地響きのような音が響き渡る。
実際は小さな音かもしれない。
でも私にはとても大きな音に聞こえた。
扉が全て開き終えると才田さんが私に声をかける。
「桜様が入った途端に閉まるようになります。再び出る際には窓から合図してください。それではよろしくお願いします」
「はい……」
私はお父さんを少し見る。
目線は私ではなく奥にいる人に向けられていた。
そんなお父さんを見てから足を恐る恐る出して扉をくぐる。
私が完全に入り切った後、扉の重い音がして部屋を完全に閉じられた。
中央に蹲っている人は何も反応を見せない。
まずこの空間に私が居ることを認識しているのだろうか。
扉の重い音で気付くはずだろうと思うが、そんな様子は一切見せなかった。
私はその人にゆっくりと近づく。
なるべく驚かせないように。
怖がらせないように。
近づく度にわかるその人の呼吸。
ちゃんと生きているのは当たり前なのに、1ミリも動かない体はまるで死んでいるようだった。
お互いの距離が1メートル程になると私は足を止める。
流石に隣に居ようという気にはなれなかった。
今回が初めてなのだからあまり近くには居ない方がいい。
私は止まったその場にしゃがんで、同じように体育座りをした。
「は、はじめまして。私は海辺桜って言います。貴方と会話するように言われてここに来ました」
「………」
無視。
「えっと、年齢は17歳。高校2年生です」
「………」
2度目の無視。
持ち札となる自己紹介は尽きる。
私の情報から話題を広げようという作戦だったのだが、無様に終わった。
私はガクッと頭を下げる。
でもすぐに上げて次の話題に入った。
「名前教えてくれませんか?」
「……」
「年齢とか…」
「……」
「好きな食べ物は…?」
「……」
私の一方的な質問は一言も答えることなくこの部屋に気まずい雰囲気を充満させる。
その前にこの人は起きているのだろうか?
最悪息をしていなかったら?
でも先程呼吸は聞こえた。
しかし返事はない。
私は不安になってまた声をかける。
「あ、あの、起きてますか?」
「…」
それでも答えなかった。
私は遂に立ち上がって側に行く。
やはり呼吸はしている。
だとしたら寝ているのか。
私は隣に正座して座るとその人の左手を握って確かめた。
「冷たっ…」
驚くほどの冷たい体温。
凍っているかのように冷えていた。
人間の体温ではない。
私は目を開いてどうしようか迷っていると、小さな声が耳に届いた。
「あったかい、ね…」
「え…?」
少し掠れた声がそう言う。
私は顔を覗き込むとその人はゆっくりと顔を上げた。
前髪が長くて目に入ってしまいそう。
でもその隙間から見える目は青く光っていた。
私の黒い目と、その人の青い目が見つめ合う。
才田さんの時とは全く違う意味で見惚れてしまった。
青い目はまだ私を捕らえる。
我に返った私はすかさず目を逸らした。
すると私が握っていた手が握り返される。
「あったかい…」
目を閉じて感じ取るようにその人は強く握った。
それでも全く力は無いし、痛くない。
それもそうだ。
腕に視線をずらせば骨と皮のように細い。
涼あたりが力を入れたら折れてしまうのではないだろうか。
そう思ってしまうほどの細さだった。
そして握ってる逆の右腕には点滴の管が刺されている。
痛々しいその姿に私は眉を寄せた。
正座だったのを座り直して、体育座りに戻る。
俯きがちの顔を覗き込むように私は傾けた。
「寒いんですか…?」
「うん。でも、これが、僕の体温、だから…」
途切れ途切れの言葉は私の質問に答えてくれた。
やっと話してくれたのに対して喜ぶと同時に私はこの人の性別がわかる。
声の低さと、自分を僕と呼んでいるからきっと男性だろう。
外見は細すぎて性別が判断できない。
髪も一般的な男性にしては長いし、前髪に関しては切ってあげたくなるほどだった。
「あの、名前教えて貰えませんか?」
「……ない。名前、無い」
「えっ無い?」
まさかの返答に私は驚く。
年齢的には私よりも少し上に感じるがそこまで生きていても名前が無いとは驚きだ。
かと言って私が名前を付けるわけにもいかない。
とりあえず、口では君とか貴方呼びにしよう。
