【完結】君は僕のストーリーテラー

「桜ちゃん、今日もありがとう」

「いえ、私も楽しかったので」



2回目の研究室を後にして、私と才田さんは建物の外にあるベンチで話していた。

今日はここに来る前に買ったお茶を飲みながら。

才田さんはさっき室内の自販機で買ったコーヒーを手に持っていた。



「社長とは何か話してる?」

「お父さんは遅くに帰ってくるのでまず会ってないですね…」

「そうなんだ。可愛い桜ちゃん放ったらかしって…」

「今に始まった事じゃないので大丈夫です」

「それもそれで問題だと思うけど」

「…だから嬉しいんです。お父さんの役に立てることが。もしかしたら初めて一緒に何かをするかもしれません。それくらい時間が重ならなかったから」



私は少し笑ってお茶を飲む。

半分ほど減ったお茶はもう冷えてなかった。

ここのベンチは日陰だから良いけど、今日の日差しは強い。

ジリジリとする暑さだ。

きっと日に当たる所にいればこのお茶は美味しく無くなっていたと思う。

少し話すだけだから日陰のベンチにしたけど、本音を言うとここも暑かった。

才田さんはベンチの背に白衣をかけて、前と同じワイシャツとズボン姿でいる。

ちゃんと気を遣って中で話した方が良かったかな。

でも仕事場だと才田さんはキャラが違うから、こんなにフレンドリーに話せないだろう。

どっちにしろ外に出なくてはならないのだ。



「私も時間が取れたら桜ちゃんをどっかに連れて行ってあげたいんだけどね〜」

「そんな…でもありがとうございます。私は大丈夫ですよ。元々インドア派なので」

「若いうちは外に出なくちゃいけないよ。私みたいになれば嫌でも外に出れないから」

「才田さんだって若いじゃないですか」

「私の年齢知ってる?」

「えっ、24くらい?」

「惜しい。25」

「若いですよ」

「ありがと!桜ちゃんに言ってもらうと本当に嬉しいよ」

「一応才田さんの妹ポジションなので」

「そうだね」



側から見たら姉妹に見えてくれるのだろうか。

才田さんといるとやっぱり姉が欲しかったなと欲が出てしまう。

まぁ自称妹なので、姉が居ると言っては居るのだが。

すると才田さんは思い出したように私に話す。



「桜ちゃんって絵が上手なの?」

「絵ですか?一応美術部入ってるので、そこそこ」

「ほら、今日絵を描いていたからさ。相手も興味津々で桜ちゃんの絵を見ていたし」

「そうなんですか?….そうだといいな」

「……」

「才田さん?」

「ああ、ごめん。考え事。美術部の活動って何するの?」

「私の学校はコンテストに応募したりとか、ただ黙々と絵を描いたりとかですね」

「へー、コンテストか」

「私は風景画のコンテストを中心にやってます。と言っても賞は取れてないんですけど」

「描けるだけ凄いよ。私なんて絵はさっぱり。未知の生物描いちゃうもん」

「見てみたいです」

「無理無理。恥ずかしい」



首と手を横に振って否定する才田さん。

私はその姿に本当に無理なんだなと笑ってしまった。

…そろそろ暑くなってきたな。

そう思っているとタイミングよく才田さんのスマホが鳴る。



「ごめん」



才田さんはベンチを立って私から離れると一言二言話し、スマホを切った。



「呼び出し来ちゃった。今日は送れないかも…」

「大丈夫ですよ。1人で帰れるので」

「ごめんね。次はちゃんと送るから」

「いえいえ。お仕事頑張ってください」

「ありがとう。それじゃあね。熱中症に気を付けて!」

「はい」



白衣と途中半端のコーヒーを持って才田さんは建物の中に入って行った。

私は緩くなったお茶を一気飲みして近くのゴミ箱に捨てる。

お腹に水分が溜まって少し苦しかった。

現在時刻は12時過ぎたところ。

また更に強くなる日差しと暑さが私の体を焼き付けた。
帰り道は家とは別方向に向かう。

それは帰り道というよりも寄り道になってしまうが。

私は海に持って行く用の画材を揃えたかった。

後で後でと思って1学期中遠回しにしたおかげで一気に今日買うことになる。

