刀とは、本来だったら『斬る』物である。しかし『斬る』のではなく『区切る』役目を持つ刀が存在する。
弥籟刀。遥か神話の時代においては『遣らいの刀』とされた、この世と幽世を『区切る』為に在り続ける刀である。
しかし、この弥籟刀。単独では機能しない。弥籟刀に宿る妖。いわば付喪神にとっての伴侶。『鞘』と呼ばれる人間がいてこそ、『区切る』力が万全のものとなる。
人間との間に子孫を成す事で、本体である刀の宿主『境御前』の代替わりをしていくという在り方をする妖だ。なので、境御前が不在の時代もあれば、境御前はいても『鞘』が不在の時代もある。
常に常に状況が変わりゆく歴史の中、幽世からこの世に這い出してくる妖魔を再び幽世へ送り返す、あるいは滅する能力を持った戦闘集団が登場した。それが『霊術士』である。
境御前を輩出する妖の一族『刀隠』を筆頭に、この世を守る霊術士達。
これは、日本各地に存在する霊術士の一族の、とある一家の話である。
「『伝令神の象徴』。最大出力」
刹那、彼女の姿は消えた。否。人の目では負い切れない速度で移動したのだ。神話の翼あるサンダルの名を冠したトゥリングで身体能力を向上させた彼女は、ビルの外壁を蹴り屋上を駆け、『現場』へと一気に移動する。見るからに禍々しい人ならざる存在。妖魔の姿を認めると共に、万年筆を取り出した。ただの万年筆ではない。対妖魔用白兵戦兵器『ゲイ・ボルグの槍』である。
「『ゲイ・ボルグの槍』。最大出力」
万年筆の先端から噴き出した純白の閃光は、光の槍へと収束する。彼女は槍を妖魔に振り下ろした。
現場に到着した時、全てが終わっていた。瘴気の残滓を祓うかのように光の槍を一振りした若い娘が、スマートフォンを耳元に当てている。
「社長。お忙しい中申し訳ありません。ごみ掃除に手間取りました」
『司さん!?大丈夫なの!?』
「はい」
電話口の『社長』の声に、彼女は周囲を見渡した。
「死傷者はいません。あー…逃げる時に転んだ人がいるくらいです。幸いかな、正規の部隊も到着しました。ここから先は部隊に任せ、私は社へ帰還します」
『ええと、いいのよ?そのまま直帰しても』
「いえ。まだ定時までは時間がありますので。解いていないロジックもありますし、通常業務へ戻ります」
『そう?気を付けてね』
「はい。お疲れ様です。一旦失礼します」
言って彼女は電話を切ってスマートフォンと光の槍――今や万年筆に戻ったそれをしまうと、部隊に「お疲れ様です」と一礼した。隊員達も「お疲れ様です」と敬礼する。
「妖魔は制圧しました。明らかに害意を持っていたタイプですので、滅ぼした方向です。周囲の建造物に被害が及ばないようにしましたし、瘴気も祓いましたが、皆さんでご確認をお願い致します」
「いつもすみません」
隊長に対し、彼女は「いえ」と首を横に振った。
「たまたま私が近くにいただけですので。こちらこそ、いつも私が好き放題やった後のご対応下さりありがとうございます。では私は失礼します」
言って彼女は再び一礼し、大きく身を屈めると跳躍した。おお、という声を尻目に、ビルの外壁を蹴り屋上へ飛び移り、飛ぶように駆けていく。
その姿を見送りながら、一番年若い隊員が疑問符を上げた。
「…司女史、何で霊術士の正規部隊に入らないんでしょうね」
「『自分はアイテム作りしかできないから』だそうだ」
部隊員に指示を出しながら答える隊長に、やはり年若い隊員は首を傾げる。
