴まれる。
「要らないって」
「私がダメなの」
「ひとまず食べよう。冷めると美味しくなくなる」
「でも…」
私の手を離すと涼は焼きそばが入っているパックの蓋を外して、割り箸を渡してくる。
私は渋々受け取ってたこ焼きとイカ焼きの蓋を外した。
「「いただきます」」
イカ焼きを1つ食べると濃厚な味が口に広がり鼻を通る。
なんで屋台のものってこんなに美味しいのだろう。
「美味しい」
「だろ?焼きそばも美味いから、ほら」
「ありがとう」
涼の言う通り焼きそばも香ばしくて美味しかった。
やはり出来立てを食べた方がいいな。
お金問題は後にして私達は目の前にある食べ物達を片付けた。
普通の速度で食べる私に対して、ガツガツと食べる涼。
もっとゆっくり食べれば良いのにと現在、熱々のたこ焼きを頬張り苦しんでいる涼を見て思った。
「あっち〜」
「ジュース飲みなよ」
「これは後でかき氷だな」
「まだ食べるの!?」
「かき氷なんて水と同じだろ」
「そうかもしれないけどさ…」
やっぱり高校2年生の男子はみんなこんな感じなのだろうか。
異常なまでの食欲に若干引きつつある。
「最後食べろよ」
「涼が食べて。私イカ焼き食べる」
「はいよ」
たこ焼きを差し出してくれたが私は地獄のように熱いたこ焼きを食べれる自信がなかった。
丁重に断って返す。
その代わりこのイカ焼きを食べる。
最後に取っておいたゲソの部分。
涼に食べられるかなと思ったけど、ちゃんと残っていた。
私は端に残ったタレを満遍なくつけて口にすると頬が落ちそうなくらいの幸福感が来る。
人間は濃厚タレをたっぷり付けたゲソを食べるだけで幸せと感じるらしい。今、私がその状態だった。
「ご馳走様。それじゃあお金を…」
「要らないって言っただろ」
「だからさぁ…」
また口喧嘩態勢に入るが、涼は自分が持っていたたこ焼きを箸で持つと私に近づけてくる。
「な、何」
「これを1口で食べたら金もらうよ」
「はぁ!?」
ニヤニヤと私を見ながらたこ焼きを口の前まで持ってくる涼。
こいつ、やる事が小学生だろ…。
別に食べさせてもらうのが恥ずかしいわけじゃない。
相手は涼だから。それでも私は躊躇する。
だってまだ湯気が立っているたこ焼きを1口で頬張るなんて、さっきの涼みたいに苦しむだろう。
最悪の場合口の中火傷する。
しかし今、私の対抗心に火がついてしまった。
ここで食べれば申し訳なさを消す事が出来るし、お金問題は円満に解決だ。
私は覚悟して目の前にあるたこ焼きにかぶりついた。
「あ、あれ?」
私の口は空振りする。
たこ焼きが前から逃げて行ったのだ。
涼の手によって。
「ちょっとどういうこと…」
「流石に地獄だろ。…ほい」
涼は半分に割ったたこ焼きをふーふーして私に向ける。
私は小さくなったものを口に入れてもらうと多少の熱さと膨大な美味しさが広がった。
「半分は俺な」
「…うん」
口をモグモグさせながら私は頷く。
噛んでいて気付いたが、私の方にタコを入れてくれたらしい。
と言うことは今涼が口にしたのはただの焼き。
また私は眉を下げた。
「なんかごめん」
「何がだよ」
「色々としてもらっているし…」
「別にいいよ」
「さっきだって普通なら女性の役目じゃない?」
「ん?何が」
「冷まして食べさせてあげるの」
唇を尖らせていかにも拗ねてます感を出してしまう。
実際は拗ねているのだから間違ってはいないけどなんだか子供っぽいと思われてしまいそうだ。
そんな私を見て涼はクスクスと笑い始めた。
「そんな笑う?」
「ごめん。面白くって」
「何でよ」
「可愛いなって」
「…え?」
初めて涼が私に対して言った言葉に思考と体が停止する。
そんな姿も面白かったのか涼は笑い続けていた。
でも私は笑える状況じゃない。
全てが停止してしまったのだから。
すると涼は持っていた箸とたこ焼きが入っていたパックを置いて、私を見つめた。
「今度は桜がしてよ」
「あ、あの…」
「別に食べさせるのは男でも女でもどっちでも良いじゃん。でもさ、桜がしてくれるのであれば俺は喜んで食べるよ」