金欠までとはいかないけど、お店に滞在する時間が長くなってしまうはずだ。

さっさと買ってさっさと帰りたいけど、自業自得。

私はお店へと足を運ぶ。

が、足が止まった。

私は隣に建っている書店の目の前で考える。

あの青年に何か本を持って行ったら会話の話題になるのではないか。

画材よりもこっちが優先だ。

そう思って書店の扉を開いた。



「いらっしゃいませー」



店員さんの声と共に涼しい風が私の体を冷やしてくれる。

ずっと暑い外に居たからここは天国に感じた。

立ってぼーっとしていたいけど、迷惑になるのですぐに歩き出す。

何の本が良いのだろう。

流石に小説は読むのに時間がかかる。

パッと見てすぐに話せるものが理想だ。

私は小説コーナーや漫画コーナーを無視して奥に進む。

ここも違う、これも違うと歩いていれば小さい子用の本コーナーまでやってきてしまった。

流石に絵本はなぁ、と思い見ていると分厚い本を見つける。



「図鑑…」



花、動物、海の生き物などが多く載っている本。

私は手に取ろうと伸ばしたがすぐに方向を変えた。

手に取ったのは塗り絵。

図鑑の隣に置いてあった、簡単な塗り絵だ。

これなら2人で出来るのではないだろうか。

少しなら私だって教えてあげられる。

私が色鉛筆とか絵の具を持っていけば成り立つ話。

図鑑よりもこっちの方がよっぽど良い気がした。

私は簡単な塗り絵を2冊買う。

レジの人はきっと弟や妹に買うんだろうなと思っているかもしれない。

実際は私よりもたぶん年上の青年に贈るものなのだが。

塗り絵は安いし、何より小さい子用なので無駄な出費にはならない額で手に入った。

私は涼しい書店から出て隣にある本来の目的のお店へ入る。

ついでに色鉛筆も1つくらい買っても良いかもな。

私は海に持って行く用の画材はそっちのけで青年と描く色鉛筆を探し始めた。
夏休みに入って1週間。

課題はぼちぼち、部活は適当にこなしていた。

でも今回の夏はいつものような夏ではない。

お父さんの仕事の手伝いがある。

ここ7日間、毎日じゃないけど充実している気がした。

何か予定があることは気持ち的にも良いことらしい。

詰めすぎるとよくないけど。

それに今週の土曜日は涼と海へ行く。

しかし終わったら夏のメインイベントは無くなってしまうが、1回夏らしいことをすれば私は満足だ。

別にその日から予定が無くなるわけじゃない。

夏休み中は手伝いがずっとあるのだから。

勿論今日もお父さんの仕事場に居る。

3日に1回か、2日に1回の頻度で来ているから受付のお姉さん方も私とは顔見知りになった。

仕事場に着くと、真っ先に受付へ顔を出す。



「才田凛音さんをお願いします」



才田さんの名前を出してお姉さん方に言うとキラキラした眼差しになるのはわかってる。

どこかに電話をかけて話す声もやはり高い。

この場所では才田さんはクールなアイドルだ。

しかし私と2人の時にはクールではなくなる。

それを知らないお姉さん方はクールな才田さんにときめいているみたい。

才田さんの呼び出しが終わると、お待ちくださいと言われて私は受付で待つ。

たまに「学校の宿題はどうなの?」とか「部活は?」とかを質問してくれるので沈黙はそこまでなかった。



「桜様お待ちしてました」



才田さんは私の呼び出しがかかるとすぐに来てくれる。

案の定、受付のお姉さん方は目がハートになっていて、そんな姿を見た才田さんは「お疲れ様です」とクールに挨拶した。



「それでは行きましょう」

「はい」  



お姉さん方に軽くお辞儀をして私は才田さんと共に地下の研究室へ向かう。

私1人だと立ち入れないから、才田さんの力が必要なのだ。

これが仕事場の一連の流れ。

後は研究室に入って青年がいる扉の前で軽く打ち合わせをして会話を開始する感じだ。



「桜様、今日はどうする予定で?」

「塗り絵を持ってきたんです。それを話題にしようかなって。最初は色鉛筆の方が良いかもしれないと思ったんですけど、あの細い腕で描くのなら筆を使った方が楽かなと思ったので絵の具を持ってきました。少し大荷物に見えますけど」