「あれだけの物を作れるなら、技術畑でも十分やっていけるのに」
「『それができる優秀な人がやればいい。一般の人の力になりたい』が、司嬢の方針だよ。あえて一般企業に身を置いている変わった霊術士だけど、そういうのもありだろうさ」
かの隊員は「勿体ないですねえ」とぼやきつつ、自分の本来の役目に戻った。
「長男だから何だっつーんだ!!」
母屋まで聞こえんばかりの怒号が離れに響き渡った。
「そもそも瑤太は一般人だから!能力者のゼミに入れた事自体に無理があり過ぎたから!肺呼吸しかできないのに『鰓呼吸しろ』とか言って今まで水の中に無理矢理突っ込んでいたようなものだから!まあ私も『もしかしたら遅咲きかもな』と思って見ていたが!」
腰に両手を当て胸を張り、玄関に仁王立ちする彼女は速射砲の如く言葉を放っていた。絶対にここは通さないぞという気迫に満ち満ちた姿勢である。
「つーか、いきなりうちに来たと思ったら、するのがゼミを抜けた事への咎め立てかい!一般人でも能力者達の中で半年以上も頑張っていた孫に労わりの言葉の一つも無しとか思いやりの欠片も無いな!まあ知っていたがな!」
「だ、だって、有名な教授のゼミなのよ?」
彼女と瑤太にとっての祖母。瓊子は彼女の剣幕に気圧されていたが、やっと言葉を絞り出した。
「そこにいれば、瑤太ちゃんもお父様みたいになれたかもしれないじゃない!大器晩成って言うでしょ?」
瓊子が言っている『お父様』とは、言葉通り瓊子の父。つまり彼女と瑤太の曽祖父を指している。
「なのにあたしに黙ってゼミを抜けるなんて、『自分には霊術の素質がありません』って周りに言っているようなものよ!長男なのにみっともない!」
「みっともなくないわ!」
彼女はすかさず反論した。
「そういう風に言われるのがわかっていたから瑤太が黙っていたって事に気付けよ!ってか、ゼミを抜ける抜けないとか祖母さんの許可なんて要らないし!第一、瑤太が一般人なのは小さい頃から知っているでしょうが!無理矢理入れられたと言えど所属していたゼミを抜けるとか相当勇気が要ったはずだし、自分に見切りを付けた事の何処がみっともないのさ!そもそも『長男である事』の意味や価値が現代にどれだけあるってんだ!今は何時代だ!21世紀だぞ!100年以上前からタイムスリップでもしてきたのか!だったらさっさと元の時代に帰れや!」
「あんたは大学を出ていないから、その大事さがわからないのよ!」
「女学校中退した祖母さんに言われたくないわ!」
瓊子としては彼女の痛い所を突いたつもりでいるらしいが、彼女は怯まず言い返した。第一、高卒で働き出した事は彼女のコンプレックスでも何でもない。瓊子はぐっと言葉に詰まったが、ぼそぼそと口を開く。
「あ、あたしの場合は、勉強が面白くなかったからで…」
「うんにゃ。勉強についていけなかったからだって大お祖母様が言ってたが」
「………」
彼女が言う『大お祖母様』とは瓊子の母。つまり彼女と瑤太の曽祖母にして、長きに渡りこの司家の女主人であった翠子だ。翠子に何かと目をかけられていた彼女は、非常に長命であった翠子に、一人娘である瓊子の昔の話も聞かされていたのである。
彼女は「まあ勉強についていけないなら面白くないわな」と半眼で瓊子を見据えた。対する瓊子は何かを堪えるようにぶるぶると震えていたが、きっと彼女を睨む。
「明日の朝ご飯は食べないからね!」
彼女は「はっ」と文字通り鼻で笑った。
