「確かに、君が言った通りだ。君の家…司家の事は、調べさせてもらった」
また場所は変わり、今度は車の中である。美斗と桃李が通学用に使っているリムジンの中だ。
あのままだと落ち着いて話ができないというのもあるが、彼女達をあまり長い時間大学にいさせ続けるのもどうかという事で、一旦解散となったのだ。
なお、社長は桃李が手配したハイヤーで、自宅まで送られる事となった。当然だが、ハイヤー代は美斗持ちである。
つまり彼女と社長は完全に別行動だ。彼女と社長は帰り道が完全に逆方向というのもあるが、自分達の都合で拘束してしまったからと、遠慮する社長に対して美斗が譲らなかったからでもある。
そして彼女は美斗の車で送られる事になったのだが、その前に一悶着あった。車で送っていくという美斗に、彼女が難色を示したのである。
「だって『知らない人の車に乗っちゃいけない』って、小学生の時に教わりました」
「小学生とかっていつの時代の話してんだ!お姉ちゃん今幾つだよ!」
「『知らない人』なんて、悲しい事を言わないでくれ」
眉宇に悲しみを滲ませつつ、宥めるように美斗は言った。
「君は俺の鞘。やっと見付けた伴侶だ。俺にとって、君は他人じゃない。何より、俺の都合で遅くまでいさせてしまったというのに、1人で帰らせるのは心配なんだ」
「男の車に乗る事に抵抗があるとは思うよ?でもただ本当に送るだけだから、ここは美斗の気持ちを汲んでもらえないかな?」
「わかりました。弟も一緒に送って下さるなら」
「勿論だ」
美斗の言葉と桃李のフォローに対し彼女が譲歩の条件を示すと、美斗は快諾した。
だがいざ乗車の際にも、このようなやり取りが生じた。
「よし。瑤太は後部座席のドア側に近い場所に乗りなさい。私は助手席に乗るから」
「え?何で?」
「いい機会だし、覚えておきな。車にも上座と下座があるんだよ。運転席の後ろが上座で、ドア側に近いのが下座になる。まあリムジンのポジションは詳しく知らんが、大体そんな感じだ。因みに助手席は一番下座だ」
「俺の伴侶なのに下座に乗せたりしないぞ!?」
「あのさ。遠慮しているんだろうけど、話もしたいから、弟君と一緒に後部座席に乗ろう?」
と、これまた一悶着になりかけたものの、彼女は渋々ながらも後部座席に落ち着いた。勿論だが、美斗の隣である。尤も、可能な限り距離を空けての位置にいるが。
彼女の距離感に対し、美斗は何か言いたそうな顔をしていたが、それでも話を切り出した。
「君が結婚を無理だと言ったのは…その。ご両親の離婚の事か?」
「霊術士達は、いわば『力ある空の器』だと思っています。つまり、保護者の情愛なり何なり『一番最初に何を注ぐかが重要』という事です」
いきなり口を開いたかと思うと、そこまで言い切った彼女は、ふーうと大きく溜め息をついた。
「私の場合、注がれたのが一番身近な異性、つまり父親に対する不信感だったんですよ」
彼女は「まあ父親と呼びたくすらありませんが」と、嫌悪を隠しもしない口調で吐き捨てた。
彼女と瑤太が幼児であった頃に、時間は遡る。
彼女は人並みに生まれついたが、瑤太は幼少期は身体が弱かった。なので瑠子は、病室を出られない瑤太の為に、毎日通院し面倒を見ていた。
その病院に、彼女も父に連れられて通っていた。
「まあうちの父親、電車の中でも待合室でも…ああ。家族専用の待合室みたいな部屋もあったんですけど。ひたすら寝ていた記憶しか無いんですが」
「何しに来ていたんだろうな。親父」
「さあ?お母さんが瑤太の荷物なり何なりを持って帰って片付けて欲しいって言っても、『やだよ。重いもん』だったな」
「いやマジで何しに来ていたんだよ。親父」
当時の彼女は「何でお父さんは寝てばかりいるんだろう」と思いつつも、「お父さんも毎日お仕事だし疲れているのかな」と幼子らしく父を案じてもいた。
尤も、その子供らしい思いやりは、ある日無残にも踏みにじられる訳だが。
それは、いつものように父に連れられ病院に行ったある日の事だった。彼女が少しうたた寝をしている間に、待合室から父がいなくなってしまったのである。
飲み物を買いに行ったか、お手洗いに行っただけだろう。すぐに帰ってくると思い、いつものようにおとなしく絵本を読み待っていた彼女だが、父は戻ってこない。待合室にたまたま様子を見に来た瑠子が「あれ?お父さんは?」と訊いても、彼女は首を横に振るしかない。
まだ幼稚園に上がる前の娘を1人置いて、何処へ行ってしまったのか。瑠子は無論だが、彼女も流石に心配になった。なので父を探す事にした。