心の中では……青年?呼びに決めた。
「貴方は何でここに?」
「……」
「あっ答えたく無いのならいいです!無理矢理聞くのは失礼なので…」
「うん…」
「そうだ。私のことは桜って呼んでください」
「桜ちゃん…」
「はい」
青年は私の名前を呼ぶと少し表情を柔らかくした。
なんだか嬉しさが倍になってくる。
ただ名前を呼ばれただけなのに。
次の話題はどうしようか。
そんな事を考えていると部屋のガラスを軽く叩く音がする。
私は音がした方を向くと、お父さんが手招きしていた。
帰ってこいという意味だろう。
「すみません。時間みたいで…」
私はそっと繋がれていた手を離すと青年が小指を控えめに掴んできた。
「帰るの…?」
「は、はい」
「そう…」
「また来ます!その時はもっと面白い話題を用意してくるので!」
「……」
少し震えた声で青年は私に問いかけるので私は思わず約束を交わす。
すると掴まれた小指は離されて、青年の手は床に落ちた。
その後は何も言わずにまた顔を俯ける。
私は思わずまた手を握ろうとしたけど、お父さんの視線を感じて留まった。
「また来ます」
私はそう言って扉へ向かって行く。
扉の前に立つと重い音を鳴らして横に開くと同時に後ろを振り返った。
最初の時と同じ姿勢に戻った青年は全くこっちを見ずに動かなかった。
扉を通ってお父さんの元へ行くと腕を組んで私を待っていた。
後ろには才田さんがファイルを持って立っている。
「ありがとう桜。また1歩進めた。この調子で夏休みの間は頼む」
「う、うん…」
やはり拒否権は無いらしい。
でも私は青年と約束をしたから行かなければならないのは確定している。
するとお父さんは側にあった白衣を着て私の横を通った。
「私はこれからやる事がある。帰りは才田が送ってくれるから安心しなさい。才田、後は頼んだぞ」
「かしこまりました」
そう言うとお父さんはまた別の部屋へと消えて行った。
お父さんを見送った才田さんは私の側に来て、耳打ちする。
「カフェ好き?」
「えっ、はい」
「なら今から行ってもいい?」
「だ、大丈夫です」
いきなり違う声のトーンと口調で私は戸惑うが、耳から離れたらまたお堅い感じに戻った。
「桜様、こちらです」
才田さんは私を連れて研究室から出る。
途中に他の白衣の人達に挨拶されてペコペコとしながら着いて行った。
一緒にエレベーターに乗りロビーに戻る。
「それではここでお待ちください」
私をロビーのソファに座らせると才田さんは軽くお辞儀をしてまたエレベーターに乗って行った。
私は少しだけ緊張の糸が解れて肩から力が抜ける。
明日あたりは筋肉痛になりそうだ。
自分で肩を揉んだり、回したりしているとまたエレベーターがロビーに到着する。
白衣を着ていない才田さんが降りて来た。
スーツ姿は変わらないけど、白衣を脱いだことによってスタイルの良さが際立つ。
「お待たせしました。行きましょう?」
私は立って才田さんに着いて行くと、また受付のお姉さん方が私達に挨拶をした。
若干目がハートに見えたのは気のせいだろうか。
それに私が入って来た時よりも声のトーンが高い気がする。
きっと才田さん効果かもしれない。
確かに同性異性問わずモテそうだなと思った。
建物から出ると才田さんはスーツのジャケットを脱ぐ。
するとまた柔らかい口調で話し始めた。
「暑いね〜」
「そ、そうですね」
「ふふっ、ごめんね。戸惑っているよね?仕事の時は先輩方が周りにいるからあんな感じなんだけど、普段は結構緩いんだ」
「なるほど…」
「ねぇ、仕事以外の時は桜ちゃんって呼んで良い?」
「はい、大丈夫です!」
「ありがとう。なんだか妹が出来たみたいで嬉しいよ」
上はワイシャツ、下はズボンスタイルの才田さんは嬉しそうに私の頭を撫でた。
1人っ子の私にとってはそう言って貰えるのは照れてしまう。
才田さんは「こっちだよ」と言ってカフェまで案内してくれた。
ーーーーーー
「本当は研究室以外で仕事の話をするのは嫌なんだけどね…。これからの日程を決めておきたくて」
「私が会話する時のですか?」
「そうそう」
仕事場の近くにあるカフェはお昼時で賑わっていた。
幸い席は空いていたので私と才田さんは向かい合って座る。
