才田さんとのランチの後、私は車で家まで送ってきて貰った。
距離も遠くないし電車もあるから帰れると言ったのだが、送らせてくれと言うことでまた甘える。
私は才田さんにお礼を言って頭を下げた後、車が見えなくなるまで見送り、完全に車の姿が消えると私は家の中に入った。
玄関は開いてなくて、私より大きな靴も無い。
私は自分の部屋に入ってスマホを取り出し連絡アプリを開く。
新しく上には才田さんのアイコンが載っていた。
しかし才田さんではなく、涼のトーク欄をタップする。
今の時間帯だからご飯では無いと思う。
涼の事だ。暇しているだろう。
私は涼宛にメッセージを打つ。
【海の件】
全く可愛くも無い一言で送信すると、すぐに既読が着いた。
やはり暇していたようだ。
うさぎが驚いているスタンプを送ってくる。
これはどう言う意味だと頭を捻っていると
【まさか行けなくなった!?】
と返ってきた。
スタンプはそう言う意味ねと理解する。
【違う。日程を決めて欲しくて】
【紛らわしい文送るなよ】
【焦った?】
【1人で青春かと思った】
【涼が1人でも青春出来るなら行かないけど?】
【ご冗談を】
急に改まった言葉を使ってくる涼にフッと笑う。
やっぱり涼みたいな友達と話している時が1番肩の力が抜ける。
なんだか完全に抜けたのは今この瞬間かもしれない。
同世代の友達って凄いな。
息を吐くたびに力が抜けてくる。
私は涼に感謝しながら返信を打った。
【ご冗談です】
【安心したわ。それで?桜はいつあたりがいい?】
【私はどこでも】
【部活は?】
【そこまで無いから】
【じゃあ明日でも?】
【それは無理】
【いつでも良くねぇじゃん】
似たような会話を才田さんともした気がする。
あまりいつでも良いとは言わないようにしよう。
後がめんどくさくなりそうだ。
涼に限っては余計に。
でも指定日となると迷う。
研究室に行く時以外は本当に予定が無いのだ。
それこそお盆の時期だって家に閉じこもっている。
お父さんの実家になんて行かない。
それは今に始まった事ではないけど、つまらない日々と言ったらつまらなかった。
どの日にしようか悩んでいると続けて涼からメッセージが届く。
【来週の土曜は?】
私はカレンダーアプリを開いて見てみると、土曜日は研究室に行く予定は無かった。
【いいよ。土曜日で】
【りょーかい】
【行き先は任せた。あまり遠くにしなければ問題ないから】
【わかった!】
涼はまたうさぎのスタンプを私に送る。
後は涼に任せておけば大丈夫だろう。
私はとりあえず画材を買い足さなければ。
私も似たようなスタンプを涼に送信してアプリを閉じると、完全に昼寝をする前に画材が入っているバッグの確認を始めた。
暖かい感触がまだ残っている。
手をグーとパーにして動かしてもその感触は消えない。
なんだか気持ち悪いなと思ってしまった。
また開けて閉じてを繰り返していると、重い扉が音を立てる。
白衣を着た男が1つの袋を持って僕の近くにやってきた。
「点滴を交換する」
「……」
受け応えをしないのは当たり前だ。
僕はこの人達が嫌いだから。
でも僕が返事をしなくたってこの人達は動く。
拒否権はない。
応えても、無言でも全て言いなりなんだ。
僕はまた下を向いて膝に顔を埋める。
男は点滴をいじっていた。
僕とこの人達に会話なんて無い。
だから今日、何年振りかに会話をした。
最初に出た声がガラガラだったのを思い出す。
言葉も途切れ途切れになってしまった。
それでも口から言葉を出した後はなんだかスッキリしている。
『また来ます』
今日僕に話しかけた女の子、桜ちゃんの言葉。
高校生2年生。
僕よりはたぶん下だけど何歳離れているかはわからない。
その前に僕の年齢はいくつなのだろう。
けれどそれを聞いたところで何になる?