「なるほど。そういえば、彼も本をねだったようです。私は詳しい事はわかりませんが他の研究員が言ってました。初めて自分の欲求を言ったようで…」

「そうなんですか?その本は今は…?」

「彼が持ってます。それも1つの話題に出来るかと」

「わかりました。それでは行ってきます」

「何かあればすぐに言ってください。…扉を開けます」



重い音はいつも変わらない。

青年の元へ行く時は心臓が今でもバクバクと動く。

まだ緊張は解けていないみたいだ。

それでも私はお父さんの手伝いに来ている。

逃げ出すわけにはいかない。

完全に扉が開けば1歩ずつ歩く。

扉がが閉まると同時に青年は顔を上げてこっちを見た。



「こんにちは」

「…こんにちは」



いつもと同じ体育座り。

でも前と違うのは周りに私が描いた絵が散らばっている事だ。

なんだか嬉しくて私は小走りで駆け寄る。

よく見たら足元には1冊の図鑑が置いてあった。



「これ図鑑ですか?」

「うん…。動物の…」



私が本について聞くと、青年は細い腕で図鑑を持ち上げて太ももの上に乗せる。

きっとその腕では重いだろうなと思い見てしまった。

私は隣に座って開かれた図鑑を覗き込む。



「好きなの、ある?」

「好きな動物ですか?…うさぎとか?モフモフの」

「うさぎ…」



青年は迷うことなくページを捲る。

目次を見なくたってわかるらしい。

それくらい使い込んでいるのか。

最後にあったのは3日前。

多くて3日間で頭に入れたことになる。

凄いなと私は感心した。

うさぎのページを開いた青年は少し図鑑をずらして私に見えやすいように持ってきてくれる。

私は本の半分を手で支えてうさぎを見た。



「可愛い…!」

「これとか…あったかそう」

「本当ですね!白いうさぎも茶色いうさぎも可愛いなぁ」

「うん…」



お互いに図鑑へ指を置いて話し合う。

うさぎトークでこんなにも盛り上がるとは。

すると青年は1番上に載っていた、真っ白いうさぎを細く折れそうな人差し指で差す。



「これ、描いてほしい…」
「任せてください」



塗り絵の存在を忘れて私は何も描かれていない大きめのメモ帳を取り出すと、鉛筆を持って描き始める。

青年が持っている図鑑を時々見ながら。

モフモフ感を出すために鉛筆を動かすと青年視線を感じる。

興味津々で見てくれていて私も描きがいがあった。

気合を入れて描くとすぐに出来上がり、私は前と同じようにメモ帳を破って青年に渡すと、両手で大事そうに受け取ってくれた。



「可愛い…」

「意外と上手く描けました。ポイントはクリクリの目です」

「うん…」



青年は自分の目の前に紙を持ってきてジッと見つめると図鑑の上に乗せる。

そしてうざきを指でなぞるように動かした。

尻尾を通って耳へ到達する。

丸くなっている背中を通ればうさぎの出来上がり。



「こうすると、楽しい…」

「あっ、そうだ」



やっと塗り絵を思い出して私はバッグから1冊出す。

表紙を見せるように持ってくると青年の目は輝いた。



「ぬりえ…」

「はい!私、絵の具持ってきたんです。良ければ一緒にやりませんか?」

「うん」



頷いてくれた青年に塗り絵の本を渡して、色付けたい絵を探してもらう。

その間に私はパレットを出して絵の具の準備を始めた。



「どうでしょう?塗りたいのありますか?」

「…犬があった」

「それじゃあ犬を塗りましょうか」



先程、私が描いたうさぎよりもクリクリの目をしている犬のページを開く青年。

私はペットボトルの水で少し濡らした筆を青年に手渡した。



「何の色が良いですか?」

「色…」