今回は才田さんが奢ってくれると言うので私はメロンソーダとお昼のサンドイッチを頼んだ。
才田さんはアイスコーヒーと私と同じサンドイッチ。
よく考えれば昨日から人に奢ってもらいっぱなしだ。
申し訳ない気持ちになりながらも私は甘えてしまう。
店員さんに注文をすると、才田さんは手帳とボールペンを取り出して私に見せた。
「夏休みはいつまでだっけ?」
「8月は休みです。9月1日から始まります」
「OK。今のところどれくらいの頻度で来れるかな?」
「特にこれと言っては…」
「じゃあ毎日でも?」
「急な予定が入らなければ…」
「嘘嘘。流石に毎日は無いから安心して。3日に1回とか2日に1回の頻度かなって私は思ってる」
「それなら大丈夫です」
「この日はダメって時はある?」
「あっ、友達と会う計画は立ててるんですけど、日にちはまだ決まってないので…」
「なるほどね。それじゃあスマホ出して。私の連絡先入れておくから、何か急な予定があったらそこに連絡して」
「わかりました」
スムーズに話を進める才田さん。
ドリンクでさえまだ届いてないのにもう予定が決まってしまった。
私は才田さんがメモした手帳を見ながらスマホのカレンダーアプリに行く日を記録する。
少なくとも週に2回は行くようになるらしい。
多い時は3、4回の時もある。
「もし行きたくなかったらその時は断っていいからね。私に連絡してくれれば大丈夫」
「ありがとうございます」
優しいなと思いながら私はカレンダーアプリを見た。
お父さんの手伝いとはいえ今年の夏休みは忙しくなりそうだ。
部活がそこまでないから良いけど、きっと運動部だったらもっと辛い思いをしていただろう。
美術部で良かったと心の底から思った。
「メモできました。手帳ありがとうございます」
「いいえ。連絡先も登録した?」
「はい。バッチリです」
「社長の前ではプロジェクト関係しか話すなみたいなこと言っちゃったけど、気軽に連絡して来ていいからね。必要な時は課題とか手伝ってあげる」
才田さんが笑って言うとドリンクとサンドイッチが同時に到着した。
とても美味しそうな香りと見た目だ。
昨日のクレープもそうだけど、お洒落感満載の料理。
私は目をキラキラとさせてしまう。
「ふふっ」
「えっ?」
「ううん。可愛いなって」
そう言ってアイスコーヒーを飲む才田さんは私と違う大人感が満載だった…。
「あ、あの」
「ん?何?」
「才田さんってこのプロジェクトでは女性1人だけなんですよね?不安にならないんですか?」
「不安だらけだよ。だってみんなお堅い人達だから。何で私が抜擢されたかわからないけど……でも結果的に桜ちゃんと会えたからOKかな」
何か会話をしようと咄嗟に出た言葉に嫌な顔せず答えてくれる。
本当にお姉さんみたいだった。
「私も昨日の夜お父さんに頼まれて連れて来られたけど、才田さんがサポート役で良かったです。多分次からは緊張なく研究室に行けると思います」
「……やばい」
「え?」
「良い子すぎない?本当に社長の娘さん?」
「お父さんって普段どんな感じなんですか…?」
「無表情で怖い人」
「なんかわかります」
私はお父さんの顔を思い浮かべる。
家でだって無表情ならば職場だって無表情だろうな。
それに怖い人って言うのもなんとなくわかる。
まさに研究室で実感したから。
怒られるのは小さい時で終わったけど、久しぶりにお父さんを怖いと思った。
なぜあんな感情が出てしまったのだろう。
私はサンドイッチを頬張りながら出来事を振り返った。
「まぁ腕は凄く良い人だからね。発想も科学者らしくポンポン出てくるし」
「今回のプロジェクトってお父さんが始めたんですか?」
「そうだね。上の人達と話し合ってだと思うけど、最初は社長からじゃないかな?」
そしたらあの青年は何なのだろう。
プロジェクトって人体実験なのか。
私はお父さんの考えがわからなくてサンドイッチを持つ手に力を込める。
そんな私の心情を感じ取ったのか、才田さんは一言だけ私に言った。
「難しいことは大人に任せればいい」
サンドイッチに挟まっていたレタスが1枚皿に落ちる。
私は慌ててレタスを取って食べた。
才田さんはアイスコーヒーにシロップを追加してかき混ぜている。