僕を救ってくれるわけじゃない。
もしかしたら思っていたより月日が経っていて絶望するかもしれない。
だったら最初から聞かないほうが僕のためだ。
僕は目を瞑る。
扉が閉じる音がした。
もう点滴は変え終わったらしい。
チラッと首を動かすと、点滴は満タンになっていた。
僕の栄養源はこの点滴だ。
食事なんてしない。
最後に食べたのはいつだっけ?
最後に食べたのは何だっけ?
思い出そうとしてもモヤがかかって何も見えない。
僕はまた目を閉じて時間が経つのを待った。
次に目覚めた時の体勢は横になって寝ていた。
いつの間に動いたんだろうと思う。
僕はどれくらい寝ていた?
体を起こして点滴を見ると半分くらい減っている。
僕はまだぼんやりとしている頭を軽く振って目を覚ます。
前髪が伸びてきて鬱陶しい。
後ろ側の髪の毛も跳ねていてボサボサだ。
またいつもの体育座りに戻る。
今日は何をされるのだろう。
少し外の方から話し声が聞こえる。
何を喋っているのかは理解できないけど、人がいるのは確かだ。
僕を見張っているのか。
それとも次の実験を始めるのか。
どちらにせよ気分が悪い。
逃げ出したいのに逃げ出せないこの空間が嫌になる。
僕は頭を掻いていると扉が開いた。
点滴はさっき交換しただろう?
口には出さないけど僕は心の中で嫌味を言う。
すると入ってきた人は僕の隣に座って顔を覗き込んだ。
「こんにちは」
「…えっ」
優しい声が聞こえて思わず頭を上げる。
なんでまた来たんだ?
いや、来るとは言ってたし僕も来て欲しいみたいな行動はとったけど早すぎないか?
点滴は変えてから半分しか減ってない。
わからなくなって目を見つめていると、優しい声はまた僕に語りかけた。
「私の名前覚えてますかね?」
知ってるよ。
久しぶりに名乗られたのだから。
僕は名乗り返せなかったけど。
「さくら、ちゃん」
また掠れる声と途切れる言葉。
ちゃんと話したくても舌と喉がおかしい。
日常的に話すことは大切なことだと思った。
僕の言葉を聞いた桜ちゃんは誰にでもわかるくらい嬉しそうな表情をする。
まるで花が咲いたようだった。
名前の通り君は桜の花なのだろうか。
それとも君は妖精か?
人間の形をした精霊か?
おかしな思考になる僕を見る桜ちゃんは笑顔で何かを取り出した。
「私の名前の漢字を教えますね」
カバンから出したのは大きなメモ帳とペン。
桜ちゃんはそこに自分の名前をスラスラと書いた。
【海辺 桜】
「漢字…読めますか?」
「…うん」
海と桜の単語が入ってるなんて凄いなと思う。
季節は別々だけど、どれも綺麗なものだ。
僕は桜ちゃんの漢字を覚える。
「海辺っていう苗字は日本では500人くらいらしいです。桜は結構多いと思いますけど…」
「…うん」
「でも名前に関してはお父さんに何も聞いてないんです。どんな理由だったとか。誕生日は5月だから桜シーズンは終わってるので、季節は違うかなって思ってます」
「お父さんが、桜、好き、とか…」
「その可能性はありますね。今度聞いてみます」
「…うん」
なんだか楽しい。まだ一言二言しか喋ってないのに。
白衣を着た人達と関わるのは苦しい。
でも桜ちゃんと話すのは楽しく感じる。
久しぶりの会話相手だからかな。
それに桜ちゃんは僕の目を見てくれる。
それもわざわざ座って。
あの人達とは大違いだ。
僕を人として見てくれている。
それが楽しいと合わさり、嬉しいになった。
「あの、好きな花とかありますか?」
「花…?」
「はい。私は薔薇が好きです。なんだか持つと大人って感じがしません?薔薇が似合う人って素敵だと思います」
「僕は…」
頭の中で花を考える。
どれが好きだと言われてもわからない。
それでも1番最初に浮かんだ花があった。
しかしその花の名前が思い出せない。
「薄い色で、いっぱい咲いている花…」
「薄い色?」
「名前がわからない」
「他の特徴とかありますか?」
