「なあ、あと一週間だけ、待ってくれないか」
そんな、締め切りを引き延ばそうとする作家のような台詞と共に、彼は突然やって来た。
身に纏う古びたローブは夜闇のように深く、フードから覗く柔らかそうな髪は烏の濡れ羽根色。
瞳は硝子細工のように暗く澄んで、闇に紛れてしまいそうなその青年の容姿は、喧騒の中で何処か作り物めいている。
そんな彼を、忙しなく人の行き交う夕方の駅のホームで佇んだまま、わたしは思わず凝視してしまう。
「……あんまり見るな。それで、どうなんだ? 待ってくれるのか?」
あの日、そのまま数歩踏み出して、こんな下らない人生を卒業しようとしたわたしの目の前に現れたのは、わたしにしか見えない漆黒の死神だった。
「……なんで、一週間なの?」
「あんたの死亡予定日、一週間後なんだよ。今死なれたら、色々手続きが面倒くさい」
「……、何それ」
自殺を止めに来たにしては、何とも自分本意な青年の言い分に、思わず脱力してしまう。
そうこうしてる内に、飛び込み予定だった電車は時刻きっちりに駅のホームに到着してしまった。乗らずに立ち止まるわたしを迷惑そうに避けて、人々はその狭い箱にぎゅうぎゅうになって詰め込まれていき、やがて走り去る。
出鼻を挫かれたわたしは適当なベンチに腰かけて、黒衣の青年を見上げた。
「それで、わたしが一週間待つメリットは?」
「……は?」
「文字通り、人の『決死の覚悟』を邪魔しておいて、何もないなんて言わないよね?」
予想外の言葉だったのだろう、青年はどこまでも暗いのに綺麗な目を見開いて、すぐに苦虫を噛み潰したような顔をする。整った顔が台無しだ。
今までのわたしなら、きっと何も言えないまま受け入れただろう。
けれど、鞄に簡素な遺書を忍ばせて、とっくに死を覚悟したわたしには、もう何も怖いものなんてなかった。
「……一つだけ、願いを叶える、とか?」
「ふうん? ……まあ、いいか。願いなんかないけど、どうせ捨てる命だもん。最後くらい、誰かの役に立ってみせようじゃない」
そんなわたしの慈悲の心に、死神は心底安心したように頷いた。彼の表情が、ほんの僅かに和らぐ。
こうしてわたしと死神の、奇妙な一週間は始まった。
*****
「わたし、雨。五月雨って書いて『さみだれ』じゃなくて『さつき あめ』っていうの」
「知ってる」
「あなたの名前は?」
「……、夜」
「へえ、いい名前。宜しくね、夜」
真っ黒な装いの彼には、とても似合いの名前だと思った。
ちなみに五月雨とは、梅雨のことだ。そんな名前にぴったりのどんよりとした季節の中、死に損なったわたしは死神を連れて、もう二度と帰らないと思っていたぼろアパートに戻る。
どうやら彼の姿はわたしにしか見えないようで、外で彼と話していると、わたしは一人虚空に向かって語りかけるようなどう見ても不審者の類いだった。流石に死ぬ前に警察のお世話になるつもりはない。
「部屋、何もないけど適当に寛いで」
「……、お邪魔します」
思いの外丁寧な死神は、土砂降りの中歩いて来たにも関わらず水濡れ一つしていない綺麗な靴を脱いで、綺麗に並べてから家財一式整理してしまった何もない部屋に上がる。
がらんどうの部屋の隅、戸惑いながら居心地悪そうに佇む彼の様子がまるで拾ってきた犬猫みたいで、何だかおかしくて、思わず笑ってしまった。
そしてすぐに、はっとする。笑みが溢れるなんて、一体いつぶりだろうか。自分でも驚いて、思わず口許を手で覆った。
「どうかしたのか?」
「……何でもない」
「そうか……改めて、一週間後、あんたの魂を俺が狩る。それまで、勝手に死なないよう見張らせて貰うからな」
「えー、もうしないよ。一週間したら、どうせ勝手に死ぬんでしょ?」
「運命に抗って自殺未遂する奴の言うことなんか信じるか」
「え、運命に抗うとか何か格好いい……」
「……。あんた、死神の存在をあっさり信じたり、一週間後死ぬと言われても動じなかったり……それだけ肝が据わってるのに、何で……」
何で、死のうとしたのか。
夜の問いたいことはすぐにわかったが、暫しの躊躇いの後、彼はその先の言葉を飲み込んだ。