この様子ではプロジェクトについては何も教えてくれないようだ。
大人…。
私はまだ子供。
高校生なのだから普通の事。
でも今、私の感情はなんだかモヤモヤとしていた。
「ここのサンドイッチ美味しいね」
「はい。凄く美味しいです」
それは自分でもわからない。
今唯一わかるのはこのサンドイッチが美味しいことだけだった。
才田さんとのランチの後、私は車で家まで送ってきて貰った。
距離も遠くないし電車もあるから帰れると言ったのだが、送らせてくれと言うことでまた甘える。
私は才田さんにお礼を言って頭を下げた後、車が見えなくなるまで見送り、完全に車の姿が消えると私は家の中に入った。
玄関は開いてなくて、私より大きな靴も無い。
私は自分の部屋に入ってスマホを取り出し連絡アプリを開く。
新しく上には才田さんのアイコンが載っていた。
しかし才田さんではなく、涼のトーク欄をタップする。
今の時間帯だからご飯では無いと思う。
涼の事だ。暇しているだろう。
私は涼宛にメッセージを打つ。
【海の件】
全く可愛くも無い一言で送信すると、すぐに既読が着いた。
やはり暇していたようだ。
うさぎが驚いているスタンプを送ってくる。
これはどう言う意味だと頭を捻っていると
【まさか行けなくなった!?】
と返ってきた。
スタンプはそう言う意味ねと理解する。
【違う。日程を決めて欲しくて】
【紛らわしい文送るなよ】
【焦った?】
【1人で青春かと思った】
【涼が1人でも青春出来るなら行かないけど?】
【ご冗談を】
急に改まった言葉を使ってくる涼にフッと笑う。
やっぱり涼みたいな友達と話している時が1番肩の力が抜ける。
なんだか完全に抜けたのは今この瞬間かもしれない。
同世代の友達って凄いな。
息を吐くたびに力が抜けてくる。
私は涼に感謝しながら返信を打った。
【ご冗談です】
【安心したわ。それで?桜はいつあたりがいい?】
【私はどこでも】
【部活は?】
【そこまで無いから】
【じゃあ明日でも?】
【それは無理】
【いつでも良くねぇじゃん】
似たような会話を才田さんともした気がする。
あまりいつでも良いとは言わないようにしよう。
後がめんどくさくなりそうだ。
涼に限っては余計に。
でも指定日となると迷う。
研究室に行く時以外は本当に予定が無いのだ。
それこそお盆の時期だって家に閉じこもっている。
お父さんの実家になんて行かない。
それは今に始まった事ではないけど、つまらない日々と言ったらつまらなかった。
どの日にしようか悩んでいると続けて涼からメッセージが届く。
【来週の土曜は?】
私はカレンダーアプリを開いて見てみると、土曜日は研究室に行く予定は無かった。
【いいよ。土曜日で】
【りょーかい】
【行き先は任せた。あまり遠くにしなければ問題ないから】
【わかった!】
涼はまたうさぎのスタンプを私に送る。
後は涼に任せておけば大丈夫だろう。
私はとりあえず画材を買い足さなければ。
私も似たようなスタンプを涼に送信してアプリを閉じると、完全に昼寝をする前に画材が入っているバッグの確認を始めた。
暖かい感触がまだ残っている。
手をグーとパーにして動かしてもその感触は消えない。
なんだか気持ち悪いなと思ってしまった。
また開けて閉じてを繰り返していると、重い扉が音を立てる。
白衣を着た男が1つの袋を持って僕の近くにやってきた。
「点滴を交換する」
「……」
受け応えをしないのは当たり前だ。
僕はこの人達が嫌いだから。
でも僕が返事をしなくたってこの人達は動く。
拒否権はない。
応えても、無言でも全て言いなりなんだ。
僕はまた下を向いて膝に顔を埋める。
男は点滴をいじっていた。
僕とこの人達に会話なんて無い。
だから今日、何年振りかに会話をした。
最初に出た声がガラガラだったのを思い出す。
言葉も途切れ途切れになってしまった。
それでも口から言葉を出した後はなんだかスッキリしている。
『また来ます』
今日僕に話しかけた女の子、桜ちゃんの言葉。
高校生2年生。
僕よりはたぶん下だけど何歳離れているかはわからない。
その前に僕の年齢はいくつなのだろう。
けれどそれを聞いたところで何になる?