「…花びらが少し多い」
「んー」
「木じゃなくて地面に咲いてる花…」
「なんだろう」
桜ちゃんは持っていたメモ帳に絵を描く。
僕が言った特徴で描いているみたいだ。
出来上がったらしくメモ帳を僕に向けてくれる。
「綺麗…」
「こんな感じですか?」
「…違うかな」
「なるけど」
本当にこの短時間で描いたのかと思うほど綺麗だった。
普通に同じ形の花びらを描くだけの絵ではない。
僕はまた描き始めた桜ちゃんの絵を見るために近づいた。
ふわっと良い香りが僕の鼻に纏う。
香りというものに意識を向けながらも目は紙に描いてある花を見る。
ちょっとした影もついてあるから、立体的に見えてより花らしい。
僕が近づくと桜ちゃんの描く手は止まった。
なぜ描かないのだろう。
もしかしてこれが完成なのだろうか。
でも僕が思い浮かべているのはこの花ではない。
もっと、花らしいというか…。
僕は桜ちゃんの顔を見て首を振る。
「これじゃない…」
「は、はい」
「どうしたの…?」
「近いです」
桜ちゃんは僕から顔を逸らしてメモ帳に視線を向ける。
確かに近いかと僕は少し離れた。
高校生だから年頃なんだろう。
真っ赤に顔を染めている桜ちゃんを見て僕はそう思う。
僕だって桜ちゃんみたいな時もあったかもしれない。
でも記憶が霞んで思い出せないが。
そう考えてると段々と不安になってくる。
僕はどういう経緯でここに来たのだろう。
何歳で?そして現在の年齢は?
年数も日にちもわからないから計算出来ない。
僕は視線を下にすると桜ちゃんの心配そうな声が聞こえた。
「大丈夫ですか…?」
「…うん」
「体調悪いですか?」
「ううん。あの…」
「なんでしょう」
桜ちゃんに今は何年何月何日と聞きたかった。
しかし僕の口は固く動かない。
きっと桜ちゃんなら偽りなく答えてくれるはずだ。
だから怖くなってしまったのだろう。
僕の曖昧な記憶が何年前なのか知らないが、何年ここに居たかと思い出してしまうと体が震え出す。
僕は下を向いていた顔を上げて桜ちゃんを見ると、指をメモ帳に差した。
「何でも良いから、絵、描いて欲しい…」
僕が言うと桜ちゃんは笑ってメモ帳を捲った。
「希望があれば言ってください。題材があれば私も描きやすいので」
「希望?」
「描いて欲しいものです。花でも良いですし、動物も描けますよ」
「…猫」
「わかりました。モフモフな猫ちゃん描きますね!」
咄嗟に出た「猫」だったのに桜ちゃんはスラスラと絵を進めていく。
あっという間に猫とわかるくらいまで描きていた。
僕はジッと見つめて完成を待つ。
他には何が描けるのだろう。
動物も猫や犬くらいしかわからない。
花だって名前が出ない。
何にも知らないなと僕は思った。
すると桜ちゃんが「出来ました」と言って僕にメモ帳を向ける。
「凄い…」
「私がモフモフした猫ちゃんが好きなので、毛をいっぱいにしちゃいましたけど…」
「暖かそう」
「ふふっ、確かにそうですね。触ると本当に気持ちいいんですよ?」
「そう、なんだ」
「猫ちゃん好きなんですか?」
「わからない。最初に、思いついた…」
「そうなんですね。他に描いて欲しいものはありますか?」
「…犬」
「猫ちゃんの次と言ったらですね!わかりました」
桜ちゃんはまたペンを持って真剣な顔をする。
僕はそれをなんだかずっと見ていたいなと思ってしまった。
でも顔ばかり見ていたらきっと手が止まってしまうだろう。
僕はメモ帳に目を向けて、完成に近づく犬を静かに眺めていた。
犬の絵が完成した頃、何かを叩く音がした。
僕と桜ちゃんは音の方向を見る。
白衣を着た人がこの部屋を見れる窓を叩いていた。
桜ちゃんは僕を見ると残念そうな顔をする。
もうここを出る時間なのか。
僕も釣られて眉を下げた。
「また来ますね」
「うん…」
また1人になる。
慣れていたはずなのに寂しい。
時間が止まって桜ちゃんがずっと僕の隣で絵を描いてくれたらいいのに。