「それが捨て台詞のつもり?上等だよ。こっちとしては、作る人数が減る分、手間が減るだけさ。まあ作るのは式神だがね」
痛くも痒くも無いといった孫娘の様子に、瓊子はまだ何か言いたそうにぐっと顎に力を込めたが、勢いよく踵を返して母屋へと戻っていった。瓊子が背を向けた瞬間にドアを閉め鍵とチェーンをかけた彼女は、初めて後ろを振り返る。
「お母さん。瑤太。大丈夫か」
必然的に傍観に徹するしかなかった両名。瑠子と瑤太は、知らず知らずのうちに手に汗を握っていたらしい。彼女の問いに頷きつつ、溜め息と共に緊張を解く。
瑠子と瑤太の耳には、響く鐘の音が聞こえるような気がしていた。すなわち、試合終了のゴングである。
彼がその場に姿を見せた途端、空気が変わった。それまでの賑やかさが潮が引くかのように静まり返り、代わりに華やいだ囁き声が満ちる。
「美斗様」
「美斗様よ」
「相変わらず素敵なお姿…」
熱のこもった、うっとりとした眼差しで彼を見詰める女性達。ある者はドレス、またある者は振袖で着飾った令嬢達は、まるで蝶のように彼の周りに集った。
「ごきげんよう。美斗様」
「美斗様。いい夜ですね」
「わたくしとお話し致しましょう。美斗様」
笑顔の令嬢達に対し、熱も無ければ何の感情もこもらない目で彼は女性達を見回し、ふっと視線を逸らした。
「本家に呼び出したと思ったら、またその話か。パーティーと言い見合いと言い、いい加減にしてくれ!父さん。母さん」
タイを緩めながら、心底うんざりした顔で畳に座する一人息子を、刀隠家現当主にして境御前たる夜斗と、夜斗の妻たる紗由香は「そう言わないで」と宥めた。
「これでも『鞘』が見付かれば…って、思っているんだよ。僕も紗由香も」
「霊術士の女の子達が全員違ったから、今度は違うタイプの子にしたのだけれど。とりあえず、写真だけでも見てみなさいな。『鞘』は見ればわかるんでしょう?」
母の視線につられて見た先には、山と積まれた釣書。げんなりと美斗は首を横に振った。
そんな息子の様子に、紗由香は困ったように眉を下げる。
「本来だったら、分家から一番霊力が高い子を許婚として小さい内から相手に決めるものだけれど、美斗が嫌だって言うから」
「美斗はこれでロマンチストだからねえ」
「似合わなくて悪かったな。父さん」
夜斗は笑い、同時に遠くを見るような顔になった。
「代々の境御前にとって、『鞘』は絶対的な存在。僕達刀隠の一族が守る弥籟刀の力を引き出すだけじゃない。ただひたすら愛しく思えて、一途な愛を生涯捧げ続ける事ができる、唯一無二の伴侶。うん。憧れるのはわかるよ」
「ちょっと。貴方」
軽く咎め立てするような声で呼びかける紗由香の肩を、夜斗は優しく引き寄せる。慈しむような眼差しを妻に向けた。
「確かに、当代の境御前である僕に『鞘』は見付からなかった。でもね。家同士が決めた許婚。政略結婚でこそあるけれど。僕にとって、君と過ごしてきた時間こそが最も大切なものなんだよ。紗由香。それだけ多くの時間の中で、君と想いを育んできた事に他ならないんだから」
「貴方…」
「紗由香」
「貴方」
「紗由香」
「この万年新婚夫婦は…」
語尾にハートマークでも付きそうな口調で互いを呼び合う両親の姿に、頭痛を堪える顔で美斗は呻いた。息子としては、夫婦仲が良い事は決して悪い事ではない。だがこのようにカップルめいた姿を見せ付けられると、呆れるものがある。
息子とは対照的に、父は笑顔で息子に視線を戻した。
「だから僕達としてはね。美斗。君も結婚適齢期になる事だし、『鞘』を見付ける力になりたいんだよ」