うっかり語らせてまた死ぬ気になったら困ると思ったのか、下手に踏み込むまいと決めたのか、そのまま何とも言えない沈黙は外の雨音に紛れて、やがて自然に消えてしまった。
わたしは仕切り直して、明るく問い掛ける。
「さて、一週間生きるなら、ご飯とか買わないとね。あなたは何か食べられるの?」
「え、嗚呼……一応」
「よし! じゃあ何か作るね、先ずは材料と調理器具の買い出しに……あ、冷蔵庫も要る?」
「待て、そこまでしなくていい! 折角片付けたんだろう、どうせ一週間しか使わないんだ、買わなくて良い」
「それもそうか。じゃあ外食三昧? 最期の晩餐には駅前の喫茶店のパフェって決めてたけど、昨日食べちゃったんだよね……」
「……、パフェは晩餐なのか……?」
人生卒業計画の前に突然訪れた、一週間のモラトリアム。
正直身辺整理は済ませてしまったし、未練も後悔もすぐには思い付かない。
これと言ってやることはなかったが、生きている限りお腹は空くし着るものも必要で、寝るなら寝具も欲しいところだ。
飛び込みして鉄道会社に迷惑を掛けるから、せめて賠償金にでもなればと手をつけていなかった細やかな貯金。
鞄の中に遺書と共に詰めた、簡素な茶封筒に突っ込んだ纏まった現金を取り出して、それを使ってわたしは彼と最期の一週間を過ごすことにした。
*****
彼と出会った月曜日。
土砂降りの雨の中、すぐに歩くのを断念して、今まで近所にも関わらず来たことのなかったお店に足を踏み入れる。
住宅街の中道の、こじんまりとした薄暗い店。雨の日の客はわたし達だけ。店内のお洒落な音楽によって、けたたましい雨音はすぐに掻き消された。
「一名様ですね、ごゆっくりどうぞ。注文がお決まりになりましたら、ベルでお呼びください」
「あ……はい」
通された席で店員に運ばれたお冷やは一つだけで、やっぱり向かいに座る彼はわたしにしか見えていないのだと改めて理解した。
メニューは昔ながらの喫茶店のようで、写真も少し色褪せていた。そのままパラパラと捲っては、音楽に紛れさせながら独り言のように彼と食べたいものを相談する。
誰かと共に食卓を囲む、こんな時間は一体いつぶりだろうか。
頼んだオムライスはふわとろで、添えられたコーンスープは仄かに甘く優しい味がした。この味を知らずに死ぬところだったのかと、ほんの少しだけ止めてくれた彼に感謝する。
一人しか居ない店員の目を盗み見てこっそり分け合って食べるのが、何だかとても楽しかった。
変わらず雨の火曜日。
平日だと言うのに世界には人が多い。着替えやお菓子、数日生きるのに必要な最低限のみ買い込んで、人波に逆らうようにして、相変わらず何もない無機質なアパートへと足早に帰る。
一緒に出掛けたにも関わらず「ただいま」と呟けば「おかえり」と返してくれる死神に、殺風景なワンルームが帰るべき温かな家のようだなんて、ついそんな感覚になってしまう。
「ただいま」と「おかえり」、「おやすみ」と「おはよう」を、誰かと言い合える。たったそれだけのことで、胸が一杯になった。
朝目が覚めて彼が居て、あっという間に一日が過ぎて、また眠る時間が来て。
部屋の真ん中で、みのむしのように簡易寝袋に収まるわたしを部屋の隅で静かに見下ろす彼は、やっぱり作り物みたいな綺麗な顔をしていたけれど。
誰かが居てくれる夜というのは、存外悪いものではなかった。
水滴ぽたぽた水曜日。
窓を叩く雨音をBGMに、最低限の材料と小さな安物のフライパンで作ったフレンチトースト。
この間のようなこそこそしたやり取りも楽しかったけれど、家の中なら遠慮なく二人で食卓を囲める。
まあ、テーブルも処分してしまったから、近所のスーパーで貰った段ボール箱の上なんだけど。
今時皆が気にする映えなんてものはそこに無くて、お洒落なお皿も盛り付けもない。そもそもスマホも解約したから、写真も撮らない。
そこにあるのは、ただ二人で出来立ての甘いものを食べる、ほんのささやかな幸せの時間。