そうすれば楽しいという感情が湧き出て溢れるのに。
それを邪魔するのがあの人達だ。
僕は随分と昔に捨てられたはずの感情が次々と出てくる。
楽しさ、寂しさ、怒り。
そして今はそれに対する戸惑いがあった。
しかしそれを消すように隣でビリビリと音がする。
何だろうと、桜ちゃんを見るとメモ帳の紙を破っていた。
「これ、今日描いた絵です。貰ってください」
「いいの?」
「勿論!また描きますから!記念ということで」
差し出される5枚の紙を僕は受け取った。
4枚の絵と、1枚は桜ちゃんの名前の漢字。
「プレゼントです。それじゃあ私は行きますね。待たせると怒られちゃうから」
立ち上がった桜ちゃんは僕に手を振りながら扉の奥へと消えていった。
振り返すことは出来なかった僕は、手元にある紙を見る。
プレゼント。
心臓がドキドキとした。
何回も見直して、何回も思い出す。
その度に胸が熱くななる。
口角が上がった気がした。
「海辺、桜、ちゃん…」
大きく漢字で書かれた紙を指でなぞりながら呟く。
改めて綺麗な名前だなと思った。
人の気配が完全に消えた空間。
桜ちゃんの香りも鼻の記憶でしか残ってない。
僕は絵を床に広げて1枚1枚確かめるように線をなぞる。
指で伝いながら触れると、自分で描いている気分になれた。
猫の耳をなぞり、尻尾まで指を動かす。
全部をなぞると猫の完成だ。
これが満足感なのだろうか。
何かが満たされる。
次は花の絵を前に持ってきて人差し指を紙に押し付けた。
「点滴を変えます」
急な声に僕の肩がビクッと跳ね上がる。
振り返るとメガネを付けた白衣の人が立っていた。
花びらをなぞるのに夢中で、扉を動かす重い音さえ耳には届かないかったようだ。
僕はまた絵に視線を戻そうとするが、また白衣の人に目を向ける。
「あ、の…」
「……ん?」
初めて喋りかけられて目を丸くする白衣の人。
僕も緊張する。
桜ちゃんの時よりも途切れる言葉。
それでも自分の気持ちを伝えるように口を動かした。
「本、が、欲しいです…」
「本?」
「動物の、本…」
「……わかった。確認してみる」
「はい…」
点滴を変えながら頷いた白衣の人はそう言うと、空になった袋を持ってここから出て行く。
僕は脱力してしまい寝転がった。
仰向けに寝ると真っ白な天井が見える。
ちゃんと見ていなかったけど、この天井は本当に何もないのだなと思った。
傷も、線も、汚れもない。
1枚の板が全面に貼り付けられている。
僕はそんな天井を見ながら桜ちゃんの顔を思い浮かべる。
次は何を描いてもらおうか。
そう考える僕の周りには5枚の絵が散らばっていた。
「桜ちゃん、今日もありがとう」
「いえ、私も楽しかったので」
2回目の研究室を後にして、私と才田さんは建物の外にあるベンチで話していた。
今日はここに来る前に買ったお茶を飲みながら。
才田さんはさっき室内の自販機で買ったコーヒーを手に持っていた。
「社長とは何か話してる?」
「お父さんは遅くに帰ってくるのでまず会ってないですね…」
「そうなんだ。可愛い桜ちゃん放ったらかしって…」
「今に始まった事じゃないので大丈夫です」
「それもそれで問題だと思うけど」
「…だから嬉しいんです。お父さんの役に立てることが。もしかしたら初めて一緒に何かをするかもしれません。それくらい時間が重ならなかったから」
私は少し笑ってお茶を飲む。
半分ほど減ったお茶はもう冷えてなかった。
ここのベンチは日陰だから良いけど、今日の日差しは強い。
ジリジリとする暑さだ。
きっと日に当たる所にいればこのお茶は美味しく無くなっていたと思う。
少し話すだけだから日陰のベンチにしたけど、本音を言うとここも暑かった。
才田さんはベンチの背に白衣をかけて、前と同じワイシャツとズボン姿でいる。
ちゃんと気を遣って中で話した方が良かったかな。