さて当時の彼女だが、実を言うと既に霊術の発現が始まっていた。毎日仕事に出る父親の道中の安全を祈り、『お守り』として渡した折り紙の花に、霊術を無意識に仕込んでいたのである。
彼女は教えられるまでもなく、霊術の使い方を知っていた。だから念じたのだ。お守りに「お父さんの居場所を教えて」と。
「わかった。こっち」
「え?」
彼女は母の手を引いて歩き出した。困惑する母を「こっち」「こっちだよ」と誘導するうちに、病院の外に出てしまった。
「…ねえ。病院の外に出ちゃったよ?本当にお父さんがいるの?そもそも、どうしてお父さんの居場所がわかるの?」
「お守りが教えてくれた」
「お守りって…お母さんにもくれた、折り紙のお花の事?」
「うん」
彼女は「ここ」とカフェを指さした。首を傾げながらも入った母と一緒に見たのは、
「お父さん。そのおばさんは誰?」
「おばっ…!?」
こちらを向いて、件の『おばさん』はショックを受けた顔になった。
そう。カフェで遭遇したのは、見知らぬ若い女性と手を取り合い、それは親密な距離で談笑する父親だったのである。つまり、父の不倫の現場に彼女は母と共に突撃してしまったのだ。その時の父の顔を、彼女は今でもはっきりと覚えている。
「それは…」
「何と言うか…本当に教育に悪いとしか言いようが…」
引きつった顔で、美斗と桃李は呻いた。
なお、人の外見年齢というものをよく理解していなかった当時の彼女にとって、大人の女性は大体『おばさん』だった。件の『おばさん』。即ち父の不倫相手は、当時の父より一回り以上年下だったが。
当然の事ながら、母は激怒した。家事はおろか病弱な息子の世話もろくにせず、文字通りただ病院に『来る』だけ。幼稚園にすら上がっていない幼い娘を1人置き去りにして何をしているかと思ったら、若い女性との密会。これで怒らなかったら、ただのうすら馬鹿である。
「お父さん、よくあのおばさんと一緒にいたけど、お仕事じゃなかったの?」
「『よく一緒にいた?』」
母に彼女は「うん」と頷いた。
「お守りから時々見えたの。お父さんの会社の人みたいだから、夜遅いのもあのおばさんとお仕事だからかなと思っていたんだけど」
時折だが、陽炎のように見えた光景を、彼女はただ伝えただけだ。すると一転して、母は深刻な表情になった。
それからの母の行動は早かった。まず、彼女を連れて実家に戻った。いわゆる「実家に帰らせて頂きます!」も、確かにある。だが最大の目的は、娘を祖母である翠子に見せる事だった。そこで初めて、彼女が霊術に覚醒している事がわかったのである。
「で、私の異能がわかると、父親は気味悪がりましてね」
実際、「お守りのお陰でお父さんが何処かわかった」と言った事、また瑠子を通して彼女の力を知った事で、父はまるで汚らわしい毒虫でも払うかのように、財布に入れていた彼女のお守りをばらばらに引き裂いた。その時の父の顔も、お守りが破り捨てられた事も、お守りを通して彼女には『視えて』しまっていたので、よく覚えている。
続いて父が言い出してきたのは離婚だった。元より不倫相手と一緒になる事を望んでいた事もあるが、彼女の事が怪物のように見えて、恐ろしさに耐えられなかったらしい。
「まあ尤も、有責配偶者から離婚を切り出すなんて、法律上できませんけどね」
「俺、あの時の事はよく覚えていなかったし、詳しい事は中高辺りで母ちゃんから聞いただけなんだけどさあ。ユウセキハイグウシャなんて、普通に暮らしていたら絶対に知らない言葉だよな…」
泥沼と化すかもしれなかった戦いにいち早く終止符を打ったのが、下の孫娘の伴侶のあまりの身勝手さに激怒した翠子だった。翠子は、当然ではあるが全面的に瑠子の味方となり、やり手の弁護士をつけてくれた。その弁護士によって父親と不倫相手は多額の慰謝料を取られ、晴れて離婚は成立。
更に翠子は、幼子2人を1人で育てるのは大変だろうからと瑠子を慮り、瑤太の医療費だけではなく、生活面も全面的にバックアップしてくれた。その一つが離れである。
瓊子と璃子の瑠子に対する扱いは知っているが、しかし目をかけていた下の孫娘と折角授かった曾孫達――しかも片方は霊術が覚醒している――は側に置いておきたい。
自分の目の届く所に置けて、かつ瓊子と璃子とは距離を取る事ができ、母子が安らげるようにしたい。なので屋敷の敷地内に離れを建てさせ、そこに住むように言ってくれたのだ。
また使用人達にも声をかけ、瑤太の看護も彼女の世話も、できる限りの助けとなるよう計らってくれた。
彼女は離れを『真の我が家』と思った事は一度も無いが、そこはそれ。自分達親子が不自由なく無事に過ごす事ができたのは、全て曾祖母のお陰だと心から感謝している。
