綺麗な月の金曜日。
 今日は久しぶりに晴れ模様。久しぶりに見上げた青空に嬉しくなって、たまには少し遠出することにした。
 遺書とお金が入りっぱなしの鞄を持って、あの日飛び込もうとした駅で、適当に目についた電車に飛び乗る。

 電車の揺れが心地いい。窓に凭れて居眠りしながら見知らぬ町へ。行き先も決めない、気ままな旅。
 計画性の無さもご愛嬌。だって、わたしには律儀な死神がついているんだ、怖いものなしだろう。

 適当な駅で降りて、お土産コーナーで可愛くもない謎のご当地ストラップなんて買ったりして。
 適当な町に行って、特に観光地でもない場所で、出会った野良猫を追うようにしてぶらぶら歩いたりして。

 あの日思うままに死んでいたら、夜が目の前に現れなければ、本来なら存在しなかったこんな時間。
 少しくらい、思い出ってやつを残しても罰は当たらないだろう。そんな心境の変化に、自分が一番驚いた。

 家に帰って「ただいま」と「おかえり」を言い合えば、すっかり馴染んだ響きに笑みが溢れる。

 疲れ切って眠る前、わたしを見下ろす彼に手招きをする。
 怪訝そうにした彼の手に無理矢理握らせるように、こっそりと買ったお揃いのキーホルダーを渡したら、意外にも素直に受け取ってくれた。

 窓から差し込む久しぶりの月明かりの中浮かぶ、彼の照れたような戸惑ったようなその表情は、眠ってしまうのが惜しいくらい、ずっと見ていたかった。


 どんより天気の土曜日。
 昨日の晴れ間が嘘のように、今日は生憎の空模様。今にも降るぞと言わんばかりの濃い雲が空を覆っている。

 鞄に増えたキーホルダーを横目に見ながら、にやけ顔を何とか抑えて、外出は諦め大人しく家に居ることにする。

 入れっぱなしだった遺書を取り出して、紙飛行機にしてやった。
 そのまま窓から飛ばそうとして、夜に慌てて止められる。確かに誰かが拾ってしまったなら、不幸の手紙より悪質だ。

 窓の外は、雨降り前の匂いがする。明日もまた、きっと雨が降るに違いない。だってわたしの命は、雨に始まり雨に終わるのだ。

「ねえ、明日も雨かな?」
「さあ、天気の情報まではリストにない」
「リストって?」
「社外秘」
「死神って、会社なんだ……」
「似たようなもんだな」

 一週間休みなしとか社畜が過ぎる。
 こちとら人生の終了に向けて仕事もすっぱり辞めた身だ。思わず同情の目を向けたら、心底うざそうに視線を逸らされた。

「じゃあさ、夜について教えてよ」
「は?」
「死神じゃなくて、夜個人について」
「そんなの、聞いてどうするんだ」
「魂を預けるんだもん、少しくらい教えてくれても良いでしょ」
「……特に話すことはない」
「えー? 何でも良いよ。好きなものとか嫌いなものとか……明日までの付き合いだけどさ、教えてよ」
「……明日、か」

 そうだ、明日まで。
 何気なく言葉にして、自分でも驚いた。一週間の猶予なんて、随分長いと思っていた。
 何でもいいから早く終われば良いって、確かにそう思っていたはずなのに。

「……なんか、あっという間だったな」

 同じく驚いたようにした彼の口からそんな言葉が出たものだから、もうだめだった。

「うん……そうだね……」

 彼と居られる残り時間は、始まった時から決まっていたのに。どうして今になって、終わりが嫌だなんて思ってしまうのだろう。

「ほんと、あっという間だったなぁ……夜、死神能力で早送りでもした?」
「そんな能力はない」
「ちぇ、残念。あるなら、早戻しか一時停止して貰うのに。……ふふ、人生で、一番楽しい一週間だったかも」

 本当は、気付いていた。
 ふと目を離すと暗闇に紛れてしまいそうな、けれど影のように必ず傍に居てくれる安心感。

 死神なのに、迷子や捨て猫を見かけてしばらくその場から動けなくなるような、冷酷になりきれない優しい人。

 泥濘に躓きかけて一度だけ触れた、細いと思っていた腕の確りとした力強さ。

 わたしが美味しいと感じたものを、彼も美味しそうに食べてくれていた時の、同じ感覚を共有している嬉しさ。

 憂鬱な雨の日にも、雨音に彼の落ち着いた声が混じると子守唄のように心地好くて、微睡む時間が幸せだった。

 こんな日々が、ずっと続けばいい。
 そう、自分の魂を迎えに来たこの死神に、わたしはずっと、恋をしていたのだ。

「ねえ、夜……」
「なんだ?」
「……、なんでもない」
「……?」

 けれど、想いを伝えてしまえばきっと、この優しい死神は、わたしを殺すのを躊躇する。
 クールに見えて情に厚い人だから、自分に好意を抱いていると知れば、それだけで動揺して、葛藤してしまうだろう。
 過ごしたのはたった一週間足らずなのに、わたしにはそんな確信があった。

 どうせ、あと一日の命なのだ。我が儘に、自分本意に振る舞って、いっそ恋人のふりでも頼めば良いのかもしれない。最期の一秒まで、せめて幸せな夢を見させて貰えば良いのかもしれない。

 でも、わたしが死んでも、彼は生き続けるのだ。
 唯一残る彼の記憶の中でくらい、ただ楽しい思い出を共有した、聞き分け良く死ぬ可愛い女で居たかった。