でも仕事場だと才田さんはキャラが違うから、こんなにフレンドリーに話せないだろう。
どっちにしろ外に出なくてはならないのだ。
「私も時間が取れたら桜ちゃんをどっかに連れて行ってあげたいんだけどね〜」
「そんな…でもありがとうございます。私は大丈夫ですよ。元々インドア派なので」
「若いうちは外に出なくちゃいけないよ。私みたいになれば嫌でも外に出れないから」
「才田さんだって若いじゃないですか」
「私の年齢知ってる?」
「えっ、24くらい?」
「惜しい。25」
「若いですよ」
「ありがと!桜ちゃんに言ってもらうと本当に嬉しいよ」
「一応才田さんの妹ポジションなので」
「そうだね」
側から見たら姉妹に見えてくれるのだろうか。
才田さんといるとやっぱり姉が欲しかったなと欲が出てしまう。
まぁ自称妹なので、姉が居ると言っては居るのだが。
すると才田さんは思い出したように私に話す。
「桜ちゃんって絵が上手なの?」
「絵ですか?一応美術部入ってるので、そこそこ」
「ほら、今日絵を描いていたからさ。相手も興味津々で桜ちゃんの絵を見ていたし」
「そうなんですか?….そうだといいな」
「……」
「才田さん?」
「ああ、ごめん。考え事。美術部の活動って何するの?」
「私の学校はコンテストに応募したりとか、ただ黙々と絵を描いたりとかですね」
「へー、コンテストか」
「私は風景画のコンテストを中心にやってます。と言っても賞は取れてないんですけど」
「描けるだけ凄いよ。私なんて絵はさっぱり。未知の生物描いちゃうもん」
「見てみたいです」
「無理無理。恥ずかしい」
首と手を横に振って否定する才田さん。
私はその姿に本当に無理なんだなと笑ってしまった。
…そろそろ暑くなってきたな。
そう思っているとタイミングよく才田さんのスマホが鳴る。
「ごめん」
才田さんはベンチを立って私から離れると一言二言話し、スマホを切った。
「呼び出し来ちゃった。今日は送れないかも…」
「大丈夫ですよ。1人で帰れるので」
「ごめんね。次はちゃんと送るから」
「いえいえ。お仕事頑張ってください」
「ありがとう。それじゃあね。熱中症に気を付けて!」
「はい」
白衣と途中半端のコーヒーを持って才田さんは建物の中に入って行った。
私は緩くなったお茶を一気飲みして近くのゴミ箱に捨てる。
お腹に水分が溜まって少し苦しかった。
現在時刻は12時過ぎたところ。
また更に強くなる日差しと暑さが私の体を焼き付けた。
帰り道は家とは別方向に向かう。
それは帰り道というよりも寄り道になってしまうが。
私は海に持って行く用の画材を揃えたかった。
後で後でと思って1学期中遠回しにしたおかげで一気に今日買うことになる。
金欠までとはいかないけど、お店に滞在する時間が長くなってしまうはずだ。
さっさと買ってさっさと帰りたいけど、自業自得。
私はお店へと足を運ぶ。
が、足が止まった。
私は隣に建っている書店の目の前で考える。
あの青年に何か本を持って行ったら会話の話題になるのではないか。
画材よりもこっちが優先だ。
そう思って書店の扉を開いた。
「いらっしゃいませー」
店員さんの声と共に涼しい風が私の体を冷やしてくれる。
ずっと暑い外に居たからここは天国に感じた。
立ってぼーっとしていたいけど、迷惑になるのですぐに歩き出す。
何の本が良いのだろう。
流石に小説は読むのに時間がかかる。
パッと見てすぐに話せるものが理想だ。
私は小説コーナーや漫画コーナーを無視して奥に進む。
ここも違う、これも違うと歩いていれば小さい子用の本コーナーまでやってきてしまった。
流石に絵本はなぁ、と思い見ていると分厚い本を見つける。
「図鑑…」
花、動物、海の生き物などが多く載っている本。
私は手に取ろうと伸ばしたがすぐに方向を変えた。
手に取ったのは塗り絵。
図鑑の隣に置いてあった、簡単な塗り絵だ。
これなら2人で出来るのではないだろうか。