「俺は大学を卒業すらしていないんだ…。早すぎるだろう」
「高校の時もそう言っていたわね。で、よくパーティーから桃李君と一緒に逃げ出して、弓弦さん達が大騒ぎしていたわ」
紗由香の言葉に登場した『桃李君』と『弓弦さん』とは、刀隠の分家にあたる各務家の親子である。父子揃って刀隠に仕えているのだが、美斗にとって幼馴染でもある桃李は、どちらかと言うと同い年の友人と言える気安い間柄だった。なので、高校時代から突出した美貌の美斗が令嬢達に囲まれ辟易としている場合、令嬢達をうまくかわし、あわよくば揃って会場から脱走する手配もしていたのである。お付きの者達が手を焼いていたのは言うまでもない。そして後で2人は大目玉を食らっていた訳だが。
「今度こそはと思って行って、毎回がっかりする俺の身にもなってくれ…」
最初は刀隠の分家の少女達だった。次は日本中の霊術士の一族の中でも、名だたる家の娘達だった。それでも見付からなかったので、一般人の中でも有力な家の令嬢達を集めた。しかし「この人だ」と思える女性は、誰一人として見付からなかったのである。『霊術士の美しき筆頭の花嫁探し』という事で、どの女性達も華やいだ雰囲気を纏っていたが、対して美斗は温度の無い目で集う女性達を見ていたものだった。
夜斗は「うーん」と真剣な顔になる。
「どういう理屈になっているのか、刀隠の家が始まって以来、ずっとわからないままだけれど、『鞘』を特定する術は無いんだよね。まず血筋じゃない。家柄でもない。代々『鞘』として見出された――とは言っても、数はとても少ないけれど――女性達は、霊術士や一般人を問わない場合もあった。極端な話、日本中の女性という女性を集めてみないと、『鞘』を見付ける事は難しいだろうね」
眩暈を起こしたような息子に、紗由香は気遣わしげな眼差しを向ける。
「美斗。貴方の気持ちは汲みたいけれど、ここはやっぱり、分家から婚約者を決めた方がいいんじゃないのかしら」
「そうそう。政略結婚とは言っても、後から幾らでもラブラブになる事はできるよ。僕と紗由香みたいに」
「貴方ったら」
「本当だろう?」
「とにかく」
再び2人だけの世界を展開しそうな両親に、美斗は割って入った。
「俺は妥協して婚約者を決めるつもりは無い。俺が花嫁にするのは、『鞘』だけだ」
「ならまずは写真だけでも見なさいな。釣書まで読みなさいとは言わないから」
美斗の眼前に、どんと釣書の山が置かれた。
結果として、釣書の山も全滅だった。ひたすら機械的に写真だけを見た美斗は、疲労困憊して帰路につく。
刀隠家お抱え運転手の運転は快適だ。ただ静かに流れる窓の外の夜景を見ながら、美斗はまだ見ぬ『鞘』に想いを馳せる。
物心ついた時から、何かを渇望するような、ずっと誰かを探しているような想いを抱えていた。境御前には『鞘』と呼ばれる伴侶がいるのだとわかってから、自分が探しているのは『鞘』だと理解し、渇望する想いは益々強くなった。
でも一体、いつになれば『鞘』を見付ける事ができるのだろう。例えば、霊術士育成の専門機関があるという事で現在の大学に入ったが、半分は『鞘』が見付かる事を期待しての事だった。
尤も、自分を見て寄ってくる、あるいは遠巻きに憧れの眼差しを向けてくる女子生徒のいずれにも、美斗の心は動かされなかったが。
『鞘』を見付けさえすれば、この渇望は満たされるのだろうか。でも一体、何処をどんな風に探せばいい?