そんな何処にも残らない、特別でも何でもないこの瞬間が、そのまま永遠になれば良いと思えるくらい、やけに愛しく感じた。
もくもく曇りの木曜日。
梅雨ももう終わりに近いのだろうか、今日は分厚い灰色の雲が空を覆っているわりに、雨は降っていなかった。
雨なんて名前なのに、実を言うと、雨音が苦手だ。わたしの生まれた日は、警報が出るレベルのとんでもない大雨だったらしい。
雨の日に生まれて、雨の日に死ぬ予定だったのに。
一週間だけ延期された『わたし』の卒業。約束の日まで、あと少し。
相変わらず傍らには死神が居て、何だかんだ楽しくやっている。
どう考えても異常事態。
なのに、気兼ねなく誰かと過ごす遠くありふれた日常がそこにあって、たったそれだけのことが、こんなに素敵なものだなんて知らなかった。
「ねえ、夜」
「なんだ?」
「しりとりしよ」
「却下」
「えー? じゃあ早口言葉?」
「しない」
「ちぇ、けちー。じゃあ散歩は?」
「……、ついてく」
娯楽も刺激も何もない部屋で、彼は退屈かもしれないけれど。死神の義務で付き合ってくれているだけかもしれないけれど。
それでもわたしは、とりとめのない言葉を交わして、気が向いたらふらっと散歩して、その先で今まで知らなかった何かを見つけて共有するだけの、彼との何気ない時間を気に入っているのだ。……彼には、内緒。
綺麗な月の金曜日。
今日は久しぶりに晴れ模様。久しぶりに見上げた青空に嬉しくなって、たまには少し遠出することにした。
遺書とお金が入りっぱなしの鞄を持って、あの日飛び込もうとした駅で、適当に目についた電車に飛び乗る。
電車の揺れが心地いい。窓に凭れて居眠りしながら見知らぬ町へ。行き先も決めない、気ままな旅。
計画性の無さもご愛嬌。だって、わたしには律儀な死神がついているんだ、怖いものなしだろう。
適当な駅で降りて、お土産コーナーで可愛くもない謎のご当地ストラップなんて買ったりして。
適当な町に行って、特に観光地でもない場所で、出会った野良猫を追うようにしてぶらぶら歩いたりして。
あの日思うままに死んでいたら、夜が目の前に現れなければ、本来なら存在しなかったこんな時間。
少しくらい、思い出ってやつを残しても罰は当たらないだろう。そんな心境の変化に、自分が一番驚いた。
家に帰って「ただいま」と「おかえり」を言い合えば、すっかり馴染んだ響きに笑みが溢れる。
疲れ切って眠る前、わたしを見下ろす彼に手招きをする。
怪訝そうにした彼の手に無理矢理握らせるように、こっそりと買ったお揃いのキーホルダーを渡したら、意外にも素直に受け取ってくれた。
窓から差し込む久しぶりの月明かりの中浮かぶ、彼の照れたような戸惑ったようなその表情は、眠ってしまうのが惜しいくらい、ずっと見ていたかった。
どんより天気の土曜日。
昨日の晴れ間が嘘のように、今日は生憎の空模様。今にも降るぞと言わんばかりの濃い雲が空を覆っている。
鞄に増えたキーホルダーを横目に見ながら、にやけ顔を何とか抑えて、外出は諦め大人しく家に居ることにする。
入れっぱなしだった遺書を取り出して、紙飛行機にしてやった。
そのまま窓から飛ばそうとして、夜に慌てて止められる。確かに誰かが拾ってしまったなら、不幸の手紙より悪質だ。
窓の外は、雨降り前の匂いがする。明日もまた、きっと雨が降るに違いない。だってわたしの命は、雨に始まり雨に終わるのだ。
「ねえ、明日も雨かな?」
「さあ、天気の情報まではリストにない」
「リストって?」
「社外秘」
「死神って、会社なんだ……」
「似たようなもんだな」
一週間休みなしとか社畜が過ぎる。
こちとら人生の終了に向けて仕事もすっぱり辞めた身だ。思わず同情の目を向けたら、心底うざそうに視線を逸らされた。
「じゃあさ、夜について教えてよ」
「は?」
「死神じゃなくて、夜個人について」
「そんなの、聞いてどうするんだ」
「魂を預けるんだもん、少しくらい教えてくれても良いでしょ」
「……特に話すことはない」
「えー? 何でも良いよ。好きなものとか嫌いなものとか……明日までの付き合いだけどさ、教えてよ」