少しなら私だって教えてあげられる。
私が色鉛筆とか絵の具を持っていけば成り立つ話。
図鑑よりもこっちの方がよっぽど良い気がした。
私は簡単な塗り絵を2冊買う。
レジの人はきっと弟や妹に買うんだろうなと思っているかもしれない。
実際は私よりもたぶん年上の青年に贈るものなのだが。
塗り絵は安いし、何より小さい子用なので無駄な出費にはならない額で手に入った。
私は涼しい書店から出て隣にある本来の目的のお店へ入る。
ついでに色鉛筆も1つくらい買っても良いかもな。
私は海に持って行く用の画材はそっちのけで青年と描く色鉛筆を探し始めた。
夏休みに入って1週間。
課題はぼちぼち、部活は適当にこなしていた。
でも今回の夏はいつものような夏ではない。
お父さんの仕事の手伝いがある。
ここ7日間、毎日じゃないけど充実している気がした。
何か予定があることは気持ち的にも良いことらしい。
詰めすぎるとよくないけど。
それに今週の土曜日は涼と海へ行く。
しかし終わったら夏のメインイベントは無くなってしまうが、1回夏らしいことをすれば私は満足だ。
別にその日から予定が無くなるわけじゃない。
夏休み中は手伝いがずっとあるのだから。
勿論今日もお父さんの仕事場に居る。
3日に1回か、2日に1回の頻度で来ているから受付のお姉さん方も私とは顔見知りになった。
仕事場に着くと、真っ先に受付へ顔を出す。
「才田凛音さんをお願いします」
才田さんの名前を出してお姉さん方に言うとキラキラした眼差しになるのはわかってる。
どこかに電話をかけて話す声もやはり高い。
この場所では才田さんはクールなアイドルだ。
しかし私と2人の時にはクールではなくなる。
それを知らないお姉さん方はクールな才田さんにときめいているみたい。
才田さんの呼び出しが終わると、お待ちくださいと言われて私は受付で待つ。
たまに「学校の宿題はどうなの?」とか「部活は?」とかを質問してくれるので沈黙はそこまでなかった。
「桜様お待ちしてました」
才田さんは私の呼び出しがかかるとすぐに来てくれる。
案の定、受付のお姉さん方は目がハートになっていて、そんな姿を見た才田さんは「お疲れ様です」とクールに挨拶した。
「それでは行きましょう」
「はい」
お姉さん方に軽くお辞儀をして私は才田さんと共に地下の研究室へ向かう。
私1人だと立ち入れないから、才田さんの力が必要なのだ。
これが仕事場の一連の流れ。
後は研究室に入って青年がいる扉の前で軽く打ち合わせをして会話を開始する感じだ。
「桜様、今日はどうする予定で?」
「塗り絵を持ってきたんです。それを話題にしようかなって。最初は色鉛筆の方が良いかもしれないと思ったんですけど、あの細い腕で描くのなら筆を使った方が楽かなと思ったので絵の具を持ってきました。少し大荷物に見えますけど」
「なるほど。そういえば、彼も本をねだったようです。私は詳しい事はわかりませんが他の研究員が言ってました。初めて自分の欲求を言ったようで…」
「そうなんですか?その本は今は…?」
「彼が持ってます。それも1つの話題に出来るかと」
「わかりました。それでは行ってきます」
「何かあればすぐに言ってください。…扉を開けます」
重い音はいつも変わらない。
青年の元へ行く時は心臓が今でもバクバクと動く。
まだ緊張は解けていないみたいだ。
それでも私はお父さんの手伝いに来ている。
逃げ出すわけにはいかない。
完全に扉が開けば1歩ずつ歩く。
扉がが閉まると同時に青年は顔を上げてこっちを見た。
「こんにちは」
「…こんにちは」
いつもと同じ体育座り。
でも前と違うのは周りに私が描いた絵が散らばっている事だ。
なんだか嬉しくて私は小走りで駆け寄る。
よく見たら足元には1冊の図鑑が置いてあった。
「これ図鑑ですか?」
「うん…。動物の…」
私が本について聞くと、青年は細い腕で図鑑を持ち上げて太ももの上に乗せる。