しかし一連の出来事は、『最も身近な異性』即ち父親の裏切りを発端とする、男性全体への不信感という、決して取り去る事ができぬ腫瘍を彼女の心に植え付けてしまった訳だが。
「いや…全ての男がお父さんみたいな男じゃないよ?」
「そんな事は百も承知ですよ」
桃李の言葉に彼女はきっぱりと返した。
「でも『そうではない』人を見抜くなんて、それこそエスパーでもない限り、あるいは人の本質を看破する霊術の使い手でもない限り無理です。男性全体に対して失礼だと私に怒るなら、それより前に、全ての元凶である父親に文句を言って下さいよ」
「怒っていない。決して、君に怒っている訳じゃないぞ?」
慌てたような美斗のフォローに桃李も頷く。
彼女はふっと息をつき、窓の外に目をやった。
「父親とすら呼びたくないあいつが、結婚を無理だと言った最大の原因というのもありますけど。もう調べておいででしょうから、把握してるでしょ?伯母は流産を機に配偶者…つまり我々と血の繋がらない伯父とうまくいかなくなって離婚していますし、祖母は…まあ時代もあったんでしょうけど、離婚こそしていませんが、祖父が亡くなってからは祖父の悪口ばかりです」
例えば先だって書いた「年金が少ない」は序の口。曰く「お見合い写真が汚れなければ、結婚なんかしていなかった」。曰く「お父様にどうしてもと言われたから犠牲になった」。曰く「落ちぶれた家の落ちこぼれの長男、しかも一般人なんか」。このように、散々な物言いである。
なお祖母が事ある毎に口にする「お見合い写真が汚れてしまったから、お父様にどうしてもと言われて結婚しただけで、そうでなければ一般人の落ちぶれた家の落ちこぼれの長男なんかと結婚しなかった」であるが、これが嘘であると彼女は知っている。
曾祖母は「貴方はお祖父ちゃんが『お爺ちゃん』になってからの顔しか知らないから、想像できないかもしれないけど」と言った。
「善一さんは、若い頃は評判の美男子でね。瓊子ったら昔から凄い面食いだから、すっかり善一さんに惚れ込んじゃって。一般人でも構わないから善一さんと結婚するって聞かなかったの。私達…特に慈朗さん。つまり貴方の曾お祖父様が、結婚くらいは瓊子の好きにさせてあげたいと思っていたから、2人を一緒にさせたのよ」
「そうだったんだ。うん。お祖父ちゃんの若い頃って、全然想像できない」
というやり取りが、翠子存命時にあった。
「つまる所、祖母さんは自分の選択肢が間違いだと思ってるけど、それを自分のせいだって認めたくないから、ひたすら祖父さんの悪口を言っているだけさ。『見合い写真に汚れがどうたら』ってのも、使用人のせいにしていたし。仮に本当であったとしても、大お祖父様が娘に全てをおっかぶせて犠牲を強いるような真似をする訳が無い。大お祖母様から聞いた、大お祖父様の人となりから察するにね。あくまでも、顔で祖父さんを選んだって認めたくないんだよ。祖母さんは」
「時代ってのもあるだろうけどさ。祖父ちゃんって家庭とか子育てとか祖母ちゃんに丸投げの放ったらかしだったんだろ?」
「ひたすら趣味人で、構われた記憶が無いってお母さんは言ってたね」
「祖父ちゃんも祖父ちゃんで大概だけど、死んでから奥さんにああも悪口ばっか言われるの、可哀想だと俺は思うわ」
「それは同感。第一、祖父さんが定年まできちんと真面目に勤め上げたからこそ、祖母さんは十分な年金をもらえてるってのにね。同じく悪者にされてる大お祖父様も、草葉の陰でお嘆きだろうよ」
これは、祖父が没した後のいつかの双子の会話である。
「とまあ、身近に結婚大失敗例が3例もいますからね。それを見て育ってしまいましたから、結婚には夢も希望も憧れも持ってはいませんよ」
ひょいと肩を竦めた彼女は「もう一つ」と言った。
「あと私、重度のオタクです」
「オタク?」
美斗と桃李の声が揃った。
「オタクってその…アニメとか漫画とか…あと『歴女』とか?」
桃李の問いに彼女は「そんな感じです」と首肯した。
「重度と言うが…どれだけ重度なんだ?」
美斗の問いは瑤太が「あー…例えば…」と引き取った。
「姉は小学生の時、ある小説の主人公が大好きだったんです。なんかもう、恋してるって言ってもいいくらい」
「恋?小説の登場人物にか?」
「理解できないとは思いますが、そもそも生身の存在ですらないと理解していても、創作物のキャラクターに恋慕あるいは恋慕に近い情を抱く人は、一定数います」
怪訝そうな美斗と桃李に、彼女は淡々と答えた。
「その小説自体はもう完結してるんですけど…主人公、死んじゃうんです。小説のラストで」