「犬って色んな模様とか、色があるから自由で良いと思います。普通じゃない色だって芸術的になって素敵なので。真っ黒でも、水玉模様でも、紫色でも構いませんよ」

「……」



私はあるだけの絵の具を床に並べてどんな色があるかを見せる。

青年が手を伸ばした色は水色だった。

水色の犬なんているだろうか。

いや、何でも良いと言ったのは私だ。

青年水色の絵の具を私に預ける。

私はパレットにまずは少量の絵の具を出した。



「このままの色が良いですか?それとも濃くします?薄めます?」

「え?」

「えっと、濃くすると……こんな感じ。薄めると…こうなります」



私は絵の具を混ぜ合わせたり、水を足したりして色を変えさせる。

その瞬間を1秒も逸らさずに青年は見ていた。

私も絵の具の色を徐々に変える瞬間が楽しい。

まるで実験みたいで。

持っているパレットを青年に近づけて説明する。



「好きな色を取ってください。あ、勿論筆で。それをこの塗り絵の隙間に塗っていけば完成です」

「うん…」



私の言葉通りに青年はパレットに筆をつける。

控えめに絵の具を取ると、塗り絵の犬に線を描いた。



「綺麗な色になって良かった…」



青年は続けて犬の体に線を引くように筆を動かす。

染まっていく犬の姿はまるで真っ青な空のようだった。

夢中で染める青年はどこか楽しそうに感じる。

私はその顔を見れて満足だ。

塗り絵を買おうと思ってくれてありがとうと、当時の自分を褒めてあげた。
初めて10分くらいだろうか。

小さい子用の塗り絵はそこまで時間がかかる事は無いけど、細い手と腕でゆっくり描く青年はやっとのこと完成した。

耳から尻尾まで全部が水色だ。

こんなの現実に居たら実験台にされてしまう。

それでも綺麗で可愛い犬に私は見えた。

青年は筆を床にあったパレットに置くとこっちを向いた。



「楽しかった…」

「良かったです!」

「うん….」



ニコッと笑った青年に私はもっと嬉しくなる。

初めて話して3回目で笑顔を見せてくれた。

この事をお父さんに報告してあげたい。

それくらい青年の笑顔には価値がある気がした。

するとパレットに置いてあった筆を青年は私に手渡す。

私が首を傾げて受け取ると青年は小さな声でお願いをしてきた。



「描いてほしい…」

「塗り絵を?」

「うん…」

「でも、私が描いたら貴方が描くページが少なくなっちゃう…」



薄い塗り絵本を選んでしまったので1ページ1ページが貴重だ。

2冊買ったとしても熱中すればすぐに終わってしまう。

青年のために買った本が私の手で染まるのは気が進まない。

けれどせっかく筆を渡してリクエストしてくれたのだ。

描いてはあげたい。

私が頭を悩ませて握っている筆を見ていると、青年は私の肩を指で突っつく。



「この犬、もっと綺麗にしてほしい」

「え?でも十分綺麗ですよ?」

「ううん…。1つの色しか無いから…」



確かに水色オンリーだ。

でもせっかく頑張って塗ったものなのに付け足していいのか。

私は戸惑いながら塗られた犬を見た。

綺麗な水色は丁寧に塗られている。

青年の性格が表れているのだろうか。

私は頷いて塗り絵を下に置くと、新しい色の絵の具を取り出した。

私は少し筆に水を加えて溶かすように混ぜる。

水っぽくなり、筆についたその色を犬の体に塗りつけた。

リズミカルに軽く叩きながら色を薄く染み込ませる。



「……」

「……」



真剣に描く私と真剣に見る青年。

今この空間に音というものはなかった。

1つ出来たらもう1つ。同じように叩いて描く。

力を調節しながらなるべく実物に近くなるように。

誰かの色に自分の色を加えるのは緊張するけど、なんだか楽しい。

相手が青年だからなのか。