きっとその腕では重いだろうなと思い見てしまった。
私は隣に座って開かれた図鑑を覗き込む。
「好きなの、ある?」
「好きな動物ですか?…うさぎとか?モフモフの」
「うさぎ…」
青年は迷うことなくページを捲る。
目次を見なくたってわかるらしい。
それくらい使い込んでいるのか。
最後にあったのは3日前。
多くて3日間で頭に入れたことになる。
凄いなと私は感心した。
うさぎのページを開いた青年は少し図鑑をずらして私に見えやすいように持ってきてくれる。
私は本の半分を手で支えてうさぎを見た。
「可愛い…!」
「これとか…あったかそう」
「本当ですね!白いうさぎも茶色いうさぎも可愛いなぁ」
「うん…」
お互いに図鑑へ指を置いて話し合う。
うさぎトークでこんなにも盛り上がるとは。
すると青年は1番上に載っていた、真っ白いうさぎを細く折れそうな人差し指で差す。
「これ、描いてほしい…」
「任せてください」
塗り絵の存在を忘れて私は何も描かれていない大きめのメモ帳を取り出すと、鉛筆を持って描き始める。
青年が持っている図鑑を時々見ながら。
モフモフ感を出すために鉛筆を動かすと青年視線を感じる。
興味津々で見てくれていて私も描きがいがあった。
気合を入れて描くとすぐに出来上がり、私は前と同じようにメモ帳を破って青年に渡すと、両手で大事そうに受け取ってくれた。
「可愛い…」
「意外と上手く描けました。ポイントはクリクリの目です」
「うん…」
青年は自分の目の前に紙を持ってきてジッと見つめると図鑑の上に乗せる。
そしてうざきを指でなぞるように動かした。
尻尾を通って耳へ到達する。
丸くなっている背中を通ればうさぎの出来上がり。
「こうすると、楽しい…」
「あっ、そうだ」
やっと塗り絵を思い出して私はバッグから1冊出す。
表紙を見せるように持ってくると青年の目は輝いた。
「ぬりえ…」
「はい!私、絵の具持ってきたんです。良ければ一緒にやりませんか?」
「うん」
頷いてくれた青年に塗り絵の本を渡して、色付けたい絵を探してもらう。
その間に私はパレットを出して絵の具の準備を始めた。
「どうでしょう?塗りたいのありますか?」
「…犬があった」
「それじゃあ犬を塗りましょうか」
先程、私が描いたうさぎよりもクリクリの目をしている犬のページを開く青年。
私はペットボトルの水で少し濡らした筆を青年に手渡した。
「何の色が良いですか?」
「色…」
「犬って色んな模様とか、色があるから自由で良いと思います。普通じゃない色だって芸術的になって素敵なので。真っ黒でも、水玉模様でも、紫色でも構いませんよ」
「……」
私はあるだけの絵の具を床に並べてどんな色があるかを見せる。
青年が手を伸ばした色は水色だった。
水色の犬なんているだろうか。
いや、何でも良いと言ったのは私だ。
青年水色の絵の具を私に預ける。
私はパレットにまずは少量の絵の具を出した。
「このままの色が良いですか?それとも濃くします?薄めます?」
「え?」
「えっと、濃くすると……こんな感じ。薄めると…こうなります」
私は絵の具を混ぜ合わせたり、水を足したりして色を変えさせる。
その瞬間を1秒も逸らさずに青年は見ていた。
私も絵の具の色を徐々に変える瞬間が楽しい。
まるで実験みたいで。
持っているパレットを青年に近づけて説明する。
「好きな色を取ってください。あ、勿論筆で。それをこの塗り絵の隙間に塗っていけば完成です」
「うん…」
私の言葉通りに青年はパレットに筆をつける。
控えめに絵の具を取ると、塗り絵の犬に線を描いた。
「綺麗な色になって良かった…」
青年は続けて犬の体に線を引くように筆を動かす。
染まっていく犬の姿はまるで真っ青な空のようだった。
夢中で染める青年はどこか楽しそうに感じる。
私はその顔を見れて満足だ。
塗り絵を買おうと思ってくれてありがとうと、当時の自分を褒めてあげた。