「それはそれは」
そうとしか言いようが無いらしく、桃李は相槌を打った。
「で、その時の姉なんですけど、主人公が死んだのがショックすぎて、完全に食欲無くして何も食べないくらいに落ち込んじゃって…」
「何故死んだ…」
「いやいやいや落ち込むなお姉ちゃん!単なる例えで出しただけだから、当時を思い出さないでくれ!」
漫画だったらどんよりとした空気を纏っているであろう項垂れる姉に、瑤太は慌てて呼びかけた。きのこを生やして今にも大自然に還りそうな程の落ち込みぶりである。ああ当時もこんな感じの落ち込みぶりだったなあと、瑤太は思い出していた。
ゆるゆると顔を上げる彼女は、幾分かいつもの調子を取り戻した顔で美斗と桃李を見やる。
「瑤太が言ったのもありますけど。私の初恋、日本中の霊術士達の大先輩にして御大家。安倍晴明様ですからね?」
「そうだったの!?初耳だよお姉ちゃん!ってか安倍晴明って、肖像画とかだと髭のおっさんじゃん。そもそも、もう死んでるし」
「それは確かにそうだけど。私が幼稚園の頃に読んだ漫画では、凄くかっこよく描かれていたのさ。正確に言うと、件の漫画の安倍晴明様が、私の初恋だね」
「よ…幼稚園の頃から…」
呻く美斗と桃李に、彼女は「園帽かぶってスモック着てる頃からです」と頷いた。
「まあ尤も、漫画の安倍晴明様には奥さんがいましたので、私のハートはあえなくパリンした訳ですが」
「強く生きろ。お姉ちゃん」
「ありがとう」
姉弟の微笑ましいやり取りの後、彼女は美斗と桃李に視線を戻した。
「このように、私は筋金どころか鉄骨が入ったオタクです。二次元にしか興味を持たないのが、父親を要因とする男性不信と因果関係があるかまでは自分でもわかりませんけど、私に期待しても無駄ですよ」
「そんな…」
美斗の死刑宣告でも受けたかのような顔に、美斗は座っているのに今にも崩れ落ちるのではないかと、桃李は思わず席から腰を浮かせる。
「…と言いたい所ですが、『刀と鞘』が揃う事の重要性は、私も理解しています」
姉が『社会人モードスイッチオン』の表情に切り替わった事に、瑤太は気付いた。
「この世と幽世を完全に区切る事ができるのは、つまり母や弟のような一般人が安心して暮らせるという事に繋がりますからね。なので私から提案があります。決して無関係な話ではないから、瑤太も聞きなさい」
「うちの孫が『鞘』!?」
「この子が!?」
司家本家は母屋。美斗の向かいに座する瓊子と璃子は、一様に驚きの声を上げた。瑠子と瑤太と共に後ろに並んで座る彼女と美斗の間で、視線が忙しく動く。
家庭事情はどうあれ、物事には順序というものがある。まずは日を改めての挨拶は必要だろうという事で、刀隠家から司家に正式に連絡が入った。
何せ霊術士達の筆頭本家。その次期当主直々の訪問である。主に祖母が大騒ぎした。彼女が『シルキー・シリーズ』を全力で総動員させて屋敷を掃除し整えるよう命じられたのは言うまでもない。
そして美斗訪問の当日。予め同席させるように刀隠家から言われていたので、彼女達親子3人も交えて、美斗を出迎える。客間にて美斗が早速切り出したのが、彼女こそが自分の『鞘』である事だった。
「いやでも、この子は霊術士としては出来損ないですよ!?人型の式神すらまともに作れず術も使えない、おまけに傷物の本当に恥ずかしい孫で…」
「おいこら」
お茶を出した折り紙人形の式神を指し、恥じ入ったように瓊子は言う。
尤も、そこで黙っているような人間ではないのが彼女だが。
「その出来損ないが作った式神に生活全般任せているのは誰さ。つか、当人である私を前に、よくまあそこまで悪口を言えるもんだな祖母さん」
「出来損ないという言葉は聞き捨てならないな。先だってにおいては、誠に立派な人型の式神を披露してくれたが」
「そんな事できたの?」
「具合が悪くなった人用の特別仕様で人型にした」
こっそりと訊く母に、同じくこっそりと彼女は返した。
「そんなの、あたし聞いてないわよ!あんた、一体何をやったの!」
「瑤太の大学で不審者及び妖魔除けアイテムの説明会。そこに若君様達も見えてた」
若君様こと美斗の「聞き捨てならない」に一瞬怯みはしたものの、一転して咎め立てするような瓊子の言葉に、彼女は至って涼しい顔で返す。瓊子は呆れたような表情で大きく溜め息をついた。
「あんたはまたそんな下らない物作って…。変な人なんて気を付けていれば寄ってこないでしょ?隙がある方が悪いんじゃないの」
璃子も流石に母に呆れ顔を向けた。瑠子は溜め息と共に首を横に振り、瑤太は「駄目だこりゃ」と言うかのように天を仰ぐ。彼女は「わかってないな」と言い返した。