最後の筆の動きが終わると私は青年と同じようにパレットの上に筆を置く。



「ど、どうでしょう?」

「…空」

「あっわかりますか!?良かった〜」



水色の犬。

そしてその模様に私は雲を描いた。

白の絵の具を濃くしたり薄くしたりして雲の透明感などを再現する。

風景画で雲は何度も描いてきたから腕の心配は無かったけど、青年が雲とわかってくれるかに不安があった。

でも青年は間違える事なく私が描きたかった事を言ってくれる。

青年が描いた空と私が描いた雲。

それが犬の体に表れて、まるで体の中に空があるようだった。



「…凄い」

「貴方が描いてくれた空が綺麗だから私も上手く濡れました。まさか犬がこんなに芸術的になるなんて」

「うん…」



見惚れてくれているのか。

青年は私の顔を見ずに本の中の空を見ている。

それに手を伸ばした青年の手を私は慌てて掴んだ。



「?」

「まだ乾いてないので汚れちゃいますよ!少し時間が経ってから触った方がいいです」

「そっか…」



残念そうな顔に私は申し訳なくなるが、汚れてしまうのは大変だ。

この空間には水道なんてない。

その前に何も無い。

汚れたら白衣の人達に手伝って貰うはずだ。

だったら止めておいた方がいい。

ただでさえ忙しそうな人達なのに汚れを落とすだけで手間を煩わせてしまう。

私は細い腕をそっと離すと、青年の手は太ももの上に乗った。
「空、しばらく見てないから…」

「えっ」

「感じてみたかった…」



触ろうとしていたのはそういう理由だったらしい。

しばらくとはどれくらいの間ここに居るのだろう。

ずっと模索しないようにしていたけど、やはり青年はお父さん達に何かをされているのか。

聞きたい。

けれどここは私と青年の2人だけじゃない事を忘れてはいけない。

外に出れば才田さんや研究員の人達がいる。

お父さんは会話は聞こえないからって言ってたけど、嘘のような気がした。

もしお父さん達に逆らったらどうなるのだろう。

考えたくないけど、考えてしまう。

そんな私の様子を気にした青年は私の右手を優しく掴んだ。



「な、何でしょう?」

「…あったかいね」



私の体温は変わらない。

そして青年の体温も変わってない。

冷たかった。

私は右手に乗せてある手を自分の左手で重ねるように暖める。



「貴方は…」

「…うん」

「海を見たことはありますか?」

「……ない」



軽く首を横に振って答える青年。

私は青年の青い目を見るように顔を合わせた。



「私も無いです。だから見たいと思いませんか?」

「でも、僕はここから…」

「私が連れてきます」

「連れて、くる…?」

「はい。海を連れてきます。だから」

「?」

「海を連れて来られたら、貴方の事を教えてください」



ずるいだろう。セコイだろう。

私は必ず海を連れてくる。だから絶対に話を聞ける。

でもこの方法しかなかった。

私の小さな頭脳で考えられるのは、何かと交換する条件しか。

今度は縦に頷く青年。

わかっていた。

お願いはちゃんと聞いてくれる事を。

確信しているのにわざわざ聞くのは性格が悪い。

ごめんねと心で謝りながら私は微笑んだ。



「ありがとうございます」

「うん…」



私は少しだけ重ねた手に力を込める。

これからどうすれば良いのだろうという迷いを添えて。
「海…」



桜ちゃんが居なくなったこの場所で、僕はいつものように座っていた。

彼女が帰る前に僕に言った言葉。 

それは海を連れてくるだった。

ずっとここに居ても海くらいはわかる。

青くて、冷たくて、広がっている水溜り。

しかしそれを連れてくるというのはどういうことだろう。

海は歩けるのだろうか。

海坊主?