美斗は暗い夜空を見上げる。何処までも果ての無い、この夜空のように暗い迷路を彷徨い続けている気分だった。
「ありがとな。お姉ちゃん」
「何がだ」
とりあえず3人揃ってリビングへと移動した後。瑤太は居住まいを正して姉に礼を言った。同じく座り込む彼女の返しに、瑤太は苦笑する。先程までの怒れる姿が嘘のように気の抜けた顔で、彼女は弟を見ていた。あの祖母とのやり取りをするのは大体姉だが、やはり相当なエネルギーを消耗するらしい。
「俺の味方、してくれた事だよ」
「味方も何も、当たり前でしょ。半年以上頑張ってきたは事実だし、自分に見切りを付けたってのも相当な事だよ?労わりこそすれ、咎め立てされる事なんて無いね」
「お祖母ちゃん、昔から世間体が第一の見栄っ張りだから…」
瑠子は溜め息交じりに口を開いた。彼女に「お疲れ様」と言いつつ、麦茶を注いだグラスを渡す。礼を言ってグラスを受け取り口を付ける長女に、瑠子は申し訳なさそうな顔を向ける。
「ごめんね…。いつも貴方にばかりお祖母ちゃんの対応を任せちゃって…」
「構わんよ」
大音声のやり取りで流石に喉が渇いていたらしく、すぐに麦茶を干した彼女は何の事も無さそうに返した。
「祖母さんは元々…言っちゃアレだけど、お母さんの事は『一般人だから』って見下しているから、お母さんが言う事には聞く耳を持たない」
彼女は「かく言う自分も一般人のくせにね」と付け足した。
「瑤太の事は『長男だから』って優遇するけど、やっぱり話は聞かない。いつまでもいつまでも、自分がコントロールできる子供だと思ってる」
「俺そろそろ二十歳なのに『瑤太ちゃん』だからな…」
瑤太はうすら寒そうな口調で呻いた。
「だったら、この家で唯一の能力者であり、経済面でも実働面でも事実上この家を支えている私が防波堤になるしかないでしょ。だから別に苦痛とか負担とか迷惑とか思った事は無いよ。必要だったら、これからだって私が矢面に立つさ」
「…ありがとう」
母の礼に彼女は、相変わらず気が抜けた表情ながらも「ん」と頷く。
瑤太は「あー」と頭を掻いた。
「しっかし、大学からの電話でバレるなんてなあ」
「瑤太がいた…と言うか祖母さんに入れられていたゼミの先生…菅凪先生、だったね。私の連絡先がわからないから、家に直に電話してきたって話だったけど」
そう。母屋にかかってきた電話を取ったのが瓊子だった。彼女に用があるとの事だったので、伯母である璃子が離れに彼女を呼びに行った。その合間の世間話。何気なく、本当に何気なく、件の教授が瑤太がゼミを抜けた事を口にした。教授としては、ゼミを抜けた瑤太が元気でやっているかを訊きたかっただけなのだが、その事実を知らされていなかった瓊子には青天の霹靂だった。
瓊子からすれば、「絶対に霊術士として大成しますから!」とひたすら司家のネームバリューを掲げ頭を下げて頼み込んで入れたゼミである。勝手にゼミを抜けた上に黙っていたとは何事だ、司家の長男として恥ずかしくないのかと、離れに乗り込んできた瓊子が瑤太を責め立て、そこへ電話を終えた彼女が戻ってきて猛然と反撃し、冒頭の流れに至る。
「まああれだ。先生としては単なる世間話のつもりだった。今回は単に祖母さんが、いつもの事ではあるが勝手に暴走しただけ。事故みたいなものと言えばいいのかね」
「事故…。確かに、事故っちゃあ事故か」
姉弟は揃ってふーうと溜め息をつく。その姉、彼女に膝を向け、瑠子は問いかけた。
「ねえ。話が変わるんだけど、先生の用事って、結局何だったの?」
「あ。それは俺も気になってた。聞いていい?」
彼女は「いいよ」と頷いた。
「私の『アイギス・シリーズ』の説明会に、先生とゼミ生も参加していいかって談判が来たんだよ」
「あー。もしもし。お母さん?私、これから警察の世話になってくるわ」