「時代が違うからの価値観の違いもあるだろうけど。そりゃあ、通学もお出かけも運転手付きの専用の車で送迎だった祖母さんには理解できないよね。どんなに『自衛』してようが、不審者なんて寄ってくるものさ」
「あえて市井に身を置き、弱き者の立場を慮って力を使う姿勢は立派だと思うが」
「え、ええ確かに、そういう所がある孫ではあるんですけど…」
美斗の言葉に一転して同調する祖母に「相変わらずのプロペラ顔負けの掌クルクルぶりだな」と瑤太は呻いた。
「しかし『傷物』とは気になる言葉だな。君の負担にさえならなければ、理由を聞かせてくれないか?」
「額の傷の事を言ってます」
「傷?」
慎重かつ優しい口調で美斗が訊いた途端、璃子は僅かに緊張を走らせた。そんな伯母を尻目に、問われた彼女は剝き出しの額を指して答える。怪訝そうな美斗に彼女は続けた。
「小さい頃、縫うくらいにざっくりいった事がありまして。まあ今は、私の顔面に物凄く接近し『傷がある』と意識した上で注意して凝視して初めて『少し皮膚の色が変わっているかな』と気付く程度の痕ですが。しかし祖母にとっては、傷がまだくっきり残っているように見えているみたいです。なので私を『術もまともに使えない上に傷物の恥ずかしい孫』と。私は恥なんだそうです」
「そうだったのか…。それは大変だったな…」
美斗は彼女を労わる口調で頷いた。
「君は決して、出来損ないでも恥でもない。誇り高い君の姿は、誰よりも凛々しく美しい」
あまりにも率直な言葉に、「まあ」「おお」と彼女以外が感嘆の息をつく中、美斗は立ち上がって瑠子の正面に正座した。
「御母堂様。改めて請います。娘さんをどうか、私の花嫁とする事をお許し願えませんか?」
「それは、またとない…ありがたいお話です」
畳に手をつき深々と頭を下げる美斗に、唐突な敬語と改まった態度に戸惑いつつも、瑠子は答えた。同時に横の娘に視線を向ける。
「ですが…最終的には、この子の意志を尊重したいと思います」
「親の鑑ですね」
「お受けします」
美斗の言葉の余韻に浸る間も無く、彼女は即答した。母の「本当にいいの?」と気遣わし気な眼差しと言葉に迷いなく頷く。
「元々言ってはいたけれど。『刀と鞘』システムが起動する事で、この世と幽世を完全に区切る事ができるからね。それはつまり、お母さんや瑤太が安心して暮らせるようになるって事だから、私は構わないよ。まあ正式に『刀と鞘』としての縁を結ぶ儀式、つまり結婚式?みたいなものの準備には時間がかかるでしょうけど、法的な婚姻だったら、この場で結べるんじゃないですか?」
「――弓弦」
「はい」
それまで上座の美斗の傍らに静かに控えていた人物。最初に『各務』と名乗っていた辺り、桃李の縁者だと思われる――後に父親だとわかった――弓弦と呼びかけられた男性は静かに立ち上がると、鞄から取り出した書類を彼女の前に置いた。美斗の署名等がしっかりとされた、婚姻届である。
続いて筆記具を渡された彼女は、礼を言いつつ署名する。筆記具を受け取り書面を確認した弓弦は頷くと、婚姻届をしっかりと鞄に収めた。
「鞘姫様のご署名、確かに確認しました。万事滞り無きように致します」
「頼んだ」
「『姫』なんて柄じゃないから、何かぞわぞわしますね」
うすら寒そうにぼやいた彼女は祖母と伯母の方を向き、しゅたっと片手を挙げた。
「そういう訳で、祖母さん。伯母さん。我々、今日を限りにこの家を出るから」
「へ?」
「え?」
「勿論だけど、お母さんも瑤太も一緒。もう二度と戻らないし、連絡も受け付けないから。つまり完全に縁切りだから、生活費は2人で何とかしてね。あ。式神達も引き上げるから、これからの家事とかも全部自分達でやって。もし次に会うとしても、せいぜい葬式だよ」
「ちょっとあんた、何言って、」
「もう決めた」
彼女は涼しい顔で告げた。
「これは契約です」
説明会の日。帰り道のリムジンの中。美斗を見据えて彼女は言った。
「そちらは鞘が必要。私は一般人…特に母と弟が安心して暮らせるなら、それでいいと思っています。つまり互いに契約という形で婚姻を結びましょう。契約結婚という奴です。それにあたり、幾つか条件があります」
「条件?」
すっかり彼女のペースに吞まれている美斗に、彼女は「です」と首肯する。
「結婚したら、私は刀隠の家で暮らす事になると思います」
「勿論、君を迎えるにあたって、万全の準備をする」
「ではそれと共に、刀隠の家に程近い場所に、母と弟が暮らす場所を用意して下さい」
「お姉ちゃん」
彼女は弟に顔を向けた。