僕を救ってくれるわけじゃない。
もしかしたら思っていたより月日が経っていて絶望するかもしれない。
だったら最初から聞かないほうが僕のためだ。
僕は目を瞑る。
扉が閉じる音がした。
もう点滴は変え終わったらしい。
チラッと首を動かすと、点滴は満タンになっていた。
僕の栄養源はこの点滴だ。
食事なんてしない。
最後に食べたのはいつだっけ?
最後に食べたのは何だっけ?
思い出そうとしてもモヤがかかって何も見えない。
僕はまた目を閉じて時間が経つのを待った。
次に目覚めた時の体勢は横になって寝ていた。
いつの間に動いたんだろうと思う。
僕はどれくらい寝ていた?
体を起こして点滴を見ると半分くらい減っている。
僕はまだぼんやりとしている頭を軽く振って目を覚ます。
前髪が伸びてきて鬱陶しい。
後ろ側の髪の毛も跳ねていてボサボサだ。
またいつもの体育座りに戻る。
今日は何をされるのだろう。
少し外の方から話し声が聞こえる。
何を喋っているのかは理解できないけど、人がいるのは確かだ。
僕を見張っているのか。
それとも次の実験を始めるのか。
どちらにせよ気分が悪い。
逃げ出したいのに逃げ出せないこの空間が嫌になる。
僕は頭を掻いていると扉が開いた。
点滴はさっき交換しただろう?
口には出さないけど僕は心の中で嫌味を言う。
すると入ってきた人は僕の隣に座って顔を覗き込んだ。
「こんにちは」
「…えっ」
優しい声が聞こえて思わず頭を上げる。
なんでまた来たんだ?
いや、来るとは言ってたし僕も来て欲しいみたいな行動はとったけど早すぎないか?
点滴は変えてから半分しか減ってない。
わからなくなって目を見つめていると、優しい声はまた僕に語りかけた。
「私の名前覚えてますかね?」
知ってるよ。
久しぶりに名乗られたのだから。
僕は名乗り返せなかったけど。
「さくら、ちゃん」
また掠れる声と途切れる言葉。
ちゃんと話したくても舌と喉がおかしい。
日常的に話すことは大切なことだと思った。
僕の言葉を聞いた桜ちゃんは誰にでもわかるくらい嬉しそうな表情をする。
まるで花が咲いたようだった。
名前の通り君は桜の花なのだろうか。
それとも君は妖精か?
人間の形をした精霊か?