「……明日、か」
そうだ、明日まで。
何気なく言葉にして、自分でも驚いた。一週間の猶予なんて、随分長いと思っていた。
何でもいいから早く終われば良いって、確かにそう思っていたはずなのに。
「……なんか、あっという間だったな」
同じく驚いたようにした彼の口からそんな言葉が出たものだから、もうだめだった。
「うん……そうだね……」
彼と居られる残り時間は、始まった時から決まっていたのに。どうして今になって、終わりが嫌だなんて思ってしまうのだろう。
「ほんと、あっという間だったなぁ……夜、死神能力で早送りでもした?」
「そんな能力はない」
「ちぇ、残念。あるなら、早戻しか一時停止して貰うのに。……ふふ、人生で、一番楽しい一週間だったかも」
本当は、気付いていた。
ふと目を離すと暗闇に紛れてしまいそうな、けれど影のように必ず傍に居てくれる安心感。
死神なのに、迷子や捨て猫を見かけてしばらくその場から動けなくなるような、冷酷になりきれない優しい人。
泥濘に躓きかけて一度だけ触れた、細いと思っていた腕の確りとした力強さ。
わたしが美味しいと感じたものを、彼も美味しそうに食べてくれていた時の、同じ感覚を共有している嬉しさ。
憂鬱な雨の日にも、雨音に彼の落ち着いた声が混じると子守唄のように心地好くて、微睡む時間が幸せだった。
こんな日々が、ずっと続けばいい。
そう、自分の魂を迎えに来たこの死神に、わたしはずっと、恋をしていたのだ。
「ねえ、夜……」
「なんだ?」
「……、なんでもない」
「……?」
けれど、想いを伝えてしまえばきっと、この優しい死神は、わたしを殺すのを躊躇する。
クールに見えて情に厚い人だから、自分に好意を抱いていると知れば、それだけで動揺して、葛藤してしまうだろう。
過ごしたのはたった一週間足らずなのに、わたしにはそんな確信があった。
どうせ、あと一日の命なのだ。我が儘に、自分本意に振る舞って、いっそ恋人のふりでも頼めば良いのかもしれない。最期の一秒まで、せめて幸せな夢を見させて貰えば良いのかもしれない。
でも、わたしが死んでも、彼は生き続けるのだ。
唯一残る彼の記憶の中でくらい、ただ楽しい思い出を共有した、聞き分け良く死ぬ可愛い女で居たかった。
今日は命日日曜日。
約束の日、やっぱり外は雨降りで、わたしはあの日の駅へと舞い戻る。
行き先もなくぽつんと立ち止まってみても、忙しなく行き交う人々は、誰もわたしを気に留めない。
明日の今頃、わたしの居なくなった世界はきっと、こんな風に何も変わらず回っているのだと、何と無く安心した。
「……行くぞ、時間は有限だ」
「うん……そうだね」
最期にわたしは、せっかくなので思い出の地を巡ることにした。
特に楽しかった思い出もないけれど、珍しく、夜から散歩に誘ってくれたのだ。
先ずは数年前に潰れてしまった孤児院。雨の日に猫みたいに捨てられたわたしを、拾って育ててくれた場所。建物は壊されて、ただの空き地になっていた。
そこから近くの、小学生の時にわたしを引き取ってくれた五月家。わたしは無造作に、残っていたお金をポストに入れた。
育ててくれた恩は勿論あるけど、引き取られた二年後、夫婦の間に待望の実子が出来てからは、幼心になんだかちょっと居心地が悪かった。家に馴染む前に、居場所をなくしたのだ。
そして中学を出てすぐ、わたしは高校生で一人暮らしを始めた。特に反対はされなかった。思えば、あの日も雨だった。
初めてのアルバイト先。土日放課後毎日アルバイトをして、そのお金をやりくりして、五月家に今まで育ててくれた分少しずつ振り込んだ。
そんなの必要ないと言ってくれたけれど、それがわたしに出来る唯一の恩返しだった。
当然趣味や贅沢品に割けるお金なんてなくて、ひたすら勉強して働く、灰色の青春時代。
付き合いの悪いわたしは遊びに誘われることもなく、一人で過ごすのはお手の物。
暇さえあれば勉強していたから成績はそれなりに良かったけれど、お金の大切さや稼ぐ大変さは身をもって知っていたから、奨学金なんて借りるのも怖くて、高卒で働き始めた。