「いきなり引っ越しって事になるね。お母さんもだけど、通学とか通勤とかいきなり変わるし、ごめんね。瑤太。でもね。私は一刻も早く、2人をあの家から出したいんだよ。これはいい機会なんだ」
彼女は今度は美斗と桃李の方を向いた。
「うちの事情を調べたという話なら、ごぞんじでしょ。私の母が、実の母親と姉からされてきた仕打ちも」
2人は無言で頷いた。
「曾祖母の好意により離れという場所はありますが、あれでは永遠に私の家族が安らげません。もう一つ。『刀と鞘』システムが機能する事を快く思わない者はいるでしょう。妖魔は勿論ですが、人間側も。まあ妖魔が組織化して対策をしてくるかはわかりませんが、警戒はしておいた方がいいでしょうね。どちらにせよ潰しますが」
「お姉ちゃん。普通に物騒なのやめろ」
さらりと告げる彼女に瑤太はツッコミを入れるが、彼女は「私はこれでも大真面目だ」と返した。
「私も当然、可能な限りの加護は付けますが、私の家族を守る手を刀隠側にも打って欲しいんです」
「勿論だ」
真摯な顔で美斗は頼もしげに頷いた。
「君は言うまでもないが、御母堂も義弟も、如何なる危険にも晒さない事を約束しよう」
「お願いします」
「いやあの今さらっと『義弟』って言いませんでした?」
「流石に気が早いよ。美斗」
桃李は苦笑した。
「しかし、君の祖母君と伯母さんが入っていないように聞こえるけど?」
「私の家族は母と弟だけです」
彼女は淡々と言い切った後、ふと考えるような表情になる。
「そうですね。仮に『刀と鞘』システムが機能する事を快く思わない誰かが祖母と伯母を人質に取ったとしても、私でしたら笑いながら2人を見捨てる自信がありますね。むしろ死んでくれたら縁が完全に切れるので助かるのですが」
「うわあ…。そういやお姉ちゃん、2歳か3歳くらいから記憶あるって言うから、尚更か…」
「実の孫で実の姪にここまで言わせるなんて、よっぽどだね」
「御母堂への仕打ちのひどさが伺えるな」
三者三様に3名は呟いた。彼女は視線を美斗に戻す。
「私は、このように怖い所がある女です。それでもいいなら、契約上の間柄と言えど結婚して下さい。引っ越しの準備は式神を使ってこっそりやります。こちらとそちらのやり取りも、式神を通して行ないましょう」
「あ、ああ!全力を尽くして幸せになろう!」
「何か先輩とお姉ちゃんの温度差ひどすぎるんだけど。グッピー何万匹死ぬんだよ」
実は、このような打ち合わせがされていたのである。
「貴方はそれでいいの?」
帰宅した彼女は「家族会議」と称して、瑤太と共に母に全てを話した。とりわけ、母を家から出したいと言う点は強調した。そこで出てきたのが、娘を案じる母の言葉である。
「何だか、私の為に貴方を犠牲にするみたい」
「犠牲じゃないよ。お母さん」
彼女は当然のような口調で母に返した。
「犠牲だと思うなという方が、お母さんの性格的に無理だとは思うけどね。でも2人に平和に暮らして欲しいのも、何よりここから出したいのも本当なんだよ」
「でも、家族を捨てるって事になるんでしょ…?」
「あんな家族の何処が家族なんだよ。俺が覚えてるだけでも十分ひどいぜ?」
「『そんな親なら捨てちゃえば?』案件だよ。完全に」
躊躇する様子を見せる母に、瑤太と彼女は口を揃えて言った。
「母ちゃんもお姉ちゃんも給料せしめられてばっかだし、お姉ちゃんに至っては式神って形でこき使われてるじゃん。完全にいいように搾取されてるだけだって気付けよ。母ちゃん。こんな所にいたら、お金もメンタルもいつまでもゴリゴリ削られるだけだぜ?」
「何より、離れという物理的・距離的な隔たりはあっても、DV女と一つ屋根の下で暮らすなんてできないからね。今まで我慢せざるを得なかったけどさ」
彼女は額に片手をやった。
「ねえ…。その美斗君って子は、実際どうなの?」
「まあ悪くはなさそう。悪しからず思ってはいるってだけだけど。今の所はね」
娘の相手を案じる母に、彼女は答えた。瑤太は「ドライもいい所だな…。お姉ちゃん…」と呻く。
「あくまでも契約上の婚姻である事に了承はもらえたし、引っ越しの準備とか、新しい生活のバックアップとかの約束もしてくれたし。うん本当に、後ろ盾を得られるってのはでかい。まあ正式な取り決めは日を改めてって事になったけどね。刀隠からこっち…母屋の方に連絡してから来るって段取りだから、会ってみればわかるよ。やれやれ。祖母さんが大騒ぎしそうだ。弱きを挫いて強きに諂う権威主義者だからな」
「何も否定できないのが、我が親ながら情けない…」
娘の酷評に瑠子は項垂れた。