おかしな思考になる僕を見る桜ちゃんは笑顔で何かを取り出した。
「私の名前の漢字を教えますね」
カバンから出したのは大きなメモ帳とペン。
桜ちゃんはそこに自分の名前をスラスラと書いた。
【海辺 桜】
「漢字…読めますか?」
「…うん」
海と桜の単語が入ってるなんて凄いなと思う。
季節は別々だけど、どれも綺麗なものだ。
僕は桜ちゃんの漢字を覚える。
「海辺っていう苗字は日本では500人くらいらしいです。桜は結構多いと思いますけど…」
「…うん」
「でも名前に関してはお父さんに何も聞いてないんです。どんな理由だったとか。誕生日は5月だから桜シーズンは終わってるので、季節は違うかなって思ってます」
「お父さんが、桜、好き、とか…」
「その可能性はありますね。今度聞いてみます」
「…うん」
なんだか楽しい。まだ一言二言しか喋ってないのに。
白衣を着た人達と関わるのは苦しい。
でも桜ちゃんと話すのは楽しく感じる。
久しぶりの会話相手だからかな。
それに桜ちゃんは僕の目を見てくれる。
それもわざわざ座って。
あの人達とは大違いだ。
僕を人として見てくれている。
それが楽しいと合わさり、嬉しいになった。
「あの、好きな花とかありますか?」
「花…?」
「はい。私は薔薇が好きです。なんだか持つと大人って感じがしません?薔薇が似合う人って素敵だと思います」
「僕は…」
頭の中で花を考える。
どれが好きだと言われてもわからない。
それでも1番最初に浮かんだ花があった。
しかしその花の名前が思い出せない。
「薄い色で、いっぱい咲いている花…」
「薄い色?」
「名前がわからない」
「他の特徴とかありますか?」
「…花びらが少し多い」
「んー」
「木じゃなくて地面に咲いてる花…」
「なんだろう」
桜ちゃんは持っていたメモ帳に絵を描く。
僕が言った特徴で描いているみたいだ。
出来上がったらしくメモ帳を僕に向けてくれる。
「綺麗…」
「こんな感じですか?」
「…違うかな」
「なるけど」
本当にこの短時間で描いたのかと思うほど綺麗だった。
普通に同じ形の花びらを描くだけの絵ではない。
僕はまた描き始めた桜ちゃんの絵を見るために近づいた。
ふわっと良い香りが僕の鼻に纏う。
香りというものに意識を向けながらも目は紙に描いてある花を見る。
ちょっとした影もついてあるから、立体的に見えてより花らしい。
僕が近づくと桜ちゃんの描く手は止まった。
なぜ描かないのだろう。
もしかしてこれが完成なのだろうか。
でも僕が思い浮かべているのはこの花ではない。
もっと、花らしいというか…。
僕は桜ちゃんの顔を見て首を振る。
「これじゃない…」
「は、はい」
「どうしたの…?」
「近いです」
桜ちゃんは僕から顔を逸らしてメモ帳に視線を向ける。
確かに近いかと僕は少し離れた。
高校生だから年頃なんだろう。
真っ赤に顔を染めている桜ちゃんを見て僕はそう思う。
僕だって桜ちゃんみたいな時もあったかもしれない。
でも記憶が霞んで思い出せないが。
そう考えてると段々と不安になってくる。
僕はどういう経緯でここに来たのだろう。
何歳で?そして現在の年齢は?
年数も日にちもわからないから計算出来ない。
僕は視線を下にすると桜ちゃんの心配そうな声が聞こえた。
「大丈夫ですか…?」
「…うん」
「体調悪いですか?」
「ううん。あの…」
「なんでしょう」
桜ちゃんに今は何年何月何日と聞きたかった。
しかし僕の口は固く動かない。
きっと桜ちゃんなら偽りなく答えてくれるはずだ。
だから怖くなってしまったのだろう。
僕の曖昧な記憶が何年前なのか知らないが、何年ここに居たかと思い出してしまうと体が震え出す。
僕は下を向いていた顔を上げて桜ちゃんを見ると、指をメモ帳に差した。
「何でも良いから、絵、描いて欲しい…」
僕が言うと桜ちゃんは笑ってメモ帳を捲った。
「希望があれば言ってください。題材があれば私も描きやすいので」
「希望?」
「描いて欲しいものです。花でも良いですし、動物も描けますよ」
「…猫」
「わかりました。モフモフな猫ちゃん描きますね!」