楽しいことも、流行りのことも、盛り上がる会話も、情報として耳に入ることはあっても、実際は何一つ知らない。
アルバイト先の人とは仕事の話しか出来ず、当然友達も出来なかったし、就職した会社でようやく大人の仲間入りをしても、それは変わらなかった。
初めての社会人生活、アルバイト時代とは違う責任感に押し潰されそうになりながら、毎日一生懸命働いた。高卒の給料は良くはないし、覚えることは山のよう。
家に帰ればひとりぼっちのワンルーム、疲れきった心と身体は孤独な夜に擦りきれそうで。
いつか、慣れたら。いつか、余裕が出たら。その時には、何か楽しいことをしよう。今までの分を取り戻そう。
そう思っていたのに、数年間頑張り続けて、ようやく貯金が出来るようになって、ある日唐突に気付いてしまったのだ。
『わたしにとって、楽しいことって何だろう。やりたいことって、何だろう』
わたしにはそんな細やかな希望すら、何も思い付かなかった。
特に取り返しのつかないトラブルがあったわけでも、誰かに傷つけられたり裏切られたりしたわけでもない。
何処までいっても、わたしの世界はわたし一人で完結するものだった。
そんな孤独な世界で、ただ頑張り続ける果ての見えない日々の先、光ではなくただ暗闇が広がっているのに気付いて、とうとう『ぷつん』と、頑張りの糸が切れてしまったのだ。
そしてわたしは、あの雨の月曜日に、全部やめることにした。
「ふふ、それで、わたしはあの駅に向かったんだ。毎日通勤に使ってた駅」
「走馬灯ってやつを、自分の目と足で辿ってるのか?」
「あはは、そうかも。……あーあ、つまんない人生だったなぁ」
「……そう、か」
わたしが辞めても変わらず仕事の回る会社の前。
わたしに気付かず足早に側を通り過ぎる同期を横目に、諦めにも安心にも似た気持ちで、一息吐く。
「よし、そろそろ帰ろっか」
「……そうだな」
あの日出会った死神と、あの日飛び込もうとした電車に乗って、帰路につく。
最期の時を迎えるのなら、やっぱり此処が良い。
たった一週間で、何処よりもわたしの大切な場所になったワンルーム。
大丈夫。孤独な夜は、もう来ない。
*****
「最期に、言い遺すことは?」
「……ないよ。わたしには、言葉を残す相手なんて居ないもん」
「そうか……」
わたしは小さな嘘を吐く。本当は、目の前の彼に言いたいことが一つだけ。
あなたが、好き。大好き。
世界で唯一、あなただけが、わたしの日々に彩りをくれた。あなただけが、わたしの光だった。
けれど、言わない。言える訳がない。言ったところで、困らせるだけ。
だって彼は、優し過ぎる死神なのだ。
「あ……ねえ、わたしの死因って、何なの?」
「……孤独死とだけ、リストには書いてある。自殺じゃないなら、原因は何でも良い」
「ふーん。孤独死、かぁ。わたしにぴったり」
「……、俺が居ても、孤独だったか?」
ぽつりと、雨音に紛れそうなその声に、思わず出会った時のように凝視してしまう。
彼の瞳が、僅かに揺らいだ。
まさか彼から、そんな言葉が出るなんて。
もしかしたらこの一週間、わたしと居て彼の孤独も少しは埋められたのだろうか。
死神なんていう過酷な仕事において、この日々が束の間の癒しとなれたのだろうか。
だとしたら、こんなに嬉しいことはない。わたしの今日までの命は、その為にあったに違いない。
「ふふ、夜と居られた一週間、ひとりぼっちじゃなかった。わたし、とっても幸せだったよ」
「……それなら、良かった」
安心したような彼の穏やかな表情を、目に焼き付ける。
初めて会った時よりも、なんだか纏う空気が柔らかくなった気がする。なんて、勘違いかも知れないけれど。わたしとの日々で何か変ったのなら、嬉しく思う。
正真正銘、これが人生最後の恋だ。少しくらい、この想いを噛み締めていたかった。
「……」
「……他に、話したいことはあるか?」
彼の手にはいつの間にか、靄で出来たような朧気な輪郭の、見るからに死神の道具と言わんばかりの漆黒の大鎌が握られていた。
嗚呼、きっと、もうすぐだ。