「掃除だ何だって、特にお姉ちゃんが忙しくなるだろうから、無理すんなよ?…祖母ちゃん、流石に風呂に入るよな。入るよな?」
「入るでしょ」
「見栄っ張りだから、流石に入ると思う」
これは余談だが、瓊子は極度の風呂嫌いである。瓊子の若い頃の時代は毎日入浴する習慣が無かったという事もあるが、その事実を踏まえても、夏場であろうと3日に1回しか入浴しない程だ。冬場であれば、スパンはもっと長くなる。代謝が落ちている年寄りと言えど流石に汚れは目立ってくるし、香やら香水やらで誤魔化すという頭も無いし聞く耳も持たないから、下手をするとただの小汚い老婆だ。
尤も、彼女達の予想通り、刀隠から連絡を受けた瓊子は大慌てで入浴した。かつてない清潔な姿で美斗を迎えたのであった。
「家を出るって…そんな勝手が許されると思っているの!?」
「勝手も何も、お母さんは大人だよ?私も瑤太も小さい子じゃないんだし」
「そもそも『縁切り』って言われた時点で、自分達が縁を切られるだけの事をしてきたんだって、少しは自分を顧みろよ」
「顧みないのが毒親や毒家族たる所以だけどね」
「祖母ちゃん。あんた、自分を優しくて上品な奥様だって思ってるみたいだけど、優しさや上品さの欠片も無いぜ」
わなわなと震える瓊子だが、彼女と瑤太は抜群のコンビネーションで反撃する。
「第一、お母さんは祖母さんにとって『うちの子』じゃないんでしょ?『何をしても反撃してこない都合のいい相手』と思っているなら、お母さんに対して失礼極まりないし、そんな風に思っている相手と一つ屋根の下になんて、とてもじゃないけどお母さんを置いてなんていられない。『うちの子』であるお気に入りの上の娘と仲良く暮らせばいいじゃない」
「瑠子!あんたはどう思っているの!」
「そうよ!今までの恩を忘れて、私やお祖母ちゃんを捨てるって言うの!?」
「お母さん。聞いちゃ駄目だ」
「罪悪感を持たせる事を言ってくるのも、DVの常套手段だよ。お母さん」
矛先を向けられた母に、双子はそれぞれ声をかけた。
瑠子は目を閉じ、大きく深呼吸をする。目を三角にして怒る母と姉を、正面から見据えた。
「私は今まで、お母さんを反面教師にして、この子達を育ててきた。お姉ちゃんと比べられて、一度も褒めてもらった事が無いのが悲しかったから」
双子は母を庇うようにそれぞれ軽く腕を上げ、さりげなく前に出て母の言葉を聞いている。
「確かに育ててはくれたね。でも、私は精神的にネグレクトされていたようなものだった。恩って何?今までずっと私の味方でいてくれたのも、結婚の時も離婚の時も子育ての時に助けてくれたのも、居場所を用意してくれたのも、大お祖母様と大お祖父様だった。お母さん達が何をしてくれたと言うの?ただ全部私を悪者にして責めただけじゃない」
瑠子は怒りに燃える目で、姉を睨み付けた。
「何より、私の娘を傷付けてのうのうとしているお姉ちゃんも、そんなお姉ちゃんを叱りもしなかったお母さんも許さない」
「ねえ。伯母さん」
彼女は「口出してごめんね」と小さく母に断りを入れ、静かに口を開いた。
「私は妊娠の経験も予定もありません。なので…刀隠の人達も知ってるから言いますけど。折角お胎に宿した子が死んでしまった気持ちとか、霊術まで失ってしまったショックだとか、伯父さんとうまくいかなくなってしまった気持ちだとかはわかりません」
客間にただ淡々と彼女の声が響く。
「当時の辛さは筆舌に尽くしがたかったと思います。だけど、それは妹に暴力と言う形でぶつけていい理由にはなりません。ああ。覚えていないとでも思いました?」
顔色が変わった伯母に彼女は問いかけた。そのまま解説口調で、美斗と弓弦に向かって続ける。
「この人、母の事をずっと殴っていたんです。ベルトで。こう、バックルの所が当たるようにして、鞭みたいに。私はたまたまその現場を見てしまいましてね。母を助けようと近付いた所で、バックルがおでこに当たってざっくり。それが、祖母が私を『傷物』と呼ぶようになった全ての真相です。うちの伯母、男だったら完全にただのDV野郎なんですよ」
曾孫の負傷をきっかけに、翠子は下の孫娘が暴力を受けている事に気付いた。璃子を待っていたのは、翠子による激しく厳しい叱責だった。幼子と一つ屋根の下になんて置いてはおけない、屋敷から出て行け、二度と顔を見せるなと面と向かって言う程の翠子の激怒は、翠子の体調に変調を起こした。心臓に過度の負荷がかかってしまったのである。
それが、翠子の死のきっかけだった。
葬儀の忙しさによって、璃子が屋敷から出ていく話は有耶無耶になった。また、瓊子は例にもよって「子供を亡くした璃子の前で、瑠子が子供達と一緒の幸せそうな姿なんて見せるから」と瑠子を悪者にして璃子を擁護し、璃子を諫める事すらしなかった。
