「小説は書くものであって、読むものじゃない」
 それが相良美月の口癖だった。病気になる前も、なった後も。
 美月の家は裕福で、使用人が何人もいた。僕の母親もそのひとりだったから、歳の近い僕は彼女の話し相手に任命された。
 そんな言い方をすると、まるで僕の意に反しているかのように聞こえるかも知れないけれど、僕にとって美月は守るべき家族そのものだった。
 旦那様、つまり美月の父親は、とにかく厳格で考え方が古風だった。彼に言わせれば、小説家は三文文士だったし、文芸小説自体も低級庶民文化だった。
 美月はそんな父親に反発していた。
 だけど旦那様は絶対で、誰も彼には逆らえなかった。美月に必要なものはすべて買い揃えられたけれど、彼女が欲しいものは何も買えなかった。
 一度だけ、美月がお小遣いをもらったことがある。
 それはお祭りの日で、美月の父親も少し寛大な気持ちになったのかも知れない。しかし彼女はお祭りに行かず、本屋で小説を買った。
 その後どうなったかは、恐ろしくてここには書けない。
 とにかく美月は小説を読まなくなり、冒頭の台詞を繰り返すようになった。
 ノートに鉛筆で書かれた小説は、いつしか何十冊にも及び、そのすべてを僕が自室に保管していた。自宅療養を余儀なくされ、ろくに学校に行けなくなった美月にとって、それだけが娯楽だったのだ。
 行動範囲は屋敷の中だけにも関わらず、美月の小説は驚くほど雄弁だった。
 例えば髪をなぶる強い風、雨が降った後の土の匂い、肌を焦がす日差し。
 今まさに体感しているように、美月は描写する。
 情景だけでなく、小説の中で生きる人々も同様だ。微に入り細に入り、この上なく繊細な感情を持って、生き生きと動き回っている。
 世界はもう、彼女の記憶にしかないはずなのに――。
 才能で片付けていい話なのか、美月の外への渇望がなせる技なのか。僕にはわからなかったけれど、美月の書く小説が僕は好きだった。
「どうだった?」
 新作を渡された翌日、美月はいつもそう尋ねた。
 僕はノートをパラパラとめくりながら、ちょっと首をかしげる。
「悪くはない、けど」
「良くもない?」
「そうだね。僕は前の方が好きだった」
 僕が正直に答えるのは、美月がそれを望むからだ。他に読む人がいないからこそ、できるだけ公平で、中立な意見を言うように努めていた。
「どこがダメ?」