彼に命を奪われる、最期の瞬間。
大好きな人に殺されるなんて、こんな惨めな人生において、なんて贅沢な終わりなんだろう。
きっと、わたしの今までの頑張りへの、神様からの御褒美だ。
この場合、その神様は目の前の死神様なのだろうけれど。
「ねえ……死後の世界って、どんな場所なの?」
「……死神が狩った魂の行き先は、天国か地獄のどっちかだ。……あんたなら、天国に行けるんじゃないか?」
「そっかぁ……天国に行ったら、もう、夜には会えない?」
「……俺は、死神だからな」
「残念……。なら、さ。またいつかわたしが生まれ変わったら、その時は……また、わたしを殺しに来てくれる?」
「は……?」
出来るだけ感情を抑えるように淡々と話していた夜が、思わずぽかんとした表情をする。
我ながら、酷い要求だ。
普通、来世の再会を約束するなんてとってもロマンチックなはずなのに。これではまた、彼に悲しみを背負わせるだけ。
それでも、そんな突拍子もない提案に優しい彼は驚いた後微笑んで、子供っぽく指切りを交わしてくれた。
「わかった、それがあんたの『願い』なら、約束だ」
「……うん。約束ね、夜」
初めて会った時、一週間の猶予の対価に『願いを叶える』と言っていたのを、今になって思い出した。願いなんて要らないくらい、満ち足りた一週間だったのだ。
名残惜しく小指が離れて、彼は僅かに震える両手で鎌を握る。
やっぱり、最後に好きって言えばよかったかな、なんて。わたしに馬乗りになった彼の瞳に涙が滲むのを見て、思わず決心が揺らぐ。
硝子玉のようだと思っていた綺麗な瞳。涙を溢さぬよう懸命に堪えながら、それでも大きく鎌を振りかざす彼の姿に、心臓が止まりそうな程胸が締め付けられるのは仕方ないだろう。
「……雨、……」
「! あのね、夜……、わたし……っ」
彼の声で、初めて呼ばれた名前。
それだけで、もう止まってしまうというのに、今までにないくらい心臓が大きく跳ねる。
そして日付が変わるぎりぎりの、刃に貫かれる刹那。咄嗟に絞り出した雨音に紛れるくらいの小さな声が恐らく彼に届かなかったことを、少しばかり後悔した。
それでも、最期の瞬間に見たものがわたしの為に泣いてくれる好きな人の顔だなんて、わたしはこの雨の夜において、きっと世界一の幸せ者だ。
*****
今日は始まり月曜日。
「……なあ。あんたの願いは、来世で、なんじゃなかったのか?」
「あはは……そう思ってたんだけどね? 最後の最後、欲張っちゃったみたい」
「何だそれ。……、変な奴」
最期の瞬間、雨音に紛れて届かないと思っていた、本当の願い。
『夜とまだ、一緒に居たい』
そんな願いが叶ったわたしは、天国や地獄には行かず、かといって死神仲間になる訳でもなく、この『わたしが死ぬまでの一週間』を繰り返すことになった。
変わらない雨空、変わらない世界、変わらない死へのカウントダウン。
ひとつ違うのは、一日目からわたしは愛しい夜を知っていると言うこと。
今のわたしは世界にとってイレギュラー。死神である彼にとっても、予想外の出来事だったらしい。
「ねえ、もう一回名前呼んでよ」
「なんで」
「……何となく?」
「却下」
「けちー! あ、死神界? への報告終わった?」
「嗚呼、さっき終わった。とりあえず、またあんたの傍で過ごしてみる」
「やった! ……ね、今日は何しよっか?」
「……しりとりも早口言葉もやらないからな」
「えー?」
死の間際になって、生まれて初めて誰かに告げたわたしの願いは、やっぱり我が儘だったのかもしれない。
誰かと……否。好きな人と居たいなんて、そんな子供じみた願い。
「……ねえ、夜」
「ん?」
「今日は、お家デートしよっか」
「!?」
それでも、諦めることを諦めたわたしは、また最期の瞬間に願って、きっと何度でも繰り返してしまうのだろう。
「な、んだそれ……」
「えー、ダメ?」
「……、……仕方ないな。それが、雨の願いなら」
わざとらしくやれやれといった顔をしながらも、律儀に付き合ってくれる優しく愛しい死神と一緒に。
この世界一幸せな、雨の一週間を。