いや、桜ちゃんが連れてくるのだ。

自分で歩くわけない。

だとしたら何だろう。

僕は考えるけど全く方法が思い浮かばなかった。

ちょうど足元に置いてあった絵を持って見る。

犬の絵は桜ちゃんが付け足したことによってとても綺麗になっていた。

僕は思わず頬が緩む。

こんな犬がいたら良いのになと思った。



「失礼するよ」



絵を見ていると急に扉の方から声がする。

桜ちゃんじゃない。男の声。

僕はそっちを見ると白衣を着た男と同じような女が歩いてくる。

この人達が点滴以外で僕に話しかけるなんて今までなかった。

散々ここに閉じ込めておいてただ僕を窓から見るだけ。

僕は白衣の2人を睨みつける。



「感情が出てきたようだね。これも桜の影響か?」

「そう思われます」

「この計画は正解だった。桜にも後でお礼をしなければ」

「はい」



僕をそっちのけで2人で会話をする。

感情?計画?喋っていることが全く理解できない。

会話に置いていかれてる気がした。

僕は後退りするような体勢になる。

すると男の人が笑った。



「警戒しないでほしい。別に今は何もしない。ただ、経過を見たいだけでね」

「………」

「さて、いくつか質問しよう。才田、メモの準備はいいか?」

「はい」



男と女は見下すように僕を見る。

睨みつけるのは変わらないけど、手が震えてきた。



「君は名前を言えるかい?」

「………わからない」

「そうか。次だ。ここにどれくらい居るか知ってるか?」

「……知らない」

「次だ」



僕が質問する間もなく聞いてくる。

名前もどれくらい居るかも聞きたいのに聞けない。

全く隙をくれない。

女はずっとメモを取っている。

僕の返事を書いているのだろう。



「自分が何をされているかわかるか」

「……」



答えるのも嫌になって僕は話さずに首を横に振る。

もう喋りたくなかった。

睨みつけるのもやめて視線を下に向け、この人達と目を合わせないようにする。



「最後だ。記憶はどれくらい残ってる?」



名前も言えない僕に記憶なんてない。

また首を振った。
「そしたら次は君の時間だ」

「え…」

「しゃ、社長?」



僕と女は男の言葉を聞き返す。

思わず顔を上げてしまった。

男は僕を見下す体勢は変えずに少し近づく。

逃げるように後ろに下がりたいけど、手が震えて力が入らなかった。



「1つだけ君の質問に答えよう。何でも構わない。偽りなく教える事を約束する」

「社長、それはどういう…」

「才田。黙ってろ」

「…かしこまりました」

「君自身、疑問に思ってることはいくつもあるはずだ。それとも何も聞きたくないか?」



僕は男を見る。

1つだけの質問を答えてくれるというのは自分の状況を知るチャンスだ。

それなら何を聞けばいい?

質問だから自分の願いが叶うわけではない。

ここから出してなんて言ってもそれは質問にはならなかった。

僕は今何を聞きたいかを考える。

欲を言えば全部聞きたい。最初から最後まで全てを。

でもそんなこと僕は言えなかった。

ずっと黙っていると女が声を放つ。



「社長、失礼ですが1つだけ。彼はプロジェクトの影響で知的能力が下がりつつあります。もしかしたらちゃんと言葉が出ない可能性も…」

「まぁ待て。直接聞いた方が本人の為だ。…君からの質問はないのか?」

「……ある」



聞きたいことは沢山ある。

両手で数えられないほどの悩みと不安が僕を攻撃する毎日だ。

だから僕は知りたかった。

ここが何処とか今は何日とかを理解したって現状は変わらない。

だからこれから言う質問が僕の心の支えになってほしい。

そう思って僕はジッと男の目を見た。

この人は桜ちゃんのように僕の目線には合わせてくれない。

ずっと見下している。だからだろうか。

本当に真実を言ってくれるように思えた。

桜ちゃんみたいな優しい人だときっと悪い状況だったら誤魔化すか嘘をつく。

僕が知りたいのは、本当の事だ。冷たいこの人なら……。



「僕、…僕を」

「……」

「僕の事を待ってくれている人は、居ますか?」
「残念ながらいない」



静かな空間が余計に静粛に包まれる。

僕は唾液を飲み込んだ。絶望はしない。驚きもしない。

けれども僕自身の時が全て止まってしまったかのように動かなかった。



「おまけに言葉を1つ足そう。ここの研究員を除けば君は1人だ。…君の時間は終了した。私達は失礼するよ」



男は扉の方へ向くと、一度も僕を振り返る事なく出て行った。

女もその1歩後ろを歩いて何事もなかったかのように扉をくぐる。

僕はまた1人になった。

…また?またではない。ずっと1人だったんだ。

あの人の言葉通りなら。

僕は後退りした時に散乱してしまった紙をゆっくりと自分の周りへ戻す。

桜ちゃんが描いてくれた花、動物、名前。

それを1枚ずつ手に取ってなぞり書きする。



「花…」



この花にも周りには仲間がいる。

例え種類が違くたって綺麗に咲いて。



「猫…犬…」



この2匹にも家族がいる。

種族を越えた繋がりだって生まれるはずだ。



それなら僕は?



仲間も家族も居ない。

待ってくれる人が居ないというのはそういう事だろう。

それじゃあ何処から来た?何処で僕は授かった?

その前にこの体は人間なのだろうか。

なんだろう…。

急に僕の奥底から湧き上がってくる気持ち悪さと息苦しさ。

すると頬に生暖かいものが流れる。

それは顎を伝って首まで流れた。

でも僕の手はそれに触れる事なくなぞり続ける。



久しぶりに流した涙だった。