咄嗟に出た「猫」だったのに桜ちゃんはスラスラと絵を進めていく。
あっという間に猫とわかるくらいまで描きていた。
僕はジッと見つめて完成を待つ。
他には何が描けるのだろう。
動物も猫や犬くらいしかわからない。
花だって名前が出ない。
何にも知らないなと僕は思った。
すると桜ちゃんが「出来ました」と言って僕にメモ帳を向ける。
「凄い…」
「私がモフモフした猫ちゃんが好きなので、毛をいっぱいにしちゃいましたけど…」
「暖かそう」
「ふふっ、確かにそうですね。触ると本当に気持ちいいんですよ?」
「そう、なんだ」
「猫ちゃん好きなんですか?」
「わからない。最初に、思いついた…」
「そうなんですね。他に描いて欲しいものはありますか?」
「…犬」
「猫ちゃんの次と言ったらですね!わかりました」
桜ちゃんはまたペンを持って真剣な顔をする。
僕はそれをなんだかずっと見ていたいなと思ってしまった。
でも顔ばかり見ていたらきっと手が止まってしまうだろう。
僕はメモ帳に目を向けて、完成に近づく犬を静かに眺めていた。
犬の絵が完成した頃、何かを叩く音がした。
僕と桜ちゃんは音の方向を見る。
白衣を着た人がこの部屋を見れる窓を叩いていた。
桜ちゃんは僕を見ると残念そうな顔をする。
もうここを出る時間なのか。
僕も釣られて眉を下げた。
「また来ますね」
「うん…」
また1人になる。
慣れていたはずなのに寂しい。
時間が止まって桜ちゃんがずっと僕の隣で絵を描いてくれたらいいのに。
そうすれば楽しいという感情が湧き出て溢れるのに。
それを邪魔するのがあの人達だ。
僕は随分と昔に捨てられたはずの感情が次々と出てくる。
楽しさ、寂しさ、怒り。
そして今はそれに対する戸惑いがあった。
しかしそれを消すように隣でビリビリと音がする。
何だろうと、桜ちゃんを見るとメモ帳の紙を破っていた。
「これ、今日描いた絵です。貰ってください」
「いいの?」
「勿論!また描きますから!記念ということで」
差し出される5枚の紙を僕は受け取った。
4枚の絵と、1枚は桜ちゃんの名前の漢字。
「プレゼントです。それじゃあ私は行きますね。待たせると怒られちゃうから」
立ち上がった桜ちゃんは僕に手を振りながら扉の奥へと消えていった。
振り返すことは出来なかった僕は、手元にある紙を見る。
プレゼント。
心臓がドキドキとした。
何回も見直して、何回も思い出す。
その度に胸が熱くななる。
口角が上がった気がした。
「海辺、桜、ちゃん…」
大きく漢字で書かれた紙を指でなぞりながら呟く。
改めて綺麗な名前だなと思った。
人の気配が完全に消えた空間。
桜ちゃんの香りも鼻の記憶でしか残ってない。
僕は絵を床に広げて1枚1枚確かめるように線をなぞる。
指で伝いながら触れると、自分で描いている気分になれた。
猫の耳をなぞり、尻尾まで指を動かす。
全部をなぞると猫の完成だ。
これが満足感なのだろうか。
何かが満たされる。
次は花の絵を前に持ってきて人差し指を紙に押し付けた。
「点滴を変えます」
急な声に僕の肩がビクッと跳ね上がる。
振り返るとメガネを付けた白衣の人が立っていた。
花びらをなぞるのに夢中で、扉を動かす重い音さえ耳には届かないかったようだ。
僕はまた絵に視線を戻そうとするが、また白衣の人に目を向ける。
「あ、の…」
「……ん?」
初めて喋りかけられて目を丸くする白衣の人。
僕も緊張する。
桜ちゃんの時よりも途切れる言葉。
それでも自分の気持ちを伝えるように口を動かした。
「本、が、欲しいです…」
「本?」
「動物の、本…」
「……わかった。確認してみる」
「はい…」
点滴を変えながら頷いた白衣の人はそう言うと、空になった袋を持ってここから出て行く。
僕は脱力してしまい寝転がった。
仰向けに寝ると真っ白な天井が見える。
ちゃんと見ていなかったけど、この天井は本当に何もないのだなと思った。
傷も、線も、汚れもない。
1枚の板が全面に貼り付けられている。
僕はそんな天井を見ながら桜ちゃんの顔を思い浮かべる。
次は何を描いてもらおうか。
そう考える僕の周りには5枚の絵が散らばっていた。