『語弊がある物言いはやめなさい。一体何があったの』
遡る事数か月前。ざわつく駅のホームにて、倒れ伏すスーツ姿の男性の背を片足で踏み付けながら彼女は言った。ばたばたと慌ただしく駆け寄ってくる駅員達を見ながら、彼女は続ける。
「うんとね。痴漢を捕まえた。あ。痴漢『を』捕まえたのであって、痴漢『で』捕まった訳じゃないよ?」
『いや貴方が犯罪を犯すとは思ってないから!大丈夫!?怪我は無い!?』
「無いよー。別の人が被害に遭ったのに出くわしたんだけど、その人も怪我は無いっぽい。まあこれからきちんと調べてもらうけど」
保護に協力してくれた女性客が寄り添う少女に視線を向けつつ、彼女は答えた。
「現場も見てたし、証人として色々訊かれたりすると思う。だから帰りが遅くなる。それだけ。あ。きちんと一人で帰れるから大丈夫だよ」
『そ、そう』
娘に怪我が無いとわかって安堵したらしく、瑠子の声の緊張がわずかだが緩んだ。
「それと、時間があればだけど経過報告は逐一するから、お母さんはいつも通りお仕事しててね」
『…わかった。連絡は家族の方のLINEにしてね』
「勿論だよ」
彼女はそこで電話を切り、駅員達に「こいつです」と踏み付けている男性を指した。
かくして犯人は連行され警察も呼ばれ、それぞれ別室で事情を説明する事になった。
被害者女性がすっかり怯えてしまっていたので、話すのはほとんど彼女であったが。
助けてくれたという事実と、彼女が同じ女性である事から気が緩んだのだろう。説明の合間合間に、被害者女性は礼を言いつつ彼女に自分の事を話し始めた。
聞けば女性は学生で、通学の際にいつも被害に遭っていたらしい。時間を変えても車両を変えてもそれは変わらず、恐ろしくて仕方が無かったと。
とりあえず話させた方がいいと思い聞くに徹していた彼女は、ある事に気付いた。
「あ。弟が通ってる大学の学生さんですか」
「え?弟さんがうちの大学に?」
しかも同級生だという。顔を合わせた事があるかは別として。
彼女は少し考え、「あの」と切り出した。
「『ナギゼミ』って呼ばれてるゼミの事、聞いた事はありませんか?」
「え?ええと、何かこう、凄く特別な才能を持つ人しか入れないって聞いた事はありますけど」
彼女は『菅凪教授のゼミだからナギゼミ』と瑤太から聞いた事はあったので訊いてみたのだが、一般人にはそのように認識されているらしい。彼女は続けた。
「うちの弟がそこのゼミ生でしてね。かく言う私も同じようなものです」
「は、はあ」
話が読めないらしい女性に、彼女は一つのストラップを取り出した。和装で言う所の根付のような外見である。女性は「可愛い」と目を輝かせた。女性がストラップを認識した事を確かめて、彼女は再び口を開く。
「いきなり変な話をします。これからは、スマートフォンだとか家の鍵だとか…『外出する時に絶対に忘れない』物に、これを付けて持ち歩いて下さい。もうこれまでのように怖い思いをしなくて良くなります」
「は?え?」
「勿論ですけど、お代は頂きません。これは差し上げます。凄く変な事を言っていると思われるでしょうけど、とりあえず騙されたと思って持っていて下さい。で、効果を感じられたとか他の人にも必要だと思ったら、ナギゼミで弟を探して下さい」
「は、はあ…」
話が呑み込めなくて当然なので、このリアクションは仕方がないと彼女は思った。ストラップをしげしげと見ていた女性だが、手持ちのスマートフォンのストラップホールにストラップを通す。
その後、女性の保護者が到着した事、また駅員・警官達が責任を持って女性を保護すると言った事で、彼女は帰っていい事になった。
余談だが、駅員達も警官達も、それは真摯かつ誠実に対応してくれた事を明記しておく。