彼女が『DV女』と言ったのは、つまり璃子を指しての事だったのだ。このような経緯がありながらも、彼女達一族は同じ敷地の中でずっと暮らしてきたのである。
「ねえ。伯母さん」
彼女は平坦な声で伯母に呼びかけた。
「私は恐ろしく生活に密着した霊術しか使っていませんけど。でも私はもう、霊術を無意識下で使ってしまうような、つまり制御をできない、何もわからない反撃もできない子供ではないんですよ」
伯母を見据える彼女の目付きが変わった。
「咲け。『焼骨牡丹』」
何処から出てきたのか、折り紙人形達が一気に集まってきた。璃子を後ろ手に拘束し、璃子は宙に浮かぶ方になる。続いて複数の折り紙人形が、ベルトを持って璃子の周囲に集った。そして璃子の顔を問わず体を問わず、バックルの所が当たるようにして、ベルトを鞭のように振るい始めた。
「あの時の再現ですよ。伯母さん。こんな風にして、お母さんをぶっていましたよね」
何の感情も交えない声で、彼女は伯母に呼びかけた。
対する璃子はというと、激痛を覚えはしても拘束の力が強くて身じろぎ一つすらできず、また万力の如き力で顎を締め上げられているので悲鳴は上げられず、呻き声しか出ない。
「や、やめなさい!璃子が死んじゃう!」
「死なないよ。こんな程度じゃ。お母さんも、当時ちびっ子だった私も死ななかったんだよ?ああそうそう。割って入ったら、祖母さんも一緒にぶたれる事になるからね?」
瓊子は身を竦ませた。基本、我が身が可愛い瓊子である。如何にお気に入りと言えど、実の娘を庇って身を投げ出すという事はできないらしい。
「伯母さん。痛いでしょ?お母さんもこんな感じで痛かったんですよ。お母さんは悲鳴を上げる事すらできなかったんです。私達に心配をかけたくなかったから。とりあえず、お母さんがやられた分をお返しするようプログラミングしてありますから。これで少しはお母さんの痛みがわかるといいんですよ」
「もういい」
正座した膝の上で行儀よく組まれた手を握り首を横に振ったのは、瑠子だった。彼女は「え?まだこれ途中なんだけど」と言いたげな顔をするが、瑠子は再度首を横に振り「もういい」と言う。
「貴方がお母さんの事を思ってくれたのはわかる。でも、貴方が霊術で人を傷付ける所を見るのは、お母さんは悲しい。何より、どんな仕打ちをされたとしても、許せなくても、お母さんの実のお姉さんだから」
突然の事で必然的に傍観に徹するしかなかった美斗も、同じく彼女の顔を覗き込んで、静かに首を横に振る。瑤太も「お姉ちゃん」と呼びかけた。彼女は母と美斗と弟を見て嘆息した。
「そこまで言うなら」
言った途端、全ての折り紙人形が、手品の如く消えた。支えを失った璃子は、盛大な音を立てて畳の上に落ちた。瓊子が「璃子!」と呼びかけ駆け寄る。とりあえず、意識はあるらしい。
「私に世話をされるのは嫌でしょうから『パナケア・シリーズ』も呼びません。手当ても病院行きも自分でやって下さい。さて、お母さんも瑤太も、荷造りはきちんとしてあるよね?」
伯母の事を忘れたように、彼女は母と弟に呼びかけた。先述の通り、引っ越しにあたって重量がある荷物の搬出は、式神にこっそりやらせてはいた。だが必要最低限の物は、自分達の手で纏める必要があったのである。
「まあ忘れ物をしたとしても、式神に取ってこさせるだけだけど。さあ行こう。もうここにいなくていい。いざ新天地だ」
彼女は家族を促し立ち上がる。弓弦がいち早く動き、次期当主とその伴侶一家の為に襖を開けた。客間の出入り口で、彼女達親子は室内を振り返る。
「お世話になりました」
「どうもお世話になりました」
瓊子達に頭を下げる母に倣い、双子も揃って頭を下げる。美斗は優雅に、弓弦は慇懃に一礼して、襖を閉めた。室内には、倒れ伏す瑠子と呆然とする瓊子のみが残された。
「この離れともお別れだね」
自分の荷物を手に、彼女は離れを振り返った。
「『住めば都』とは言うし、都の元を作って下さったのは大お祖母様だけど、住んで都としてくれたのは、全部お母さんの努力と工夫のお陰だったね」
子供達が心地よく過ごせるように、母が心を砕いて住まいを整えてくれた事を思い返しながら、彼女は言った。頷く瑤太の目は、心なしか潤んでいるように見える。
「なら、次の所も、住んで都にすればいいよ」
同じく潤んだ目で、瑠子は子供達に笑顔を見せた。彼女達は「そうだね」と頷く。
瑠子の両隣に双子は並び、離れに頭を下げた。また屋敷の門の前でも、屋敷自体に頭を下げる事も忘れなかった。